Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

 J. G. A. Pocock, The Ancient Constitution and the Feudal Law- A Study of English historical Thought in the Seventeenth Century, 初版における序文と1-1

 

 J. G. A. Pocock, The Ancient Constitution and the Feudal Law- A Study of English historical Thought in the Seventeenth Century, 初版における序文と1-1

 

 これ1957年刊行とは信じがたいですね。なんならBarbarism and Religionの主題がすでに含まれているし、自分の研究にはあの著作より近しいので大変勉強になります。

 

以下全訳

 

xiii 第一版への序文

 

 私はこの本において17世紀の国制叙述の根本的性格そして問題を提示しようとした。私は英国における過去に対する思想を徹底的に分析しようとしたのでもなく、国制の歴史と理論が同時代の政治的論争のソースとして用いられた仕方を探求しようとしたのでもない。その代わりに、二つの主要な思想における学派と思われるもの-自身の国制が遠い過去にさかのぼるものであるという信念を備えたコモン・ローの法律家と、この考えを、その国制は封建的土地所有の原理によってもたらされたことを指摘することで揺らがそうとする僅かな反対者がそれである-を対置すること、これらの解釈がいかに生じたかを示すこと、そして同時代の政治理論の本質的な考えにそれら解釈がいかに関連して、その連関が当該解釈の発展によりいかに発展、阻害させられたかを考察することのほうがより示唆に富んでいるように思われる。全体からして、もっとも典型的であり必然的でありながら、歴史家によってもっとも無視されてきた、17世紀英国思想の脈絡の図像が見いだされることが期待される。それはすなわち、(17世紀英国における)彼ら自身を彼らの過去と、彼らがその過去と取り結ぶ関係を理解することで彼ら自身を理解しようとする試みなのである。このことは私がElsynge, Selden, Twysden, Somnerやその他の多くの当時の歴史家を、彼らの価値に相応しく扱っていないという失敗への弁明となるかもしれない。

 

 

 

xiii 第二段落

 

 この目的を果たたそうとする中で、私は歴史叙述の歴史に関するある一般的な言明を提示することになった。このことは思うに、16,17世紀の間に過去の探求についての最も重要な様式の一つは法研究であったということであり、そしてヨーロッパの国民の多くは、たいてい同時代の政治的発展や政治理論の刺激のために、自身の法の性格について考察することで自身の歴史についての知識を得ていたということであり、各国民における歴史に関する見解は各々の法の、そしてそれと同様に、各々の歴史の産物であるということ、更にはこの側面から見た主題の重要性は歴史叙述の歴史家によって殆ど考察されていないということである。私が試みたのは、英国の歴史思想をある点ではフランスの、別の点ではスコットランドのそれと対照的に提示することで、前者の当時における基本的な限界が、それが一つの法体系のみを介して国民の過去を考察することに縛られていたということから生じたことを示すことである。この理論の完全な(結果、到達?)は、ここで試みられたものより遙かに徹底的な英国歴史叙述の歴史と、おそらくは英国における特性が他のヨーロッパ諸国の歴史叙述と、上述した決定要因の支配下にあって異なったものとなったかを示すために考案された比較研究を必要とするだろう[1]。歴史叙述の歴史は未だに発展中の研究分野であり、英国においてはその主要問題もいまだに確定していないのである。(そのため)将来の研究のための貢献として、この研究に一定の場所が与えられてもよいだろう。

 

 

 

xvi第二段落

 

 この研究は博士の学位のために提出した、「Commonsの起源をめぐる論争、 1675-88」というタイトルのものの発展系である。それは本質的にはRobert Bradyと彼が関与した論争についての研究である。[2]Butterfield, Plumbへ感謝 Butterfieldの The Englishmann and His Historyと DouglasのEnglish Scholarsは非常に重要であった。書籍刊行のための諸々のお手伝いに感謝

 

 

 

 第一章

 

 導入 フランスにおける近代歴史叙述へのまえぶれ

 

1

 

p.1 第一段落

 

 この本は近代歴史叙述の隆盛の一側面に光を当てるために書かれた。その動向の始まりはある程度の確証をもって16世紀にさかのぼり得る。というのも、その当時に歴史家の仕事が過去における社会構造を再構成し、そこにおいて、そしてそれを介してその時代に生きていた人間の行為、言葉そして志向を解釈するためのコンテクストとしてそれらを利用するという特徴を備えるようになったためであり、それはそれ以降の歴史研究を特徴付けている。これが私たちの知るところの歴史的方法の核心であることは説明を要しない。このことが近代歴史叙述を古代の歴史叙述から区別するということは、ギリシア、ローマにおける歴史的方法との比較によって明らかになるかもしれない。古代の歴史家は理解可能な人間行為についての叙述を発見し、きらびやかに発展させた。彼らは自身のそれとは異なる同時代の社会を描き出し、様々な風土や伝統において生じる様々な人間の行為や信念を記した。しかしながら彼らは、自身の文明の過去との間に、その当時の人々の思想や行為が、それらが生じた世界全体を復元し、詳細に記述し、その復元された世界をそれらの理解のために利用しなければ理解できないほどになってしまうほどの時間の隔たりが存在しているということを仮定するまでには至らなかったのである。そしてギリシア、ローマの歴史家はこの過去の再建のための画然とした十分な方法が存在していると主張することもなかったのである。そのため彼らの書いた歴史とは軍事的政治的事象についての叙述、ないしは比較的な政治分析から構成されていたのであるが、それは、過去とは特殊な研究領域であり、その独自の法則の発見や、適切な調査方法の発展によって理解され得るものであるという想定に基づいた過去への探求を含んでは居なかった[3]。しかしながらこの探求は古来の叙述の技法というものに対して優越しているという点であると同様に近代歴史叙述の主要な特徴なのである。歴史家が自身の探求を社会の過去の段階に到達させたとき(そしてその時のみ)、彼は自らの結論を叙述に組み込むという問題に直面するのであるが、その叙述の主題は人間や統治組織の行動のみならず、社会構造の途絶えることのない変化そして自身の主題の二つの側面の相互作用を含んでいる。過去を再構成するという考えが歴史家の考えにおいていかにして支配的になり、より古い、叙述の技法としての歴史という主張に対抗して歴史家の注意をいかに集めるようになったのかについて解明することは、歴史叙述の歴史家に取り最大の重要性を有する事なのである。

 

 

 

  1. 2 第二段落

 

 

 ギリシア・ローマの歴史家にとっては過去それ自体というものは優越的に重要という訳はなかったので-歴史叙述の創始者にそれが見られるのは逆説的かもしれないが-過去の探求のための特殊な技法を発展させなかった。ここではspatium historicum、過去への視点に置ける歴史的なものと神話的なものとの境界を論ずるつもりはないが[4]、現行の議論のために一点指摘しておくのがよいだろう。ギリシアとローマの人たちは、中世や近代ヨーロッパの人たちが意識的であったのとは異なり、過去の文明が存在しており、それが自身の生活へとその制度、観念、物質的遺構、そして文書史料を通して影響を与えているということについて意識的ではなかった。彼らにとって探求する必要や、探求のための証拠を有しているような過去の世界は存在しなかった。そして彼らの歴史感覚は自身の世界への探求と、同時代の異なる社会との比較において培われていた。しかしながらローマという過去の世界がつねに私たちの前に現前しているという感覚と、それを理解し、私たちとその過去との関係を規定することの必要性は中世と近代ヨーロッパの思考における主要な要素であり続けている。そしてもし過去に対する研究を行う欲求が近代ヨーロッパ歴史叙述の主要な特性だとするならば、その欲求はヨーロッパにおける、私たちがその隆盛と起源を探し求めるべき古代世界に何かを負っているという感覚に内在しているものなのである。

 

 

p. 3 二段落目

 

 

 

 私たちがそこにおいて探求を行う領域は、人文主義という名で記述される、古代についての学識における微妙な技巧-すなわち、古代世界に接近するための方法-の変遷である。「古典古代の再生」といったフレーズが、中世思想がルネサンス思想と同様に古典古代の重要性というものを意識しており、それらが根本的にだとしても、その古代をよりよく理解するために用いた方法という点でのみ異なっていたということを理解していなければ、人文主義に当てはめられた際に無意味なものとなるということは長らく常識となっている。中世とルネサンスの人は同様に古代を自身のための手本としようとし、その教え、その正典をできる限り権威的なものとしようとした。しかしながら中世における総合的で寓意的な精神によって採用された方法は全体として、古代の生活とその当時の生活を想像に基づいて合成するといった結果をもたらすことになった。ヘクトルアレクサンドロスは騎士とされ、キリストのピラトによる裁判は封建法の様式に則って創造されるようになり、更にもっと 学術の実際的段階においては、ローマ法の用語は中世ヨーロッパの統治にためらうことなく用いられた。中世の人がもしあるとするならばどの程度、この点において何をなしていたのかについて自覚があったのかを探求するのは私の能力を超えている。ローマがキリスト教世界とは異なるといういくらかの意識は明確に存在していた。しかしながら、性格のどの側面が過去と現在で異なっているかについて区別し見いだすことや、それをなすための体系的な科学を見いだすことの必要性は感じられていなかったことも明白である。この営為は、人文主義者による新しい過去へのアプローチの帰結として生じたのであるが、しかしながらそれも偶然、間接的そして逆説的に生じたのである。

 

 

 p. 4第一段落

 

 

 

 人文主義の思想は、中世より一層強力なまで、古代世界を範型とすることの必要を主張したが、中世の学識における古代世界の提示に対して激烈な不満を表明していた。それはそれまで権威があると考えられていた古代のテクストは多数の注釈、アレゴリー、そして解釈の層で上塗りされており、テクストではなく注釈が探求されていたことを指摘した。それは純粋なテクストへの回帰-そのような訴えはそれまでもあったが-を要求し、常にその注釈者がなしてきたよりもよいテクストの理解を求めており、そのような要求は研究資料を増加させ、技術を改良させたのであるが、それはしばしば人文主義がうまくいくことを可能にした。しかしながらこの点で、歴史叙述の歴史という見地から見た際に人文主義運動の逆説であり真の重要性でもあるものに直面する。というのも、これらの主張、要求をする中で人文主義者は「それが本当にそうであったような」古代世界への回帰を求めているということは言い過ぎることはないほどであり、そして私たちは彼らのプログラムをこのような言葉で理解するときに近代的な歴史意識の出発点に立っているこということを理解しない訳にはいかないのである。そして、その移り変わりを果たすことになる逆説は以下のようなものである。すなわち人文主義者は古代世界を反映し模倣するためにその復元を試みているのであるが、その復元作業が徹底して先鋭になされればなされるほど、その反映、模倣が不可能であることが明白になるのであり、それが単なる反映、模倣以上のものでないことが明らかになるというものである。古代的なるものは古代世界に(のみ?:報告者)帰属しており、よみがえらせることの出来ない多くのものと関連し依存しており、そして結果的に同時代の社会に組み込まれることはできないのである[5]。近年の研究は新しく人文主義者がいかにして、死語となり、日常生活の一部として自由かつ自然に用いられなくなった古典的ラテン語の言語と文法を復元しようとしたかについて探求している[6]。その著者に依れば、古典ラテン語は単なる歴史的な、古事愛好的な関心の対象、自身のために研究しようとする人のためにだけ重要な消えた世界の一部となっていたとされる。しかしながら著者は更に、そのプロセスがいかにして、ラテン語による著者が生きていた世界を描き出し、更にその世界を彼ら自身の目を通して眺めようとさえし、そして彼らの著作をその世界の一部として解釈しようとすることを目指した新しい学問分野の発展を伴っていたかも示している[7]。簡潔に言えば、人文主義者は彼らの原初の目的を超えて、ギリシア・ローマの知恵を逃れがたく過去のものへと追いやり、最終的にはそこから、現代世界に直ちに直接適用されるべきだと訴えかける力を取り除いた。しかしながら同時に、彼らは独立した研究領域としての過去という問題への注意を喚起し、熱心にその探求のための技術を完成させようとした。独立した科学として考えられた過去の探求が近代の歴史家の特徴だとするならば、その基盤を築いたのは人文主義者なのである[8]。これで全てではない。彼らはギリシア・ローマの文明が独立した、過去の世界であるということを示したが、ヨーロッパ人の精神から、過去は何かの仕方で残存しているという出来事から深くそして力強く影響される感覚を奪い去ることは出来なかった。そのため彼らの作品は現在と過去の関係についての問題全体を浮上させた。過去は現在に関連しているか?過去を探求することに何か意味(報告者: 利益?効果_核心?重要性?)があるか?現在における過去の残存の性格、地位はどのようなものか?そして恐らく何よりも、いかにして過去が現在へと至ったのか?歴史的変化の問題は、これまで以上に古代文明の特徴への新しい探求が行われるにつれて、より複雑かつ普遍的なものとして考えられていったが、それはヨーロッパ人の思考を16世紀末期より前から揺り動かしていった。そういうわけで、近代歴史叙述のはじまりを私たちは人文主義の逆接の中に探し求めるべきなのである。

 

 

 p. 5 第二段落

 

 

 

 人文主義者による功績は、ヨーロッパのいくつかの学術における歴史的技法の歴史的展望と、その基本を打ち立てたことにある。しかしながらその運動の重要性は私たちの歴史叙述の歴史において、それが本来値するほどの注意を向けられていないようである。明白な見落としについては多くの原因が帰されるかもしれない。その運動が極端に遅く-その完全な帰結は18世紀初頭以前に感じ取られることはなかった-、そして自身の行為の意味を十分に意識しておらず、自身としては過去は道徳的訓育のために、模倣すべきそして避けられるべき実例の宝庫として探求するべきだと信じ続けてい学者達によってその活動を支えられていた。この人文主義の主要な原理は、しばしば指摘されるように、歴史的思考を妨げたり、すくなくとも歴史的思考に好意的ではかったりした。しかしながら16,17世紀の歴史叙述の歴史はこれに尽きる訳ではなく、それが全てであったかのように書くという誤りはなされるべきではない。歴史的思考の発展は、様々多くの仕方で、人文主義者の道徳的に捉えようとする傾向にも関わらず、見てとることが出来る。しかしながら歴史家による見落としないしは無視は、この発展があまりに様々で広範であるということからさらに説明される。その歴史は一つか二つの明確で容易に識別できる科学が、急速に発展し、その他のものを共に運んでいく-数学や物理や天文学が、科学革命の歴史において主要なテーマを提供しているように-ような事態をめぐる単純な問題ではなく、偶然にひょっとしたら数え切れないほどの学問分野の片隅でわずかに発展した、そしてそれぞれの事例において当該学問分野に相応しい歴史的技法に進化した歴史的アプローチの問題なのである。歴史叙述の歴史はそれゆえ、単一の進化の研究として描かれることはできない。少なくとも現行において最大限なされえるのは、歴史的展望(報告者: 先ほども出たが、historical outlookの意味はいまいちわからない)の発展を、それが明白に表明された(報告者 :再帰なので中動相的に訳した)いくつかの場で探求することである。

 

 

 

p.6 第二段落

 

 

 

 しかしながら、批判的技法が16,17世紀の間は非常にゆっくり発展したのであり、かなり後になって、文芸的叙述の形式としての歴史を書くということと結びついたという歴史叙述の歴史についての重大な事実がある。すなわち、一方では学者と古事愛好家があり、もう一方で文劇的な歴史家が存在しているという大いなる分断が存在していたのであり、更には、文芸の一形式としての歴史はのんびりと自らの道を進んでおり、ピュロニズムによる一種の革命、懐疑主義による、歴史についての語りは信頼できる仕方で行われ得るかについてについての広範な運動が生じるまでは、学者によって発展させられた批判的技法に注意を向けることもなければ、自身らの類似した技法を発展させることもなかった。この革命の性格はポール・アザールによって研究されてきた[9]。その革命の主導者の目は文芸的語りという意味での歴史に向けられており、それはマビヨンなどの学者によって急速に発展させられた過去についての事実の信頼性を測定するための 批判的方法は除外されたままであった(報告者: fixed uponとfixed toの並置?)。もし彼らがそのような人物に真剣な注意を払っていれば、彼らのピュロニストとしての失望はよりすくなかったかもしれない[10]。しかしながら似たような過ちを近代の歴史家も犯しているようである。歴史叙述の歴史は、歴史の名を冠した文芸作品の歴史と同定できるかのように探求されており、結果的に叙述的な歴史を描かなかった研究者の作品に重要性を認めていない、一方的な見解が生じることになってしまった。例えば故ホイジンガは、あるとき近代科学の全ての歴史は中世の大学に負っているところが殆どないと書いたことがある[11]。彼に依れば一つの例外を除いて、近代科学は神学、医学そして法という三学部科目のどれかないしは自由七科のどれかに端を発している。しかしながらもし歴史学が中世の学科に加えられるならば、修辞学の下部門として、つまり批判的目的、方法を欠いた単なる模擬弁論declamatioの一形式としてであり、結局その批判的科学への進化は完全に大学の外部で生じたことになるとされる。

 

 

p.7 第二段落

 

 このような判断は、歴史というものをその名前を冠した文芸形式と同一視すると決めたときのみに可能となるものである。私たちがそのような強迫観念を取り除いたならば、以下の事実を思い出すだろう-一連の標準的な著作[12]からはとてもよく理解され得るものであるが-すなわち、最高度の独創性と複雑性を備えた叙述的でない歴史研究は16世紀のフランスの大学-その時期においてカリキュラムや組織は未だに中世的なものであった-で行われていたということであり、歴史的思考は法学部で発展していたということである。ルネサンスの法学者の歴史的学派は、この章の残りの箇所の内容を提供してくれるが、さらなる要点を説明しておかなければならない。歴史叙述の歴史の教科書的説明は、16,17世紀の学者の成果は叙述的歴史と結合され、現在の作品のように認識される類いの歴史的著作を生み出すように成った時、それはロバートソンやギボンが利用しえたような、多かれ少なかれ検証された事実の単なる蓄積でしかないといった印象を生み出しがちなのである。これから確認されるように、このことは全く正しくないのである。初期の学者(報告者: 何のことか分からない)は、多かれ少なかれ事実をその歴史的文脈へと戻し、そこで事実を解釈することに意識的に取り組んでおり、そして既にこのような営みが歴史的考察に伴う複雑な問題を体現するということは示唆されていた。すなわち、過去の現在に対する関係、そして現在における過去の残存という問題がそれである。法律家にとってこのことは特に問題であった、というのも、彼らが過去の文脈に帰しているデータは、同時に、現在の社会が自身を統御するために準拠しようとしたものであったからである。16世紀の学者が関心を抱いていた歴史的問題は成熟しており、喫緊の問題に対して実践的なものなのであり、そして哲学的に深遠ですらあった。その問題に対する当時の学者の考えは彼自身にとっても同時代にとっても非常に重要であり、彼自身の文明の歴史的理解に影響を常に与えていた。このような種類の思考は歴史叙述の歴史の真のそして意義深い部分を形成する。

 

以上

 

[1] 原註: 私はSig. Rosario Romeoの Il Risorgimento in Siciliaにおけるシチリアの歴史思想の発展の研究に負っていることを表明する。そこから私は、表面に現れているものより遙かに多くの啓示を受けた。

[2] ここから直訳ではなくあっさりとまとめた

[3] 原註1: トゥキディデスのヘラスの歴史についての言及(『戦史』第一巻第一章)における独特の抜け目なさは、この見解を修正するというより明白にしている。彼にとっては文書から再建されるべき過去の文明というものはない。そして、文書記録の不在において(記録されている伝統以外で)、彼が都市の規模や場所、設立された日付、会場権力の発展そして土地の肥沃さといった事項の重要性についての鋭敏な感覚を示しているとしても、彼や他のギリシアの歴史家が、これらの種類の証拠を扱うための科学を打ち立てたということにはならない。近代歴史叙述は過去の社会の状態に由来する多くの文書が残っていること、そしてその文書が現在のgovernance(よい訳が思いつかない)のためにも重要であるという感覚に依存しているのである。

[4] 原註2 この問題についてのいくつかの言及は、W. von Leydenの"Spatium Historicum"にある。

[5] 報告者: 構文の取り方について was bound upが並列しているのは、 belongedか、wasか?ひとまず前者でとったが、後者ならば、「古代のものが古代に属しているということは、無数の...に関連しており依存している、そして,,,」といった訳になる。既存の訳では「のみ」を補わないとしっくりこなかったことを踏まえるとこちらの方が適切か?

[6] 原註1 Bolgar, The Classical Heritage and its Beneficiaries

[7] 原註1: Bolgar前掲書pp. 376-7.彼の言及する補助的学問は、古典古代に向けられた地誌学、植物学、文芸批判、考古学そして年代学である。

[8] 原註2: 類似したプロセスは中国における儒学における革命的変化についての研究者によって、ここ50年ほどの間に描かれている。。。(省略)

[9] 原註1: ヨーロッパ精神の危機の第二章、モミリアーノ Contributo all storia degli studi classici, pp. 75-94

[10] 原註2: マルク・ブロック 『歴史家のメチエ』は最も明確にマビヨンの批判的とあらゆるピュロニズムの対照を明らかにしている

[11] 原註3: Sobre el estado actual  de la ciencia historica(歴史学の現状について), pp. 12ff、そしてそれはF. RosentahalのA History of Muslim Hisotriography, p. 29nに引用されている

[12] 原註略 Maitland, Holdsworth,Hazeltine, Church, Gilmore, Declareuil,Daresteなど挙がっている