Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

J. G. A. Pocock ”Barbarism and Religion” Volume Three pp. 165~170 内容把握

 

トスカナの歴史 エトルリアからフィレンツェ

(165.2)

ブルーニは、トスカナの歴史を記述しているのだと述べ、彼の議論を続けていく。それは、彼が提唱するところによるとローマ帝国以前とその後の歴史である。その歴史は、トロイアよりも先の時代に(故に、ローマ創設のアエネイスの時代に先んずる)、イタリアの北はマントバから南はカプアまで植民を行い、連合によって帝国を建設した、偉大で文明化された民族であるエトルリア人から始まっていく。ローマの勃興は、エトルリアの歴史の転換点として描かれる。タルクィニアのエトルリア人の追放の前にも後にも、ローマ人達は隣人であるエトルリア人に負うところが大きく、恐るべき活力と真正なる尊敬をもって彼らと争った。エトルリア人が衰退したのは、南のローマの強勢と北の野蛮人であるゴール人に包囲された時のみに限られており、ローマに敗れた後も従属地というよりは寧ろ同盟国としての地位を受けていたのだ。しかしながら私たちは、この”盟友たち[1]”が反乱のきっかけを見出していたことを知っている。そして、ブルーニの出身地であるアレッゾもハンニバル戦争と同盟市戦争の時期に失敗に終わった反乱者の先頭に立っているのであった。故に、記述は同盟市戦争や、内乱に苛まれていたローマの植民地としてのフィレンツェの歴史が始まるところにまで戻ってくる。

 

野蛮人の強調

(166.2)

ローマのトスカナ統治は-ブルーニが関心を示すのはローマ帝国によるものなのだが-五世紀後の異民族の侵入によって終了した。この際にブルーニは、これ以降の私たちが知るDFの伝統に決定的な一連の認識法を取り入れる。まず、彼の強調点は野蛮人達にある。帝権委譲説の歴史記述において、彼らは周辺的な役割しか担っていなかった。彼は野蛮人たちの起源から、イタリアへの侵入までの歴史を記述することが必要だとみなした。”野蛮人の勝利”に類似したものが、私たちの目前に拓かれてくるのである。しかしながら彼は、全体的なローマ帝国の野蛮人以前の滅亡の物語を紡ぐことはしなかった。彼の著作はフィレンツェの歴史なのであり、エトルリアの歴史とそのローマによる征服は必須の序文なのであった。もし、この歴史が帝権委譲説に立つものであったのならば、ゴート人やロンバルディア人は教皇に劣後する扱いを受けていたことだろう。しかし、ブルーニにとっては帝国の衰亡はイタリア諸都市のローマ支配からの再生の序曲に他ならなかったのであり、野蛮人は普遍史キリスト教の歴史よりも、イタリアの歴史に関わる現象なのであった。野蛮人が、歴史における重要性を、西ヨーロッパの歴史家の限定された視点に負っていたことは当然の逆説であったのだ。

 

DF史観への接近

(166.3)

更なる逆説も存在している。ブルーニはフィレンツェの歴史家であり、ローマを外的な、帝国的な権力と見做す立場に立っていた。彼はエトルリアの市民性を彼の物語記述における中核に据え、主題を息苦しいローマ帝国の負担からのイタリア諸都市の再生としたのであり、帝国を引き継いだ野蛮人からではなかった。他方で、ブルーニは人文主義者でもあり、人文主義者といえばローマを師と仰いで学んでおり、彼らの文学、市民的価値、更には帝国までもが彼らの頭の中を満たしており、ペトラルカが述べるように、すべての歴史をローマ賛美として見ていた。けれどもローマは崩壊した。ローマ文学の再生による知的潮流の高まりは、ローマの崩壊を物語る必要に反して否が応でも増すことになった。そしてこの潮流に反して、少なくともブルーニにとって確かであったことは、ローマが未だに衰亡していないのならば、フィレンツェ、そしてアレッツォもこのように偉大になることはなかったであろうということである。この錯綜した地勢は、ブルーニが行う転換の背後に存するものであった。それは、私たちにとっては非常に一般的に映るものである。イタリアの侵入者である野蛮人を確認した上で、彼はローマ帝国衰退の枠組みを導入する。

 

“しかしながら私見によると、ローマ帝国の衰退は、ローマが皇帝達の手に委ねられ、自身の自由を喪失した時に遡るはずである。アウグストゥストラヤヌスはローマに資するところ大だったかも知れず、その他の君主も同様に功績による賞賛を受けていたかもしれない。けれども私たちは、内乱におけるカエサルや、三頭政治オクタヴィアヌスのように秀でた人間が残酷に人を殺すことになるか[2]を考慮せねばならない。もしそれ以降のティベリウスの残虐性やカリギュラのかんしゃく性、クラウディウスの狂気やネロの炎や剣闘に狂喜する罪業を考えるならば、カエサル(皇帝)という破滅的な名をローマが携えるようになってから衰退しだしたということは否定しえないだろう。皇帝の名に自由が退き、自由も徳も過ぎ去ってしまった。皇帝達以前には、優れた人格の人であることは、栄誉に繋がっており、コンスルやディクタトルなどの高い地位の公職は雅量を備えた精神と人格と活力の強靭さにおいて優れた人物に対して開かれていた。しかし、共和国が一人の人物の下に堕ちるとたちまち、それらの器量は統治者に疑いの目を向けられることとなった。自由に気を配る精神の力に欠けた人間が唯一皇帝のお気に召したのであった。帝国の議会は強健な者よりも怠惰な者へ、勤勉な者よりも媚び諂うものへその門を開いていたのである。諸事を司る行政組織は人間の中でも最悪の部類の者の手に落ち、帝国は徐々に滅亡していった。徳が放り捨て去れた時を嘆いておいて、国家全体の崩壊を嘆かないでいられる者があるだろうか?”

 

 

ローマ崩壊の原因について

(168.2)

私たちが考慮した著者の中で初めてローマ帝国のDFの史観を取り上げるブルーニは、ローマ帝国の成長に関するサルスティウスの記述に立ち返り、それを更に進めて帝国の崩壊を描く。サルスティウスが言うところによれば、王達[3]は才能のある人物に対して嫉妬深く[4]、都市はadempta libertate[5],市民の活力を解放するとこによって栄光と、彼らの帝国を増大させた。ブルーニはこの嫉妬を皇帝にも当てはまるとして、帝国の喪失は彼らの統治と同時に起こったとする。それは長い時間をかけて起こったプロセスである。有能で秀でた皇帝も存在していたし、ブルーニは彼らが帝国を成長させたことは否定しない。それでもやはり、帝国が自由と徳に依拠するものであり、それらが失われた時、帝国も滅びる定めにあった。それは、アウグスティヌスが述べたように、自由と徳が、栄光の追求と帝国の拡大以外に何の意味も、役割も持ち合わせなくなったことを意味するのだろうか?ブルーニはそのようには考えていないようである。彼はimperiumというものを、精神の偉大さの自由な行使による人間の卓越性を発揮できる者と見做していた。そして、彼の主張は元植民都市からの、帝国主義への非難とすることはできない。彼の記述において、コンスルと行政官がimperium militaeを行使して帝国を拡大させる余地は残っており、それはimperium domiによって都市の自由と徳を守ることにもなった。彼は、キケロ的に、帝国をdominiumというよりもpatriciumとみなす視点もおそらく排除してはいない。ブルー二が人間の道徳的本性から由来する古代の政治哲学を拒絶し、権力を求めて争う自由という市民であることへの闘争、競争的認識という、前者の哲学が取って代わろうとしたものに回帰したと難ずる者たちは以下のことを記憶するべきだろう。闘争的であるということは、哲学的であることと同程度に古いものであり、後者が前者に取って代わったということはない。サルスティウスは、ローマの衰退を彼らの敵対者としてのカルタゴの破壊に求めている。徳と統治は他の徳と統治の存在を要求するのだ。そのため、ローマ帝国は普遍的になることによって自己の基礎を掘り崩してはいないかという疑問が生ずる。少なくとも私たちはタキトゥスの、帝国の拡大は必然的に一人支配をもたらすという記述を振り返ることになる。もしそうであるならば、ブルーニは、帝国の崩壊は、帝国自身が必然的に引き起こしたと伝えてはいないだろうか。更に私たちは、アウグスティヌスのテーゼにおける、地の国の徳は、自壊的であり、虚栄の追求にすぎないという主張を思い出すことになる。

ブルーニのalternative

(169.2)

しかし、ブルーニは他の理論を携えていた。彼は既に普遍帝国への独自の批判を有しており、それは自由な帝国に向けられていた。たった一つだけの都市の徳(virtus)は、他のすべての徳を圧迫し、貪ることになる。というのがそれである。ここで言うところのvirtusは競争的、好戦的な性質の、従属した都市が失ったそれであり、自前で戦を行うことも、領域(imperiumとも呼びうるだろう)を増大させる能力が含まれていた。そこには、ローマの自由と徳によって獲得されたimperiumとその喪失というものに対する代案が存在していた。エトルリア人の、類似の志向を有した都市間の連合体制、相互に対して競争的で、闘争的でさえありながら、一つの都市が帝国に至ることを禁じる制約に服する体制がそれである。これは、ギボンから薫陶を受けた者たちが、啓蒙された観点から見たポストユトレヒト体制のヨーロッパを思い出さずにはいられないものであった。そこにおいては、同一の体制が維持されており、生得権として、帝国に服する都市の自治の自由が保証されただけでなく、等しいimperiumを動員する都市の戦争と平和への権利とも保障された[6]。ブルーニがローマよりエトルリア人の体制を好んだというのは単純化が過ぎる。帝国が自由と徳によって得られることは承知しており、それら三者(empire,libertas,virtus)が現在失われたことを嘆いた。しかし、エトルリア的体制という代案は現在存在しているものであったというわけである[7]

 

ブルーニのコンテクストからの自立性

(169.3)

ローマ帝国崩壊後、都市は自律を回復していく。そして近代-私たちは中世と呼ぶべきか-トスカナは、古代エトルリアにおける成功を再びもたらす見通しがあったのだ。ここで私たちは、フィレンツェのゲルフにおける”自由の禁止者と教会を映し出すもの”としての歴史理解を見てみよう。彼らにとり共和主義的自由の敵はギベリンと、ホーエンシュタウフェン家の神聖ローマであり、彼らの救済者は教皇アンジュー家のフランスであった。ブルーニは、反ギベリンの立場にあったが、彼の歴史において、皇帝権力委譲論(translatio imperii)の、教皇主義者的、皇帝主義者的の形態のどちらも大きく現れてこないだけでなく、そのような説明に必要な前提である、エウセビオスによる、聖化された君主という説明も現れないのである。私たちは彼からはアウグストゥスの帝国が、全世界への平和を達成したかどうかの簡潔な記述も、たった一つの都市による徳の独占に代わる教会の成長に関する説明も読み取ることはできないのである。徳と自由は独自の歴史を持っており、ブルーニは、聖化された帝国の議論や、その定刻を越え出た教会の歴史と突き合わせようとはしなかったのである。

 

次の部分への前書き?

(170.1)

私たちは年代記的に出来事をドラマ化しないようにしよう。中世的世界観は突然消滅したのではない。四代の教皇に対し,書記官として使えた者でもあるブルーニは、聖化された帝国とその権力の委譲に関する議論が活発に行われた場に身を置いていた。そのため、よりいっそう注目すべきなのは、フィレンツェの歴史が、共和国の徳と、帝国への異化というコンテクストのみによって表されていることである。彼はアリストテレス『政治学』を翻訳したが、このことが彼をして狂信的な共和主義者たらしめたのか、伝統的な君主主義者であったのかを論ずることは無益であろう。君主制に関する問題は帝国に関するものほど重要ではなかったし、正義にかなった君主、嫉妬深い暴君でもなく軍事的野心家でもない君主を描いていることは皇帝の歴史において重要ではない。彼が公共的利益や人間の自然的本性に由来した哲学を賞賛したのか、放棄したのかも同様である。私たちが見いだす彼による断絶はアリストテレス的価値によるものではなく、エウセビオスアウグスティヌス的なものである。彼は、その前提条件としてのコンスタンティヌスによる聖化された皇帝権委譲説抜きの歴史記述を行ったのであった[8]

 

[1]名詞,socius「同盟者」の複数

[2] ”trucidatos”は”trucido”「人を殺害する」が原型

[3] 何を指すのか正確なところはわからないが、ユグルタ戦争でローマに対抗した王達を指すのではないだろうか。

[4] “Semper eis aliena virtus formidulosa est”の意味は,eisが複数与格(彼らをでとり,「常に他の徳(ローマにおける徳なので倫理的徳というよりは雄々しさ、市民的徳のことだろう)のある人は、彼ら(王達)を恐れていた」くらいだろうか。

[5] admere奪う の完了分詞、libertas 自由の奪格? 「自由を奪われて」

[6] 等しいimperiumとは先の都市のこと。

[7] ブルーニの時代のエトルリア的体制とは、イタリア諸都市並立体制のことであろう

[8] 何を言ってるのかここまでではわからないので、今後記述されるのでしょう。