Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

最初から最後まですべて読む気持ち, Pocock, Barbarism and Religion 1巻 intro

 

 

 みんな大好きポーコックの時間です。

今までのポーコック関連エントリは以下の通りです。

kannektion.hatenablog.com

kannektion.hatenablog.com

kannektion.hatenablog.com

kannektion.hatenablog.com

 

 ポーコックのBRはぐうたらしていた2年生のころから読んでいるのですが、読み方がつまみ食い的で、3巻はほぼ通読、2巻もかなりの章を読み切り、6巻も同様、5巻と1巻はちょっとかじった程度で、4巻はほぼノータッチという形になっています。

 

 そのため友人と最初から通読しよう会を開くことにしました。博士をとる頃までには完了してるといいなあくらいの勢いでやっていきます。

 

 今回はそのレジュメ代わりの、最初の最初、第1巻のintroの紹介をします。紹介形式と抄訳の混じった鵺的文体になっていますが、広い心で見てもらえると嬉しいです。

 

 

 

 

p.2

タイトルについて

 

 市民社会における古代の徳の理念の残存というマキャヴェリアン・モーメントの提示した図式に対抗する図式をもたらすことが本著の狙いだという。ギボンの着想の根幹は彼の時代の社会において古代における衰退のプロセスは再度生じないと言うことであるそうだ。

 この著作のタイトル(Barbarism and Religion)については、徳と商業、古代と近代、衰退と崩壊といったもの以上の要素がギボンの著作には含まれているのだという認識を示している。ゲルマン人たちの中にヨーロッパ的自由の萌芽が存在し、それが帝国のシステムにとって変わったのである。そしてギボンにとりキリスト教の問題は衰退原因としてよりも、衰退以降の新しい統治システムとして意味を持っていた。

p.3

 衰退と崩壊(Decline and Fall)はアントニヌス帝政を論じた最初の巻以降にまたがる重大かつ広範な論点である。最初は2-3cを扱っているが、それ以降の巻は11c以降の自体を扱い、ビザンツを論じている。これは中世までの歴史となっている。このギボンの企画の意図を理解しないとならない。たんに古代ローマの衰退と崩壊ではない。このギボンの企画の意図を理解しないとならない。そしてその企画を最初から持っていたということと、それに伴う困難に気づいてなかったことについての証拠は持っている。そのような事情により、その著作は当初の意図を大きく超える含意を得ることになった。

 野蛮人の語はゲルマン的な遊牧民を主に指しており、それはアジアも射程に入っていた。そしてそれはスコットランドの四段階発展論(それ以外の含意もあると思うが)といった図式を引っ張っている。

p.4

 

啓蒙への入り口

 

 以上の図式は啓蒙された歴史のテーマを背景に引きずっている。市民社会の歴史とその道徳性は中世の野蛮な時期の後、ヨーロッパ人が政治的決定権を得るようになったきっかけである国家システムの歴史の基礎をなしている。ギボンは近代というワードで、教会支配との距離も、古代との距離も意識している。法学者らによって近代の歴史は市民的道徳性によるシステムを形成するために利用されたのであり、それは教会支配からの独立に寄与するものだ。

 ヴォルテール、ヒューム、ロバートソンといった歴史家はキリスト教からヨーロッパ市民社会へと言う流れに興味があるようだ。dfはキリスト教時代への移入を扱っているという意味で彼らとは異なっている。p.5そして、彼が啓蒙の図式に乗っているとするならば、彼はその方法で後期古代世界を記述ないしは包摂しようとしたと考えられる。彼がそのような意図を形成し、著作の含意に気づくには時間がかかった。帝国の衰退として始まった企画は教会の隆盛を伴い、啓蒙された歴史の著作家の中でひとりギボンは教会史家となり、プラトン的新プラトン的そしてスコラ的哲学についての最も優れた歴史家にもなった。啓蒙がヨーロッパ精神から取り除こうとしたものであった。ギボンはその歴史を終焉まで視野に入れて描いた。だが、ヴォルテールと異なり、彼はそれを単なる暗黒、愚昧さに満ちた歴史的思考を不可能にするものとしてではなく、積極的な自己理解をする力を持った営みとして描いた。彼は信仰を持たなかったが、聖職者の歴史家同様に叙述したのであり、彼の人生と思考を理解するためには、啓蒙が宗教への反乱としてではなく、宗教的議論の産物として出現していた世界を視野に入れる必要がある。

 これで本巻のなんとなくの意図がつかめる。ポーコックは啓蒙されたと形容される歴史記述の営みにギボンを様々な側面で巻き込むものとしてDFを描いている。そしてポーコックは啓蒙をヨーロッパ文明におけるダイナミックな営みとして理解しようとする。ただし留意すべきはEnlightenment、それ以上にThe Enlightenmentは実際にその名前が当てはまる営みよりも後に生まれた語であるということだ。後者は固有名詞化された題目だから余計に後の用法ということだろう。そしてそのような語でくくることの意味を考えないといけない。ポーコックは啓蒙という概念をフィクションとは考えておらず、それを特定の営みを指し示すものとして把握可能であることも認めている。この営みの担い手達は確かに自分たちの営みの特異性、意義を自覚していたし、彼らの著作には光を連想させる比喩が入り込んでいたそうである。ただし、その担い手達は啓蒙という言葉で自身らを括ってカテゴリー化し、同時代の他の営みと自らを差異化し排除しようとしていたわけではない。

p.6

 

 

従来の啓蒙理解との差異

 

 ここにおいてポーコックは既存のナラティヴとの関係を述べようとする。ヴェントゥーリはギボンについて、イングランドでは啓蒙の営みが見られなかったとして、ギボンが啓蒙の営みから切り離されており、更には自国の文化とも切り離されていると評していた。確かに彼の言語環境などを鑑みるとそういえるかもしれない。だが、彼の著作がイングランドでも多くの反響を生んでいたのであり、実際彼は他の言語で書く可能性もある中、英語で執筆しているのであるから、その事情を考慮に入れなければならない。

 ヴェントゥーリはどういう図式を提示したいのか。『啓蒙のユートピアと革命』においては、啓蒙を一部のフィロゾーフの存在を指標として描いている。彼らは世俗的で社会批判をなすような人々とされ、英国には長らくそういう人は不在だと語られる。確かにヴェントゥーリはイングランドをそういった啓蒙の光の外に追いやったのではないが、彼によるイングランドでは異なった波長が存在していたという主張は、彼が決して十分に探求をしていないことを示唆する。

p.7

 本巻でポーコックは、ギボンがフィロゾーフを参照して定義される啓蒙からはまったく外れていることを見る。彼はフィロゾーフから追い払われたという訳ではない。彼は最初から百科全書派のようなグループの営みに賛同していなかったのであるから。だが、これは彼による啓蒙の拒絶を意味しない。ポーコックはバークが啓蒙の担い手であることを示す。彼は文人の一団(gens de lettres)やその後嗣に対抗して啓蒙のヨーロッパを守っているという自己理解を有していた。ここにおいてバーリンが定義するような対抗的啓蒙の要素が見られるが、それはあくまでも別の啓蒙と対抗する啓蒙を担っているという意味で妥当である。このように啓蒙を複相化させたうえでギボンへと翻ってみると、フィロゾーフの存在を必須としない啓蒙の形が浮かび上がってくるのだ。ポーコックはここでは啓蒙に関して二つの特徴を指摘している。一つ目は諸国家の体系が、商業社会的市民社会的下支えを伴って出現しており、それにより宗教戦争や単一の君主国家の覇権といった可能性が否定されることである。もう一つは、教会や信徒の集団が市民社会の権威に挑戦し平和を乱すことを否定するために、それら団体の権力を減らすための営みが存在していることである。後者の特徴に関して、ギボンのDFの15,16章はギボンに、半宗教的なフィロゾーフというレッテルをもたらした。しかしこれらの章はDF全体を踏まえて再考されなければならない。

 

啓蒙の多義性、多層性と宗教

 p.8

 ニケーア信条に端を発する受肉や三位一体の教義に基づいた神学は、現世的でない王国がこの世界の内側にて現在するという信念を支えていたが、その思考と深い関係を持ちつつ、方法論や慣習、文書や法によって基礎づけられた精神文化が発展していったのであり、それは神学と独立に発展する可能性を持ち、市民社会における精神生活の基盤ともなったとポーコックは述べる。しかし結局この思考は神学の拒絶をしながら、神学と関係づけられており、カルヴァン派ルター派カトリックといったそれぞれの教義の性格とも連関を持っていた。啓蒙を神学と独立に考えることは出来ないのであり、その志向の発露は神学的議論において見ることも可能である。これはDFを理解するためにも重要な視点である。若きギボンについての考証を行うことで、彼が啓蒙と名付けられる多様な営みにいかなる仕方で触れていったのかについての多様な解答が存在し得ることを見ることができる。

 ここにおいて私たちはイングランドにおけるある種の啓蒙の存在を指摘することになるのであり、フィロゾーフの中心点とし、イングランドを例外とする思考からも脱却できる。確かに英国にはその宗教的配置などを踏まえてそれ固有の啓蒙の性格が生まれている。しかしながらイングランドの教会もプロテスタント的啓蒙のプロセスに組み込まれていたのであり、それはDFと著者ギボンを理解するために欠かせない視点である。ここでポーコックはトレヴァー・ローパーの議論に従い、英国と西のプロテスタント諸国はグロティウス的、アルミニウス的、エラスムス的であるという彼の結論を引っ張っている。イングランドの教会はカルヴァン主義的な啓蒙に関与していたのであり、一部カトリック的であった。プロテスタント的啓蒙はギボンのイングランドローザンヌにおける経験を理解するのに重要である。p.9

 本巻においてポーコックは、ヴェントゥーリが「イングランドにおける啓蒙の巨人」と評した男に居場所を与えるため、、啓蒙の定義や地勢図を塗り替えようとしている。当然本著で考慮されていない啓蒙の色彩もあるだろうが、それが重要でないことは意味しない。ポーコックの行う批判は、"The Enlightenment"と名付けられる観念に対するものであるが、それはその啓蒙という名詞に対してではなく、それに冠詞をつけてひとくくりにしようとする思潮に対して向けられている。この後家族的類似性とか多様性とかをポーコックは述べている。ふむふむ。

 

 本巻はギボンにおける啓蒙を追っかけるのであるが、それはギボンの若き日の軌跡を、多様な仕方で定義される啓蒙めいた営み、文脈を通してみることで果たされる。それは彼がローマからイングランドに戻る1765年までが視野に入っている。その時期までにはまだギボンはスコットランド啓蒙と接触していないのであるが、彼は自分の描こうとする歴史記述の型をなんとなく認識している途中であり、その時点でDFの大枠を意識していたと考えられるのである。もちろんその執筆はその時点より10年くらいなされることであるから、挑戦的なテーゼかもしれない。けれども、ギボンの歴史叙述の型(historiography),ひいては彼の歴史哲学は彼による多様な啓蒙への応答の中で形成されてきたのだとポーコックは主張する。p.10そのためそれはヨーロッパ全体の文芸的、批判的学術動向と連関しているのである。

 

 

以降の流れと方法について

 

 第二巻はきっと啓蒙の大きな歴史叙述を紹介するだろう。それは主にギボンが出版を始めた1776年あたりの動向を中心としている。それ以降の著作はギボンの生涯やDFが位置づけられる多様なコンテクストを提供することになる。ポーコックはレシ、物語ではなくてパンチュール、歴史的世界の図像を提供することを目論んでいる。これはいくつかの学問的分野でとられている、通時的視点に留まらない、共時的な関係の束に着眼して当該対象の構造を描こうとする手法を念頭に置いた主張だろう。ポーコックによれば描くコンテクストの一部は、出版当時における知的動向についてのものであるし、別のものはギボンと関係のある古いテクストが形成した過去の文脈でもある。ポーコックはそのいくつかについてDFとの関係を離れて深く探求するつもりである。実際彼はそうしている。以降の巻を読めば一目瞭然。後者のコンテクストは偉大な著作の一団の中に存在するテクストに関するものであり、単に問題とする著作との関係では収まりのつかない強固な独立した文脈を背負っているのである。ポーコックはDFの病理学、発生論ではなくて生態学を行おうとしているのである。つまり、そのテクストが存在した世界についての研究であり、たんに生成のみに論点を絞ってはいない。