Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

Pocock, Barbarism and Religion: Volume 6, Barbarism: Triumph in the West(2016) 15 Ambrose of Milan p.293-308

 

Pocock BR6 15章 Ambrose of Milan

 半ば趣味の営みだが、ビトリアの教会論と聖職者の世俗の権限を巡る議論を読むのにも示唆的であった。ただ、BRの中でもギボン自身の評価とポーコックのコメントが入り組んだ箇所なので筋を綺麗に追跡するのに苦労する箇所である。

 個人的には霊的権力の自立が単に介入を禁止するだけでなく、正統な信仰の維持が世俗的権力の行使によって初めて果たされるといった場合は世俗権力の行使を要求し得るといった論点や、正統信仰に反し得る世俗的権力行使に対して霊的権力が何がしかのサンクションを与え得るといった議論をもう少しソースを携えた状態で提示して欲しかった。


アンブロシウス・教会と帝国

 ギボンのテクストの27章には以下のような説明がある

「迫害の理論は、その正義と敬虔さが聖人によって称えられるほどであったテオドシウスによって成立したのであった。だが、その実行自体が十分になされたのは、彼の同僚にしてライバルであったマクシムスによってであった。彼はキリスト教徒の皇帝の中で初めて、宗教的意見によってキリスト教徒の臣民の血を流させたのである。」(Wormersley版 p. 38)

 以上のような異端への迫害の動向を踏まえて、ギボンはアンブロシウスと、トゥールのマルティヌスに言及する。

「ミラノとトゥールの司教は、異端への厳格な態度を容赦なく主張していた。しかし彼らは異端者たちが現実の死に至るという血腥い有りように驚愕し、その自然な心情でもって、神学的な前提に抗するようになった」

 このような記述は啓蒙主義的な発想に立つともいえるが、同時に法の言語だとも説明し得る。実際ギボンは以下のようにも説明する。

「アンブロシウスとマルティヌスの人間性による理論への異議申し立ては、Priscillian達に対する法的手続きが適正さを欠いていることによってさらに強化された。世俗と教会の行政官たちはお互いの境界を侵していた。世俗の裁判官は訴訟を受理し、信仰や司教の権限に関わる問題に確定的判決を下し、司教たちは刑法的事案において死刑を宣告するといた事態に陥っていた。...Priscillian達への死刑宣告以降は、対応が改められ、迫害の犠牲者は聖職者から法適用を担う人物へ、そこから更に執行者へと移送されるようになった。それ加えて霊的罪を宣言する取り消し不可能な教会における確定判決は、敬虔さと救済の言語に則った寛容な表現で行われるようになった」(pp. 39-40)

 聖職者制度の確立は、自立した霊的権力をもたらすという意味で、古代から近代への以降を示していた。そして皇帝は霊的権力が自身の固有の論理で作動していることを認めるようになったので、かえって二つの権威の領分は不明確になった(霊的権威が独自の論理で世俗的な権限を担う可能性を認めるという意味か)。そこにおいて迫害は、そのほかの宗教の場合とは異なり、どちらか一方の権力がもう一方の権力によって定義された異端者の規定によって行われるようになる。


 以上のような状況の中で、テオドシウス統治下を描くギボンのテクストにおいて主人公的役割を果たすアンブロシウスの活動は、教会と国家をめぐる歴史に新たな一歩を歩ませるものとなった。ギボンは、アンブロシウスが世俗の統治者から聖職者へと転身し、皇帝グラティアヌスの霊的な助言者となり、マクシムスの反乱のあとの帝国の安定に貢献したことを記している。特に言及されるのは、ウァレンティニアヌス帝の母であるユスティーナが、ニカイア信条に反して自身のアリウス派の信仰をミラノにおいて認めさせようとした事件である。これに関してユスティーナが皇帝は自身の支配領域において、自身の信ずる宗教を公的に広めることが許されると述べたとギボンは紹介するが、4世紀にも、ギボンの生きる18世紀においても、主権者が自身の宗教を広めることが私事に過ぎないと評価する程寛容ではなかった。

「アンブロシウスの対応は特殊な見地に依拠していた。確かに地上の王国は皇帝に属しているかもしれないが、地上にある教会はその教区の枠内おいては神の家なのだと彼は考えていた」

「そしてアンブロシウス自身は、使徒の継承者で、神の唯一の補佐官なのであった」(p. 41)

 アンブロシウスは世俗権力に教会を明け渡すことは断固拒否し、場合によっては殉教も辞さない姿勢を見せていた。ユスティーナは自身の当初の意図を挫かれつつあったが、ミラノでのアリウス派の信仰のための聖堂建築を目論見出した。それに対して人民の暴動が生ずることになる。アンブロシウスは
「統治者に恭順を示すことで自身の教区を平和状態に戻すように懇願された。それに対して彼の返答はとても控えめで尊重に富んだ表現であったが、毅然としており、内乱の宣言とも呼び得るようなものであった。」(p. 43)

 このようなアンブロシウスの姿勢がもたらした自身への危機をギボンは以下のように描く。
「ウァレンティンイアヌス帝の母は、アンブロシウスの勝利を決して許さなかった。そして若い皇帝は感情的に自身の部下たちが自身を裏切り、反抗的な聖職者の手の下へ彼を追い込もうとしていると悲嘆することになった」(p. 43)ここにおいて彼の読者やギボン自身、ヘンリー二世のトマス・ベケットへの不平を連想しないわけにはいかないだろう。最終的にアンブロシウスは生命の危機を免れるわけだが、そのことをギボンは注釈において、その他の殉教者と対比している。以上のような出来事はギボンの歴史記述において決定的な役割を果たす。彼は次の28章では殉教者や聖遺物への信仰にキリスト教信仰の変容を見いだしている。
 世俗権力の圧力の犠牲者としての宗教者という視点は、教会の2つの目標と連関しても重要である。その2つは、皇帝権力からの自立と、非正統への不寛容であり、この自由をめぐる観念の根本的な両義性が、西洋史における通奏低音となっていく。


 ここからのアンブロシウスの事跡の確認はギボンの記述とTillemontの記述の対比として行われる。あくまでも両者は歴史、すなわち政治社会の歴史として記述が進んでいることに注意されたい(この政治社会の歴史=歴史といった発想についてはBRの三巻を、教会史との対比は5巻のエウセビオスについての記述を踏まえているのだろう。Tillemontとの対比はここより前の章においても展開されている)。ギボンはTillemontの記述を踏まえつつも、単に統治者側中心の歴史を描くだけでなく、宗教や哲学への知見をそれに統合した叙述の提示を行っている。27章においてギボンは、テオドシウスの資質の善悪を論じつつ、帝国の衰退と滅亡という彼の叙述の筋に対して決定的な役割を果たした出来事を紹介している。
 そこで紹介されるのがテッサロニケにおける虐殺と、テオドシウスがそのことについて改悛し、赦免を求めるという事例であるが、Tillemontはその事例をアンブロシウスの人生に含まれるものだとして(本著のp. 14に記されるように、Tillemontの著作はより広い歴史書のシリーズの一角として執筆されており、ここではアンブロシウス含む聖職者に関する伝記がシリーズの別の歴史書に含まれることを念頭に置いている)叙述から抜いている。ギボンは彼らの政治史(civil history)への影響に興味を持っていたと評価できる。それではTillemontはそうではなかったのだろうか。

 たとえば、以下に紹介するカリニクムの司教に関する事例について、ギボンはテッサロニケの虐殺におけるアンブロシウスのテオドシウスへの憤慨の前史として両者を一つの叙述に組み込んでいるが、Tillemontにおいては別の事例として異なる箇所に組み込まれている。388年に、カリニクムの司教が信徒を動員して当地のシナゴーグを破壊させたのであったが、テオドシウスはその司教に対してシナゴーグの再建を命じていた。それを知ったアンブロシウスはテオドシウスに対し、当該司教にそのように命じることはキリスト教の信条が命じる義務に反する行いだと指摘するのであった。

 ギボンによればアンブロシウスは「ユダヤ教徒への寛容はキリスト教徒への迫害を意味するものだと考えており、その意味でカリニクム司教の行為は称えられるべきであるし、彼は殉教者だと言えるという見解から、テオドシウスの行為が彼の名声と救済の妨げになるだろうと感情的に表明した」(p. 58)とされる。

 それに対してTillemontにおいては、アンブロシウスが本来は換えに意見するべきでないと考えつつも、敬愛するテオドシウスの救済のためにやむを得ず意見をしたという表現がなされている(L`amour mesme qu`il portoit a(`) ce prince, dont il estimoit beaucoup la pietè 

....le fit resoudre mesme à l`offenser,...)(ポーコックはTillemontの、先の皇帝の歴史に関する歴史記述とは別のテクスト、教会史への覚え書きMemoires pour servir à l`histoire ecclèsiastiqueから引用している)。

 その他にもTillemontは、アンブロシウスがあくまでもテオドシウスを、彼を聖なる地位を保持する教会の一員であり、更にその中での優越的地位を持つものとみなしていると読み得る記述を行っている。彼は皇帝の霊的判断における自立を前提していたとされる。

 教会の霊的任務は単に世俗権力からの免除を受けるだけでなく、皇帝権力も介した裁治権を政治社会や統治権力にも及ぼすことでその目的を達成するのである。

 この箇所においてもギボンの読者は先のヘンリー二世の時代の事例を連想するだろう。トマス・ベケットと、有罪の聖職者の裁治権をめぐる問題がそれであり、12世紀のその問題も4世紀と同様に単なる殉教の問題ではなく、キリスト教秘蹟を巡る問題でもあった。ギボンもTillemontも、先の事例を発端としてアンブロシウスは、霊的権力の自立を認めない皇帝に秘蹟を与えるべきでないという考えに至ったと考える。それぞれの説明は少し異なっている。
 ギボンは「個人的な説得では効果がないと考えたアンブロシウスは、カリニクムの司教やその命令の実行者たちを皇帝が無罪とするまで秘蹟の授与をしないことを公的な説教において宣言した」(p. 58,n.92)
と述べ、その上でテオドシウスは、それ以降は積極的にユダヤ人迫害とシナゴーグの破壊を行ったことを記している。
 Tillemontはアンブロシウスがテオドシウスに許しを与える儀式の場面を具体的に示すが、アンブロシウスは決して破壊を要求はしなかったと述べてギボンとは解釈を異にする。

 ギボンとTillemont、そして他の歴史家の間にある相違を理解するためには、ソースの揺れにも注意するべきかもしれない。テッサロニケの虐殺やそれを巡るアンブロシウスの対応といったものは、アンブロシウスより一世紀を経た教会史家によるものであった。それらはアンブロシウス自身の手になる書簡に依拠するものであるが、後世の編集を免れてはいない。そして他のソースとしてアンブロシウスの伝記の作成者であるパウリヌスのテクストがあげられるが、おそらく彼はアンブロシウスのテクストの編集を行った人物の一人だろう。ギボンが脚注で指摘していることもおもしろい。異教徒の歴史家であるゾシムスには、テオドシウスを批判する箇所は多々あるにも関わらず、そのテッサロニケの虐殺やアンブロシウスに関するエピソードは書かれていないというのである。その他にもゾシムスがソースとしたエウナピウスにもそういったエピソードは欠けているとされる。実際近年の歴史家は、ミラノの教会の入り口でアンブロシウスがテオドシウスの入場を拒み、8ヶ月間の改悛を要求したエピソードをパウリヌスの創作に帰している。Tillemontも自身の年代期に八ヶ月もの悔い改めを入れ込むことに困難を感じているが、彼もギボンも同様に、教会の年代期に記されていることをひとまずの根拠としている。

 
 先のカリニクムやテッサロニケに関する皇帝とアンブロシウスの関係は、先に述べたようにヘンリー二世の事例やカノッサにおける事例を彷彿とさせるかもしれない。しかしそれらは教皇首位制確立後の話であり、Tillemontもギボンもそれらに直接なぞらえることはしていないし、ローマの教会への言及もしていないことは記憶されるべきである。