Disce libens

otium cum dignitate

Barbarism and Religion Vol.3 Intro 訳出

pcのデータがおかしくなって復元していたらいろいろ古い記録が出てきました。

 

4年まえのものでいろいろと抜かりがあるとは思いますが、供養がてら放流いたします。いちおう最低限の手直しを加えました。また他のものを流すかもしれません。

 

 

Introduction

 

 このテクストはギボンと彼の『ローマ帝国衰亡史』(以下DF)をその著作自体の備えている,偉大さを示す歴史学的文脈の下で開示して行く試みであるBarbalism and Religionという一連の著作の第3巻である.(6)既刊である前二巻はギボンを彼の作品完成までの変遷を扱った.

 

 The Enlightenments of Edward Gibbon(vol.1)ローマ帝国という統治形態を喪失したローマ史を主眼に置き,帝国自体の衰退と政体変革が副次的なものとしたギボンの意図を引き出した.Narrative of Civil Government (Vol.2)においてはギボンによるDF1巻への追加された序文が,明示的暗示的に述べられた,今後の叙述展開に関わる一連の厄介な偏差に関する決定(資料に基づいて明示的に左右を付けるのが困難なcontroversialな命題)を示す宣言として独自の位置を与えられた.

 

  これらの決定の内の一つに,既にRobertson,Voltaireによって詳述された,中世ラテン世界-彼を最も困惑させた出来事であり,この決定を最も不可解なものとする- 東ローマの1453年のトルコによる征服までの歴史を含めた中世ラテン世界の歴史記述を経由する事も含まれている.それによりDFが他の偉大なるEnlightened histories (啓蒙史観) と異なり,キリスト千年紀野蛮と宗教”(この用語はBR第二巻に明るい)を経て”Enlightened narrative”を引き連れてくるという図式を取らずに,後期古代の歴史観から-ギボンによれば野蛮と宗教の勝利の歴史に他ならない-キリスト千年紀を齎すと言う形態を取る事を実は暗示している.更に深層においては-これは1776年のギボン自身にとっても明らかではなかった事だが後期のローマ帝国の歴史自体がキリスト教会とその神学の歴史となって行くことを暗示しているのである.彼は当初の研究における,ラテン中世における都市ローマを副次的に扱ったに過ぎない図式を維持して行く事を改めて主張して行く.

 

  以上これまでの二巻で行った事はギボンのテクストを扱う為の予備作業であり,この三巻においてはやっとDF本文を扱う.だが、その作業も6章からである.

 前5章においては,DFの着想をそれが齎された前へと大きく遡り,その絶頂に至る前に始まっていたとされるローマの衰退という着想を著者が抱く様になる所から考察を行う.その考察は,アウグスティヌスによる”two cities”の概念(神の国』における地の国との対置),ローマ教皇,神聖ローマ皇帝ローマ帝国継受の概念(translatio imperii)を筆頭に後期古代及び中世キリスト的歴史概念への視点も含んでいる.そしてこれらの考察は幾つかの理由に置いてこの巻において卓越した部分だろう.

 

 

  数世紀において研究者達は,ギボンが人文主義者による政治概念に基づいた,古代のテクスト及びvirtus観念の復権とされるDFを着想したという点に重点を置きすぎてきた.この巻においてはその再検討を行おうというのである.translatio imperii,形態を変えたローマ帝国継受の観念がDF的観念より重視されていた時代においては(前者においてローマ自体は肯定されるモデルとして存在し,後者においてはローマ自体が否定されるべきモデルとして存在する.)それは(どちらが継受の度合いが強いかという意味において)教会と皇帝の間,キリスト的なものと古代的なものの権威の競合関係を示しており,これこそが古代と現代における歴史叙述に横たわる差異である.彼は内心において彼によるローマの衰退と崩壊の歴史は同時に野蛮と宗教の勝利の歴史の一形態であると考えている.そのため,先述したような教会と帝国の歴史叙述はDF3巻から6巻までを貫通し,更にはこのBR三巻の表題である”the first Decline and Fall”narrativeを提供する概念と言えるlibertas et imperium(自由の共和国と君主制度の共存)の歴史叙述を卓越したものとする為に不可欠な出来事の例示と題材の提示を行ったのだ.

 

 先述したようなnarrative1776年初頭に出版されたDF1巻の16章中14章のテーマとなる.BR3巻を歴史学に関する導入と14章への精密な検証に向ける事で15,16章を遷延し,後に擁護されることになる主張-ギボンのnarrativeの連続性における根本的な亀裂の存在-を更に述べて行く.それら後半2章を前半から分離し,それを1巻と2巻を分け隔てた1776年から1781年にかけての大きな空白の内側に位置づける.時の経過を経て,15から20章を目にした読者にはギボンが問題にきちんと答えていないと思われるだろう.1776年における問題系を古代に置ける帝国と自由から現代(当時)の帝国と教会の問題にまでと設定した序文の意図に従っているとは言い難いからである.前巻(一巻)によれば,キリスト千年紀史観が啓蒙史観に先行するのではなかったのか?如何に彼がその問題に直面したのかは私たちの興味を引くが,1章から14章までには現れてこない.”the first Decline and Fall”(Vol. 3)は古代の帝政多神教ローマにおける帝国拡大に寄与したlibertasvirtus(自由と徳)が如何に自身の形成した帝国を維持できなくなって行ったかを記すものである.これはアクターとしてのキリスト教不在の古代史における”Decline and Fall”と言えるだろう.だが,ギボンを歴史叙述の歴史に置けるmoyenne duree(中期)に置く以上は古代史やキリスト教史を脇においてEnlightened historiographyを見出さなければならない.

 この巻においては啓蒙なるものの境内にほんの少し入ることになるだろう.

 

 もし”First Decline and Fall”のただ中にいた歴史家がいるとすれば,Montesquieuによって近代風に引用されるTacitusである.彼はAD98におけるDomitian帝の殺害後著述を始め,70年のネロ帝の死を検討し,更に遡ってAugustus帝による元首制の創設とその後継者による悲惨な統治を分析した.

 

 ギボンはDFnarrativeTacitusの後,180年におけるCommodusの殺害より開始し,それ以上の過去への回帰を行わない.(ここ不十分です)ギボンはTacitusの終点の更に後ではなくTiberius Gracchusからという彼の始点より自身も分析を行っていればTacitusによる元首制の病の分析に依拠してその起こる共和国の崩壊ことが出来たと述べている.

 

 “The first Decline and Fall”において探索されるギボンのdecision(先述した決定の一つとして)は時系列としてはこのTacitusによる歴史分析から暗黙にギボンが始めていたことが第一であり,もう一つはConstantine期接近の前のディアクロニクな記述の小休止(および遷延)の意図である.これら二つの決定は本質的には他の5つの準備作業である第1巻をそれらよりもよく知られたものとするparadoxicalな作用を有した.

DF1巻の1~14章は私たち読者もギボン自身もそれらを受け継いだ,late-antiqueの情勢,文化よりもよく知られた,古典期のcivilisation(文明ではなく市民性とする)の終焉を描いている.15,16章はConstantine帝以前のキリスト教会を扱っている.

 

 ギボンは意図してかそうでないのかは不明だが,これらの著述はあくまでも準備作業に過ぎない上,帝国における教会や,その神学の根幹にある思想の記述は5年後に記される事となる21章で描かれているのだが,それにもかかわらず,この15,16章はギボンのキリスト教への姿勢を示すものとしてこれまで読まれて来た.

 

 

 DF11~14章はこの文献のテーマである共和国の継続としてのローマ帝国Decline and Fallの歴史叙述のテクストに属しており,15,16章はキリスト教会の歴史記述のテクストであると同時にその一群に対立している.如何にしてこれらは人文主義的であると同時にキリスト的な文化の下にある人々にこうした位置づけを与えられて読まれて来たのかは,恐らく”the Unbelieving Historian”と名付けられ,これら2章の読解が前14章への視座を変えて行く事について考察する事になるBRの別の巻で語られるだろう(ちなみにVol. 6まで出て完結しましたが,そのタイトルを与えられた巻はないです)

 

 

 実は,ここであらかじめ述べておくべき遷延や省略した内容もある.DF7,8章はペルシア人ゲルマン人をそれぞれ扱っているが,ここで扱われるfirst DFの解釈のnarrativeを形成しない.彼らはローマ市民軍の衰退因子というよりはあくまで利益の享受者である.これら異民族の行動形態と慣習を記した二つの章は将来の為に彼らの慣習を記録して保存したものと言うよりは,’barbalismに関する歴史と理論,もっと曖昧に言えば,’野蛮人,未開人と帝国でも銘打たれるべきものであった.この省略を確認して-私にとってありがたい既刊の2巻への好意的な読者の今後の展開への期待の渦中で-ローマ帝国の衰退と崩壊から野蛮性と宗教の勝利まで至る旅路を開始することになるのだ.読者の中にはBRのこれからの巻の見通しを予め記しておいて欲しい人も居るようだが,これはDFに著者ギボンがその見通しが立てられなかったのと同じ様に,私は公との対話に乗り出す.この巻や以降の巻を記すに当たってそれらの内容も私の寿命や聞き手の興味に動かされて行くだろう.