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研究にあまり関係しない雑記

ベッケンフェルデ "倫理的国家としての国家" つづき

 

 以下の記事の続きです。正直いうと彼の議論の妙味を適切に表現できた自信がありませんが、今回は特に迅速さを優先します。

 

kannektion.hatenablog.com

 

 

 

 

III-2

b) 物質的自由と自己実現

 外的自由と安全の次元と平行して、倫理的、知的自由や自己実現の領域が自由の二次的次元として存在している。問題となるのは、自由に対する実質的な方向付けをする領域において国家は役割を担っているのか、もしくは、現代世界の知的倫理的多元主義の中で、自由に何某かの方向付けを与えることは放棄されるべきなのかということである。

 シェルスキーが近年、ドイツが有無を言わせない政治的信念による支えが市民の間に存在しないことを嘆いている。彼はあらゆる合理性以前に、そのような信念が存在していることこそが政治秩序の基盤となると述べる。だが、このような視点には反論も当然存在する。このような社会学者による国家への傾注がルソーの市民宗教論以上のものをもたらしていないことは残念である。有無を言わせない政治的信念なるものが実践に移植された場合、それが意味するのはせいぜいのところ、国家により運営され含まれる政治的イデオロギーであり、古典的なポリスの宗教の世俗化でしかなく、それにより個人の性質がなんらかの意味で安定するということはありえない。もし実際にそれを国家が行うならばどうなるだろうか。国家はその基盤と統合のための駆動力を、単に内面の政治的傾向が同質であることによる統合から得ることになる。しかし倫理的国家としての国家は、個人の自由と倫理的自己決定を認める以上は、法的な手段、すなわち外的な制度や施行可能な規範のみを介してその基盤を得なければならない。それは個人の外的振る舞いに基づいているのであり、良心によるのではない。

 倫理的国家は過激派を扱う仕方について困難を抱えている。あからさまな政治的扇動はおいておいて、過激派に関する実践についての批判は、そのような国家体制の破壊と否定を目論む過激派を公職から排除しているという問題に焦点を当てるものではない。。そうではなく、批判の主眼は、国家がそのような目的を果たすために、政治的信念に対する忠誠を要求しだしているという点にある。公務員法は実際、各個人が「いかなる時も憲法を擁護すること」を保証しており、内面の規律を含意している。そのような行政実践、法的制度の帰結はよく知られている。すなわち、態度に対するテストであり、それは行為の外形に対する厳密な検討ではなく、態度を示すと思われる曖昧な兆候に頼るものであり、一度信念への疑いが生じたならば、そのあとの行為においても払拭されないのである。それは内面の萎縮と日和見主義をもたらしかねない。

 


内面に向けられたの規制のもたらす問題とは、単に個々の規制事例の対処に誤ったことに由来するのではなく、内面の振る舞いに対する保証を行い、良心が本来外形のみを対象としている法的手続きと判決の対象になってしまっているという一般的性格に由来しているものである。この文脈においてナチ体制に言及することは適切であろう。ワイマール期の共和国保全法は明白に公職にある者の外形的振る舞いのみを対象としていたのであるが、ナチスの体制下において制定された1933年のアーリア人崇拝を含んだ公務員法において初めて、公務員がいかなる留保もなく、いついかなる時も国家に対する献身を行うことが定式化されたのである。1945年以降の公務員法の立法においてもこのような方式が採用されることとなった。単にその忠誠を捧げる体制の性質が変わったのみである。このような仕方での全体主義への対抗と、自由の擁護が果たしてうまくいくのかということは問われなければならない。自由に向けられた秩序は、その防衛の手段選択に際しても、不自由な体制の採用するそれからは距離を置かねば成らない。


 C)国家の保護的、援助的機能

 知的、倫理的問題に関わる事項において、国家は構成的設立的な機能を担うことはできず、単に保護的、援助的機能をもつのみだと言える。前者の機能は国家が特定の基本的知的-道徳的信念や姿勢を、法的規範を介して義務づけることをもたらし、個人の自由の確保、主体の確立を損なうことになる。

 決定的に重要なのは、学校教育制度の設計の問題である。国家は教育制度を長い間になってきたが、現在の社会における知的道徳的多元性を踏まえるならば、その内実をいかにして決定すべきだろうか。学校にあらゆる多様な教育理念を認めることも、中立性の意識から、教育の目的のようなものを定めず、教師に委ねることも妥当な解決ではない。それは単に、も事態を成り行きに任せ、統合し保護するという、国家に任された任務を回避しているのみである。国家はその内実に関する決断を回避できないのであり、実際の所日々常になにがしかの決断を行っている。教育に関わる構想は包括的で開かれたものでなければならず、特定の教義が全体的になることを意図したものであったり、内面を再形成するものであってはならない。国家は個人の自由と自己実現に焦点を絞っているため、教育の主眼はその基盤である、個人がその個体性を明確にし、共同体に関与できるようになるために、判断力と理性に導かれた自己決定、自己実現が行える人間として確立することに向けられてなければならない。これこそが不可侵のヒューマニズムの伝統なのである。現行の教育制度の問題点は、学校が、政治敵教育の指針に導かれた良心の形成に重点を置いていることに由来しているのだ。ここにおいてその特定の目的が、進歩的だとか、自由主義的だとか、保守的だとかは関係ない。ロバート・シュペーマンがこのごろ明確に述べたように、教育が、「革命のための手段や、革命に対する安全策と理解されるならば、正しく行われない」のである。

 学校、教育制度の外において国家は知的道徳的領域に介入できるだろうか。原則として個人の基本権と自由権に下支えされている近代社会であるが、知的道徳的生活は何某かの係留点、すなわち制度的表現と、一般的な知的道徳的態度が公的な妥当性を得るための規範的保護が必要である。容赦のない経済的な目的追求の格率に基づいて、社会における思考や行動が規制される中で、国家によって市民的な徳に何らかの承認が与えられることもなく、公的制度による保障がない場合に、市民的共存が効果的に教育制度を通じて確保されると考えるのは幻想に他ならない。

3 国家が保障できない前提

 以上述べたように、内面に関わる事項において国家が補助的役割しか果たせない以上は、その国家作用の基礎は、基本的な知的道徳的態度や、個人や社会生活における道徳感覚に根を持つと言える。この基礎付けが主体や社会から失われたならば、倫理的国家が文化的政治的に成し遂げてきた成果を破壊することなしにそれを取り戻すことはできない。以前私は、近代的自由国家は、自由であるという性格を損なうことなしには保障することできない前提に基礎をおいているというテーゼを述べた。これは同意も多かったが批判もあった。だが私は、国家についてそれなりに積極的な見方をしたヘーゲルの言葉をあえて用いてこのテーゼについて更に述べる。ヘーゲルは人民の精神はこっかにおいて自身を発露し、その内実を保持すると述べたが、それは政体や基本法において明確化されている。その人民の精神が活力を失ったのなら、国家によってそれが取って代わられるのではない。そうではなく、その場合は国家は基盤を失い、人民の良心、意識に改めて問いかけて存続しようとするのである。


IV 現実化の方途

 殆ど論じられていない論点であるが、最後に民主的国家としての倫理的国家が存続する方途を探る。
 倫理的国家の内実を得るためには、個々の人間から独立した客観的制度に権力を持たせなければならない。だが、そのような権力の付与は、そのような制度的基盤を欠いた民主国家では上手くいかない。民主的プロセスから自律した責任と能力の外観は作られうるが、それはあくまで外観に留まる。

 だがもし、倫理的国家が民主国家の抽象的な対立物に留まらないならば、倫理的国家の内実は民主的政治的過程を介して果たすことも可能である。民主国家において一般意志と良心を代表するのは、積極的な市民である。その主体は人民の代表として自己を表象する。彼らの実際の活動や、選挙行為を通じて意思の代表が行われる。集合的意思、集合的良心を体現する、代表機関としての統治組織と、積極的市民の両者の間の相互作用を通じて倫理的国家は実現される。統治組織の側は、積極的市民に課せられる問題、論点を定式化する役割を担う。それは、決定方針や綱領の作成、国家の要求、予定の提示によって行われる。積極的市民は公的意見に依存しないまでも参照をしたうえで、課せられた問題に応答したり、拒絶を行ったりする。
 民主的国家において、倫理的国家の内実は上述したような媒介的コンセンサス確保の方法がなければ果たされ得ない。その内実について問いを発する主導的な期間は政府や正当、議会である。もしその内実についての要求がなされず、結果の不確かさなどにより決定や決定の方針が提示されないならば、積極的市民も何らかの民意の反映プロセスを実行することもできず、接続が行われないのである。
 現在において、日々の政治は日常的であるが重大な問題に直面し続けている。このような問題においても、国家は、政治的リーダーシップと積極的市民の相互作用が確立されるならば、自己を倫理的国家として確立することは可能なのである。

 

 

 

以上です