Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

アンソニー・グラフトン "人文主義と政治理論" 内容まとめ

A.Grafton
"Humanism and Political theory "in The Cambridge History of Political Thought 1450-1700 の内容紹介です。

 

 二時間くらいで打ったのでパンクチュエーションがひどいですが許してください。

 

 

 

 

 

p9-10
i Scholarship and power


 リプシウスのルーヴァンにおける講義と書簡の話がされる。ルーヴァンにおいてはセネカのテクスト(De Clementia)を扱い、君主の権威、義務に関連する議論を論じたようである。そこにはハプスブルクの王妃も参加しており、書簡からは自身が行った講義にリプシウスが満足した様子が伝わる。どうやら聴衆も満足していたらしい。聴衆の中にはハプスブルクの大公もようだ。

 だがグラフトンはこれは少し変な話だということを指摘する。というのも、リプシウス自身はオランダのハプスブルクへの反乱を、軍事制度などの面で間接的に支えたと言い得る人物である。その反乱はハプスブルクの支配地の慣習への無頓着にも起因しているだろう。そういう問題がある中で、なぜリプシウスは君主にそういった古典についての講義をしてそれで満足のかのような姿勢を見せているんだろうか。

 リプシウスのバックグランドである人文主義の発祥地イタリアでの事例を見れば、似たような幻惑とも困惑ともつかない感覚を私たちは抱くかもしれない。しかしながら、彼らの政治理論、政治ついての教義を理解しようとするならば、彼らの掴みがたさを心得ていないといけない。

ii Dictatores and philologists
p. 10-12

13Cイタリアにおける二つの出来事をまずは見る。
1 都市、大学におけるdictatoresの出現という現象。彼らは法律家や演説家ではないが、経済的、行政的な仕事を行っていた。書簡の文体の洗練といった知的事業を行い、書簡、契約文書の文体に関する著作をものした。そういう人たちは、文書業務が増えてきた都市の政府で仕事を果たすことになった。
2 知識階層が都市内での小さなグループを形成するようになったこと。このグループの構成員は様々な職業人から成っている。しかし、全員が古典テクストの探求を行っていたという共通点を有する。彼らは韻律なり、歴史なり、文献学的問題なりについて議論を交わし、研究所を執筆する者もちらほらいた。

 両グループは切り離されておらず、両方に帰属していた人間もいた。ローマ法を研究しつつ、別の職業についてたdictatoresもいたようである。有名どころだと、コーラ・ディ・リエンツォは、ローマ法文lex regiaなどを利用し、同輩に自身の都市の権威の増大を訴えようとした。

 初期の人文主義者たちは、キケロセネカを、共通善の追求を意義を際立たせるために利用した。ただし、最初期は文献学の成果との接合はあまりなされていなかった。その時代の優れた学者であったペトラルカは、ローマの碑文や、リヴィウスのテクストを研究していた。彼はキリスト教出現以前の初期ローマを、人間の偉業の発露として評価していた。彼は自信の著述を、ヴェルギリウスやオヴィディウスになぞらえる形で行った。ただし、彼はローマの活動的な生活のエトスを現在のイタリアにおいて復権しようとはしていない。この公的生活への参与は、ヴェルギリウスがたたえたものではあったのだが。彼は自身の由来であるフィレンツェにも格別の愛情を示すことはない。彼からすればキケロの政治へのコミットはわけのわからないものである。「この哲学者(キケロ)はいなかで老後を静かに過ごしていればどんなによかったろうか。わがキケロよさようなら。君の知らない神の誕生から1345年において。」(Familiares 24.3)この14世紀の優れた古典学者は、実践的政治的目的よりも、文学的、文献学的目的のために生きたのだ。

p.12-15
iii Humanism in the service of the city-state

 1400年前後には状況が変わった。コルッチョ・サルターティがその代表である。まず文献学的研究にも精を出し、ポッジォやブルーニといった後輩の支援を行った。それと同時にフィレンツェ市政にも携わっている。ヴィスコンティ家の牛耳るミラノに対抗するために、共和主義を持ち上げるイデオロギー戦略を展開し、他都市と連合をすすめた。

 ブルーニも似たような道をたどった。ダンテを評価し、俗語がラテン語と同様に文芸的価値を有することを認めた彼は、人間の才は徳が評価される社会においてその成果を生むことが出来ると考えていた。ローマは帝国になることでその条件を喪失してしまった。ブルーニの歴史記述はその見解のコロラリーとして、特異な性質を帯びている。ローマの崩壊はイタリア自由都市成立の条件として肯定されるのだ。そして、トゥキディデスなんかを援用してフィレンツェの政体をギリシアのそれに匹敵するものとして賞賛している(自分としてはトゥキディデス持ち出してそういう議論がどうして出来るのかよくわからないが。ここの参照先はハンス・バロン)。ブルーニはバロンが述べるような、「歴史記述のコペルニクス的転回」をもたらしたのだが、そのことはフィレンツェ市民という政治的立場に由来するものなのだ。
 1420以降の人文主義者は、いろんな政治的色彩を帯びた役割を演じるようになる。まずはローマを援用した共和主義的自由を持ち上げる人たちがいる。それだけでなく、先述したミラノや、アラゴン支配下にあるナポリ教皇庁人文主義者を雇って自身の立場に対する太鼓持ちを得ようとするのだ。その具体的役割もいろいろで、敵対者の政体を非難し、戦争を擁護し、愛国心を持ち上げ、政策の提言を行った。
 もちろん彼らは、単に既存の体制に組み込まれるのみならず、政治体制の雰囲気を改める役割を果たしている。彼らは古典的な、公的舞台において適切に言論を行う人間への評価を復興させ、伝統的な大学教育のあり方を不十分だと非難している。政治活動に必要な広い見識のために、レトリックの素養が必要だと彼らは考え、更に歴史研究、道徳哲学の必要を説いた。
 実のところ彼らの要求は満たされたとは言いがたい。レトリックや歴史の教員は法律の教員の三分の一くらいしか俸給を得ていなかったようだし、当然後者の学識のほうが人々にとって魅力的であり続けた。そのほかにも、同じ時期に出現してきた神学校が非人文主義的な学識の道を提供していたのである。このような背景から出世したのは、シエナベルナルディーノや、フィレンツェのアントニオといった人だけに限られていたのではない。
 けれども人文主義者達は大部において勝利を得たと言っていいだろう。彼らはエリートの嗜好を変えることに成功したのであり、貴族やエリート達は知的背景として彼らの成果である新しい版のテクストを読むようにはなっていった。価値観、評価される技能という面を含めた思考様式の改革はある程度なされたといっていいだろう。


 iv "Civic humanism " and its rivals
p. 15-20

 ただし以上のような改革は政治思想における革命をもたらしたとまで言えるだろうか。バロンなんかはそう考えている。図式としては、ヴィスコンティ家の挑戦に対して、フィレンツェが自由の擁護者として自身の立ち位置を先鋭化していき、その挑戦から生き延びた後はフィレンツェ人の自己理解、政治理解が変容していったというものである。

 確かにサルターティはカエサルのような人物に批判的であったし、同時代における一者支配にも警戒していた。ブルーニは明確にラディカルであり、フィレンツェの危機が去った後は、それまでの古代を称揚し同時代を落とす対話編の見解を枉げて、第二の対話編ではフィレンツェの軍事的精強さ、自由、徳を持ち上げている。その他にもポッジョ、パルミエリといった人物が挙げられるだろう。

 近年の研究はミラノによる危機はバロンが想定するほど重大なものでないとして彼の研究に修正を加えている。更には、彼の援用したテクストを詳細に読めばバロンが述べるほど皆が一様に自由やその他の共和主義的な価値の称揚をしてる訳でないことが解る。例えばブルーニの著作は対話編であることを踏まえれば、そこにフィレンツェの称揚と批判の両面が含まれていることは自明に見いだされるのである。最初の古代のみの称揚が、ミラノの危機の後フィレンツェも持ち上げるようになったというのはあまり適切な読みではなく、両方の議論が同時に読まれることを意図したテクストとなっている。このテクストの執筆時期もどうやら、バロンがいうように第一と第二の間に政治的危機を挟んだということはなく、どちらもその危機の後に執筆されたようだ。その他のテクストについても、1402年というミラノによる危機が先鋭化された時期が意味を持つように執筆時期を読み取ったバロンの理解は、現代の文献学的研究により疑問に付されている。

 フィレンツェの市政に関与する人文主義者が多かったのは確かだが、そのことが直ちに政治への関与と学術的嗜好を融合させたということを意味しない。ブルーニは自身の共和主義的嗜好を、実際の政治活動においては緩和させていたのである。ハンキンズの研究が主張するように、ブルーニはあくまでも公的義務として市政に携わっていたのであり、自身の技能をフィレンツェ政府から課された職務において生かしたに過ぎないのである。

 以上のような帰結については、いわゆる市民的人文主義への対抗的な思潮の存在を挙げることが出来るだろう。まず、人文主義者のうちの、君主国に仕える者たちはフィレンツェにいる人々とは対抗的な社会観を抱いていたことが挙げられる。君主国のほうが正義や平和を維持するのに適切だという見解を彼らは主張していた。共和政体においては腐敗や派閥が生じやすいという主張も彼らは行う。ポッジォがスキピオを賞賛するように、ヴェローナのグァリーノという人文主義者はカエサルが同様の賞賛に値すると考えていた。グァリーノは古代世界についての学識が、道徳的で活動的な市民を生むというフィレンツェの学者が抱いていた見解に同意できなかった。彼は古典テクストが公的生活についての教訓を多く含むことを認めていたが、彼の同時代の政治についての見解はそこからかけ離れたものであった。

 もう一つの対抗的な要素としては星占術的な世界観が挙げられる。神意が人間世界の事象を決定しているという意識は、14世紀のフィレンツェにおいても影響を持っていたのである。人間の決定、意思の役割を縮減するこのような風潮は、ブルーニ、ポッジォによっては批判されたのであるが、ルネサンス時代の社会全体においては強く非難されることはなかった。15世紀末、サヴォナローラが権勢を得たフィレンツェにおいても、このような神意によって歴史を解釈しようとする風潮は消えていなかった。
 そして最後に、イタリアの大学における法律家、哲学者の影響も挙げられる。法律家は緊急時における法の不在を述べ、スコラ学者は人文主義者より先にアリストテレスの著作を紹介し、国家体制の分析のための素材を提供した。マルシリウスなんかは人文主義者以上に都市の自律性を強調したといえよう。修道会士は、神学的著作において商人が果たす政治的社会的機能を説明した。先述したシエナベルナルディーノがそれである。そして彼らこそが、商人に利子を取るという罪を犯さずに、金融活動を行うための理論を提供していたのである。


v The topics of humanist political discourse
p. 20-29


  以上のような点を踏まえてもやはり、人文主義者達はcitizenshipや国家についての議論のための新しい言語を提供したと言える。それは貴族(ここでのpatricianは常総市民を含む?)が家政、都市、そして国家において以下に振る舞うべきかについての政治的、社会的言語であった。15世紀以降は都市行政に関することと家政に関することはアナロジカルに、どちらも他者の幸福への配慮、支配に関わるものとしてとらえられていた。ルドヴィコ・カルボーネはいかにして「家を組織し、国家を司るべきか」について総括的に論じている。ブルーニは擬アリストテレスの家政論を翻訳している。そこにおいてブルーニは、原テクストには存在しない妻の権利を擁護するコメンタリを残している。その他の人文主義者は、子供の教育についてプルタルコスのいくつかのアネクドートや、クィンティリアヌスの体系書を援用する形で論じている。
 夫婦関係について人文主義者たちは、それほど忠実に古典をとりあげてはいないようだ。例えばプルタルコスは夫が妻に貞淑さや服従をあまり期待しないように論じているが、それをフランチェスコ・バルバロはねじ曲げて利用し、年配の夫に対し妻は粛々と従うようにと述べている。その他にもレオン・バッティスタ・アルベルティは家政についての対話編で、強い夫が若い妻を従えるという図式を当然のこととしてせつめいする。
 その他にも経済活動について肯定的な評価を行う論調も存在していた。アリストテレス倫理学などを援用し、富を徳の基礎として論じていた。富は寛大さ、物惜しみしなさという徳の基盤となるのである。富の顕示という営みも出現することとなった。これはメディチ家の例を想定すれば容易に理解されるだろう。(このような事例をもってグラフトンは彼らの思潮がmodern and attractiveと述べるのだが、本当にそう評価できるものだろうか)

 次は人文主義者の都市行政の評価についてである。アリストテレスに従い彼らは都市住民を平民と貴族に分類していた。更にはリヴィウスを読み、都市の設立状況が人民の性質、徳性を左右することを理解していた。当初は都市行政についての明確な言語は形成されていおらず、レトリックについてや、過去の伝記的事実についての知識を転用する程度であった。更にはフィレンツェは近年の研究が示すように、統一的都市というよりは、様々な区画、ギルドの複合体であったのだが、そのような側面への視点を備えた人文主義者はいなかったようである。
 ただし、彼らは二点の貢献を行っている。一つ目は自身の都市の由来を古代にまで求め、更に古代の言語で権威付けを行ったこと。サルターティが典型である。それともう一つは、都市を一つの制作物とし眺めたことである。ブルーニは例えば、フィレンツェの理想的構成について論じ、都市計画の先駆となった。その他の都市、教皇庁などでもそのような視点を提供した人間がいたようだ。そういう都市の構成への配慮は、トマス・モア、トンマーゾ・カンパネッラといった16世紀の人物に受け継がれている。

 国家、civitasと区別されたres publicaについては、人文主義者によって多大な議論がなされてきた。君主制下の著作家は宮廷と臣民の関係に焦点をあててきた。これは統治者が一都市に限定されない、広い領域に対して影響を及ぼしているためである。更にはこのアプローチが古くはイソクラテスから、中世はソールズベリのヨハネス以降多くの先行者を有しているからである。王と廷臣の関係や、王が法に拘束されるか、臣民の善に以下に気を配るべきか、重い課税をいかに避けるべきかといった話はルネッサンスにおいても重大な意義を有していた。

 共和制下の著作家は自身をとりまく周辺国家について言及していた。サルターティはフィレンツェを、ヴィスコンティの陰謀から諸都市の自由を守る防壁として理解していた。だがこのような議論は、ニコライ・ルービンシュタインの研究が示すように、強い反論を引き起こすものだった。実際ピサはフィレンツェに1406年に服していたが、その都市にlibertasがあったとはとうてい言えまい。国家間関係について人文主義者が的確な分析を提供できたとは言いがたい。

 人文主義者が提供したのは、柔軟で説得的な、国家や自身が仕える統治者の賞賛や正当化なのであった。この側面での人文主義者の影響は多大であった。古典のきらびやかな言語を用いた支配者の装飾なんかがすごかったようである。ロレンツォ・デ・メディチに対する賞賛はウェルギリウスなり、オヴィディウスなりを使って行われていた。これは彼の軍事的資質の不足を覆い隠すものでもあった。その隠蔽が露骨なのはポリツィアーノによる、パッツィの反メディチ陰謀への非難である。それはサルスティウスのカティリナ反乱についての記述を援用することで行われたが、サルスティウスが行った、反乱の根源である社会的、政治的問題への分析については全く言及されていないのである。

 人文主義者はどうやら、危機的な政治的状況を分析するための資格をあまり提供していない。彼らは賞賛や非難や隠蔽は行った。彼らの発明品はレンズではなくてテンプレートなのだ。彼らはプラトントゥキディデスアネクドートの山として引っ張ってきただけであり、真に知的な営為を行った訳ではない。人文主義者の人物や制度の理想化は同時代にも、後の時代にも強い影響をもっていた。そういう理由のみで彼らは分析に値するのである。

 



以上

 

 

C. Horn Antike Lebenskunst 訳出 ほんのすこし

  1. Horn Antike Lebenskunst

 

SVF→ Stoicorum Veterum Fragmenta

fin→ M. Tullius Cicero, de Finibus Bonorum et Malorum

Prot→ Protagoras

 

1.3 Die philosophischen Schulen und das Idealbild des Philosophen

 

(49.2)

 古代において、現代の公的支出に支えられた大学制度のようなものが作るに至らしめるような教育への衝動は存在しなかった。そこでは厳密な教育計画や学期の制度などはみられない。ヘレニズム期には都市において個人の手になる学校の存在を確認できる。それは中世や近代において見られるような特定の宗教的政治的な見地に則ったものではなかった。それに、学歴のようなものが個人の社会的地位を左右することもなかった。

 そんな状況であったが、176年にマルクス・アウレリウス帝は、アテネに四つの国立の哲学講座を設立した。そこでは主流な哲学の派が教えられた。プラトン主義、アリストテレス主義、ストア主義、エピクロス主義がそれである。この講座の設立によって、古代-ヘレニズムの哲学への評価が高まったが、国家による哲学の規制といったものには至らなかった。

(50.1)

 古代において教養の習得は主に上流階級の子息に限定されており、彼らが教師に学費を払い教育を受けることができた。私たちはその雇用関係を示す文章を見ることができる。それによれば、古代の教育制度は、一種のサービス業のようなものだったのである。教師の間や学生の間にある競争や、教師の収入、生徒の支払い、講義内容への不満といったものを見ることができる。ある学生は講義が生徒からの質問への応答として行われるのに不満を漏らしている。アウグスティヌスは修辞学者としてカルタゴからローマへ向かったが、それは高い授業料を得るためではなく、北アフリカの学生たちがあまりに規律を欠いた振る舞いをするためであった。(Conf5-8)

 

 

 

2.2 Glücktheorien in der hellenistischen Zeit un der Spätantike

 

 (85.2)「包括的解釈」なるものが説得的に提示されるのに反して、アリストテレスの立場はプラトンへの強い批判を願意していた。彼の立場は直感的であり、容易に再構成可能である。

 アリストテレスにおいて完全な徳とは、本質的で、自身のために好ましい善を獲得する生に関係した善であった。その理論は広範な人間学に基礎をおいている。このような幸福の理解への強い反論を提出したのはストア主義である。実のところストア主義の幸福に関する理論はアリストテレス主義との論争という場面において歴史的には出現していた。ローマの帝政期までペリパトス派とストア派は、特にそのほかの善との連関という論点で議論を交わしていた。ゼノンやクリュシッポスといった初期のストア主義者は、自身の幸福概念をソクラテスにおけるそれへ回帰させることを目指していた。彼らは幸福の十分性と同一性そして、理性的な理論を支持していた。プラトンには依拠することなく、ストア主義者たちは、観念論的でない、物質的な形而上学に依拠していた。

 

 

 (86.1)幸福の概念についてストア主義者たちはソクラテス的な視点を権威あるものとして強調していた。それは、徳というものが幸福を生み出す十分条件であり、それ以外の善は不可欠ではないということだ(十分性テーゼ)(SVF 3-30ff.)。それに加え、徳と幸福(eudaimonia)は同一のものであり、その両者は単に概念的に違うというだけで、事象の面では相違を持たないとも考えていた(同一性テーゼ)(SVF 3-53f.)。そして最終的に、アリストテレス的に倫理的な徳と知的な徳の区別を無効のものとする。彼らにとり倫理的な徳とは、「曇りのない理性」や「完全な理性」を意味していた。このような理論モデルは、次に見るように最初の概念設定の段階においてすでに疑わしい印象を与える。ストア主義者たちによる一般的な幸福の概念に対する異議申し立ては、幸福とは何かを理解するための徳というものが、中心的なものとして理解されなければならないという想定、更にいえば、徳と幸福は完全に一致していなければならないという想定に依拠していた。その上更に、そのような徳は主知主義的に理解されなければならないと考えられていた。彼らにとり徳の枢要は、自己犠牲や献身といった倫理的色彩を帯びたものではなく、あくまで適切に理性を用いることにあった。その他の善は幸福にとって何の役にも立たないのであり、痛みの欠如、健康、心地よい感覚といったものでさえそうなのである。そのように局所化された幸福の観念は、あまりに現実味を欠いているし、非人間的であろう。キケロはその点に関して、彼らの定義する最高善が人間にとってふさわしいものであったためしはないといった旨の批判を残している(fin. IV 27)。

 

 (86.2)ストア主義的見地は一方では楽観的に映る性質も有している。たとえば、(ある約束により)苦痛を感じるためであったり、(ある約束を破ることで)物質的な利益を得るためではく、合理的な事情変更が生じたときのみ、約束の信用力は損なわれるといった主張がそれである(この段落ソースなし)。そのほかにも倫理的に考えている部分もある。彼らは明らかに経験に反する部分もある。徳に満ちた人物は決して悪しき性質を備えた人間より決して幸せにはなりえないといったものがそれである。このような主張には経験に適した倫理的な行為結果関係の図式なるものは存在せず、そのようなものは非倫理的なものとしてのみ存在し得るのである。プラトンがトラシマコスの言葉を借りて提示した、変に気取らず利益を追求して生きた方が、人間はよりよく過ごせるのではないかという問いかけも念頭に置かれる。ストア派が主張するような、あらゆる外的な善はどれもさほどさを有しないにちがいなく、剛腹をめぐる倫理の内部では弱い意義しか有しないという見解は、カント的な義務理論がその意義を獲得するための基礎的な要素であった。

 

 (87.2)ストア的な幸福の概念を共通感覚論の見地から拒絶することもしかし向こう見ずなことであろう。というのも、ストア派の人間は自身の幸福概念を単に倫理的嗜好からでなく、複合的で反省を含んだ理論を背景にして発見しているからである。それに加え、プラトンアリストテレスの理論と同様に、ストアの幸福の概念は希求モデル(Strebensmodell)に依拠しているのである。もっとも高次な人間の目的(telos)であるエウダイモニアは、それ以外の事物は希求されないような存在であり、そのそれ以外の事物はあくまでそのエウダイモニアに資するような形で欲求されているにすぎないとするのである(SVF3 2;16)。倫理的な徳はストア派の人にとり最高であり唯一の善なのであった(SVF I 190; III 76)。彼らは首尾一貫性のために、この唯一の善を拡大したり、よりよくしたりするようなものも存在しないとも主張する。だが、特定の外的かつ身体的(むしろ物体的?)な利益のようなものが存在することは否定しない。ただしこのような利益が最高の善を拡大することはないとも注記している。より優先される価値というのも存在するがそれも徳と比較すればその意義が希薄になってしまうというだけなのである。キケロはこのような特性を以下のように描いている。「ランプの光が太陽の光によってよくわからなくなるように、数滴のはちみつが大海によって消えてしまうように、そしてクロイソス王にとっての数枚の金貨や、徒歩でインドへ赴くときの数歩がほとんど意義を持たないように、ストアの人たちが言う所の最高の善は、外的な価値のある事物を徳の輝きと価値でもって色褪せさせ、見えなくして枯渇させる。」(fin. III 45)さらに後の箇所でキケロは、対話の参加者の言葉を借りて、「私にとってはしばしば、ストアの人たちが述べていることは、有徳に過ごされた人生に、塩のつぼ?(Salbfläschechen)とくしを用意しておくために、すでに与えられている人生をそのための手段としてしまい、本来幸福であるにも関わらず、そのために幸福でないと主張する冗談のように思える[1]。」(fin. III 30).  とも述べる。当然の帰結として、ストア派は徳を保持する人間は、苦痛を感じることもなくそのほかの善を全て欠いていることも可能であるという見解を保持していた。有徳な人間は拷問台にあっても幸福なのである。そういう訳でストア派の人にとり、健康や体力、身体の美とか裕福さといったものは幸福に関わる要素ではなかった。彼らは、人が普通価値あるものとして考えているものの大部分を、無関心な対象、どうでもよいもの(adiaphora)へと分類し、同時に病気や醜さ、貧しさや依存性といったものに対しての優先される価値を持つもの(prohegmenon)として一応位置付けている。そのため全ての善を無価値にする禁欲的な立場が必須であるといった禁欲的な主張に必ず至るという訳ではない。

 

 (88.2)

 それに加えてストア派が徳や幸福を無感情(apatheia)として理解したことことも説明される。理性は情動を解することで間違った判断に至ることがあるということはすなわち、精神が情動から自由になって入れば、理性はそれ自体として完全なものとなるという発想を含意していた。しかしどうして理性がそれ単体で完全な状態であるときに、人間は幸福になると想定できるのだろうか。ストア派のひとたちはこのように応答する。「情動に支配されている限り人間は、生に関わるもろもろについて誤った判断をしてしまうからである[2]

 (中略)

 (89.2)

情動から自由な状態としての幸福や徳の理論は特に世界論的、神学的な背景を抜きにした根拠を有している。ストア派の人たちは四つの主要な情動を指摘している。それは恐怖(phobos)、欲求(epithymia)、快楽(hedone)、そして不快さ(lype)である。その情動を意識した人は、同時に確かな以下のことについての確かな意識を持つ。すなわち、徳や幸福が遠ざかっているということである。恐怖と欲求そして度を越した快楽や不快の受容は、つねに自分の意思の統制下には置けない対象に特定の価値を置く(beimissen)人に常につきまとう。例えば富を高次の善とみなす人は、裕福でないうちはその人は貪欲でけちで、嫉妬深くなる。不意の収入があると、その人は度を越して無思慮になる。そして裕福になると常に材を失ってしまうことを恐れて、それを守ろうとするか殖やそうとする。ストア派の情動理論によれば、衝動(Trieb)と感情(Emotion)はただ誤った価値判断の結果であるだけではない。それらはむしろ誤った理性判断、もしくは自己自身の直接的な表出なのである。徳もしくは幸福は、正しい理性(orthos logos)を安定した人格的な振る舞いや信念(diathesis)のために用いることで獲得される。その状態へは外的な、身体的な善は価値がないという見解(Einsicht)を貫徹することによってのみ、到達する。人間はそれらの善からは根本的に距離をとるべきである。ストアの人たちはそのため、徳というものを結果的に知恵(phronesis[3])だとみなすのである。

 

  1. 4 Ethik und Theorie des Selbstbewusstseins

 

(226.2)

デルポイアポロン神殿はその支柱に「汝自身を知れ」(gnothi seauton)という言葉を碑文として刻みつけられることになった。それ人間の傲慢を諌めることを意図しており、それによって人間の幸福はとても脆く、神でない人間は可死的で、有限で弱いことが思い起こされた。この言葉は神アポロンに由来するという説の他に、その由来にはとある七脚詩[4]があるという説もある。プラトンの記述によれば、この言葉はラコニア人がデルポイの神に捧げた短い知恵の教えを範型として持っているという。そこにおいては自己認識のすすめが意図されていたそうだ(Prot. 343 a f.)。古代における「汝自身を知れ」という言葉の伝承は人によってバラバラだし、不正確である。クラシック期においてその言葉が何を意味し、誰の言ったことであり、どういう理由でデルポイ神殿と関係のあるものになったのかについて明確に確認することはできない。注目すべきこととしては、デルポイにおける適切な自己認識と正確な自己評価への要求は、その言葉のあまりの簡素さと内容の不明解さにも拘らず、その広がりと重みにおいて並ぶもののないほどの影響史を持っているということである。

 

(226.3)

 当該箴言の哲学的含意は、プラトンが多様なで重要な意味連関を提示したことに端を発する。自己認識の主題は、プラトンが思慮深さ(sophrosyne)と表現した自己関係的な知として把握されるのと同様に、「自己の魂への配慮」や「死への準備」といった教訓において把握されることもある。プラトンが推測したその[5]本来の意味が正しいならば、七つの方法[6]についての箴言は確かに韻律と思慮深さの知恵に関係があるのだろう[7]。私たちの追っている脈絡にとり興味深いのは、自己認識という主題は、同時に良心の概念、自己意識の理論そして精神の形而上学を伴っていたということである。十分ありえる解釈として、「汝自身を知れ」をめぐる様々な解釈は歴史的ソクラテスが実際に加えていったものだと考えることができる。パイドロスによればソクラテスは常に自己自身を知るということを巡って苦心していたとされる。自己認識に到達する前には、自己自身をしるという問い以外の全ての問いは無意味であるように思えるからだ(229e)。プラトンソクラテスの弁明において記した結論はそれに近いようだ。そこではデルポイの神託でその言葉とともに示された、「ソクラテスより賢い人はいない」という言葉はソクラテスが自身の哲学を始めるきっかけとなったと述べられる。プラトンソクラテスデルポイで与えられた神託に応答して、自分はちっとも賢くなどはないと述べる箇所を描く。ソクラテスが無知であり、同時にそのことへの知を有している[8]という事態は、彼がその根拠について探求しようとした矛盾をなすのであった。自分の像と、神託で示された彼の性質の不一致という解決すべき問題のために、彼はアテナイの市民に対してその知恵を試すことをするのである。そして彼はその営みに成功し、よく知られている結果に至るのである。彼の無知というものもやはり知恵の相対的な一類型を意味しているということである。それは傲慢な見せかけの知との比較によって見えてくるものである。

(227.2)

 ソクラテスが、人はみなまず自分自身を配慮しなければならないということを自身に激励したものと受け取った神託の言葉はどういう面において意義深いだろうか。ソクラテスの神託の意味についての推論と、彼の自己認識をめぐる努力は、死を忘れるなという言葉で組み尽くされる訳はない。ソクラテスは自己認識の主題を三つのさらなるテーマと関係させる。1. 彼は自身の行いについて、自身の内的な声(daimonion)に責任を負う。2. 彼はデルポイの神託の言葉を、試験を課された[9]自覚的で調和のとれた生を送ることへのすすめと理解する。 3. 彼は神託の言葉を神への使命だと理解する。

 

 228.2

ソクラテスの弁明は自己への意識の発見と、道徳的な「内的空間」の確立の関係を変容させた。テクストの別の箇所においては把握された自己意識と、良心の関係をめぐる理念史を理解可能にする記述もなされている。syneidesis(意識、知恵)というギリシア語の表現は、自己意識的な存在という理念と、そのような人間の道徳的な制御能力の理念という意味の中間で、二重の意味を含意していた。「内的な関係知識(inneren Mitwissenschaft)」というものを表現する際には、二つの意味が接触していた。良心の概念は付随的な自己意識の理念に由来するということは、さらに前のテクストにおける箇所で示されている。デモクリトスはその語の概念を「悪い生活のありかたについての自己意識」と定義している。その他にもエウリピデスオレステスは、苦しみというものについて、決まっていた見解(synesis9の現実化として、自身の内側に襲いかかるものと理解している。彼が意識している(synoida)のは、何か恐ろしいことが起きたということである。エウリピデスは復讐の女神であるエリュニエンのよる苦しみの現実化を、人間の内的領域での現実化現象として理解する。

(228.3)

 内的な自己関係的知識の表現に由来する良心概念の成立は、いわゆる恥の文化から罪の文化への移行と関係している。恥の文化は、逸脱行動に対して社会的制裁を課することで人間の関係によって生きる生における基準を貫徹させる。罪の文化は倫理的な規則を神に与えられたものだとか永遠の法として正当化する。罪の文化に対して、古代の宗教的な図式は、警告的、刑罰的な審級を行為者の内面にうつすことによって新しい良心の概念を際立たせている。自分は自分のふるまいについて、内面的な中間の知者(?)に対して責任を持たなければいけないということは、自律的な良心という理念のために、外的社会的な自己の行動への制約という立場は放棄される。内的な行動への原動力と内的な審級が後悔や反省を促すことを介した、自身の行動への自律的な評価という発想は、単なる規則遵守という立場に接近する。内的な行動への原動力と内的な審級は後悔や反省を促す。罪の文化から内面的な罪の文化への以降への道の途中にデモクリトスが位置付けられる。彼によれば「人々の前よりも自分の面前においてより恥ずかしい気持ちを感じないといけない。そして人は誰もそれを見てないときも、全人類が見ている時と同様に悪をなしているのである。むしろ人は自分のまえでもっとも恥じないといけない。そしてそのことは自分の魂に対しての確固たるルールとなっているのである。そして自分自身に属していないことは人間は行わないのである。」

 

 

 

 

 

 

 

[1] この箇所は訳出に自信がない"ut mihi in hoc Stoici iocari videantur interdum, cum ita dicant, si ad illam vitam, quae cum virtute degatur, ampulla aut strigilis accedat, sumpturum sapientem eam vitam potius,(この箇所は独語訳と微妙に違う)quo haec adiecta sint, nec beatiorem tamen ob eam causam fore."

[2] 必要条件でしかないだろう

[3] ここ独語はEinsichtなのである。直前のEinsichtは見解とか理論みたいな意味だったのだが、こちらも知恵でいいのだろうか。ホルンがEinsichtと述べたときに念頭に置いてるのは直前の外的善は価値がないという見解ないしは知恵のことなのだろうか。それはフロネーシスと表現されるものなのだろうか?

[4] 7行詩?

[5] エピグラフの?

[6]

[7] ここで韻律の話をしているのは、古代の七脚詩を念頭に置いているからか?

[8] seine Weisheitは彼の知恵なのか、無知の知なのか

[9] geprüftes

2016年度 近代日本法史 パテルノストロについての報告レジュメ

 以下のものは学部の時のゼミのために作った資料です。その場でとある資料を読み解くための補足として作ったのでこれだけでどのくらいインフォマティヴなのかはわかりません。口頭で補うことを想定しています。

 じゃあ載せるなよという話ですが、自分は書いたものの管理が下手でよく紛失してしまうこともあるため、消滅を防ぐ目的の下掲載させてもらいます。

 

 ちなみに2016年の冬学期は二回報告をしたが、これが一回目であり、以下のリンクにあるのが二回目のものです。

kannektion.hatenablog.com

 こういったテーマは改めて読んでも興味を惹かれるので、ビトリア戦争論やインディアス問題に関する議論などを扱う時にまた学びなおすようにしたい。

 

 

 

 

 

 

 

・ パテルノストロ(1852-1899)について。

家系[1]

祖父アントニーノ(1789-1857)

 パレルモ近郊に生まれパレルモ大でローマ法、教会法を修める。その後カルボネリ党の党員として革命運動に参加

 

父パオロ(1821-1885)

 アントニーノと同じくパレルモ大法学部を卒業。1848年の革命に関与し、亡命。亡命先のエジプトでは政府の法律顧問として司法制度の改革に関与。そのアレクサンドリアで1852年、アレッサンドロが誕生[2]

 

 日本に至るまでのパテルノストロ

1859年 エジプトからイタリアのトスカナへ

1874年 ローマ大学法学部を卒業し、刑事弁護士

1877年 ナポリ大学の憲法担当の私講師

1789年 国際法の講義も担当

1881年 パレルモ大の正教授

1886年 パレルモから下院議員に選出。衛生問題、軍事問題に傾注。

1888年 日本の申し入れに対する首相クリスピの推薦によりお雇い外国人として、1892年まで司法省で働く

 

 司法省お雇い外国人としての仕事[3]

 1889年国会開会式に際して

 「山形内閣成立し、第一回帝国議会に臨む事になったのであるが、かくて山縣内閣は帝国議会の開会式に関する諸準備を進めた。(中略)この開院式に関する英国学者の説をパテルノストロへ調査せしめ、開院式の勅語及び奉答に関する手続きを調査した[4]

 

 大津事件に際して[5]

 1891年の大津事件で、井上毅から諮問を受けたパテルノストロは、事件の対処に関する10箇条に渡る建議を行う[6]。その他にも、医師の派遣を行った。

 事件後の法的議論としては、井上毅に、皇室に対する罪として罰する事は不可である事、第133条[7]の適用もできない事、外国における同様の事例に妄りに依存する必要はないことを述べた。之を受けて井上毅は、伊藤宛てに、皇族への侵害は国家への侵害と同視するわけにはいかないため、刑法116条[8]も適用できず、謀殺犯未遂として処理すべきことを具申している。

 

 選挙干渉に関して

 1892年2月の衆議院選挙での、内相品川弥二郎を筆頭とする選挙干渉事件に際して、政府から意見及び本国の選挙制度のあり方の報告を求められている[9]が、事実としてそのような例がイタリアにあった事を認めつつも、政府が道義を維持しない事は認められない旨述べている。

 

 

 法典論争に際して[10]

 1892年5月20日付の榎本武揚の、貴族院に提出された民法商法施行延期法律案に関する質問への応答[11]を行い、これをもとに榎本は26日、領事裁判撤廃のための法典実施の必要と、国際法学会において日本の法典が注目の対象となっている演説を行った[12]

 

 

 

 

 

・ 日本の条約改正問題[13]

 

 法権回復は、不平等条約改正問題の当初から最重要問題と意識されたわけではない。政府の財源確保の必要と相まって、協定関税改正及び、税権の回復が当初は目標とされていた。

 その後は1880年より、アメリカから外務省顧問として着任したお雇い外国人デニソンの助力の下で条約励行主義[14]を図っていた。西洋諸国との条約の改正は条約改正会議に基づいて行われるようになり、本国との直接交渉、当事国の内の一国との抜け駆け的交渉は困難であった。

 

 井上外相の下で行われた1886年の条約改正会議における案では、領事裁判の撤廃は認められたが、内地、解放、法典編纂の通知、外国人判事の任用を認める事となった。

 大隈外相の下で1888年にメキシコとのほぼ対等な条約を締結させ、1889年よりアメリカ、ドイツ、ロシアとの間で改正された条約が調印された。しかし、条約案における外国人判事任用、及び法典編纂の通知という事項が朝野の反発を招く事となり、米独露との条約の締結は延期される事となる。

 

 1890年までの議論では法典編纂の通知という事項こそが、日本の法典の施行にあたり欧米諸国への承認を要求するという、自国の独立を損なうものとして強く問題視されていた[15]。それに対して外国人法律家の任用は妥協可能なものと受け止められた[16]陸奥宗光も外国人法律家の任用はむしろ裁判の改善につながると肯定的な意見を述べているそうだ[17]

 

 外国人判事任用と混合裁判所との相違

 パテルノストロは外国人判事任用に関してはどう考えていたのか[18]

 

・ p. 11までの本文の論旨(フランス語での報告も参照)

 

 第一 国際法は近代の現象で、キリスト教圏の外に適用される事はその法が出来てさらに後の事であった[19]。文明国による国際法をそうでない地域に適用できないことはまあ正当である。

 

 第二 現在の国際法の常識として、1. 今日の国際法は人間一般の本性に基礎を置いており、その目標は人類の組織化である。2. 国際法は人類一般の法で、信仰にかかわらず人々を一つにする。3. ヨーロッパ人に限らず地球のあらゆるところに国際法は及ぶ.

今や国際法の適用に関して問題になる要素は文明の進展の程度がそれである。

 

 第三 国際法の観点からして、国家を評価するには、 その組織化、法、習俗が、国際法の共同体の中で平等の歩みを認めるに必要な段階にある事を示す事である[20]

 日本帝国で政治組織、法律の制度と実際、国民生活などを観察した人は、日本における国際法上の不平等は必要な国際法の原理と実践[21]に反する事に気づく。これらの認識が広まる事を願う。

 

 第四 1874年の国際法学会の設問は、東洋諸国への国際法[22]の適用可能性についてだった。そこで生じた具体的な問いは以下である。

 

  1. 東洋諸国人民の義務意識はキリスト教圏の人と違いがあり、あるならば国際法の共同体に加入できないほどか
  2. 東洋諸国の人民の条約順守の意識は、キリスト教圏の人と違うのか
  3. トルコや中国、日本の社会状況は、領事裁判圏や例外的管轄権の保持を正当化するほどか。これらの管轄の状態を改善する方法はどのようなものか
  4. キリスト教圏の国が東洋で行使する管轄権の存在は公正な裁判確保のために領事裁判その他の制度を行うことが必要であることを示していないのではないか[23]
  5. 東洋の人とキリスト教圏の人の間の子に対して人としての身分、能力を認める事ができるのか

 

 これらの問いに対して十分な回答は出ることなく、1877年にこの議論を延長する事を協会は決めたが、ダットレー・フィールドは協会に以下の二つの命題を示した。

  1. 次の項目で述べる以外は、東洋諸国に国際法上の権利を認める事
  2. 東洋の裁判制度が西洋と同じになるまでは、混合裁判所を設け、アメリカ人西洋人の公私両方の利害をそこで処理する事

 ということは、領事裁判制度の廃止は言わずもがな、東洋の裁判制度が西洋と同一なるに至れば混合裁判所も廃止されるべきなのだ。国際法の観点からして日本の司法制度は西洋国家と同じ高みに発展している[24]

 

 1879年にトヴィスは、東洋諸国一般ではなくもっと個別国家を重視する事。資料の不足、信頼性の欠如がある事。東洋国家同士の相違は大きい事を述べた[25]

 

 

・ 以下、邦文から離れて紹介

Sir Travers Twiss ”rapport[26]” in Annuaire de l'Institut de droit international(1880)

 オスマン帝国、ペルシア、中国、日本の人々は、payennesやdemi-sauvage[27]の人とは区別され、西洋と彼らの関係は、西洋とnon civiliseesの人との関係とは違う。これらの人々との関係について答えるのは非常に困難である。東洋の国に住んでいる西洋人の専門家は、自身の公的職務に尽力しており、当地の政府の許可なくして情報提供することは殆ど不可能である。退職した(それらの国の)公務員はおそらく、慣習や法の改善についての東洋の幾つかの国の情報を提供しないだろう。(p. 301)

 

研究を進めるために2つのことを私は確信している。

  1. 東洋諸国と私たちとの間に横たわる、理念、信仰における相違は、国際法に基づく相互の一般的関係を想定することができないほどのものではないということ。
  2. 東洋の人々は、キリスト教圏の人々と同じく締結された条約を守る義務感を受け止める認識がある事

 困難は理論においてではなく実践のレベルにおいて存する。例えば、中国と日本の間には大きな相違があるのであり、大きさと機敏さから中国は象に、日本は早馬に例えられるのであり、東洋一般ではなく特殊事例について考察しなければならない。(p. 302)

 

 

 東洋諸国の司法行政に関して、私に情報をくれた専門のヨーロッパ人は皆、ヨーロッパ人が司法制度から免除される、カピチュレーションの制度を廃棄する時期は来てないと助言をしてくる。領事制度の理にかなった進展の要求は、判事(としての領事)の能力、裁判所の組織についてのものである。欠陥を伴う領事裁判制度を評価するには、Actor sequitur forum rei、原告は被告の裁判籍に従うという原則を念頭に置けば良い[28]。(p. 304)

 

 日本の法の改良については、しばしば伝えられているが、望ましく、偏りのない法適用はまだ見込めない。法の実際の運用とヨーロッパの判事との共同を期待する。(p. 304-305)

 

 

・ 邦文へ戻る p. 9

トヴィスは[29]日本社会の発展を認めているのだが、彼の認めるところは

 

  1. 刑事裁判で西洋人は日本の方に服さない
  2. 西洋人の同国人への民事訴訟は当事者の本国法で決する
  3. 西洋人が他の西洋人なり日本人に民事訴訟を起こす際は「原告は被告の裁判籍に従う」という原則で処理する

 というものである。これらの変更を提案する根拠として、トヴィスは現行制度の4つの欠点を挙げている。

 

  1. 国籍の異なる複数の原告に対し、領事が十全な裁判権を行使できない
  2. 領事と国籍の異なる承認を召喚できない。
  3. 当事者の一方が反訴により被告になったり原告になったりする事で適用する方が異ってしまうこと
  4. ある西洋人が経済的な関係を結んだ日本人と他の外国人に対して訴訟を起こす場合は、管轄はどうなるのか、一方のみを起訴しても臨む結果が得られない。

 

 以上がトヴィスの指摘する欠点だが私はあとでこれ以外の欠点を説明する

 

 さらに彼は民事商事に関して、1人以上の外国人が関わる訴訟を行う特別裁判所なるものを提案している。それは半数の判事が外国人であるものだが、前外務大臣大隈の案よりも悪い。

 彼の案は民事刑事どちらも大審院に限って数名の外国人判事を置くのみであった。さらに彼は、日本の刑法点を賛美しつつも、キリスト教国の領事が裁判権を混合裁判所に委ねた前例を知らないと述べ、西洋と東洋の刑法の相違を重大視しているが、これはおかしい。さらには、古代の英国において混合裁判が行われて居た例を持ち出して混合裁判所を正当化しようとするのもおかしい。

 

 

・ パテルノストロの雑誌論文における付録

  1. 193以下、付録1は日本の法典編纂について、付録2が日本の法文化について、法学校、法学会のあり方、学術書の翻訳状況を、付録3は対外問題に関する政府組織について伝える

 

 

 当時の国際法理論からしてパテルノストロの議論は受容可能か[30]

  • パテルノストロの国際公法講義

 国際法の存在様態

 人によっては、国際法なるものは国家間の利害調整に服するもので、条約の形をとって始めて存在すると述べるが、それは法文と法を取り違えている[31]

 

 

 

・ 総論的な国際法の議論から見た東洋

 

James Lorimer (万国国際法学会創設メンバー)“The institutes of the law of nations”(1883)[32]

 

 政治的現象として、humanityなるものは、三つに区別される。A. Civilisedなもの B. Barbarousなもの C. Savageなもの。これらの相違が、民族の特殊性、同一民族の発展の段階どちらによるにせよ、civilisedな国民は3つの承認の段階を備えている。1. 政治的承認そのもの 2. 部分的承認 3. 自然的な人間としての承認(p. 101)  

 

 1はヨーロッパのすべての国家に及んでいる。植民地支配の関係からヨーロッパ生まれの人やその子孫にも至る。それと、北及び南アメリカにも。これらは本国であったヨーロッパからの独立を正しく立証している地域だ。(p. 101-102)

 

 2はヨーロッパの例外としてのトルコ、そしてアジアのold historical state[33]であるペルシア、中央アジア小国家、中国、シャム、日本に及ぶ。(p. 102)

 

 3は残りの人類に及ぶ。ただ、発展段階である民族(race)と発展してない民族は区別しなければならない[34]。(p.102)

 

 国際法学者が直接扱うのは1である。が、partialy civilized[35]な共同体と1との関係は考えないとならない。Law of nationsは、barbarousだったりsavageだったりする人々[36]には適用されない。だが、彼らが2の段階に入る地点、手段は考えるべき[37]。(p. 102)

 

 (トルコは試みに完全な承認をして失敗だった話をして)一方で日本は、彼らの発展速度を20年保っており、政治的承認そのものに値するか否かを決めることが必要になるかもしれない。(p. 102-103)

 

 承認の学説は、絶対的な相違と相対的相違を区別すべき。何となれば政治的承認そのものをしており、citizen相互は平等な国家相互でも不平等は存するので。諸国家はpowerでも、rightでも相違し、それに従って相互の承認の程度も異なってくる[38]。このような実践的には解決不能な相対的承認の問題を私は恐れる。(p. 103)

 

 (国家の承認の問題に関する議論は、他国の承認に依存する以上、どうしても形式的、仮設的なものにとどまらざるをえないが、あえて言うならば)承認を得るためには、国家はa. 自身が要求する承認を相手にも与える意思 b. その承認を相手に与える能力 がなければならない[39](p. 108-109)

 

 承認を求める国家は、承認を求める国家(とうぜん1のグループ)から、国家間関係の上の存在としての義務を遂行する能力と意思を認められなければならない。意思の存在は、互酬性を守る意思を不可能にする特徴が存在しないことを点検して確かめられ、能力の存在は、jural capacityの存在によって判断される。(p.133-134)

承認によって、国家は法的能力、正確には自然法によってすでに保持していた法的能力が、実体的な国際法によって得られるようになるのだ(p. 135)

 

 自由な国家は自国の良心、判断[40]のすべてを他国に押し付けることはしない。政治的承認そのものにそのような事項は含まれないのである。各国家は他国の内国法、私法公法にわたる裁判所の判断を尊重するのである。だが、civilisedな国家とsemi-barbarous[41]な国家との関係の場合は異なる。たとえ外交関係が国家間で結ばれても、s-bな国の内国法、私法公法の承認には至らない。ただし、s-bの国の国民に対して適用されることは認めるのである。承認する川の国は結果的に、部分的承認をした相手国内に区別された裁判所を設置し、区別された裁判権を行使する。その裁判所では、設置国の市民相互の、多くは設置国市民と現地国民の訴訟を扱う[42]。(p. 216-218)

 

 ロリマーの議論においては東洋諸国と西洋諸国に相互性が存在しない事はなんら問題はない。客観的に文明の進展度などを要件としているが、最終的に平等の関係をとるか否かは、進んだ国の側に承認の権利が認められているといってよい[43]

 

 

 

[1] Mario Losano “Tre consiglieri giuridici europei e la nascita del giappone moderno” (1973) p. 590以下、森征一”司法省お雇いイタリア人アレッサンドロ・パテルノストロ来日の経緯” (1980) p. 265以下

[2] Losano1973には1853年生まれと記されており、パテルノストロの訃報を記した1899年6月20日の”東京日々”は、「年齢五十歳」にて亡くなると記されているが、森1980は複数の資料からの対照により1852年生まれであることを確認している。Losano2011では1852年生まれに修正されている。

[3] 梅渓昇『お雇い外国人の研究 上』(2010) p.398以下 余談だが

講談社学術文庫の梅渓昇『お雇い外国人 明治日本の脇役たち』(2007)にはパテルノストロについての記述はない。

[4] 小早川欣吾『明治法制史論. 公法之部 上巻』1940 p.543,544   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048557憲法資料』p. 230-251 の”クルメッキ氏日本憲法に関する意見書にも関与しているそうだ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1233057

[5] 木野主計”大津事件井上毅”『国史学』76号 http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f6-2.pdf 、Losano1973

[6] 1. 天皇陛下が直接皇太子のもとに赴く事(木野によればこの事項は天皇自身がすでに思いついていたそうである)2.ロシア皇帝に慰問の電報を天皇陛下自身が打つ事3.コンドレアンス(慰問書)を皇帝に天皇陛下が送る事4.電報は日本公使を介する事5.在外公使に事件の詳細を知らせること6.犯罪の審問は日本の法律に厳密に則って行う事7.新聞、政党その他の結社団体は遺憾の意を表明する事8.日本国民が無政府主義に通じていないか調査し、その兆候があればそれを外国にまで追跡する事9.官報に日本の地域、人民が皇太子宛てに事件への憤懣と皇太子の快癒への祈りを記載する電報を送るように記載する事10.国会議員は、閉会中に私的に集まって、事件への遺憾の意と、皇太子への配慮を表明した決議を行い、各人の名義を寄せる事   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207983 に原文あり

[7] 外國ニ對シ私ニ戰端ヲ開キタル者ハ有期流刑ニ處ス其豫備ニ止ル者ハ一等又ハ二等ヲ減ス. いわゆる私戦予備の規定である。ある私人と外国との関係を私人の本国が関心の対象とするという思考の端緒はこの事件にも表れているのではないだろうか。

[8] 大逆罪

[9] これは他の法律顧問にも問われたもので、ボアソナードのみが選挙干渉に同情的な立場をとった

[10] 武藤智雄”パテルノストロ家訪問記”『法律時報』第9巻12号

[11] これまでの研究では書簡の内容がよくわからないのだが、Mario Losano “Alle origini della filosofia del diritto in Giappone. Il corso di Alessandro Paternostro a Tokyo nel 1889”(2011)には、6月19日の榎本からパテルノストロへ宛てた手紙が載っている(p. 212)。

[12] そのことを暗示する榎本の秘書官曲木の感謝の書簡がLosano2011 p. 207にある。”Riferisce I ringraziamenti del Vinconte Enomoto per””la longue note sur l’adjournement des Codes qui vous a été demandée”””

[13] 梅渓2010 上 p.390以下、五百旗頭薫『条約改正史』(2010)p. 223以下、

[14] ここにおいては、条約遂行能力を示す事で海外からの評価を得るという側面が強い。1890年以降は外国人に対して行政規則による取締りが条約において許されていることを背景に、外国人の行う密猟、言論の取締りを徹底することを主張するものとなった。密猟の取締りについては森田朋子『開国と治外法権』(2005) p. 17以下

[15] 例えば1887年6月24日の福沢諭吉の社説「法律の寛厳良否に論なく、其法を義弟して之を施行するは自国の主権にして、苟も我が本意にあらざる所のものは断じて之を採らず。独立国の本色はただこの一点に存て存するのみ」

[16] 前注の福沢の社説「唯他に貸すべからざるものは法律の権にして、仮令へ外国の法學士を召し、判事を雇ふも、我が主権の根本たる立法司法の全壁には外人をして一毫もふるる所あらしむべからざるなり」

[17] 五百旗頭2010 p. 277

[18] パテルノストロは父がエジプトの法律顧問であった関係上、混合裁判所制度に関する知識は十分にあるのだと思われる。エジプト混合裁判所制度は、当事国がどこかに関係なく複数の国家の判事で構成されるものであった。

[19] ここでサラマンカをやろうとする人間の肩身が狭くなる

[20] パ氏の学会雑誌掲載文のp. 7のⅢの一段落目から引っ張ってきたが、訳文の「同一の権義を挟みて…」以下に相当するものはなさそうである。

[21] いまひとつ意味がわからない。Mutatis mutandis的な思考か?

[22] 国際法と書いてあるが、仏語だとここはdroit internationalではなく、 droit des gens européenなのである。

[23] 否定疑問文?

[24] 「領事裁判を廃し、かつ混合裁判を拒絶し、以て十分に対等の権利を享有しうべき事はもとより論を俟たず」という邦訳p. 5五行目の議論は仏文にはない。(もちろん論理的に出てきそうではあるが)

[25] 邦訳p. 5の最後に出てきたフィールド氏は、仏語文の主語ilを追うとおそらくトヴィスである。内容的にもトヴィスの1879年の”rapport”に一致する。

[26] パ氏が五ページ八行目で言及しているのはこの報告と思われる。

[27] payenとdemi-sauvageは後述のロリマーの区分と同様のものと考えていいか?

[28] 講演邦訳ではフィールド氏による議論とされているものと酷似しているが、これはトヴィスの議論である。おそらく仏語ではrappoteurとなっているので捉え損ねたか。邦語の研究でこの箇所を引用するものでこの箇所に特に言及しているものは管見のところ存在しない(トヴィスがまた引きしている可能性は否定できないが、”rapport”の文章で特に参照は書かれて居ない)。

[29] 以下は日本在住の外国人向けに発行される新聞、Japan Daily Mailの内容であり、”rapport”には存在しない議論である。(おそらくこちらは英文)。当該記事を発見する事が出来なかったが、日本にいる外国人に向けてなされた記述だという事は意識しておいていいだろう。特に指摘する欠点などは西洋人の視点から主張されている事は一見して明らかで、パテルノストロの応答がきちんとかみ合っているのかを見定める必要はある。

[30] 当時の東洋諸国への国際法適用の問題の理論化の諸相について、住吉良人”日本における領事裁判制度とその撤廃(2)” (1969) p.23以下から。それによれば、なぜ領事裁判制度を東洋に適用するのかということに関して4つの視点が見られるという。(おそらく相互に排除する議論ではないと思われる)

  1. ヨーロッパ諸国と文明の程度において差があるがゆえとする立場 これは後述のロリマー含め、アンチロッチ、ハーシェイが該当するという。但し、領事裁判制度は中世などでは領事は裁判をしていたことを念頭におけばなんら不自然ではないこと、あくまで過渡的であること、をこの論者は強調する。このグループの中にも相手国の国家主権の侵害として制度を理解するものもある。
  2. あくまで文明の優劣でなく、相違ゆえに適用するとする立場 ここにトヴィス、ウェストレークが含まれる。理論的帰結としては相手の固有の社会秩序を尊重するが故に警察権を認めている(ウェストレークの場合)、トヴィスにおいては、自国民の保護、滞在民同士の対立調整以上の介入は不当と判定される。
  3. 領事裁判権は領事裁判制度を認めた国の権利を代理行使しているとする立場 アメリ最高裁判事フィールドなどがそうである。    
  4. 領事裁判制度を認めた国は国際社会のメンバーとみなされないとする立場 コーベットなどがそうである。この場合、条約締結能力と国際社会のメンバーである事は別個のものとして観念される。

[31] 『国際公法講義』(1897) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798170 講演の説明からしても国際法に対し自然法的な認識をしている?

[32] https://archive.org/details/instituteslawna03lorigoog パテルノストロはその講義 で、国際法学会の会員の著作は皆参考にするに足りと述べているのでロリマーの参照は的を外しているわけではないだろう。

[33] 国家構造の相違を念頭に置いている表現?

[34] パ氏の民族観にもこの区別は存在しているように思われる。

[35] Savage,barbarous,civilizedとまた別の標識!

[36] Savages,barbariansなのでここは人間集団を念頭に置いていると思われる。

[37] 1,2,3とS,B,Cの区分をアナロジーで考える議論ではない。

[38] ここで先の承認の3区分は人間の扱いに関する問題ということが推察される。絶対的区分は三段階のもので、相対的区分は国力に応じ区々ということか。

[39] 以降の章で、reciprocating willを損なうような宗教的、世俗的信条について論じている。

[40] 具体例として、米国人の市民としての特権、ドイツの離婚制度が他国の法制度に影響を及ぼさないことが挙げられる。

[41] Barbarousとsemi-barbarousの区別について殆ど論じられていない

[42] この説明に従えば、相互性(設置された国も相手国に裁判所を設置すること)を認める必要がない。

[43] このような立場とパテルノストロの議論の整合はどうか。一方的条約破棄論などはこれに対立すると言えるが、学会を含めた西洋社会からの認知を重要視する姿勢は存在している。

Pocock, Barbarism and Religion: Volume 6, Barbarism: Triumph in the West(2016) 15 Ambrose of Milan p.293-308

 

Pocock BR6 15章 Ambrose of Milan

 半ば趣味の営みだが、ビトリアの教会論と聖職者の世俗の権限を巡る議論を読むのにも示唆的であった。ただ、BRの中でもギボン自身の評価とポーコックのコメントが入り組んだ箇所なので筋を綺麗に追跡するのに苦労する箇所である。

 個人的には霊的権力の自立が単に介入を禁止するだけでなく、正統な信仰の維持が世俗的権力の行使によって初めて果たされるといった場合は世俗権力の行使を要求し得るといった論点や、正統信仰に反し得る世俗的権力行使に対して霊的権力が何がしかのサンクションを与え得るといった議論をもう少しソースを携えた状態で提示して欲しかった。


アンブロシウス・教会と帝国

 ギボンのテクストの27章には以下のような説明がある

「迫害の理論は、その正義と敬虔さが聖人によって称えられるほどであったテオドシウスによって成立したのであった。だが、その実行自体が十分になされたのは、彼の同僚にしてライバルであったマクシムスによってであった。彼はキリスト教徒の皇帝の中で初めて、宗教的意見によってキリスト教徒の臣民の血を流させたのである。」(Wormersley版 p. 38)

 以上のような異端への迫害の動向を踏まえて、ギボンはアンブロシウスと、トゥールのマルティヌスに言及する。

「ミラノとトゥールの司教は、異端への厳格な態度を容赦なく主張していた。しかし彼らは異端者たちが現実の死に至るという血腥い有りように驚愕し、その自然な心情でもって、神学的な前提に抗するようになった」

 このような記述は啓蒙主義的な発想に立つともいえるが、同時に法の言語だとも説明し得る。実際ギボンは以下のようにも説明する。

「アンブロシウスとマルティヌスの人間性による理論への異議申し立ては、Priscillian達に対する法的手続きが適正さを欠いていることによってさらに強化された。世俗と教会の行政官たちはお互いの境界を侵していた。世俗の裁判官は訴訟を受理し、信仰や司教の権限に関わる問題に確定的判決を下し、司教たちは刑法的事案において死刑を宣告するといた事態に陥っていた。...Priscillian達への死刑宣告以降は、対応が改められ、迫害の犠牲者は聖職者から法適用を担う人物へ、そこから更に執行者へと移送されるようになった。それ加えて霊的罪を宣言する取り消し不可能な教会における確定判決は、敬虔さと救済の言語に則った寛容な表現で行われるようになった」(pp. 39-40)

 聖職者制度の確立は、自立した霊的権力をもたらすという意味で、古代から近代への以降を示していた。そして皇帝は霊的権力が自身の固有の論理で作動していることを認めるようになったので、かえって二つの権威の領分は不明確になった(霊的権威が独自の論理で世俗的な権限を担う可能性を認めるという意味か)。そこにおいて迫害は、そのほかの宗教の場合とは異なり、どちらか一方の権力がもう一方の権力によって定義された異端者の規定によって行われるようになる。


 以上のような状況の中で、テオドシウス統治下を描くギボンのテクストにおいて主人公的役割を果たすアンブロシウスの活動は、教会と国家をめぐる歴史に新たな一歩を歩ませるものとなった。ギボンは、アンブロシウスが世俗の統治者から聖職者へと転身し、皇帝グラティアヌスの霊的な助言者となり、マクシムスの反乱のあとの帝国の安定に貢献したことを記している。特に言及されるのは、ウァレンティニアヌス帝の母であるユスティーナが、ニカイア信条に反して自身のアリウス派の信仰をミラノにおいて認めさせようとした事件である。これに関してユスティーナが皇帝は自身の支配領域において、自身の信ずる宗教を公的に広めることが許されると述べたとギボンは紹介するが、4世紀にも、ギボンの生きる18世紀においても、主権者が自身の宗教を広めることが私事に過ぎないと評価する程寛容ではなかった。

「アンブロシウスの対応は特殊な見地に依拠していた。確かに地上の王国は皇帝に属しているかもしれないが、地上にある教会はその教区の枠内おいては神の家なのだと彼は考えていた」

「そしてアンブロシウス自身は、使徒の継承者で、神の唯一の補佐官なのであった」(p. 41)

 アンブロシウスは世俗権力に教会を明け渡すことは断固拒否し、場合によっては殉教も辞さない姿勢を見せていた。ユスティーナは自身の当初の意図を挫かれつつあったが、ミラノでのアリウス派の信仰のための聖堂建築を目論見出した。それに対して人民の暴動が生ずることになる。アンブロシウスは
「統治者に恭順を示すことで自身の教区を平和状態に戻すように懇願された。それに対して彼の返答はとても控えめで尊重に富んだ表現であったが、毅然としており、内乱の宣言とも呼び得るようなものであった。」(p. 43)

 このようなアンブロシウスの姿勢がもたらした自身への危機をギボンは以下のように描く。
「ウァレンティンイアヌス帝の母は、アンブロシウスの勝利を決して許さなかった。そして若い皇帝は感情的に自身の部下たちが自身を裏切り、反抗的な聖職者の手の下へ彼を追い込もうとしていると悲嘆することになった」(p. 43)ここにおいて彼の読者やギボン自身、ヘンリー二世のトマス・ベケットへの不平を連想しないわけにはいかないだろう。最終的にアンブロシウスは生命の危機を免れるわけだが、そのことをギボンは注釈において、その他の殉教者と対比している。以上のような出来事はギボンの歴史記述において決定的な役割を果たす。彼は次の28章では殉教者や聖遺物への信仰にキリスト教信仰の変容を見いだしている。
 世俗権力の圧力の犠牲者としての宗教者という視点は、教会の2つの目標と連関しても重要である。その2つは、皇帝権力からの自立と、非正統への不寛容であり、この自由をめぐる観念の根本的な両義性が、西洋史における通奏低音となっていく。


 ここからのアンブロシウスの事跡の確認はギボンの記述とTillemontの記述の対比として行われる。あくまでも両者は歴史、すなわち政治社会の歴史として記述が進んでいることに注意されたい(この政治社会の歴史=歴史といった発想についてはBRの三巻を、教会史との対比は5巻のエウセビオスについての記述を踏まえているのだろう。Tillemontとの対比はここより前の章においても展開されている)。ギボンはTillemontの記述を踏まえつつも、単に統治者側中心の歴史を描くだけでなく、宗教や哲学への知見をそれに統合した叙述の提示を行っている。27章においてギボンは、テオドシウスの資質の善悪を論じつつ、帝国の衰退と滅亡という彼の叙述の筋に対して決定的な役割を果たした出来事を紹介している。
 そこで紹介されるのがテッサロニケにおける虐殺と、テオドシウスがそのことについて改悛し、赦免を求めるという事例であるが、Tillemontはその事例をアンブロシウスの人生に含まれるものだとして(本著のp. 14に記されるように、Tillemontの著作はより広い歴史書のシリーズの一角として執筆されており、ここではアンブロシウス含む聖職者に関する伝記がシリーズの別の歴史書に含まれることを念頭に置いている)叙述から抜いている。ギボンは彼らの政治史(civil history)への影響に興味を持っていたと評価できる。それではTillemontはそうではなかったのだろうか。

 たとえば、以下に紹介するカリニクムの司教に関する事例について、ギボンはテッサロニケの虐殺におけるアンブロシウスのテオドシウスへの憤慨の前史として両者を一つの叙述に組み込んでいるが、Tillemontにおいては別の事例として異なる箇所に組み込まれている。388年に、カリニクムの司教が信徒を動員して当地のシナゴーグを破壊させたのであったが、テオドシウスはその司教に対してシナゴーグの再建を命じていた。それを知ったアンブロシウスはテオドシウスに対し、当該司教にそのように命じることはキリスト教の信条が命じる義務に反する行いだと指摘するのであった。

 ギボンによればアンブロシウスは「ユダヤ教徒への寛容はキリスト教徒への迫害を意味するものだと考えており、その意味でカリニクム司教の行為は称えられるべきであるし、彼は殉教者だと言えるという見解から、テオドシウスの行為が彼の名声と救済の妨げになるだろうと感情的に表明した」(p. 58)とされる。

 それに対してTillemontにおいては、アンブロシウスが本来は換えに意見するべきでないと考えつつも、敬愛するテオドシウスの救済のためにやむを得ず意見をしたという表現がなされている(L`amour mesme qu`il portoit a(`) ce prince, dont il estimoit beaucoup la pietè 

....le fit resoudre mesme à l`offenser,...)(ポーコックはTillemontの、先の皇帝の歴史に関する歴史記述とは別のテクスト、教会史への覚え書きMemoires pour servir à l`histoire ecclèsiastiqueから引用している)。

 その他にもTillemontは、アンブロシウスがあくまでもテオドシウスを、彼を聖なる地位を保持する教会の一員であり、更にその中での優越的地位を持つものとみなしていると読み得る記述を行っている。彼は皇帝の霊的判断における自立を前提していたとされる。

 教会の霊的任務は単に世俗権力からの免除を受けるだけでなく、皇帝権力も介した裁治権を政治社会や統治権力にも及ぼすことでその目的を達成するのである。

 この箇所においてもギボンの読者は先のヘンリー二世の時代の事例を連想するだろう。トマス・ベケットと、有罪の聖職者の裁治権をめぐる問題がそれであり、12世紀のその問題も4世紀と同様に単なる殉教の問題ではなく、キリスト教秘蹟を巡る問題でもあった。ギボンもTillemontも、先の事例を発端としてアンブロシウスは、霊的権力の自立を認めない皇帝に秘蹟を与えるべきでないという考えに至ったと考える。それぞれの説明は少し異なっている。
 ギボンは「個人的な説得では効果がないと考えたアンブロシウスは、カリニクムの司教やその命令の実行者たちを皇帝が無罪とするまで秘蹟の授与をしないことを公的な説教において宣言した」(p. 58,n.92)
と述べ、その上でテオドシウスは、それ以降は積極的にユダヤ人迫害とシナゴーグの破壊を行ったことを記している。
 Tillemontはアンブロシウスがテオドシウスに許しを与える儀式の場面を具体的に示すが、アンブロシウスは決して破壊を要求はしなかったと述べてギボンとは解釈を異にする。

 ギボンとTillemont、そして他の歴史家の間にある相違を理解するためには、ソースの揺れにも注意するべきかもしれない。テッサロニケの虐殺やそれを巡るアンブロシウスの対応といったものは、アンブロシウスより一世紀を経た教会史家によるものであった。それらはアンブロシウス自身の手になる書簡に依拠するものであるが、後世の編集を免れてはいない。そして他のソースとしてアンブロシウスの伝記の作成者であるパウリヌスのテクストがあげられるが、おそらく彼はアンブロシウスのテクストの編集を行った人物の一人だろう。ギボンが脚注で指摘していることもおもしろい。異教徒の歴史家であるゾシムスには、テオドシウスを批判する箇所は多々あるにも関わらず、そのテッサロニケの虐殺やアンブロシウスに関するエピソードは書かれていないというのである。その他にもゾシムスがソースとしたエウナピウスにもそういったエピソードは欠けているとされる。実際近年の歴史家は、ミラノの教会の入り口でアンブロシウスがテオドシウスの入場を拒み、8ヶ月間の改悛を要求したエピソードをパウリヌスの創作に帰している。Tillemontも自身の年代期に八ヶ月もの悔い改めを入れ込むことに困難を感じているが、彼もギボンも同様に、教会の年代期に記されていることをひとまずの根拠としている。

 
 先のカリニクムやテッサロニケに関する皇帝とアンブロシウスの関係は、先に述べたようにヘンリー二世の事例やカノッサにおける事例を彷彿とさせるかもしれない。しかしそれらは教皇首位制確立後の話であり、Tillemontもギボンもそれらに直接なぞらえることはしていないし、ローマの教会への言及もしていないことは記憶されるべきである。

 

 

 
 

 

Maurizio Viroli, From Politics to Reason of State: The Acquisition and Transformation of the Language of Politics: 1200–1600(1992) p.1-15 内容紹介

 

 とてもキリが悪いところで終わっています。p. 30が一つの切れ目なのでここがちょうど半分くらい。残り半分を近日のうちに載せます。

追記 残り半分を当日中に全部訳しましたが、間違って削除して意気消沈してるので15-30はもう載せません。ごめんなさい

 

注意書き  civilとか、justiceとかreasonといった語についてはかなり訳を揺らしている。civilとpoliticalの語の両方に政治的という訳語を当てていることもある。

 

 

イントロダクション

 16世紀において政治思想の言語の変容、正確には政治という語のそれ自体の内容変化が生じた。それに加え、政治科学というものの位置づけも変容する。政治の科学は堕落や腐敗への対抗と言うよりは、それに追随する手段へと変容した。

 このような革命の内容はあまり理解されていない。その無理解を補うために本研究はある。13世紀イタリアで出現した政治に関する固有の言語が17世紀において失われてしまった。それは、政治というものが国家理性の類義語となってしまったことに関連している。その最後の時代において、その言語を保つために奮闘した人がいないわけではないが、結局は国家理性との癒着を防ぎ、政治固有の高貴さを保存することはできなかった。
 政治と国家理性の関係を巡る議論の通時的流れはいくつか見いだせるだろう。その一つはプラトンにおける政治的な人間とtyrantの関係を巡る議論に端を発し、現代におけるいわゆるリアリストと政治における倫理の必要を説く人間との対抗に至るものである。これは長期間にわたるうえ、広い地域で見いだされる論点であろう。
 だが今回私が扱うのは地域的にも時期的にもより限定されているものである。ブルネット・ラティーニなどにより表現されるような、正義やreasonに従って共和国の統治を行うことを意味する政治の概念とその衰退である。18世紀初頭のイタリア語の辞書では、政治は国家の統治という意味と、正しい統治という意味を有するものとされ、二つの意義の対抗が見て取れるが、事実上17世紀にはすでに、政治の意味変容は終了していたと言える。
 後者の意味に近い政治の言語は、政治的徳や市民法アリストテレス主義の伝統に根ざしており、その衰退と国家理性の言語の出現は連関を有する。

 13世紀から17世紀のイタリアにおいても政治の概念をめぐる対抗は存在した。それは、個人同士が理に叶った共同生活を送る為の共同体の保存を意味するような政治と、メディチ家のstatoに代表されるような特定の個人や集団が公的制度を支配することを意味するような政治の間にあるそれである。その時代に置いてstatoは、中性的な国家を意味する語ではなく、支配一般や、特定の共同体のあり方を指すものであった。その時代にはstatoとres publicaが背反する意味でも用いられた事は忘れてはならない。

 先に述べたように、国家理性に対抗する意味での政治概念も、reasonに則った政治という意味を有していた。だが、13世紀のラティーニが表現した意味でのそれと、16世紀のボテロのそれは大きく意味が異なる。まず政治を定義する際のreasonに、キケロ的伝統に由来するrecta ratio、正しい理性の意味を付与することが可能である。それは、立法や統治や行政決定における一般的な衡平の原理を表している。それに対して国家理性という語が内包する理性は、国家の保存のための適切な手段を考察して導き出す能力を意味している。後者は正当性や外にある正しい原理という意味よりも、個人、特に統治者に内在する技量といった意味を強く帯びている。それに対して前者の意味では、そのような個人的な賢慮は、recta ratio in agibilium、実践における正しい理性を意味し、正義の原理と結びついていた。

 以上のような区分を見ると、政治に正しい理性を求める側が衰退して国家理性を標榜する思想家が出現してきたのは、現実的に政治活動を分析する潮流がでてきたためだと結論づけたくなるかもしれない。だが、国家理性論に組みする思想家も、現実の政治、政策に対して伝統的な立場の人物と同様に異論の提示を行っていたことを無視してはいけない。歴史的文脈を踏まえれば、二つの立場の違いはあくまでも政策論レベルでの相違として理解するべきであろう。

 実際、それら二つの立場が同時期において存在し、政策や政治行動の評価を巡って対立していた事例はいくつか存在する。その意味で、14世紀イタリアにおいて存在していたのは、政治的生活を尊重する人文主義者と、観想と孤独を好むその批判者の対抗であるという視点は修正される必要があるだろう。その時期において既に、後の時代の国家理性の伝統の萌芽が看て取れるためである。そこに見られるものはrepublicとstateの対抗なのである。

 res publicaを尊重する側だけでなく、国家理性の伝統に棹さした思想家にも、ローマにおける政治を論ずる言語との連関を見いだすことができる。たとえばratio publicae utilitatis, ratio necessitatisといった言葉がそれであろう。だが、その意味はそれまでの解釈とは懸け離れている。グィッチャルディーニが国家理性の語を用いる際に意識していたのは、正義に基づいた統治や、よく秩序づけられた政体に結びつけられた政治の言語が不十分で、reasonに反しているということであった。


 政治をめぐる言語と同様に国家理性の伝統における言語も発展と変容を経験している。グィッチャルディーニにおいてはstateの起源は不正な簒奪に由来するものとされたが、ボテロにおいてはstateの存在は所与のものとして前提されている。この変化は、stateの正当性を難じる反対の立場からの批判を回避する効果を有していた。それにより、この伝統は自身の正当な立場を確立させ、stateを維持するための実力の論理に基づいたreason合理性を標榜した。


 本研究では幾人かの人々が、以上で述べた二つの立場に置ける言語をいかに描いていったかを追いかけていく。概略すると以下のようになる。
 ラティーニは、政治的徳とローマの市民的知恵の伝統に則り、政治の概念を濃縮させた。彼の弟子であるダンテは、政治の概念を拡張し、正義に則って政体を設立し、維持をするための正当な手法としても理解した。そのような発展の動向にはアリストテレス政治学の再発見も関連していた。

 バルドゥスは自身を都市を成り立たせるための営みとしての政治を理解する潮流とは区別し、政治を市民的な規律、正義をめぐる学問として把握することで、ローマの政治哲学(civil philosophy)の伝統との接続を行い、人文主義的な政治と立法の接続のこうしとなった。(law centred paradigmに基づいた人文主義理解?)そして、コルッチョ・サルターティは、市民的な幸福を得るための唯一の前提条件を得るため手段としての政治の理解を押し出した。それに対しそれ以降の人文主義者、レオン・バティスタ・アルベルティやポッジョ・ブラッチョリーニには、stateを重視した立場が入り込んでおり、同時にそれまでの政治の言語の衰退が見られる。

 マキャヴェッリ君主論はstateの保存のための著作と読みうるが、同時に彼には政治を共和国での営みに関わるものとして理解しようとする伝統の擁護者でもあった。そのような意味で、彼を国家理性の起源とする通説的な理解は誤っている。それに対してグィッチャルディーニは、国家統治の技法と共和国の維持のための思索の伝統を統合する必要を感じていたが、最終的には国家理性的な政治理解に軍配を挙げている。二つの立場の位置づけの変動を見るためには、グィッチャルディーニこそが理想的なモデルケースだと言える。

 それ以降の人間も本研究では扱うが、最終的に以降が完了した後では、共和国という政治的現実を失った伝統的な政治の言語は、存在するとしても単なるノスタルジーを述べるものや、ユートピアを追い求めるものとして受け取られるようになった。そのようなコンテクストの違いとして喪失は理解し得るだろう。それと同時に本来政治をめぐる一立場にすぎなかった国家理性の言語は、政治の同義語だと見なされるようになっていき、賢慮は正義や法とは切り離されたものとして理解されるようになる。

 以上のような動向の叙述が、近代政治思想における重大な局面の理解に資することを期待する。エピローグにおいて、現代の政治理論への可能なオルタナティブを提示することを目指したい。別に理論に興味のな人は読まなくてもいい。


1 政治の言語の獲得

 politics,politicalといった表現は教皇や封建君主による文書には見られないが、12世紀以降哲学者や神学者は政治というものを論じだしていた。大きな政治的状況としては、イタリアにおける君主の支配から自由な共和国の出現、知的状況としてはアリストテレス主義の出現、ローマ法の再発見が見られる。

政治的な徳の伝統
 中世にイタリア都市国家へ訪れた旅行者は、その政治体制がヨーロッパその他の地域と顕著な相違を有していることを記録している。有名どころではオットー・フォン・フライジング、彼は1156年からイタリア諸都市を訪れたが、そこの人民たちが自由を愛し、支配者を避けて自身等が執政官を通じて都市を支配していることを報告している。彼らはその執政官が権力を持ちすぎないように毎年別の人に代えているそうである。更に共和国を守るために彼らは古代ローマの技法を真似ているとも報告している。

 13世紀に数多く書かれた都市の行政をめぐる文書は、ローマの政治・法思想が一般的に受容されていたことの証左である。市民の政府を論じた文書の焦点は都市の最高権力を託されたポデスタにあった。ポデスタは対外関係においては都市を代表し、法的軍事的行政的な力を一手に掌握していたが、それでも選挙によって選ばれたオフィサーに過ぎず、制定法の下に置かれていた。立法権力を彼は有しておらず、さらには任期の終了時には自身が与えられた権威を正しく運用したことを報告する義務を有していた。そのようなポデスタのありようは都市の行く末を左右するものであり、多くの政治的論考はポデスタがいかに行動すべきかについて述べていた。ただし、14世紀以降に都市国家が統治形態を変更し、シニョーリによる支配(シニョリーア(僭主)制)、ある一族による支配に服するようになって後はそのジャンルは衰退していった。

 

 

 

 


 

 

 


 

 

 

 

Benjamin Straumann (2016) Crisis and Constitutionalism(危機における政体論)intro pp. 1-21 紹介

 

 constitutionは、政体 constitutionalは、政体論的という訳語を機軸とします。constitutionalに端的に肯定的な意味が着せられているような場合は少し技巧的に訳しています(よく秩序づけられた政体など)。
 pocockをBR参照せずにMMだけで古典的共和主義者に括ってるのは気に食わないけどArihiro FukudaやGabba,Moatti,Zetzelなんかを参照してるし許しましょう(寛大な心)

 ちなみに自分は、バロットの研究なんかはあんまりいいとは思ってないのでストラウマンとは少しだけ評価が違うかもしれない。Clifford Andoの研究は以前Brillのコンパニオンに載ってた奴をよんだことがあるはずだが全く記憶にない。

 ページ数は本文のものを指す。(p.3)とあればそこからは3ページ目の記述の紹介となります。

 書ききって見直さず貼ったので、誤字脱字など指摘いただけると嬉しいです。

 

以下本文紹介です。

イントロ

ローマの共和国の没落と政体論的発想の出現

 (p. 1)デモクラシーを冠した政治体制が19世紀頃に出現するまで、ローマの法、政治思想は群を抜いた影響をヨーロッパにおいて有していた。現代からすれば、古典古代の政治思想といえばギリシアが先に念頭が挙がるかも知れないが、そう思われるようになったのは比較的最近のことである。

 

 (p. 2)ポリュビオス以来、政治思想はローマの共和国における政体論的特性に注意を払ってきた。共和国という以上は王政以降に始まりキケロの時代に危機と迎える体制を指す。そしてそのキケロの時代は同時にその危機への政体論による応答、対策が構想された時代でもあった。彼の議論がそのような危機に対する応答としてなされただけではなく、リヴィウスやその他の同時代の歴史家の叙述も、共和政初期の政体に遡り、権力、権威の適切な配分、制約のあり方や、非常事態の例外的な権力の取り扱いを探るものとして読むことができる。政体に組み込まれた権力と底から逸脱する非常時の例外的権力の関係こそ、共和国の危機をもたらした一大要因であった。そして共和政体が元首政、帝政に移行したことは、政体の権力のありよう、移り変わりとはいかにして生ずるのかという問題を後の時代の思想家に考えさせる契機となった。そのような議論に関心を抱き、私たちは初期共和制の共通善や徳、腐敗の欠如といったものではなく、末期共和制の危機と破綻を扱うことにする。

 

 ローマ共和制の政治的、政体論的思考はギリシアや初期のローマに仮託されるイメージでぼかされてしまっている。ひとまずそれを古典的共和主義像と呼ぶことにする。(p. 3)旧来の研究にみられる古典的共和主義像は一枚岩ではないが、プラトンを想起させる再配分、適切な秩序のイメージ、ポリュビオスの混合政体の教義、サルスティウスの腐敗への警戒、それ以上にアリストテレス的な徳への関心といったものを重視している。だが、これらの像はローマの特性に十分な配慮を行っていないと思われる。ペティット、ヴィローリなどの優れた議論を例外として、古典的共和主義像はギリシア・ローマやそれらに影響を受けた以降の政治思想もごちゃ混ぜで扱っているように見受けられる。端的に言えば政治思想と念頭に置く政体の連関で個性を捉える視点がない。

 

 そのごった煮の始祖といえるのがコンスタンの自由論である。これはファーガソンコンドルセのような先駆者を持つ、古代と近代の区別と比較を行う伝統の一角に属していた。コンスタンによる軍事社会である古代と商業社会である近代における自由の比較は、クーランジュ、ブルクハルトやウェーバーにまで影響を及ぼした。彼の視点はアテネがスパルタやローマより個人の自由を重視したといった区別はあるが、それは体制の違いでなく、彼にとり古代の政体はどれも似たようなものとされた。(p. 4)それらはどれも個人の自立への視点に乏しく、集合的権力への参与と、自由を同一視しており、権力を制約するという視点を欠いていたと解される。

 斯様なステレオタイプは古代の思想や事物に向き合う際に付きまとってきた。特にそれはギリシアのポリスを優先的扱うようにし向けるものとなった。たとえばラーエ(Paul Rahe)の1992年の研究は、コンスタン的な古代のポリスと近代の政治体制の断絶を結論として確認するものとなっている。ラーエの研究は、その表面的な断絶を結ぶ政体の無視によってそのような結論に至っていると言える。つまり、ローマを見落としている。(p. 5)二年後の同研究のペーパーバック版では、イントロに於いて初期近代における市民による統治の理想が、ローマの制度と法によって生じたことを強調し、西洋政治思想におけるローマ的なるもの影響を評価しているが、最終的にはヘラスが優先されるべきだと主張する。


 そのような選択の下でラーエが見せる古代と近代の比較は、ある批評が述べるようにコンスタンの提示したそれの単なる1ヴァージョンのようである。それに対してミラー(Fergus Millar)の2002年の研究は、ローマの政体について論じたのいくつかの思想家、仮定的なアプローチとしてアリストテレスの理論からのローマ共和制の評価や、ポリュビオスマキャヴェッリ、ハリントンといった人物の思想を扱っている。ただ、彼自身はローマの民主制的特性を強調しようとしているが、彼の対象とした思想家はそのような視点をほとんど見せていないために、収まりの悪い記述となっている。
 本著は前の二つの著作の欠陥を補うことを試みた著作だと言える。ただし、前二者と古代の体制についての見解を共有はしない。ローマの政治思想への貢献、政体論(constitutionalism)を評価しようとする。前政治的、市民的権利やそれに対応する政治的正義への関心をそれらは含意している。(p. 6)


 この著作は先に述べたラーエの研究を、ローマの政治思想への貢献を見ることで補うものとも言えるが、コンスタンの図式と異なり、共和国の危機において、立法権人民主権の制限を巡る、自由主義的とも言える着想が出現したことも評価する。ミラーがポリュビオスを分析しつつ人民主権的要素を共和制末期に見るのは一理あるが、ポリュビオス自身の分析は「最もローマが民主主義的であったとき、最も腐敗した状態にあった」(6.57.9)という結論に至っていることを無視できない。


 コンスタンは古代の政体観念の復権フランス革命直後の恐怖政治を結びつけて考えているが、これは古代共和主義と近代の自由主義という図式をもたらした。以上のような二分法はアメリカ革命においても見ることが出来る。
(p.7)初期アメリカの研究者は、その二分法のうちのどちらの要素がどの程度影響を有していたかは主題として扱っているが、その二分法自体は疑問に付されることはない。ベイリン(Bernard Bailyn)の革命のイデオロギー的起源を巡る1967年の研究は、自由主義の側を強調し、共和主義は英国のホイッグの伝統との連続を観念するための副次的役割しかない。ウッド(Gordon Wood)の研究はそれに対して、1787年に至るまでは古代の共和主義が大きな役割を果たしたことを指摘し、それ以降は個人的、私的な自由が優先されるようになったとする。しばらく前に、ポーコックは古典的共和主義の伝統の影響が合衆国設立初期にも至ることを論証しようとした。


 (p. 8)このような共和主義と自由主義を対抗関係に置く図式は共和主義一般を扱う歴史記述に総じて見られるものである。スキナーの自由主義以前の自由などの著作においては、このような対立は社会の政体論的枠組みは構成員たる個人の自由に関連するのかという論争に於いて、それに肯定的に答えたネオ・ローマ的理論家と、その批判者たるホッブズのような人物の対立として再版されている。スキナーが前者に含めるのは、ハリントン、マキャヴェッリ、ミルトンなどで、彼らは個人の自由は自由な国家に依拠して初めて存在し得ると考えた。
 以上のような図式を強化するのはスキナーの2008年の研究であるが、そこにおいてはホッブズがその「ネオ・ローマ的」な立場への強い反対者として描かれる。だがスキナーの描くホッブズの自由の概念は、ホッブズリヴァイアサンにおいて述べた「言葉の適切な意味」における狭い意味の自由を強調しすぎており、著作のほかの箇所ではそれ以外の意味での自由概念を幾度も用いていることを無視しているかのようである。


 (p. 9)仮にホッブズの自由概念をスキナーの述べるように切り詰めたものとして理解することに理があるとしても、先に述べた「ネオ・ローマ的」な理論家との対抗に置くことは適切ではない。それらの思想家は志向する政体のあり方に多様性を有しているが、政府の権威を抑制するために政体に組み込まれた安全装置の提唱という点で共通している。その場合特に政治参加といったものを強調している訳でもないし、君主制であっても自由な国家足り得るということになる。そうであるとするならば、「ネオ・ローマ的」なるものの特異性はいかほどのものなのだろうか。制度的抑制による自由の確保という視点を重視した場合、端的に言ってしまえば彼らの述べた自由は、自由主義以降の自由と何ら異ならないのではないだろうか。
 (p. 10)「ネオローマ的」と自由主義的が有効な対立軸でないことは、徳や参加、自治を強調するような共和主義と自由主義の対抗に論点をシフトさせる。ただし、現代の理解からすれば疑問に付すことが出来る。ギリシアの場合ですら、歴史的存在としてのアテネは政体理論や制度に興味がある人間の素材となりえるからだ。ギリシアの制度的現実ではなく、政治思想自体は勿論その後の時代に於いて影響を有していたが、司法審査(graphe paranomon)の存在や、高次の法(nomoi)と単なる法令(psephimata)の区別といった政体理論の格好の素材としての要素は、ヒュームという例外を除いて、長い間無視されていた。それに対して共和制末期もローマの歴史的現実は、本書で扱われるような、政治的、政体論的思想をもたらしたのである。


 勿論ローマの共和主義も強い影響を有していた。ペティットらが定義するような支配の不在としての自由といった発想も結構なことである。(p. 11)だがそのような観点は規範的、歴史的見地より批判される。本著は古代の著作から、そのような観点と対照的な議論を提出する。ローマ人の高次の政体論的秩序により獲得され保証される特定の諸権利や規範に重点を置いた議論がそれである。ローマの制度的配列がよくできていることは、ポリュビオスにおいてすでに強調され、近代に於いてマキャヴェッリがその視点の最初の支持者となった。だが、彼らの視点はかなり実用的なものであり、ローマ帝国の拡大は共和的政体秩序の最大の成果だとされた。だが、ローマの政体への視点にはもう少し規範的色彩を帯びたものも存在しており、本著ではそちらを重視している。


 (p. 12)このような視点を補強するような研究動向も存在している。実際近年ではギリシア、ローマの政治思想を歴史的現実や文献学の成果を踏まえて詳細に扱う研究も増えている。ウィルツプスキ(Chaim Wirszubski)のlibertas概念を扱ったモノグラフや、ニコレット(Claude Nicolet)のローマ市民権についての研究、ニッペル(Wilfried Nippel)、フリッツ(Kurt von Fritz)らの古代の混合政体についての研究などはその一環である。アメリカにおいて古典学者、古代史家が政治理論にも論ずる傾向が生じていることもそれに一躍買っている。ホクストラ(Kinch Hoekstra)、バロット(Ryan Balot)、アトキンス(Jed Atkins)なんかはとてもよい貢献をしている。

 (p. 13)以上のような貢献の一翼を担うことを期待して私も研究をした。それは先述したようなローマ共和制の危機における政体論、非常事態への対応と、その後世への影響を扱うものであり、ほかに例を見ないものである。その不在の理由の一つは、古代における法の支配の有効性への懐疑と、力の役割の重視があった。(p. 14)サイム(Ronald Syme)の記念碑的研究(ローマ革命)は、元首制への移行をプロソポグラフィの手法で古い貴族権力の解体に求め、共和制の基礎も、彼らの社会的力に還元された(おそらくパトロネージ理論のことを指す)。サイムの研究の影響で、ローマの政体は法に基礎づけられていないかのような視点も存在していたが、近年になってリントット(Andrew Lintott)の研究に見られるように、ローマの法的政治的機構の中心性が強調されるようなっている。その法的政治的なるものも、単にデ・ファクトな存在にとどまらず、規範的観念的性質を有したものも視野に入れた研究が増えている。(p. 15)ブライケン(Jochen Bleichen、彼は石井紫郎先生が訳していたはず)はmos maiorum(偉大なる(?)慣習)や、直ちに適用はされない一連の法的な規則の役割を強調し、その上でローマで行われた政体論的法的議論にも目配りした上で、慣習や実定法、そのほかの政体における規範、政治慣行の区分を破壊せず論じている。


 本書も単に行為を指示するような意味での規範にとどまらず、慣習に含まれるようなルールまで視野に入れて論ずる。「政体論的」と形容されるある秩序は、末期共和制の議論や活動を理解するためには欠かせないものであり、それを政治文化といったものに縮減してしまうことは、その規範的側面や、法的な価値を取りこぼしてしまう。それはそれまでの伝統を受けて育まれてきた特定の組織体であり、非常に脆い存在なのである。そしてカエサルグラックス兄弟が破壊しようとしたのはそれであった。そういう規範的な色彩を捉えておかないと、元首制移行も対して変わらず同じような政治文化が存続したという分析にも至りかねない。
 (p. 16)紀元前133年に初めて、殺人が政治闘争の優越した手段として出現してしまった。その被害者であるティベリウスグラックスが同僚を罷免したことは完全に否定的な評価を受けている。これらの事例は規範の侵害として、私たちが見ていく共和制末期の論者の意識の中心に存在していた。近年の研究によれば、グラックス兄弟をローマ人が避難したのはその再配分政策によるのではなかったとされる。そうではなく、彼らは政体の規範を犯したために多くの人の反対に遭遇した。どういうことか。
 キケロが指摘するのは農地改革の問題や、彼らの政策の内容ではなく、彼らの民会の権力に依拠した熱狂的な姿勢と、政体に結びつけられて不可侵であるはずの護民官の侵害こそがグラックス兄弟の破滅を招いたとされる。「彼が没落した原因として、自身に介入してきた同僚の権力を廃止するという暴挙をなしたこと以外になにが挙げられるだろうか?」(Cic. Leg 3.24)以上のような指摘も念頭に、共和制の政体論的秩序の中心性とその規範的性質という信念に重点を置いて本書は展開する。


 (p. 17)共和制の再建を目指して行われた理論的な対応を行った人物は、その批判者たちが共同体の政体論的規範を捉え損ねていることを指摘する。ある活動のあり方や、一連の立法がなにも法に依拠していないという主張は、政体論的秩序が有効性を持っていないということの証左ではなく、むしろその実在を前提とする主張なのである。このことは2,3章において論じられる。


 (p. 18)ただ留意してほしいのは、事実の上での政体なるものが共和制末期のローマにあったということを私が論じようとしているのではないということである。正確にはそうではなく、共和制末期のローマ人たちが、政治における緊急手段や、行政権力や特定の立法が正統性を有するのか否かについて、高次の秩序や、より具体的に定められた規範に依拠しつつ判断することが必要だと明確に感じ取ったということを描こうとしているのである。そのための前提としての制度的、歴史的コンテクストを扱うのが第一部であり、第二部ではキケロの考察を中心に危機における理論的、哲学的考察の有り様を追求する。先に見た例外的措置の出現などに際して、それの正統制を判定しする上位の規範の要求が生じることで、ローマの政体の概念自体が共和制の危機に置いて明確にされたのである。キケロの政治理論に関する著作で、彼は諸規範と諸権利の探求を行い、こと政体論に実体を与えていったのである。この政体論へのフォーカスががギリシアに比べた際のローマの特色であり、これは同時代の知的潮流、モアッティ(Claudia Moatii、本当にすばらしい研究者である。再読したいので誰か読書会しましょう)が述べるような「理性の時代」の潮流に竿差しているのである。

(p. 19)第三部においてはそれまでに触れたローマにおける思想の後の時代での運命を扱う。ルネサンス以降の思想家がローマを際だたせるものとして認識したのは、徳といったものではなく、上位の秩序を観念する政体論的発想なのであった。このような視点を有していた決定的な人物はボダンである。彼以降、サルスティウス的な徳の衰退と共和制の崩壊を結びつける言語とは別の、共和制の崩壊をを巡る伝統が出現したかのように見受けられる。政体論及び政体論的配列はその伝統の内実なのである。その伝統は、共和制末期の政体論を巡る論争において暗に念頭に置かれていた問題が主権に関わるものだということを拾い上げている。ボダン以降の人間は主権という概念を通して共和制の危機を眺め、共和制の歴史を通して主権の概念を眺めることとなったのだ。ジェンティーリやグロティウス以降の自然法学者は詳細かつ規範的な自然状態の図式を提示したが、政体論の伝統は単なる自治というものがいかに脆いのかということに注意を払い、制度化された政体がいかに共和国を正義に則り、安定したものとなるかを考察した。そのような伝統の政治的現実の接触例として、私はアメリカ革命におけるアダムスを例に挙げる。
 (p.20は省略してp.21)まとめておこう。コンスタンの言うような古代と近代の自由なる二分法は理論としては一見すると明快で一貫しているように見えるが、その実歴史的現象を大いに歪めてしまうものである。すなわち、ローマ共和制末期おける危機の応答として、権力への制限、政体による安全装置の構想といった政体論的政治思想が展開されたことや、そのルネサンスにおける継承をその図式は排除してしまうのである。キケロの著作に見られる政治思想や法廷演説での主張、リヴィウスの歴史記述は、そのような危機への応答として読まれるべきである。それまでの共和国の制度が機能不全に陥る中で展開された思想、特にキケロのそれは、政治理論を扱うための新しい実質を発見した。そのようなローマにおける機能不全は、一種の自然状態の様相を呈していた。非常手段への依存や、例外的権力を有する人物の出現は、キケロや同様の心性を持った人に対して、自然法や自然的正義といったものに基礎をもつ規範的政体概念の創出と、更にそれの具体化となる諸規範と諸権利を探求することの必要性を強く実感させた。その結果、ローマにおける規範的概念としての政体論は、ギリシアにおけるそれとは全く異なったものとなっているのだ。

 


以上

 

 

 

Dante de vulgari eloquentia がつらい(1)(多分続かない)


 以下に訳出したのはダンテのDe Vulgari Eloquentiaの冒頭である。この本は第一書、第二書に分かれている。言語論、レトリック論には個人的興味が強いので意気込んでいたが、途中でタキトゥスのコメンタリやローブ版のクィンティリアヌスを購入したせいで目移りしてしまった。そのため続きをやるとしてもだいぶ後になるだろう。言葉の崩れが多くてとてもつらい。

 とりあえず今回は導入の説明と出だしだけの訳をのっける。

 ダンテの伝記的事実などは比較的有名であるし、文庫でもかなりの解説を確認することができる。河出文庫講談社学術文庫神曲の邦訳もそうだし、近頃読んだ帝政論の中公文庫から出た訳の注釈は、中世政治思想を研究する人にとってはかなりの情報源になると思う。

 そのため、ダンテの生まれだとか思想、経歴の詳述はやめて、このテクストに関する最低限の説明だけをまずは行うことにする。解説は底本にしたケンブリッジの羅英対訳のイントロに載っているボッタリルの説明に従っている。

 当該著作は、新生、神曲といった著作で展開される俗語での詩行の実践を理論的に正当化するものらしい。テクストのタイトルをダンテ自身がつけたのかは不明で、未完となっている。テクスト内での事件の記述からして、彼がフィレンツェから追放された直後、1302年以降から執筆されたと考えられる。二巻にヴァロワ朝のシャルルのシチリア遠征の話は其の年の話である。一巻のモンフェラートのジョヴァンニに言及する箇所では、彼が生きていることを念頭において記述がなされているが、ジョヴァンニは1305年に死亡している。情報の伝達速度などでのズレや書き終えた後に全く訂正しなかった可能性などもあるが、1303-1305にはその大部を書ききったものだと考えられる。新生の十年ほど後で、地獄編の執筆開始の数年前に位置する。
 著作の中断については諸説ある。本意からはずれだした事による意図的な断筆、他の著作に手を回していたためのやむを得ない中断、残りの文章の散逸という説明がなされる。ただ、二巻から始まる俗語の詩文に関する議論が明らかに中途半端な形になっていることは指摘されるべきである。
 テクストの伝達については、その他のものと比べると写本の数が少ないことは指摘される。汚染の少なく、原テクスト性の高いと考えられているものは3つにとどまる。其のうちの2つ、G写本とT写本は1577年にパリで印刷がされて広く利用可能になった。この印刷をした人もフィレンツェから当時追放されていたらしい。最後の写本が一番古い、14世紀に作られたものなのだが、1917年にベルリンで見つかるまでは知られていない。これはベルリン写本、もしくはB写本と呼ばれる。

 テクストの内容的特徴としては、ギリシア、ローマの先人に倣って書いたのではなく、これが完全に新しく生じたことを強調していることがあげられる。それと同時に先人との関係も記している。それなりに彼は著作に対する自負を見せているが、実際その手法の多様性や、先行者の援用の仕方は同時代において群を抜いている。

 ちなみにこのテクストで述べていることは、単に当時のイタリアにおけるイタリア語とラテン語の対抗に止まらず、日常言語と学問言語、自然な言語と人工的な言語といった一般的な対抗を念頭に於いていると理解しうる広がりを有している。

 


 とりあえずここまでにする。テクストについてはメンガルドの1968年版に基本的に依拠する。これは先に述べたB写本をきちんと取り入れたという意味で、古くて新しいテクストだといえるだろう。

 

 ちなみに同じタイトルの、ダンテの名も冠しているボードゲームがあるらしい。自分は友達が少ないので出来ないだろうが(現にいくつか買ったボードゲームは家でくさらせている)、友達の多い人は試してみるといい。

 

誤記なのかこういう表記が許されるのかわからないのがちらほらあったのでそれはカッコで括って対案を書いた。多分中世かつ学校の内側でない場特有の表記だろう。つらい。訳出での勝手な補足にもカッコを括った。


1-1

Cum neminem ante nos de vulgaris eloquentie doctrina quicquam inveniamus tractasse,

 私たちより以前に、俗語の雄弁というものに関する教義についてなにがしか扱っている人は誰もいないようである。

atque talem scilicet eloquentiam penitus omnibus necessariam videmus, cum ad eam non tantum viri sed etiam mulieres et parvuli in quantum natura permictit;

 そしてそのような雄弁(に関する知識)については皆にとって、男たちのみならず女性達、こどもにとっても自然の許す限りで明らかに不可欠だと見る。

 

volentes discretionem aliqualiter lucidare illorum qui tanquam ceci(caeciか?) ambulant per plateas plerunque anteriora posteriora putantes
(わたしは)あたかも道を進むめくらのように、これまでのことがこれからも続くと考えてきた人々の理解を多少なりとも進めることを希望しつつ、


Verbo aspirante de celis(caelisか?) locutioni vulgarium gentium prodesse temptabimus,
天からの声にモチベーションを得て、人々の(話す)世俗の言葉に役立つことをやろうかなという気持ちになっている。

non solum aquam nostri ingenii ad tantum poculum aurientes(orientesか?),
ただ私たちの才能が満たせるだけの水のみではなく

sed, accipiendo vel compilando ab aliis, potiora miscentes, ut exinde potionare possimus dulcissimum ydromellum(hydromeliの崩れたやつか?)
とても甘美な飲み物を提供することができるように、別のところから受け取り、手に入れて、より望ましい(知的)混合物を作ろうとしている(aquam, potiora をtemptoの直接目的語,locutioniを間接目的語とした)。


・・・・・・・
こんな短い箇所だけでもいくつかOLDで対処できなくて修正いれないといけないのちょっとつらい

 

深夜テンションです。すいません。

もしかしたら続きます