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研究にあまり関係しない雑記

ベッケンフェルデ "倫理的国家としての国家"


 ベッケンフェルデ(1930-2019)が亡くなってしまった。ちょうど古代、中世の法・政治思想についての著作(Geschichte Der Rechts- Und Staatsphilosophie: Antike Und Mittelalter)を読み返していたので衝撃が大きい。彼の研究は今の自分が学んでいる方向性を決める手がかりになったので悲しいことである。

 

 彼はシュミットの高弟である公法学者の顔も持っているが、ドイツ連邦裁判所判事(1983-1996)をなしたことも有名である。個人的には世俗化論に一番影響を受けた。

 「自由で世俗化された国家は、その存立を自身が保障することのできない命題に負っている」という彼のテーゼが示すように、近代国家は自由主義的な基盤のために、特定の価値、世界観を市民に課すことはできない。もちろんそのことは現代社会においてさまざまな問題を引き起こしているが、彼は法学者であると同時に、歴史家としての仕事、法や政治における主要概念の起源を系譜学的に追うということを行うため、安易なオルタナティヴの追求にも走らない。自分も当該テーゼとそれがはらむ問題系には不安にさせられることもあるが、落ち着いて過去に沈潜して思考していきたい。

 カトリックにして、社会民主主義者、社会的経済的保障の必要を説く福祉国家論者でもあり、同時に強度な政治的リベラル、寛容論者である彼についてきちんと語るにはきちんとした伝記的研究の下支えがなければならないだろう。

 

 今回は "Der Staat als Sittlicher Staat"(1978)(倫理的国家としての国家)の前半を紹介して追悼に代える。早めに後半についても載せるつもりである。当該論考については英訳も存在するのでそちらも参照した。今年や来年にはさらにたくさんの著作が英訳されるそうなので、かなりのスピードで読むことができそうである。ありがたや。

 

 最初に言及した著作のスコトゥスの政治思想に関する箇所も面白かったので近いうちに紹介したい。 

 

ベッケンフェルデ 倫理的国家としての国家

I
 16世紀初頭、エラスムスメランヒトンといった神学者や、トマス・モアといった法学者は人文主義的、哲学的教育や人文主義的生のみでなく、同時代の政治秩序に目を向けており、そのための役職も担っていた。彼らは果たして国家を平和のための安定的システムへと変容することは出来なかったが、そのための基礎となる観念を形成し、行動を起こした。
 ところで、その死滅や終焉が語られてなお、現在生きているわたしたちの政治的生活の仕方を規定する国家とはいったいなんなのだろうか?相も変わらずそのオルタナティヴは出現していない。この問題は、Sittlicher Staatとしての国家が孕む問題として理解可能である。このような国家は、現在では民主国家、法治国家、社会国家として構成されているが、それは、たんに補助的で、目的に役立つ範囲に機能が限定された、目的のために設立された団体以上の存在なのだろうか?それは単に公共の安寧を保証し、集団巻の関係の安定、社会的秩序の維持を行う「多元機能主義的共同体」以上のものなのだろうか?

 機能的限界に縛られている制約的な国家概念は、国家が犠牲を求めるモロク神のような存在になることを防ぎ、個人の自由を確保するために適切だと多くの人は考えている。もしも国家が倫理的国家として理解され、機能的で、その機能に照応した権威や責任を超え出る意味をもってしまうならば、それにより個人の自由は危殆に瀕することとなり、人間集団や団体によって定立された目的に由来する義務の下に個人は縛られることとならないだろうか?このことは国家を、主体であり個性を持った個人を無化してしまう、「生の全体様式」(スメントを念頭に置いている)へと変えてしまわないだろうか?

 当然、その逆の疑問もある。国家の任務、機能は倫理、道徳から切り離されてはいけないのではないのか。国家は倫理的な参照点なしでもよいのだろうか。単に機能的で目的に服していればよいというのは間違いで、機能面への縮減こそが、モロク神的な機能的な自動性を帯びた国家をもたらすのではないだろうか。といったものである。

 

II 国家の構造的特性


 民主的法治国家しかり社会国家しかり、自然物ではなく意思ないしは熟慮に基づいて成立している。国家の本質、構造はそれが構築された際に込められた目的を伴っている。そのような目的に向けられた制度として、国家は倫理的国家としての身分を主張できるだろうか。
 その解答は、国家を作動させ、存立を司る目的の性質に依存している。すなわち肯定的に回答するためには、構成員の生の目的に近接していることが要求される。更には国家の構造、作動にも依存している。国家がそのような目的の実現に有効に作動するかが問題なのである。

 

 政治的存在としての国家は、構成員を平和的に共存させることによってそう表現される。個人間集団間の不和、対立は、国家内では平和的に遂行され、物理的暴力を介さず、法により規制される。国家の内側では友敵分裂は存在してはならないのであり、平和的統合は維持されねばならない。

 ヨーロッパ史が示すように、国家秩序が平和的統合を実現することは自明ではない。内線に至るような宗教、政治的分断は常に存在していた。平和的共存は例外的な政治的実行によって果たされるのであり、それは政治的分化を確立するのであり、同時に倫理的分化を確立する。

 平和的共存を設立し維持するためには、国家は決断主体でもなければならない。人民の、人民による団体の接触、不和が平和な仕方で行われるためには、妥当性のある規律と、外形行為の規制が必要なのである。これらの規律、規制は異論の余地のない一般的同意の下で明証的に把握されていなければならない。それらがそのような性格を自明に帯びているのでないのなら、上位の権威の決断に基づいて設立される必要があるのであり、その権威はそれに反する訴えかけをものともしない、最終決定権を担っていないとならない。平和共存を求めるならば、強度の決断主体としての国家を拒絶することはできない。

 

 決定主体としての国家の必要は、権力的存在としての国家を求めることにも成る。当然規範や規律は遵守を要求する。だが、それは自発的な忠誠に依存する訳にもいかないのであり、実際的効力のためにも実力行使が不可欠となる。国家がそれを行い得ない、ないしは行うことを欲しない場合は、同時に自発的遵守も弱まるだろう。というのも、法的規範、決定を尊重しない人間のほうが、逸脱により不正な権力を確保してしまうことになるからである。


 以上のように、国家が平和を維持するためには、決断主体であり、同時に権力保持主体でなければならないことを見た。更には、国家は権威的主体であるが、同時に自由のための組織でもある。民主国家は、市民が決断主体としての国家と権力主体としての国家に参与することでその性格を維持している。それは選挙や公職の保持、その他の公的な意思形成への関与を介して行われるのであり、そのような意味で自由を前提として存立している。

 国家が権威的主体であることは、安全の維持の前提条件であるのみならず、自由の前提でもあるのだ。自由を自己決定の可能性として理解するならば、それは法規範を前提とすることで、安定的かつ継続するものとなる。制限や強制を被らない、「完全な」自由なるものは、たんに優越者の制限されない権力、自由な自然的実力の行使を意味している。だが、自由は自然的な教会の不在に制限をかけ、その制約を適切に抑えることによって生じるものである(Kantの人倫の形而上学を参照している)。自由な人間の共存とは、秩序を与える権威を前提としているのであり、そのコロラリーとして強制力、制約も存在している。
 ただし、そのような権力、強制は必要条件でしかなく、先の平和のための前提条件を崩さない範囲での制限も必要となる。単なる意思決定のための権力は、上位の規制を解することにより、統治に変容するのであり、そこから統治と自由の結びつきが生ずる。

III 国家の目的と、実質的な目的追求

 これまでの考察で国家には基本的な目的が存在しており、特定の人間生活における基本的目的の実現のために構成されていることが見えてきた。平和、自由、決定といった目的は、付随的なものではなく、国家の原理を構成している。


 国家の普遍性は、人間であり市民である限りの個人に関係づけられている限りで体現されるのであり、それを超える善や目的によるのではない。個人は何某かの集団、成層物の一つとしてではなく、それ単体で全体性をもつものとして扱われることになる。法的平等性の原則や主体としての 個人の性格を維持することは、国家の普遍性の構成原理となっている。
 

1組織と作用
 国家の組織、実行において決定的なのは、国家意思と呼ばれるものの確定における自己決定の原理である。国家の決断能力と権威の行使に対して、個人がその作用が個人の意思が一般意志に変容した結果であると認知するために、特定の形式と法則を与える必要がある。それは市民が政治的目的を定式化する過程や、国家の意思決定過程に参与する制度により果たされる。国家の意思、特に立法は国家の自由な意思となるのであり、そのことは、自己決定の原理を含意している。このような国家の本質は、一般的なものは個物、ないしは個人と切り離し得ないのであり、個人の十全な自由と、個体性と結びついているという事実に存する。これはヘーゲルの「目的の普遍性とは、私的な知見と、権利を保持するそれぞれの個人の意思を欠いては実現され得ないのである」という表現において示されている。

 

2 国家行為の射程と限界

 国家行為の射程と限界を理解するためには、さまざまな段階、領域を区別する必要がある。それは自由や自己実現の概念の様々な次元に照応している

 a) 外的自由と安全
 際補の段階は生命の維持、外的安全の保持にかかわる。それは確かに自由のための根源であるし、倫理的国家の要素でもある。外的自由と安全への配慮は、人間の生命の必要物であるから、それは単に機能的な、利己主義の領域を超え出ているものである。それは外的な平和を含意しており、さらには社会的平和すなわち、法と、個人の他者に対する自由の領域確定や、最大多数の最大幸福という格率に反することもある、法の平等性の実現や、衝突する利益の調整も含んでいる。これらの条件は社会的平和と人間の知的教育を可能にするものである。ロレンツ・フォン・シュタインが述べるように、「真正の自由が得られるのは、自己決定の前提条件としての、物質的、知的な有用物を保持している時のみである」。もし国家が自由の前提条件となる社会的枠組みを構築しようとする場合、単なる社会の機能の執行物として自己を把握することはできない。そのような社会の枠組みは単なる社会の集団、実力の衝突で実現されることはないのである。特定の利益追求に向けられた行為者から成る社会とは区別された国家の原理とは、単に幾人かではなく、必ず全ての個人に対して十全な自由を提供し、自己実現の機会を確保することにある。これは単に政治的目標ではなく、倫理的目標と表現し得るだろう。

 

 

 

 以下続きです

 

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