Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

Peter Landau, Die Durchsetzung neuen Rechts im Zeitalter des klassischen kanonischen Rechts

 12世紀のカノン法は統一性と画期的な法の変化という点でそれまでの時代とは異なる。それまでは法集成が並立しており論拠の一義性は得られなかった。12世紀以前に絶対叙階が禁じられていたかなどなどの問題について、現在の法妥当性を前提にした理解では回答を与えられない。法の妥当性と法の実現性の区別は古典カノン法において歴史的所見に基づき完全に有意味に表現される、それに対して前の時代ではそうでないのである。新しい法の貫徹という論点は新しい法の妥当性についての議論を前提にするが、一般的見解は12世紀以前は得られていないという。
 研究において一般に認められているのは、新しい法の形成は教令集の受容による古い法についてのコンセンサスを前提にしているということである。 1170年頃に新しい法集成を介した補足が有意味かつ成功裏に行われた。それは授業用としてのみならず教会の裁判官の手引きにもなったものであった。グラティアヌスは初めから実務性のある著作を書いていたのである。パヴィアのベルナルドゥス、トゥルネのステファヌスなどは新しい法についての議論を行う。イノケンティウスの時期にはカノン法は新しい法をも含むものとされた。


 3つの点が際立つ

1 第三集成における教令集編集とそれをボローニャに送付したことであり、それは画期的であった。

2 イノケンティウス3が教令を通して古い公会議令,教令,重要な法の補完と変化の理論化(変化のcausaの探究?)を行ったことである。たとえばx3.5.16tなど。
3 第4ラテラノ公会議の1215年の改革立法は中世法史の決定的事件とみなされた。イノケンティウス3のpastoralisはすぐにボローニャで考慮の対象となった。教皇法の妥当性は認められ法形成の権威は教皇にあるとみなされるようになった。ここから教皇による集成の価値が決定的になった。
 教令法の妥当性は、慣習法の妥当性が制限されることにより促進された。慣習に合理性が要求されることで、その役割は制約された。Liber Extraにおける慣習の法的定義は教令の書かれた法に、あらゆる慣習法への優先を与えたのであった。ここから新しい法が12,13世紀において法的現実の中で貫徹されたかを問うことになる。それは時代と法の領域に従って区別しないといけない。その区別を踏まえるとき新しい法の現実化の可能性について語ることができる。二つのテーゼから出発する
1 12世紀中頃に新しい法の受容には期間を要した。イノケンティウス3以前には法形成は教皇制度とカノン法学の相互作用によって果たされていた。12世紀のカノン法学は法を立てる(legem condere)機能を有していたのであり、そこにその時代の法史学的の意義がある。初期において規範の創造の基準は固まっていなかったが、第3ラテラノの決定において法の妥当性、適用についての規範が定められた。そして13世紀初頭には教皇が教令による命令で直接一般妥当性のある法の変更を企画することができるようになった。教令の普遍的妥当性の原理が確立したことになる。
2 しかしながら法の貫徹は一様ではない。 手続き法などは実現が比較的成功したが、組織法などの改革に関する実態法はあまり成功しなかったという。教会の組織的改革は受け入れられていない。中世教会におけるジレンマとして法創造の時代が、組織政治が成功した時代とはいえなかったということがある。Patronatrechtの領域における法の体系化の流れ、ルフィヌスの見解は一般的同意を得られず、いくつかの認められた議論の束が存在していたが、それは教皇立法により統一化が目指された。遺言法もローマ法と異なる証人の数が教令により認められたが、実際には教皇領くらいで実現した変化であった。教会の組織法の領域、聖職録に関する規制の領域においては、第三ラテラノ公会議の決定などを経ても実行力を獲得できなかったという。第3ラテラノのカノン7、教会の収入の横領禁止なども、Inkorporationなどの抜け道を用いて形骸化されてしまった。
 教会財政の領域においては法の変化は生じていたが,その貫徹は非常に困難であった。手続き法などの領域とはことなり、このような法領域では、多大な特免の実行や制限的な規範の解釈によりその作用は限定されてしまった。 一方手続法などにおいてはのちの審問制度等に繋がる発展が見られるという。