Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

Pocock, Barbarism and Religion 3巻4章のまとめ

 

 

BR3-4

ギボン→アントニヌス帝政の崩壊という問題を扱う。

 

その前史としてのタキトゥスは元首制の不安定を叙述、元老院を無視した軍隊に左右される制度として描く。

一方、グラックス流の解釈では、内戦は軍隊維持能力の欠如によるものとされた。

→ 前二者の説明を合わせると、元首政は従来の問題への十分な解決ではなかったと言える。システムの不調の継続に対する新しい説明としては、蛮族の侵入という問題を指摘するものも出てくる。

 

 

DFが何を意味したのかの歴史を知ることが、ギボンにとりDFとは何かを理解することにつながる。5Cの西帝国崩壊をイメージし、そのあとは蛮族支配が行われるという理解が通常であるが、ギボンは2Cから議論をなす。5Cが常にcrucialと考えられたのではないが、ギボンはそういう立場から過去に遡るのではなく、5Cも重視している。

 

その5Cの時のシステムは1,2Cのprincipatusと異なることはギボンも理解しているが、その時代の分析も行い、内戦への言及もなす。

テオドシウスの子が蛮族侵入への対処失敗→テオドシウスはコンスタンティヌス君主制システムを再興した→そのコンスタンティヌスは、軍人支配と異なる新しい制度を定立した→その軍人支配はセヴェルス帝に遡る起源を持つ  という連鎖の存在

 

コンスタンティヌスの下で、遷都、キリスト教の公認というシステム変化が生じ、前者が帝国の分裂と、西の変容、東の残存という状態の布石となり、後者が、古典文化のキリスト教文化による変容、西における教皇制度を伴う教会の確立と、それによるキリスト教千年紀というEnlightened narrative、BRの勝利というnarrativeの始点となる。

 

システムの変容の意識を持ったギボン及び私たちには、410年のアラリックによるローマ侵攻がvirtusの敗北というようには理解されない。だが、どうしてそのような理解がされたかを理解しなければならない。

5Cにはそのような考えはないし、キリスト教帝国の下にあるレトリックはむしろそれへの反対が述べられる。その言語は二つの流れを汲む

 

1 元首政が自由を破壊し、帝国の不安定をもたらすとするタキトゥスのような議論、都市に重心を置いた視点、隠れたる害毒へ向けられた視点とも言える。

2 元首政が人々に平和をもたらし、黄金時代を復興させたとするようなウェルギリウスの議論、コスモポリタンな視点、と同時に属州側の視点とも言える。

 

以上の両義性は、対外拡大をローマが行って以来存在するものであり、ポリュビオスの時代にも遡る。

 

1の論拠として、皇帝なるものは、princepsの内的能力、即ち都市ローマ支配権と軍事支配権が一体になったものであり、タキトゥスが見た危険とはそれに由来するものであったという事態がある。領域概念としてのempireは、imperium militiaeの行使先及び源泉のprovinciaがimperiumと同視されることに由来する。

 

2の論拠として、ローマの対外支配のイメージは穏やかな恩顧関係に基づく支配として理解されたことがある。属州側での自由概念は、パウロのような初期キリスト教の人間によって唱えられたが、ローマ的なimperiumの行使という自由ではなく、imperiumの下での社会活動の自由として、臣民的な自由概念が出現する。さらに支配が一般性普遍性を備えているものと表象される原因として法学の発展、皇帝が公平な法の制定者としてイメージされるようになる。

 

属州で法制定をなす、公平性を体現する皇帝が、都市においては抑圧者であるという事態があった。

 

DFとは、都市からの統治による地方、属州の腐敗、地方による都市の放棄によるもの、両者の分断によるものと言えるが、古代にそのような考えは存在しなかった。

 

後者の皇帝のイメージは、多神教の指導者としての皇帝の地位、皇帝への崇拝も要求し、キリスト教との不調和も存在したが、コンスタンティヌス以降、その条件は変容する。

 

教会は、人間社会の内側にある、条件づけられた存在でありながら、それを超越すると主張する存在である。その歴史記述は二つの回路を備える。救済の市民的歴史と、創世以来の普遍史がそれ。

後者においては、神意の発現史及び、予型としてのイスラエルの歴史が含まれる。さらに、エジプトやバビロニアも含めた異教徒の歴史をその内側に含み、創世の年代を立証するために比較年代学の手法が発展した。やはりその中ではイスラエルが最重要で、キリストの出現を予言した、教会の前段階の社会として描かれる。叙述にはアナロジー、タイポロジーが多用され、過去の出来事はそのあとの出来事を予兆するものと理解される。同時に、イスラエルが予型である以上は、現在においては否定されるべき存在でもあった。今後救済を担うのは教会だからである。このような視点においては、ローマの崩壊以上にエルサレムの破壊が重要な出来事になる。ただし、教会が異教徒も含めた普遍的な記述、救済を行うようになると、ローマ崩壊も叙述対象になるのだ。その際にも、キリスト教徒の歴史家は、グレコ-ローマン文化の内側の人間であるために、異教徒は、ローマ-ギリシア人とそれ以外の蛮族という下位区分でもって理解される。

 

ローマ的な要素がキリスト教に与えた影響としては、アウグストゥスによる普遍的な平和という神話が、神の国のイメージの具体化に貢献している。そのアウグストゥスの時代から出現したキリスト教徒にとり、皇帝の役割は、救済の担い手に近いものとして、理解されるものだった。

 

ユダヤ教徒がもたらした、キリスト教の叙述の要素の一つに、彼らがcovenantで神と関係しているということに、キリスト教徒自身が違いを際立たせる中で行った、神意の強調がある。それは、複数の文脈を神秘化、合理化する作用を備えていた。この神意の概念も寄与し、ローマ人の拡大が教会領域の拡大を帰結したということから、ローマ人が神から特別な使命を、意図せず与えられたという観念も出てくるのであり、sacred empireという考えも案出される。

 

 

エウセビオスは教会史に、帝国の歴史を半ば並行させた。なぜそうしたのか。先述した、創世以来の歴史と、教会設立よりの二つの歴史の存在がその解答を示唆する。後者は、キリストからの教えの継承を立証する、制度的な教会史の側面と、神意に基づいた、キリスト教徒の苦難と栄光を描く物語の側面を有するのであった。多神教の神々や、異端は悪魔と関係があるものとして理解される。その一方で帝国、皇帝自身は悪魔と関係する重大な迫害者として否定されることはなく、ローマは来るべき神の王国の余型と解された。そうして、コンスタンティヌスの時代に神の勝利が現れると描かれるのであり、それよりキリスト者はローマと共存するようになる。そのことは、教会の歴史記述と帝国の歴史が融合することも意味するのであり、個物に関係付けられた教会史は有限な性質を帯びる。帝国の歴史もキリスト教勝利を表すものと理解されるというのが先の問いへの解答となるだろう。さらに、残存する異端に対し、それとの戦いを行うのは帝国であり、それは教会を彼らから守る役割を担い、皇帝は教会と司教とを統べる存在として理解される。

 

アンブロシウスの例なんかをみてる。(この出来事は妹に対して俺皇帝を拒絶したんだぜすごいだろ!みたいなアンブロさんの書簡に依拠してるらしく、実は皇帝と結託して、彼の悔悛を演出しようとしたんじゃないかという見解もあるらしい。(ジリアン・クラークp .38-40))

 

すでにDFとは元首政とは別のシステム下での問題でないかという見解は見たが、ミラノのように蛮族の手に落ちず、キリスト教的観念と帝国の行政システムが一体として残存した地域もあるのであり、コンスタンティヌスのシステムの崩壊というのも正しい事態の描出ではない。DFはラテン世界の問題であるとも言える。

 

次の章では、BRが勝利したと考えられる西ですら、エウセビオスによる聖なる帝国のイメージが残存し、DFや帝国崩壊の原因を示唆したタキトゥスのnarrativeより1000年前に歴史叙述に大きな寄与をしたことを見ていくよ。