Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

イツァーク・ギルボア『不確実性下の意思決定理論』1~4章のメモ

 頭の整理にメモをとってみた。

 数式は飛ばすか、自然言語での表現に置換するかしている。今回の範囲で出てきたものは理解できた。

 1~5章が第一部なのでキリが悪い。各論に入る前の基礎づけの議論に該当する。

 

 

 

1 研究の動機付けとなる例
 以下の四つは同様に格率を扱っているが、後の事例ほど概念的な難しさが増している。
1 コインの裏が出る格率
2 放置した車が盗まれる格率
3 手術が成功する確率
4 今年戦争が起きる格率

 


2 自由意志と決定論
2.1
 不可予測性の原因としての自由意志を指摘しているが、同時に自由意志が関与する問題においても非常に蓋然的な事例も想定可能であり、現状の研究は意思が介入する事例も予測の対象としている。
2.2
 初期条件によって予測が可能であるという説明もあるが、結局日常に収集可能な情報量を前提とした実践的意味で完全な予測は出来ないという前提に立つ。
2.3
 自由意志そのものは、複雑な内面は外的観察の対象たり得ない。しかし、可能な選択肢の中からの決定という事例は擬似的に観察可能であり、分析の対象としうる。
2.4
 自由意志と強い意味での決定論の対立はさておき、弱い意味での決定可能性は想定可能である。合理的行為者の推察や反省に基づいた選択を観察者が十分な理由を以て行うことは可能である。決定木における枝の切除が確実に行われる事例も想定は可能である。確実に切除される枝を採ったことについて想定可能であるのに、確実にそれは排除されているという一見矛盾した場合もある。その想定の能力も、確実な枝の排除をもたらす自己の選好規則や能力についての知見も合理性の根幹をなす。多数の可能世界を想像し、同時にそのいくつかの不可能性を認識することも同様である。
2.5
 確かに、一瞬で判断がつく選択と、熟考を要する選択があるため、それぞれ習慣的判断と合理的判断に二分したくなるかもしれないが、前者においてもその機械的判断を継続するかについて判断する余地はあるのであるうえ、数多くの中間事例があるため、その二分法は有効ではない。

2.6 
 不確実性下の意思決定のモデルは選択と世界の状態のマトリクスを基本とする。要素は行為の結果である。選択はアクターが制御可能な側で世界の状態は左右できない。その区分がないのは希望的観測であり合理的ではない。行為と状態の区別を冷静に行うことは合理的選択の分析のための核である。

3  無差別の原理
 n個の事象につき、特定の事象の確率的優位性がない場合はそれぞれ発生確率を1/nとするという原理は、事象の区分が恣意的に可能であるという事態によって恣意的な確率配分を導いてしまう。

3.1.1
 全ての可能命題に真偽値を振り分けることで世界の状態を規定してみる。これを正準的な空間として理解する。当該空間を変換して[0,1]区間に対して割り当てると、一様に分布した状態となるものとして把握できるかもしれない。
3.1.2
 しかし、当該確率変数が[0,1]区間において一様分布であるということは自明ではない。当該変数を変換して作った一対一対応する殆どの変数も同様に一様分布であることができるが、それと当該確率変数が一様分布であることはたいてい両立しないのに、一つだけ一様分布と考えることはあまりに恣意的である。
 更に、当該空間の自然な分布の設定の仕方が多様に存在するうえ、当該分布の事後的検証も行い得ないという問題も存在する。
3.1.3
 無差別の原理は結局有限の、自然言語に依存したような事象でも、連続体として状態空間を想定する場合でも適切ではないのであり、一様分布の想定はかなりの恣意性を含む。

3.2
無差別の原理は確かに、戦争が起きる、起きないの事例に当てはめるのはナンセンスだが、コインの場合はそうでもないように思える。この直感はどこから来ているのか。

3.2.1
 まずはコインの裏表が対照的な事象だという説明があるかもしれないが、戦争の事例も結局、その事象を抽象化すれば起きると非起きるの対照的なものだとも言い得るだろう。実際、戦争の事例において追加的な構造、情報を付与し関数を与えることで無差別性を破ることが出来るとして、同様にコインの作動と裏表の関係について関数を導入して無差別性を破ることが許されないことは自明ではない。
3.2.2
 もちろん、コイン投げの場合は投げ方からコインの出目の結果が特定されるような事例は防いだとして排除し、スムースな分布関数をもたらすような動作をしている場合かつ、結果を表す空間が適切に区分されている場合のみをコイン投げと規定すれば問題回避は可能かもしれない。

4 相対頻度
4.1
 大数の法則を確認、i.i.d.確率変数の実際値の平均は期待値に収束する。それを前提として、同一条件における事象発生確率を実際の発生頻度と近似可能である。ただしこの手法には循環がある。確率の近似として用いようとする大数の法則の基礎付けそれ自体に確率の概念が導入されている。1.事象の発生確率の変数が仮定され、2.変数の独立性における独立という語が確率論によって定義されており、3.期待値に収束する確率が高いといった表現に代表されるような、確率論の用語で大数の法則は記述されている。
 しかしながらそれは直観的には非常に至当に思えるのであり、実際の確率の定義の導出のために利用可能である。これは確率の定義に対する「頻度主義的」アプローチと呼ばれる。実験結果と実際の確率の置き換えと、試行回数の増加による漸近を措定している。

4.2
4.2.1
過去の経験頻度が現在の確率を保障するのか?ヒュームによる懐疑がある。人間知性論においては「あらゆる事柄の逆がそれでも可能なのである。なぜなら、逆の事柄は、あたかも現実と合致しているかのように、決して矛盾を生じ得ないからである。明日は朝日が昇らないだろうと云うことは、決して妥当性のない命題ではなく、明日は朝日が昇るだろうというその確証命題が導かれないのと同様に、この命題の矛盾も導かれない。それゆえ、この命題が偽であることを証明しようとする試みは徒労に終わるのである。」(Hume, Human Understanding section IV)と述べられている。ただし日常において、科学においてその一般化は不可欠であり常に行われているという事実にはなんらなの慰めがあるらしい(そうか?)

4.2.2
 ここはいわゆるグルーのパラドクスの話をしている。前のセクションに付加する形で、帰納推論の手続きレベルの自明性への懐疑が提示される。

4.2.3
 他の条件が同じ場合、単純な理論を先行することが正当であるという立場から、帰納推論は正当化しうる。その単純性なるものはしかし当座のところ用いる言語体系に依存している。前のグルーのパラドクスも然り。ゴルモロフの複雑性のはなし。特定の有限列を生成可能な全てのチューリング・マシンの中で状態数が最小か、マシンの記述が最小のマシンを選ぶ手続きを想定し、そのマシンの記述が当該列と比較して充分小さいならばランダムではない。そうでなければランダムであると定義し得る。当該表現を圧縮して体現できる法則的記述が存在するか否かを問題としていると言い換えられるかな。
 ソロモノフはゴルモロフの複雑性論を転用している。例えば芸術の理解を、簡潔なアルゴリズムで対象の近似物を生成できると定義するように。ゴルモロフの複雑性の定義は、単純性の判断を言語の記述の次元に落とし込んでいるという特性が存在する。特定の言語環境においてそれに応じた最も単純な理論的表現を想定することが可能である。

4.2.4
帰納をめぐる問題を3点確認してそれらについてコメントする。1.それまでの時点での観察から導かれていた関数がそれ以降の事例においても適切であるのかはいかにして知り得るか。2.それまでの時点での観察から導かれていた複数の関数があるとして、それ以降の変数において両関数が等価でなくなった場合、それらを予測に用いるべきかについて以下に判断すべきか。3.グルーのパラドクスで出てくるような、2つの理論(グリーンと規定する、グルーと規定する)のうちどちらが単純だと認定することになるのか。
 1一般化については、導出する関数の将来における一致についての必然的連関を否定することでひとまず応答する。2単純性については、先のような法則記述の短さを問題にして選別することは可能であり、そうでないならばデータは依然としてランダムであるということである。3グルーのパラドクスについては、関数における真偽値と、当該真偽を表現する名辞を区分して分析することで多くの問題が回避可能である。
 値に対して名前を付与することは、過去の観察を想起しカテゴリー化するための営為である。
4.2.5
 人間の心を、目的追求のために最適化された道具として想定することが可能である。すくなくとも現状いかにしてうまく機能しているかについては考察する価値がある。色などの対象につき、名付ける、一般化をするという作用は基本的には時間的継起性を伴ってなされたほうが単純であると考えられるのであり、グルーやブリーンの記述よりは通常通りの記述の方が、グッドマンが提示するパラドクスの事例においても単純だと考えられる。
 単純性への選好は限定合理性を背景にして説明可能である。単純性への選好は原始的生活において、事例が実際に単純であった場合には利益をもたらすし、複雑であった場合も大きな害をもたらさなかったと想定される(Gilboa and Samuelson(2008)を読むと説得的になるのかな)。以上の見解には自然が意図的に複雑なパターンを生成しないという前提が含まれている。ただし競合的な理性的生物が増加し交流の機会が増大すれば前提は変化する。
 もう一つの説明は、過剰適用に対する保障だとされる。計算能力が十分な理性的存在は既出の事例から過剰に複雑な関数を想定することが可能であるが、予測において失敗する可能性が高くなる。

4.3
 頻度主義で確率を想定することには確かに十分な理由がある。しかし、最初に提示した事例の後半、3 手術が成功する確率4 今年戦争が起きる格率を想定する場合にはそのアプローチは適切ではないと主張する。3の場合に先行する事例を選別する基準も、執刀する人物によって変化する変数を考慮する手法も見えてこない。(医療技術の変化を想定すればいつまでのデータが妥当かという問題もあるだろう。)4においても、あらゆる年度も同一の構造を持っていることはあり得ず、これまでの平均をとってそれを確率と述べることは適切とは言いがたい。これは事象に伴う複雑性の問題だといえる。もちろんあらゆる事象において同一なるものは存在しないという反論も可能であるが、その場合は同一化可能な類似性を保持しているか、同一化してもよいほど事態が個性に依存していないかという視点を導入することになり、それに基づけば1,2の事例は同一化可能であり、3,4は不可能であると言える。4が3より複雑と言えるのは、戦争は後続する戦争の可能性を無視できない大きさで左右するという事例ごとの独立性の低さが存在しているためである。
 まとめると、大数の法則は確立変数の独立性、同一分布性を要求する。頻度主義は同一条件性を想定できる独立な場合のみ有効である。独立性のみ存在する場合は頻度主義により確率を定義し得ること、独立性も同一性も存在しない時には確率を割り当てることが不可能であることを後で論じる。

 

ベッケンフェルデ "倫理的国家としての国家" つづき

 

 以下の記事の続きです。正直いうと彼の議論の妙味を適切に表現できた自信がありませんが、今回は特に迅速さを優先します。

 

kannektion.hatenablog.com

 

 

 

 

III-2

b) 物質的自由と自己実現

 外的自由と安全の次元と平行して、倫理的、知的自由や自己実現の領域が自由の二次的次元として存在している。問題となるのは、自由に対する実質的な方向付けをする領域において国家は役割を担っているのか、もしくは、現代世界の知的倫理的多元主義の中で、自由に何某かの方向付けを与えることは放棄されるべきなのかということである。

 シェルスキーが近年、ドイツが有無を言わせない政治的信念による支えが市民の間に存在しないことを嘆いている。彼はあらゆる合理性以前に、そのような信念が存在していることこそが政治秩序の基盤となると述べる。だが、このような視点には反論も当然存在する。このような社会学者による国家への傾注がルソーの市民宗教論以上のものをもたらしていないことは残念である。有無を言わせない政治的信念なるものが実践に移植された場合、それが意味するのはせいぜいのところ、国家により運営され含まれる政治的イデオロギーであり、古典的なポリスの宗教の世俗化でしかなく、それにより個人の性質がなんらかの意味で安定するということはありえない。もし実際にそれを国家が行うならばどうなるだろうか。国家はその基盤と統合のための駆動力を、単に内面の政治的傾向が同質であることによる統合から得ることになる。しかし倫理的国家としての国家は、個人の自由と倫理的自己決定を認める以上は、法的な手段、すなわち外的な制度や施行可能な規範のみを介してその基盤を得なければならない。それは個人の外的振る舞いに基づいているのであり、良心によるのではない。

 倫理的国家は過激派を扱う仕方について困難を抱えている。あからさまな政治的扇動はおいておいて、過激派に関する実践についての批判は、そのような国家体制の破壊と否定を目論む過激派を公職から排除しているという問題に焦点を当てるものではない。。そうではなく、批判の主眼は、国家がそのような目的を果たすために、政治的信念に対する忠誠を要求しだしているという点にある。公務員法は実際、各個人が「いかなる時も憲法を擁護すること」を保証しており、内面の規律を含意している。そのような行政実践、法的制度の帰結はよく知られている。すなわち、態度に対するテストであり、それは行為の外形に対する厳密な検討ではなく、態度を示すと思われる曖昧な兆候に頼るものであり、一度信念への疑いが生じたならば、そのあとの行為においても払拭されないのである。それは内面の萎縮と日和見主義をもたらしかねない。

 


内面に向けられたの規制のもたらす問題とは、単に個々の規制事例の対処に誤ったことに由来するのではなく、内面の振る舞いに対する保証を行い、良心が本来外形のみを対象としている法的手続きと判決の対象になってしまっているという一般的性格に由来しているものである。この文脈においてナチ体制に言及することは適切であろう。ワイマール期の共和国保全法は明白に公職にある者の外形的振る舞いのみを対象としていたのであるが、ナチスの体制下において制定された1933年のアーリア人崇拝を含んだ公務員法において初めて、公務員がいかなる留保もなく、いついかなる時も国家に対する献身を行うことが定式化されたのである。1945年以降の公務員法の立法においてもこのような方式が採用されることとなった。単にその忠誠を捧げる体制の性質が変わったのみである。このような仕方での全体主義への対抗と、自由の擁護が果たしてうまくいくのかということは問われなければならない。自由に向けられた秩序は、その防衛の手段選択に際しても、不自由な体制の採用するそれからは距離を置かねば成らない。


 C)国家の保護的、援助的機能

 知的、倫理的問題に関わる事項において、国家は構成的設立的な機能を担うことはできず、単に保護的、援助的機能をもつのみだと言える。前者の機能は国家が特定の基本的知的-道徳的信念や姿勢を、法的規範を介して義務づけることをもたらし、個人の自由の確保、主体の確立を損なうことになる。

 決定的に重要なのは、学校教育制度の設計の問題である。国家は教育制度を長い間になってきたが、現在の社会における知的道徳的多元性を踏まえるならば、その内実をいかにして決定すべきだろうか。学校にあらゆる多様な教育理念を認めることも、中立性の意識から、教育の目的のようなものを定めず、教師に委ねることも妥当な解決ではない。それは単に、も事態を成り行きに任せ、統合し保護するという、国家に任された任務を回避しているのみである。国家はその内実に関する決断を回避できないのであり、実際の所日々常になにがしかの決断を行っている。教育に関わる構想は包括的で開かれたものでなければならず、特定の教義が全体的になることを意図したものであったり、内面を再形成するものであってはならない。国家は個人の自由と自己実現に焦点を絞っているため、教育の主眼はその基盤である、個人がその個体性を明確にし、共同体に関与できるようになるために、判断力と理性に導かれた自己決定、自己実現が行える人間として確立することに向けられてなければならない。これこそが不可侵のヒューマニズムの伝統なのである。現行の教育制度の問題点は、学校が、政治敵教育の指針に導かれた良心の形成に重点を置いていることに由来しているのだ。ここにおいてその特定の目的が、進歩的だとか、自由主義的だとか、保守的だとかは関係ない。ロバート・シュペーマンがこのごろ明確に述べたように、教育が、「革命のための手段や、革命に対する安全策と理解されるならば、正しく行われない」のである。

 学校、教育制度の外において国家は知的道徳的領域に介入できるだろうか。原則として個人の基本権と自由権に下支えされている近代社会であるが、知的道徳的生活は何某かの係留点、すなわち制度的表現と、一般的な知的道徳的態度が公的な妥当性を得るための規範的保護が必要である。容赦のない経済的な目的追求の格率に基づいて、社会における思考や行動が規制される中で、国家によって市民的な徳に何らかの承認が与えられることもなく、公的制度による保障がない場合に、市民的共存が効果的に教育制度を通じて確保されると考えるのは幻想に他ならない。

3 国家が保障できない前提

 以上述べたように、内面に関わる事項において国家が補助的役割しか果たせない以上は、その国家作用の基礎は、基本的な知的道徳的態度や、個人や社会生活における道徳感覚に根を持つと言える。この基礎付けが主体や社会から失われたならば、倫理的国家が文化的政治的に成し遂げてきた成果を破壊することなしにそれを取り戻すことはできない。以前私は、近代的自由国家は、自由であるという性格を損なうことなしには保障することできない前提に基礎をおいているというテーゼを述べた。これは同意も多かったが批判もあった。だが私は、国家についてそれなりに積極的な見方をしたヘーゲルの言葉をあえて用いてこのテーゼについて更に述べる。ヘーゲルは人民の精神はこっかにおいて自身を発露し、その内実を保持すると述べたが、それは政体や基本法において明確化されている。その人民の精神が活力を失ったのなら、国家によってそれが取って代わられるのではない。そうではなく、その場合は国家は基盤を失い、人民の良心、意識に改めて問いかけて存続しようとするのである。


IV 現実化の方途

 殆ど論じられていない論点であるが、最後に民主的国家としての倫理的国家が存続する方途を探る。
 倫理的国家の内実を得るためには、個々の人間から独立した客観的制度に権力を持たせなければならない。だが、そのような権力の付与は、そのような制度的基盤を欠いた民主国家では上手くいかない。民主的プロセスから自律した責任と能力の外観は作られうるが、それはあくまで外観に留まる。

 だがもし、倫理的国家が民主国家の抽象的な対立物に留まらないならば、倫理的国家の内実は民主的政治的過程を介して果たすことも可能である。民主国家において一般意志と良心を代表するのは、積極的な市民である。その主体は人民の代表として自己を表象する。彼らの実際の活動や、選挙行為を通じて意思の代表が行われる。集合的意思、集合的良心を体現する、代表機関としての統治組織と、積極的市民の両者の間の相互作用を通じて倫理的国家は実現される。統治組織の側は、積極的市民に課せられる問題、論点を定式化する役割を担う。それは、決定方針や綱領の作成、国家の要求、予定の提示によって行われる。積極的市民は公的意見に依存しないまでも参照をしたうえで、課せられた問題に応答したり、拒絶を行ったりする。
 民主的国家において、倫理的国家の内実は上述したような媒介的コンセンサス確保の方法がなければ果たされ得ない。その内実について問いを発する主導的な期間は政府や正当、議会である。もしその内実についての要求がなされず、結果の不確かさなどにより決定や決定の方針が提示されないならば、積極的市民も何らかの民意の反映プロセスを実行することもできず、接続が行われないのである。
 現在において、日々の政治は日常的であるが重大な問題に直面し続けている。このような問題においても、国家は、政治的リーダーシップと積極的市民の相互作用が確立されるならば、自己を倫理的国家として確立することは可能なのである。

 

 

 

以上です

 

 

 

 

Kinch Hoekstra, "Hobbes`s Thucydides"(2016)とかのまとめ

 

 

 

表題の論考の紹介になります。これは某カタバシスなんかで紹介されているので蛇足感もありますが、自分なりに読んで理解することも大切なのでいいとします。そのうちトゥキディデスのハンドブックにのってるほうの論考も紹介します。当該論考は思想史研究ですが、理論的には間接的に、以下で紹介したタックの研究への反論にもなっています。

 本当はホッブズのテクストの分析をちょっとやってみたメモもあったのですが、迷子になっています。再度読解して検討することにします。

kannektion.hatenablog.com

 

 

 

 注釈のEはホッブズの英語著作集のことです。

 

 

 

 ホッブズにとってトゥキディデスの翻訳は何を意味していたのか。シュトラウスによれば、彼は民主政批判と君主性の擁護をトゥキディデスから読みとったとされ[1]ホッブズの政治理論はトゥキディデス翻訳の序論から後期の著作に至るまでその目標に置いて一貫していたとし、ただ方法が歴史的なものから幾何学的なものへと移行したのみだと述べる[2]。そのことを何某かの問題意識の連続とみなしてよいならば、先の問いへの解答をホッブズの初期の業績に求めることは有効だと言えよう。少なくともトゥキディデスの「戦史」においては自然法論が正面から扱われることはないが、具体的な状況下における戦争と平和、安全をめぐる人々の言論と正当性の判断、そしてそれによる帰結が克明に記されていることからして格好の分析対象だと言える。ただし、ここでは直ちにテクストに立ち入ることなく、その出版を巡る状況を確認する。そうすることで、先に指摘した問題への一層具体的な見通しが立つと考えるためである。

 ホッブズの最初の刊行物であるトゥキディデスの訳出は出版年が1629年だと表紙に刻まれている。その表紙は、スキナーの述べるように、それまで存在していたニコルスが仏訳を底本にして行った1550年の訳の表紙に比べて、トゥキディデスの叙述の内容を描き出すものであり、戦争における対立の軸が明確にされている[3]。著作には翻訳の本文に加えて、彼自身の手になる"To the readers"、"To the right honourable Sir William Cavendish"、"On the life and history of Thucydides"の三文書が含まれているが、"To the readers"には、彼が翻訳を終えて後、刊行までに長い期間を経たことが記されている[4]。1628年に、パトロンで彼が家庭教師をしていた第二代デヴォンシャー伯が亡くなった事に関係する多忙も一因かもしれないが[5]、彼自身の出版する意図が失われたという記述も踏まえると、それ以外の事情も考慮されるべきである。

 ホッブズ自身が続いて述べるように、刊行前に見せた読者の反応に問題があったことが原因であるということは多くの先行研究が認識している。ただし、その反応がいったいどういうものかには近年まで明確な回答は出されていない。単に酷評を受けた程度の推測で見過ごされていた[6]。それに加えて、ホッブズがどの期間に翻訳に着手していたのかも不明なままであった[7]

 だが、最近になって、書誌学の成果を踏まえて以上のような空隙を埋めようとする研究が現れた。以下ではHokstra2016[8]に描かれた、トゥキディデス翻訳を巡る状況を確認する。

 1628年3月時点で、トゥキディデスの翻訳の原稿は提出されている。そこから長い期間刊行しなかったことを考えると、最低でも一年前には完成していたと見積もってよいだろう。更にギリシア語からの全訳という大業のことを考えると、訳出開始が5年以上前だと考えることは可能である。その時期の政治、出版状況を検討する。

 1625年までの国王ジェームズ一世の治世は、三十年戦争下の大陸に対し融和主義をとる国王と、好戦派のチャールズ皇太子の派閥のせめぎ合いであった[9]。そんな中で、ホッブズパトロンのキャヴェンディッシュ(二代目デヴォンシャー伯)は好戦的な派閥に属し[10]、彼らは穏健派のジェームズが出した、政治的言論に関する禁令をすり抜けるために、古典テクストの翻訳を行い、彼らの議論をもって対外戦争を肯定するための政治パンフレットとした。以上のような風潮の中には、ラテン語訳のトゥキディデスを利用し、恐れに基づいた先制攻撃は防衛的なものであるから許されるとしたホッブズの上司であったベーコンも含まれていた[11]

 そうした趨勢を経て1624年以降ジェームズは好戦派に譲歩し、1625年よりチャールズが即位することによりその傾向は一層強まった。そうして防衛戦争と称した大陸への軍事的進出が行われるが、1625年のカディスでの対スペイン戦争、1627年のフランス侵攻共に潰走し、1627年の末には戦争の責任者たるバッキンガム公は罵倒の対象となる。最終的に以上の好戦的雰囲気はイギリスの国際的地位の低下、内乱へ至る国内的不安の萌芽を招いた[12]

 以上のような状況を踏まえた際に、好戦的雰囲気が停滞し、周囲の好戦主義者が失権するか、ベーコンやキャヴェンディッシュのように逝去するかした1628年にホッブズトゥキディデスの翻訳を出版社に提出をしたことは象徴的な意味を持っているだろう。先述したように、彼の読者へ向けた前書きによれば、翻訳原稿を手にした読者の反応が出版を思いとどまった理由の一つであった。ホッブズによれば、読み手の殆どが「剣闘士の剣技ではなく流血を好んで観戦にやってくるローマ人[13]」のような感情でもって歴史に接していたのである。軍隊の規模や、流血の戦闘、多大な殺人を愛する人間の方が、戦争や都市の帰趨が如何にして決まっていったかを気にかける人間よりも数において遥かに多い[14]ホッブズは嘆く。このような主張と出版を取り巻く状況から、ホッブズの翻訳原稿は周囲の好戦派から、その他の好戦的意図を持った古代テクストの翻訳と同様に受け止められ、ホッブズがそれを不本意としたと解釈することは十分可能である[15]。更にホッブズが序文において、トゥキディデスを評価する際に、叙述の中に道徳的、政治的な教訓を織り込まなかったことを挙げていること[16]は古典テクストの一節を引用して教訓を求めようとする好戦的な派閥と一線を画している引証と解しえ、トゥキディデス論において、トゥキディデスが優れた弁論の能力を持ちながら権力を求めなかったことにつき、その時代において国家への真に有益な助言をなす者は、人々からの不興を被ることを避けられなかったからだと述べていること[17]は、先に主張されたような出版が困難である状況を暗示させるものであるだろう。

 

[1] レオ・シュトラウス, 『ホッブズ政治学』, 1990(原著1965),p. 81

[2] ibid, p. 142

[3] Q. Skinner,From Humanism to Hobbes ,2018 p.247、イングランドでのトゥキディデスのそれまでの翻訳状況については、Richard Schlatter, “Thomas Hobbes and Thucydides” , Journal of the History of Ideas, Vol. 6, No. 3, 1945, pp. 350-353参照のこと。

[4] EⅧix

[5] N.Malcolm, Reason of State, Propaganda, and the Thirty Years` War,2007 p.11,12、伯は1628/6/20に逝去している。ただし、彼の死亡が妨げになったのか、それとも死を契機に出版の方向に向かったのかは判断留保される。

[6] 田中英夫,  “ホッブズ社会哲学形成史における「歴史」の意味”, 経済論叢, 1976, p. 440

[7] Malcolm2007, p. 11

[8] Kinch Hoekstra, "Hobbes`s Thucydides", Oxford handbook of Hobbes, 2016, p. 547- 574

[9] ibid, p. 553,554

[10] Malcolm2007, p.83,84

[11] Hoekstra2016,p.553-555, Malcolm2007, p. 74-92も同様の状況を伝える。Demosthenes,Xenophon,Isokratesなどが翻訳される。ちなみにベーコンの歿年は1626年である。

[12] Ibid p. 555-557、当時のホッブズ周辺の好戦的な派閥の状況については、Malcolm2007, p.92- 123を参照のこと。

[13] EⅧix

[14] ibid

[15] ベーコンとホッブズトゥキディデスに対する姿勢の相違、ホッブズトゥキディデス解釈がそれまで解釈とは一線を画していることは、K. Hoekstra, Thucydides and the bellicose beginnings of early modern political theory, Thucydides and the Modern World, 2012, pp.25-54において論証される。

[16] EⅧviii

[17] EⅧxvi

ベッケンフェルデ "倫理的国家としての国家"


 ベッケンフェルデ(1930-2019)が亡くなってしまった。ちょうど古代、中世の法・政治思想についての著作(Geschichte Der Rechts- Und Staatsphilosophie: Antike Und Mittelalter)を読み返していたので衝撃が大きい。彼の研究は今の自分が学んでいる方向性を決める手がかりになったので悲しいことである。

 

 彼はシュミットの高弟である公法学者の顔も持っているが、ドイツ連邦裁判所判事(1983-1996)をなしたことも有名である。個人的には世俗化論に一番影響を受けた。

 「自由で世俗化された国家は、その存立を自身が保障することのできない命題に負っている」という彼のテーゼが示すように、近代国家は自由主義的な基盤のために、特定の価値、世界観を市民に課すことはできない。もちろんそのことは現代社会においてさまざまな問題を引き起こしているが、彼は法学者であると同時に、歴史家としての仕事、法や政治における主要概念の起源を系譜学的に追うということを行うため、安易なオルタナティヴの追求にも走らない。自分も当該テーゼとそれがはらむ問題系には不安にさせられることもあるが、落ち着いて過去に沈潜して思考していきたい。

 カトリックにして、社会民主主義者、社会的経済的保障の必要を説く福祉国家論者でもあり、同時に強度な政治的リベラル、寛容論者である彼についてきちんと語るにはきちんとした伝記的研究の下支えがなければならないだろう。

 

 今回は "Der Staat als Sittlicher Staat"(1978)(倫理的国家としての国家)の前半を紹介して追悼に代える。早めに後半についても載せるつもりである。当該論考については英訳も存在するのでそちらも参照した。今年や来年にはさらにたくさんの著作が英訳されるそうなので、かなりのスピードで読むことができそうである。ありがたや。

 

 最初に言及した著作のスコトゥスの政治思想に関する箇所も面白かったので近いうちに紹介したい。 

 

ベッケンフェルデ 倫理的国家としての国家

I
 16世紀初頭、エラスムスメランヒトンといった神学者や、トマス・モアといった法学者は人文主義的、哲学的教育や人文主義的生のみでなく、同時代の政治秩序に目を向けており、そのための役職も担っていた。彼らは果たして国家を平和のための安定的システムへと変容することは出来なかったが、そのための基礎となる観念を形成し、行動を起こした。
 ところで、その死滅や終焉が語られてなお、現在生きているわたしたちの政治的生活の仕方を規定する国家とはいったいなんなのだろうか?相も変わらずそのオルタナティヴは出現していない。この問題は、Sittlicher Staatとしての国家が孕む問題として理解可能である。このような国家は、現在では民主国家、法治国家、社会国家として構成されているが、それは、たんに補助的で、目的に役立つ範囲に機能が限定された、目的のために設立された団体以上の存在なのだろうか?それは単に公共の安寧を保証し、集団巻の関係の安定、社会的秩序の維持を行う「多元機能主義的共同体」以上のものなのだろうか?

 機能的限界に縛られている制約的な国家概念は、国家が犠牲を求めるモロク神のような存在になることを防ぎ、個人の自由を確保するために適切だと多くの人は考えている。もしも国家が倫理的国家として理解され、機能的で、その機能に照応した権威や責任を超え出る意味をもってしまうならば、それにより個人の自由は危殆に瀕することとなり、人間集団や団体によって定立された目的に由来する義務の下に個人は縛られることとならないだろうか?このことは国家を、主体であり個性を持った個人を無化してしまう、「生の全体様式」(スメントを念頭に置いている)へと変えてしまわないだろうか?

 当然、その逆の疑問もある。国家の任務、機能は倫理、道徳から切り離されてはいけないのではないのか。国家は倫理的な参照点なしでもよいのだろうか。単に機能的で目的に服していればよいというのは間違いで、機能面への縮減こそが、モロク神的な機能的な自動性を帯びた国家をもたらすのではないだろうか。といったものである。

 

II 国家の構造的特性


 民主的法治国家しかり社会国家しかり、自然物ではなく意思ないしは熟慮に基づいて成立している。国家の本質、構造はそれが構築された際に込められた目的を伴っている。そのような目的に向けられた制度として、国家は倫理的国家としての身分を主張できるだろうか。
 その解答は、国家を作動させ、存立を司る目的の性質に依存している。すなわち肯定的に回答するためには、構成員の生の目的に近接していることが要求される。更には国家の構造、作動にも依存している。国家がそのような目的の実現に有効に作動するかが問題なのである。

 

 政治的存在としての国家は、構成員を平和的に共存させることによってそう表現される。個人間集団間の不和、対立は、国家内では平和的に遂行され、物理的暴力を介さず、法により規制される。国家の内側では友敵分裂は存在してはならないのであり、平和的統合は維持されねばならない。

 ヨーロッパ史が示すように、国家秩序が平和的統合を実現することは自明ではない。内線に至るような宗教、政治的分断は常に存在していた。平和的共存は例外的な政治的実行によって果たされるのであり、それは政治的分化を確立するのであり、同時に倫理的分化を確立する。

 平和的共存を設立し維持するためには、国家は決断主体でもなければならない。人民の、人民による団体の接触、不和が平和な仕方で行われるためには、妥当性のある規律と、外形行為の規制が必要なのである。これらの規律、規制は異論の余地のない一般的同意の下で明証的に把握されていなければならない。それらがそのような性格を自明に帯びているのでないのなら、上位の権威の決断に基づいて設立される必要があるのであり、その権威はそれに反する訴えかけをものともしない、最終決定権を担っていないとならない。平和共存を求めるならば、強度の決断主体としての国家を拒絶することはできない。

 

 決定主体としての国家の必要は、権力的存在としての国家を求めることにも成る。当然規範や規律は遵守を要求する。だが、それは自発的な忠誠に依存する訳にもいかないのであり、実際的効力のためにも実力行使が不可欠となる。国家がそれを行い得ない、ないしは行うことを欲しない場合は、同時に自発的遵守も弱まるだろう。というのも、法的規範、決定を尊重しない人間のほうが、逸脱により不正な権力を確保してしまうことになるからである。


 以上のように、国家が平和を維持するためには、決断主体であり、同時に権力保持主体でなければならないことを見た。更には、国家は権威的主体であるが、同時に自由のための組織でもある。民主国家は、市民が決断主体としての国家と権力主体としての国家に参与することでその性格を維持している。それは選挙や公職の保持、その他の公的な意思形成への関与を介して行われるのであり、そのような意味で自由を前提として存立している。

 国家が権威的主体であることは、安全の維持の前提条件であるのみならず、自由の前提でもあるのだ。自由を自己決定の可能性として理解するならば、それは法規範を前提とすることで、安定的かつ継続するものとなる。制限や強制を被らない、「完全な」自由なるものは、たんに優越者の制限されない権力、自由な自然的実力の行使を意味している。だが、自由は自然的な教会の不在に制限をかけ、その制約を適切に抑えることによって生じるものである(Kantの人倫の形而上学を参照している)。自由な人間の共存とは、秩序を与える権威を前提としているのであり、そのコロラリーとして強制力、制約も存在している。
 ただし、そのような権力、強制は必要条件でしかなく、先の平和のための前提条件を崩さない範囲での制限も必要となる。単なる意思決定のための権力は、上位の規制を解することにより、統治に変容するのであり、そこから統治と自由の結びつきが生ずる。

III 国家の目的と、実質的な目的追求

 これまでの考察で国家には基本的な目的が存在しており、特定の人間生活における基本的目的の実現のために構成されていることが見えてきた。平和、自由、決定といった目的は、付随的なものではなく、国家の原理を構成している。


 国家の普遍性は、人間であり市民である限りの個人に関係づけられている限りで体現されるのであり、それを超える善や目的によるのではない。個人は何某かの集団、成層物の一つとしてではなく、それ単体で全体性をもつものとして扱われることになる。法的平等性の原則や主体としての 個人の性格を維持することは、国家の普遍性の構成原理となっている。
 

1組織と作用
 国家の組織、実行において決定的なのは、国家意思と呼ばれるものの確定における自己決定の原理である。国家の決断能力と権威の行使に対して、個人がその作用が個人の意思が一般意志に変容した結果であると認知するために、特定の形式と法則を与える必要がある。それは市民が政治的目的を定式化する過程や、国家の意思決定過程に参与する制度により果たされる。国家の意思、特に立法は国家の自由な意思となるのであり、そのことは、自己決定の原理を含意している。このような国家の本質は、一般的なものは個物、ないしは個人と切り離し得ないのであり、個人の十全な自由と、個体性と結びついているという事実に存する。これはヘーゲルの「目的の普遍性とは、私的な知見と、権利を保持するそれぞれの個人の意思を欠いては実現され得ないのである」という表現において示されている。

 

2 国家行為の射程と限界

 国家行為の射程と限界を理解するためには、さまざまな段階、領域を区別する必要がある。それは自由や自己実現の概念の様々な次元に照応している

 a) 外的自由と安全
 際補の段階は生命の維持、外的安全の保持にかかわる。それは確かに自由のための根源であるし、倫理的国家の要素でもある。外的自由と安全への配慮は、人間の生命の必要物であるから、それは単に機能的な、利己主義の領域を超え出ているものである。それは外的な平和を含意しており、さらには社会的平和すなわち、法と、個人の他者に対する自由の領域確定や、最大多数の最大幸福という格率に反することもある、法の平等性の実現や、衝突する利益の調整も含んでいる。これらの条件は社会的平和と人間の知的教育を可能にするものである。ロレンツ・フォン・シュタインが述べるように、「真正の自由が得られるのは、自己決定の前提条件としての、物質的、知的な有用物を保持している時のみである」。もし国家が自由の前提条件となる社会的枠組みを構築しようとする場合、単なる社会の機能の執行物として自己を把握することはできない。そのような社会の枠組みは単なる社会の集団、実力の衝突で実現されることはないのである。特定の利益追求に向けられた行為者から成る社会とは区別された国家の原理とは、単に幾人かではなく、必ず全ての個人に対して十全な自由を提供し、自己実現の機会を確保することにある。これは単に政治的目標ではなく、倫理的目標と表現し得るだろう。

 

 

 

 以下続きです

 

kannektion.hatenablog.com

 

マルカムとタックのホッブズ研究

 Malcolm2002[1]の刊行時点では、彼自身が指摘するように[2]ホッブズの国際関係理論に関する研究は、ホッブズ研究者自身によるものは非常に薄く、国際政治学者が自身の議論を補強するために例示したホッブズ理解が多少影響力を有していた。それは、リヴァイアサン13章で自然状態の例証として国家間関係を上げている点から、国家間関係と自然状態における個人の関係を直ちに同一視し、国家の生存権を想定し、国家間における共通の価値の不在の主張や、恣意的な利益追求を認めるというものであった[3]。彼らによればホッブズの考えでは国際関係は、野心に富んだ利益追求に熱心な国家間の秩序なき闘争の関係であるとされる。Malcolmの論証によれば、斯様な理解は二点において致命的な誤解をしている。

 第一に、ホッブズは国家と個人、ないしは国家関係と自然状態における個人の関係を同一視してもいなければ、それらが理論上同一のものとして扱われるとも述べていない。彼らが論拠とするリヴァイアサンの箇所を詳細に読めば、「主権を担う人物」が、「独立していること」即ち共通の権威の不在により、相互に嫉妬しあうことで戦争の状態にあることが述べられていると理解される。[4]すなわち、ここにおいて述べられているのは、主権の担い手と自然状態における個人は共通の権威の不在という点で類似しているということであり、国家と個人の同一視などがでてくる余地はない。 

 第二に、ホッブズ自身は国家が成立した後にも自然法が存在していると主張している。彼は、主権者の職務(Offices)は国際法(law of nations)に含まれていると述べ、その国際法なるものが、自然状態の個人を起立する自然法[5]と同一であると主張するのである[6]。この点に関して、ホッブズ国際法自然法以上のものを含めなかったという方向からの批判は確かに可能だろう[7]。しかし、自然状態における個人に平和追求をさせ、国家設立へと向ける作用として自然法が説明されていることに鑑みると、自然法が国家間においても個人の生存と同様に平和を志向させる性質を持つことは疑い得ない。

 

 自然法の拘束力についても、ホッブズの考えでは自然状態において有効な道徳的原理は存在しないとする見解[8]に反し、ホッブズは明確に自然状態においても、自己の保存と平和を命じる自然法が適用可能であると述べている[9]

 更に続けてMalcolmはホッブズの平和に関する考察を紹介していくのであるが、そこには商業の役割[10]、国家間同盟の平和への寄与[11]などに関する議論が含まれる[12]。Malcolmは、特殊な状況において、主権者と人民が投票により同意すれば、更なる平和のために二国家を統合させ、一方の国家が消滅することもホッブズの議論から導出しうると主張している[13]

 以上のようなホッブズ解釈に筆者も概ね同意するところであるが、以上を以て、ホッブズの議論をリアリストに対抗するリベラルな立場に与するものと解することはできない[14]ホッブズの国家間の理論は、その規範的側面たる自然法におよぶまで、現実の人間の情念と、政治のプロセスへの分析にあくまで基礎を置いているのであり、彼は何ら理想主義的でもなければ、民主主義的な価値の称揚もしていない[15]。更にはリアリズムの特性とされる安全の優先という[16]原理も共有している(Levの第一の自然法)。以上のような、ズレを踏まえると、出来合いの単純化された立場への包摂ではなく、既存の立場に収まらないホッブズ固有の議論を明確に描き出すことが欠かせないだろう。そのことを念頭に置き、以下では、先のマルカムの議論と対照的なタックのホッブズ理解を参照する。

 Tuck1999[17]も、マルカムが例示するような表層的なホッブズ解釈には批判的である[18]。彼はホッブズの自然状態における人間が、利己的で、支配欲と競争心に溢れる存在だとする通俗的理解を否定する。ホッブズによれば、自然状態において人々を闘争に向かわせる原理は、物事の性質や名称に関する共通の明確な基準の不在であり、そこから帰結する、共通の認識を確保できないことによる、空想に基づいた恐怖である[19]。更にTuckは進んで、自然状態を、通常ホッブズのそれとして考えられているよりも安定したものとして描き、そこにおける相互扶助や有効な信約の可能性を記す[20]。この見解は更に進んで、2004年の時点ではMalcolm同様、自然状態における個人も、国家関係も自然法が規律していることを指摘している[21]

 以上のようなホッブズ解釈は、平和主義的な国際関係理論を帰結するかに映るが、そうではない。Tuckによれば先述したような恐怖が、ホッブズにおいては先制攻撃の正当化根拠にもされているのであり、その恐怖が正当であるか否かは問題とされないと言う[22]。この点Malcolmとは相違がある。彼はホッブズの先制攻撃の議論につき、ホッブズの「コモンローを巡る対話」を参照して、主権者による攻撃戦争の意図が自然法に則り正当と言えるのは国民の生存という必要(Necessity)のために強いられて行う場合と、隣国を恐れる正当な原因がある場合という二つの正当化可能性を挙げている[23]

 

 以上の二者の議論の相違としては、まずTuckはNecessityを強調していないことが意識される。その理由として、Tuckはホッブズが資源の欠乏を紛争の重要な原因と見なさなかったと解することに求められるかもしれない[24]。もう一つの重要な相違は、Malcolmが恐怖することへの正当な原因を要求し、先制攻撃への限界確定をホッブズから読みとろうとしているのに対し、Tuckにはそれがないということである。

 後者の相違については、Malcolmに軍配が上がるだろう。まず、Tuckが恐怖が無条件に先制攻撃の正当な根拠となると述べた箇所では、テクストに依拠した論証は行われていない[25]。それに対してMalcolmは、対話篇の一方の側の主張とは言えテクストから議論を導出している[26]。Malcolmの議論を補強するために、リヴァイアサン14章の議論からも確認する。そこにおいては、自然状態にある、君主間の信約の有効性につき、"just cause of feare"[27]が新たに出現するまでは有効であると述べられ、ホッブズが恐れについて正当な原因を要求していることは疑い得ないように思われる。

 それではなぜTuckはそのような主張を行ったのか、その理由の一つには彼の国際関係観が挙げられる。彼はホッブズの自然状態を穏和なものとして描いたが、後の研究では推測として、ホッブズは国家間の関係は、自然状態において個人が自己防衛することによる不安定から免れているのではないかと主張している[28]。そのように楽観的、ないしは国家主権の自律を最優先した国際関係観をホッブズに帰することで、国家の先制攻撃があらゆる種類の恐怖に基づき正当化されることの問題を小さく見積もっていたのではないか。そして、もう一つの理由として彼がホッブズを好戦主義者及び植民地主義[29]として理解しようとしていることが挙げられる。彼によればホッブズは、新大陸への侵略を正当化したジェンティー[30]の議論を更に押し進めたのであり[31]、戦争に関する経験を積んだ1620年代において戦争支持者であり、それが後の議論に影響を与えたとされる[32]

 このような主張を踏まえると、Malcolmの議論自体も更なる検討を要すると思われる。仮に彼の述べるように、ホッブズの議論では先制攻撃は正しい原因に基礎づけられた恐怖によって初めて正当化される理解したとしても、やはりそこから好戦的な帰結を導き得るからである。すなわち、Tuck自身が主張するように、恐怖の正当性に関してそもそも客観的な根拠が立てられないという応答をしてその議論を骨抜きにされる危険性が存在する[33]。それを避けるためにも、いったいいかなる恐怖が正当とされるのかの追求が必要だろう。

 更には、仮に恐怖の正当性がなにがしか定められたとして、その基準がいかに作用するかという点にも疑問が残るだろう。ホッブズ自身がしばしば主張するように、彼の議論は、人々の誤った観念を払拭することで効力を持つのであり[34]自然法もまた、何か上位にある存在が強制を用いて人々に課するものではなく、何が真に自己保存と安全に資するかの正確な認識を伴って始めて、明確な効力を有するのである。そうであるならば、その自然法に基づいた先制攻撃に関する議論は、容易に誤った議論、認識で曇らされ、恣意的な利用を被ってしまうだろう。以上の危惧は必要性(Necessity)に関する議論にも同様に当て嵌まる。そのような論点についてホッブズがいかに考えていたかについて理解するために、彼による戦争と平和に関する具体的な議論を参照する必要があると思われる。

 

[1] Sir N Malcolm“Hobbes`s Theory of international relation”, Aspects of Hobbes, 2002

[2] ibid pp. 432,433

[3] ibid, pp. 433-436、モーゲンソーやブル、E・H・カーらが挙げられる。

[4] Lev p. 90

[5] もちろん彼の自然法は神が付与して命じるという類のものではない

[6] ibid pp. 185-6

[7] ibid, p.439

[8] C, Beitz, Political Theory and International Relations, p. 28, 1979

[9] De Cive邦訳, pp. 88-90

[10] ibid, p. 452

[11] ibid, p. 450

[12] ibid, p. 454

[13] ibid, p. 448

[14] Jaede, Thomas Hobbes's Conception of Peace, 2018, p.2-16. Jaedeは後者を共和主義、リベラルな価値を体現する立場と理解する。その代表としてカントを置くがそのカント理解自体がそもそも誤りである。

[15] もちろんこの立場の代表とされるカントもそのようなことはしていない。別稿参照のこと。

[16] Hobbesが述べているのはあくまで個人の安全であるため、現代のリアリズムが述べるsecurityが国家自身の安全であるならば明確な差異を有するとは言えるだろう。

[17] Richard Tuck, The rights of war and peace, 1999

[18] ibid pp.129,13

[19] ibid pp. 130-132, DCL, pp.80,93

[20] ibid p. 133,134(邦訳 p.229-p.230).Element of Law,p. 89 Lev, p.25

[21] R. Tuck, The Utopianism of Leviathan, Leviathan after 350years, 2004 pp.134,135

[22] Tuck1999, p.138,139

[23] Dialog, p.159, Malcolm2012, p. 449

[24] Tuck1999, pp. 131,132

[25] 同上

[26] Malcolm2002, p. 449

[27] Lev, p.98

[28] Tuck2004, p. 135 ここおいてもホッブズ自体テクストを引いた論証はなされない。

[29] Tuck1999, pp. 138,139

[30] ibid, pp. 47-50

[31] ibid, pp.138,139

[32] ibid, pp.127,128

[33] ibid, pp.138,139

[34] Malcolm2002,p.454 市民論邦訳 p. 6ここにおいて永遠平和まで示唆されていることに注意されたい cf) ジョンストンの Rhetoric of leviathan

古代ローマにおける宗教 2

前回の続きです

 


Schiavoneの6、 Rituals and Prescription の紹介です

 

 後期共和制においては、古い神官の持っている知恵とはまず第一に慣習mosの擁護者としての役割を担う者とされていた。それは先祖代々続く宗教的社会的慣習を体現していた。

 注1 初期のローマの歴史家、ファビウス・ピクトルやキンキウス・アリメントゥスは紀元前三世紀くらいに仕事をし、ギリシア語で書いた。次の世紀にやっと、ポルキウス・カトの手になるOriginesにおいてラテン語での歴史記述がなされた。そのことが後期共和制の分化をはぐくむきっかけとなった。その時代には年代記的伝統とius pontificiumの間に確固とした関係が存在していた。それはカッシウス・ヘミナや年代記ファビウス・ピクトル(先の人と混同されてはならない)おいて具体的な結実をみることができる。厳格な歴史的思考を伴って、共和制の貴族主義的イメージが作り上げられていったのである。キケロの著作や、同様に共和主義的伝統の構築者である人物の著作において、その経緯が顕著に反映されている(この点をもって、構築を偽造と表現するアルフェンディのような研究者もいるが、その見解に対し、モミリアーノが適切に反駁を行っている)。

 フェストスが提供する、このmosという語についての含意は古代の心性を理解する手がかりを与えてくれる。
"Ritus est mos comprobatus in administrandis sacrificiis"「Ritusというものは、犠牲(式)の執行においてcomprobatusな(承認された)mosのことなのである」
 儀礼と犠牲の、そして儀礼と慣習の結びつきが個々には現れている。mosとは承認された儀式のありかたの変容において姿を現すものであり、それは聖職者の領域で会った最初期ローマの思考において見られるものであり、sacerなものを構築していく際に体現されたものでもある。
 
 神官たちは暦の保持者でもある。月の満ち欠けであったり、dies fastiであったりをそれは含んでいた。彼らは社会的時間に対して決定的影響を持っていた。更には彼らは都市の記録すなわち、疫病、戦い、王の名前といった出来事の一覧を保持していた。
 彼らの宣言は変更不能であるという意味で客観性を帯びており、それへの遵守が権力をもたらした。
 iusとは、mosの最も規定力の強い形態だと言うことが出来る。どのようにして社会的慣行と宗教的想像力が混じり合っていたのかについて説明することはできない。そこからできあがったものは、長い時間をかけてできた沈殿物に由来しているのであり、それにアクセスする手段はない。間違いなく、反復によって刻まれた時間性が決定的役割を果たしている。mosは経験をかたどる象徴的が変化していく過程として特徴付けられている。それは具体的に儀礼や規則、iusといった形態をとることになる。そしてそれは、現在を規律づける作用を備えているのであり、直面するであろう不確実性や不安を、自身の連続性についての自己確証の手段を与えることで減少させる。それは現在に古い基盤を持っているかのような様態を与え、今後も反復していくであろうという雰囲気を与える。
 神官による規範の言明は特定の形態をとっており、それはその後のローマの法文化の発展に影響を与えている。それは託宣の形式で行われた返答に他ならなかった。すなわちそれは、隠れた真実の開示であり、疑問の余地も恣意の介入も存在しないものとして、特定の状態においていかにしてiusに叶った行為ができるかと問いかける家父の疑問に答えるものであった。それは言語と身振りを伴った儀礼的行為が、家のグループ間にとり重要な事業に際していかに行われるべきかを伝えるものであった。例えば、ある人や物に対する力を備えていることを宣言する行為(manus:最初のdominionの存在を言語的に表象する行為は手を握っている形象を介して行われた)、propertyの移転(mancipium)、遺言の作成、婚姻、自由な人間が法的に債務を払うまで債権者の支配の下に置かれること(nexum)などがそれだ。神官の返答は共和制の法的言語においてresponsumと名付けられるものの原型となった。それは重要度の高い、権威主義的なコミュニケーションであり、それを媒介として、隠された知恵は特定の形式を得て、秩序を与え規律づける力を行使した。そしてそれは、ローマの社会活動において最も重要な範型の一つとなった。
 以上のような社会的秩序化の様式に類似した者を、確かにギリシアにおいても見ることが出来る。それはthemis,themisthesといった概念に結びつけられており、王の役割を担った司祭が、応答の形式で託宣を公にするという形態をとっていた。しかしながら、その原初的形態が端的に別の規制様態に取って代わられることがなく、洗練と発展を経て残存しているのはローマ固有のことである。


 確かにresponsaは一般的な規範という者を直接形成はしていない。その時々の事例に対する応答でしかなかった。しかし、その応答が忘れ去られることはなく、その記録は神官団によって形象されていった。家父に対する応答はそれまでの先例との比較を経ることになったのである。

 私たちはことばと権力の結びつきに目を向ける必要がある。それは非常に密接なものであり、iusの実践はそれによって拡張された。
 注7 キケロのもたらす記憶においては、神官は"veteres illi, qui huic scientiae praefuerunt, iptinendae atque augendae potentiae suae causa pervolgari artem suam noluerunt"という言葉で表現されている。


 renponsaの営みの中で、具体的問題の検討と、声を介して賢慮のある意見は生み出された。最初のiusにかかわる知的体系は、事例に応じて、共同体における家父の行為を導くことを意図したものであった。
 質問への応答過程において、手がかりに基づいた、記号論的知見が反映されるようになった。それは一種の過去に対する予言とでも言うべきものであり、魔術的な儀礼性が、セルヴィウスの改革によって政治制度に導入された、経験的、測量的な合理性と結びついたことにより生じた。提出された質問、疑問を検討するに際して、神官はその事例の詳細に目を向け、そこから熟達した者のみが見いだしうる兆候を見いだした。それは、あらゆる事例をmosの枠組みに位置づけ、最もiusを体現した儀礼的行為を特定するために必要な営為であった。診断学的な探求方式が発達し、兆候の組み合わせが生み出す意味の追求に重点が置かれた。これは同時代のギリシアにおける臨床医学的な著作にも見られる知的傾向である。古典的なiusの観念とギリシアの医学的知識の間には単なる類似性以上の関係がある。それらにおいては詳細、手がかり、出来事に向けられた具体化した合理性の発露を見ることが出来のであり、それが共通の枠組みをもたらしている。

 神官による応答の効力は、直接の処罰などではなく、秩序の観念や名誉のような者で維持されていたが、その実質は記録された個々の出来事と、その規範的意味の定式化の追求の関係によって確保されていた。それはscientiaとprudentiaの統合、arsとususの統合を含意していた営みであった。
 
 そのような特性を帯びていた神官によるiusの知識は次第に新しい特徴を得ていく。その規範は身振りや言語を伴う行為のモデルを提供したのであり、それはパトリキプレブスの差異を気にせず適用されることもあった。その準拠点は個々の家父の社会的振る舞いに集中していた。実際与えられた規範的知識は市民である限り利用することが出来たのである。
 そうであるからこそ、このような知識は政治闘争の目的物ともなった。セルヴィウス期の改革はその反映とも言える。

 セルヴィウス改革において、パトリキ支配の構造が変容することとなった。確かに富の多少が重要性を持つ貴族性的な発想に主導されたものであったが、それは旧氏族の区分けを解体する効果も伴っていた。プレブスの社会構造において形成されていた層は、制度的具体化をみることになった。ここでもたらされた、パトリキプレブスの混合した貴族制的体制は、共和制の安定をもたらす契機とも成った。
 そして、ローマ共和制に強い影響を及ぼす、政治、宗教、そしてiusの知識の相互作用の様式が形成されていった。政治の領域の拡大と、宗教と氏族的な王政による結びつきの比重の低下が連動していった。紀元前5世紀には、魔術的宗教的世界収縮がみられ、iusがその他の社会的規制作用の比肩し得ない影響をもつものとして台頭してきた。紀元前3世紀ごろには、規範的作用の体系としてiusは、その他の領域と区別され、自律した存在へと変容していった。
 ただしその変容過程は明瞭なものではない。古典的な宗教的想像力がその創造力を費消された際もiusの世界との接触は続いており、伝統的宗教の法学化の形をとってそれは表現された。そしてそれは最終的に、純粋なius pontificiumの形成を導くこととなったのである。
 都市の変化が最も重大な帰結をもたらしたのはiusの生成に携わった、神官の知恵に関する領域である。階層対立によってもたらされたのは、単にパトリキが神官団を独占しているということへの非難のみならず、都市全体の規律に関わる規範が、隠された、独占的な知恵によってもたらされた託宣の形式をとっていることに対する疑問であった。ギリシアにおいては、書き言葉の進展に由来し、民主的な性質を備えた、政治的命令としての「立法」の導入という対応がなされた。だがローマでは、闘争を介して、別の予想もつかない帰結がもたらされた。

 

 

初期ローマにおける宗教

 スキアボーネの The Invention of Law in the West (Ius. L'invenzione del diritto in Occidenteの英訳)の第5章の紹介です(ちなみにスペイン語訳のほうが先に出ている)。全体の半分くらいは読みましたが、その中でも特に未知の事項がおおく、理解しづらかった箇所でもあります。注釈も追いかけましたが、全体的に内実はよくわかっていないが、ここまでならば言えるといった前置きをした話が多く、どうソースを読めばこういう説明ができるのかよく理解していないというのが正直なところです。以前SPQRの邦訳をパラ読みしたが、紀元前6世紀くらいのことについてはやはり憶測、推測に近いものを述べるか、単に物的証拠について語るかにとどまっていました。ローマのその時代の実情を研究している/できるひとの根性には頭がさがります。さらに少し理解するため参照されているモミリアーノなどの諸研究を読む必要があるのでしょう(それよりも参照されていた一次史料を読み込むのが大切か)。宗教と法の分化といったテーマが継続される第6章も紹介したいところです。

 

 

 


Schiavone

5 King, Priests, Wise Men
p. 64~

 本章は聖職者の階層制度ordo sacerdotumが問題となる。この制度は都市ローマの成立初期から存在している。この論点については比較的資料が調っているため、その実像を明確に記すことも可能である。

 

 初期ローマにおいて、王と神官が補完的な役割を果たしていたようである。その制度は、王に体現される軍事集団の権力と、ユピテルマルス、クィリヌスといった神々、そして儀礼に関する規範的な知の体系を一つの秩序に纏め込んだものであった。それは、宗教的経験が社会全体に行き渡ることを可能にしている。権力関係は、儀礼に基づいた命令権と軍事的指導者の実体的な力が交わる形で存在していた(モミリアーノの研究が示すように、軍事指導者は下部の軍事集団間の闘争を経て出現してきた)。この両要素の均衡は脆いものだとしても、王とユピテル神官の協働という形で表現され、一応は維持されてきた。このような均衡が、王の権力、カリスマと合わさる形で、初期の都市におけるgentesとcuriaeの統合を可能としている。

 

 初期における王と神官の役職の区別は、王位にある者に要求される資質によって行われた。それは軍事的才や年齢、身体の精強さなどが挙げられる。そういうのがないという点で神官は王ではない存在とされる。逆に、儀礼の才(?)、信仰心といった宗教的な性質が神官職にに要求されることによって、両者の役割に厳密な線引きが行われるということはなかった。ロムルスから始まる初期の王の性質は、魔術的、宗教的な彼らの役割を考慮することなしには理解し難い。王としての権威と神聖さの関係については、ローマの場合、rex sacrorumの残存も相まって、かなりの史料が残されている。

 

 神官の活動は、祭儀の実行から魔術的な儀式へと移っていったが、それらの間に断絶は存在しない。fratres Arvales, Fordicidiaや、軍事行動を神聖化する演舞などに代表される、大規模に行われた儀礼は、軍事指導者の偉業を称えると同時に、家長の権威の増大の役割も担っていた。ローマにおける「公的」な空間のイメージは、儀礼的、宗教的空間の経験を背景に形成されている。

 

 王政が敷かれていた際より活発であった、神官集団の作用についてはあまり史料が存在していない。しかしながら、それらの役割が専門化していく過程についての手がかりならば有している。実際、聖職者(flamines)に帰せられる犠牲、儀礼的役割と、神官(pontifices)に由来する、知恵を示す役割の間に区別が存在したことの証拠は、十分存在している。後者の役割が提供する知恵は、社会的な効用を強く有していた。彼らの規範的な神託は受け継がれることで、神と人間の健全な関係の存在を確信させ、政治的な領域で宗教的図式を再形成することで、家父の地位に資するものでもあった。ギリシアエトルリアから部分的に受け継がれた最も古い神話は、ローマの文脈において再解釈されている。それは幾人かの学者が主張する「神話の解体」であり、そのことは、魔術的宗教的想像力に依拠することで形成された、神聖さに依拠するモデル、精神構造からの脱却をもたらした。この側面を分析する必要がある。

 神々を人的な形象に落とし込むことは、紀元前八世紀の中頃には達成された。その過程は全体として錯綜した訳ではない。むしろ、その営みには一貫した神学的構造のようなものが現れているのである。最高位にユピテルマルス、クィリヌスの三神があり、これは後の時代にはユピテル、ユーノー、ミネルヴァに置き換えられた。

 Dumezilの研究によるその過程の再現は、最初の最高神の三組を、共同体によって他とは区別されるものとみなされた「社会的機能」を体現するものとして理解した。この図式はその時代の分析によって支えられておらず、否定されるべきものである。そのテーゼは、ユピテルが魔術的、法的側面から見た主権性を体現し、マルスは戦争、戦士を、クィリヌスは農耕、農民を体現していると理解していた。その図式の否定は、モミリアーノがフランス系の学者に批判的な見地から行った批判的分析の価値を減ずるものではない。聖職者、戦士、農民と言ったそれぞれの身分がその三つの機能に直接対応しているのではないことは、Dumezil自体も認めている。そのような三つに分断された階層から成る社会構造を想定することは認められない。しかしながら、以上の指摘を踏まえても、ローマにおいて、規範的な精神構造が何某か存在していたことそれ自体は否定されない。そしてそれの構造が対応していた実際の儀礼的な行動様式(? ritualistic syndrome)を探索することは確かに可能である。同様に、最初期のユピテル像から、最高神の人的形象による具体化と、宗教やiusの確定によって確保された統一的な都市の構造の間の緊張を見ることも可能である。


 しかしながら、フェストゥス(Sextus Pompeius Festus)によれば、それ以外にも見るべきものがある。彼のテクストには、最高司祭(pontifex maxmimu)が二つの役割を備えていたことが示唆されている。それぞれ、神々に向けられたものと、人々に向けられたものという区分が可能なものとなっている。その区分こそが、ローマの心性の根底にある、一体の規範的言語、-それはプラウトゥスにおいて見られるように、神聖なものと法的なものが一体したfas-iusの結びつきによって表現されていた。-の多様化を理解するためのヒントとなるのである。その区分を実際の状況において描き出すことは困難かもしれないが、後の時代において定式化が行われている("iudex atque arbiter habetur rerum divinarum humanarumque")。フェストゥスが同時代のこのような図式を、さらなる過去に投影したということは間違いないことである。というのも、彼はその定式の含意を持ち出して、彼が論じている神官の古くから持つ重要性を立証しようとしているからである。

 ポリュビオスが見いだしたように、神官集団はローマの記録において、彼らが古代社会の維持に必要な役割をになっていたことに応じて、共同体において知恵を有していた者、知識を蓄え、それを解釈するとして描かれている。このような事態にたいし、何某かの革命的出来事を想定する必要はない。社会的分化が生じ、一部のエリート集団が形成されるプロセスは、文化の次元においてその影響を及ぼしている。紀元前九世紀ごろに起きたそれは、出生に基づいた貴族制をもたらし(vos patricos solos gentem habere)、その集団によって集団生活に不可欠な機能を独占した。魔術的、宗教的統制を行う機能や、軍事指導を行う機能がそれである。結局規範的性質を持つ言語の複合は、共同体の心的経験の結果と言うよりは、潜在的な集合心性に具体的な形態を付与して完成させた、一部の集団によるイニシアチブにより生み出されたものである。

 儀礼によって体現される、神々との、彼らの憤激を招かないような丁重結びつき、契約は、家父同士の結びつき、reciprocityを規律するための形式として利用されたのであり、それは音声言語や身振りをも定型化したものであった。超自然的なものとの調和と、家父の共存はどちらも共同体にとっての欠かせない前提条件であり、常に危険な均衡を保っている。神学的、社会的秩序は儀礼の実行なくしては保てなかった。 


 セルヴィウス王の改革などを経てその構造は変容していくようである。ローマ共和制はセルヴィウス・トゥッリウスをローマの自由の立役者とみなしている。(CiceroのPro Sestioが引かれている。彼もトゥッリウスだからね)

 
 人的配置の再形成、軍団の再構成などの改革の成果は、新しい戦士階級が形成されたことのみならず、端的に古い氏族集団、クーリアから自由な市民が形成されたことにある。あたらしい人的集団、そしてその軍事組織との連結は規律、連帯感や、部族的な組織異常に厳密な上位者への従順さももたらした。それは共同体の再強化、新しい王のイメージの形成も引き起こしている。


 このような改革の結果により出現したケントゥリアに地盤をもつ軍事集団は、もはや単なる兵隊の集まりではなくなっている。指導者への決定権、選出権を持った集団はそれ単体で一つの政治体の性質を有しているだろう。
 公的次元はもはや宗教的空間のみに求められるものではなくなっている。軍隊と集会の持つ機能がその公なるものを体現するようになっていた。フェストゥスが描いたような宗教的権威と結びづけられたヒエラルキーは変容していった。神々との密接さは祭儀を行う集団の優位性を直ちに帰結しなくなった。神官集団が従来備えていた儀礼を執り行うための、象徴的な知識は直ちに彼らの優位性を意味するものではなくなった。依然としてiusは宗教性と魔術性を帯びたものではあったが、civitasそれ自体の産物、都市全体が担う関心事として認識されるようになっていた。


 政治はローマにおいてそれ単体として出現したのではない。その点においてイオニアなどとは区別される。それは宗教的思想に由来する、特定の認識を伴った慣行に付随する形で出現したのである。

 

 

 

 

 

 以上です。