Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

マルカムとタックのホッブズ研究

 Malcolm2002[1]の刊行時点では、彼自身が指摘するように[2]ホッブズの国際関係理論に関する研究は、ホッブズ研究者自身によるものは非常に薄く、国際政治学者が自身の議論を補強するために例示したホッブズ理解が多少影響力を有していた。それは、リヴァイアサン13章で自然状態の例証として国家間関係を上げている点から、国家間関係と自然状態における個人の関係を直ちに同一視し、国家の生存権を想定し、国家間における共通の価値の不在の主張や、恣意的な利益追求を認めるというものであった[3]。彼らによればホッブズの考えでは国際関係は、野心に富んだ利益追求に熱心な国家間の秩序なき闘争の関係であるとされる。Malcolmの論証によれば、斯様な理解は二点において致命的な誤解をしている。

 第一に、ホッブズは国家と個人、ないしは国家関係と自然状態における個人の関係を同一視してもいなければ、それらが理論上同一のものとして扱われるとも述べていない。彼らが論拠とするリヴァイアサンの箇所を詳細に読めば、「主権を担う人物」が、「独立していること」即ち共通の権威の不在により、相互に嫉妬しあうことで戦争の状態にあることが述べられていると理解される。[4]すなわち、ここにおいて述べられているのは、主権の担い手と自然状態における個人は共通の権威の不在という点で類似しているということであり、国家と個人の同一視などがでてくる余地はない。 

 第二に、ホッブズ自身は国家が成立した後にも自然法が存在していると主張している。彼は、主権者の職務(Offices)は国際法(law of nations)に含まれていると述べ、その国際法なるものが、自然状態の個人を起立する自然法[5]と同一であると主張するのである[6]。この点に関して、ホッブズ国際法自然法以上のものを含めなかったという方向からの批判は確かに可能だろう[7]。しかし、自然状態における個人に平和追求をさせ、国家設立へと向ける作用として自然法が説明されていることに鑑みると、自然法が国家間においても個人の生存と同様に平和を志向させる性質を持つことは疑い得ない。

 

 自然法の拘束力についても、ホッブズの考えでは自然状態において有効な道徳的原理は存在しないとする見解[8]に反し、ホッブズは明確に自然状態においても、自己の保存と平和を命じる自然法が適用可能であると述べている[9]

 更に続けてMalcolmはホッブズの平和に関する考察を紹介していくのであるが、そこには商業の役割[10]、国家間同盟の平和への寄与[11]などに関する議論が含まれる[12]。Malcolmは、特殊な状況において、主権者と人民が投票により同意すれば、更なる平和のために二国家を統合させ、一方の国家が消滅することもホッブズの議論から導出しうると主張している[13]

 以上のようなホッブズ解釈に筆者も概ね同意するところであるが、以上を以て、ホッブズの議論をリアリストに対抗するリベラルな立場に与するものと解することはできない[14]ホッブズの国家間の理論は、その規範的側面たる自然法におよぶまで、現実の人間の情念と、政治のプロセスへの分析にあくまで基礎を置いているのであり、彼は何ら理想主義的でもなければ、民主主義的な価値の称揚もしていない[15]。更にはリアリズムの特性とされる安全の優先という[16]原理も共有している(Levの第一の自然法)。以上のような、ズレを踏まえると、出来合いの単純化された立場への包摂ではなく、既存の立場に収まらないホッブズ固有の議論を明確に描き出すことが欠かせないだろう。そのことを念頭に置き、以下では、先のマルカムの議論と対照的なタックのホッブズ理解を参照する。

 Tuck1999[17]も、マルカムが例示するような表層的なホッブズ解釈には批判的である[18]。彼はホッブズの自然状態における人間が、利己的で、支配欲と競争心に溢れる存在だとする通俗的理解を否定する。ホッブズによれば、自然状態において人々を闘争に向かわせる原理は、物事の性質や名称に関する共通の明確な基準の不在であり、そこから帰結する、共通の認識を確保できないことによる、空想に基づいた恐怖である[19]。更にTuckは進んで、自然状態を、通常ホッブズのそれとして考えられているよりも安定したものとして描き、そこにおける相互扶助や有効な信約の可能性を記す[20]。この見解は更に進んで、2004年の時点ではMalcolm同様、自然状態における個人も、国家関係も自然法が規律していることを指摘している[21]

 以上のようなホッブズ解釈は、平和主義的な国際関係理論を帰結するかに映るが、そうではない。Tuckによれば先述したような恐怖が、ホッブズにおいては先制攻撃の正当化根拠にもされているのであり、その恐怖が正当であるか否かは問題とされないと言う[22]。この点Malcolmとは相違がある。彼はホッブズの先制攻撃の議論につき、ホッブズの「コモンローを巡る対話」を参照して、主権者による攻撃戦争の意図が自然法に則り正当と言えるのは国民の生存という必要(Necessity)のために強いられて行う場合と、隣国を恐れる正当な原因がある場合という二つの正当化可能性を挙げている[23]

 

 以上の二者の議論の相違としては、まずTuckはNecessityを強調していないことが意識される。その理由として、Tuckはホッブズが資源の欠乏を紛争の重要な原因と見なさなかったと解することに求められるかもしれない[24]。もう一つの重要な相違は、Malcolmが恐怖することへの正当な原因を要求し、先制攻撃への限界確定をホッブズから読みとろうとしているのに対し、Tuckにはそれがないということである。

 後者の相違については、Malcolmに軍配が上がるだろう。まず、Tuckが恐怖が無条件に先制攻撃の正当な根拠となると述べた箇所では、テクストに依拠した論証は行われていない[25]。それに対してMalcolmは、対話篇の一方の側の主張とは言えテクストから議論を導出している[26]。Malcolmの議論を補強するために、リヴァイアサン14章の議論からも確認する。そこにおいては、自然状態にある、君主間の信約の有効性につき、"just cause of feare"[27]が新たに出現するまでは有効であると述べられ、ホッブズが恐れについて正当な原因を要求していることは疑い得ないように思われる。

 それではなぜTuckはそのような主張を行ったのか、その理由の一つには彼の国際関係観が挙げられる。彼はホッブズの自然状態を穏和なものとして描いたが、後の研究では推測として、ホッブズは国家間の関係は、自然状態において個人が自己防衛することによる不安定から免れているのではないかと主張している[28]。そのように楽観的、ないしは国家主権の自律を最優先した国際関係観をホッブズに帰することで、国家の先制攻撃があらゆる種類の恐怖に基づき正当化されることの問題を小さく見積もっていたのではないか。そして、もう一つの理由として彼がホッブズを好戦主義者及び植民地主義[29]として理解しようとしていることが挙げられる。彼によればホッブズは、新大陸への侵略を正当化したジェンティー[30]の議論を更に押し進めたのであり[31]、戦争に関する経験を積んだ1620年代において戦争支持者であり、それが後の議論に影響を与えたとされる[32]

 このような主張を踏まえると、Malcolmの議論自体も更なる検討を要すると思われる。仮に彼の述べるように、ホッブズの議論では先制攻撃は正しい原因に基礎づけられた恐怖によって初めて正当化される理解したとしても、やはりそこから好戦的な帰結を導き得るからである。すなわち、Tuck自身が主張するように、恐怖の正当性に関してそもそも客観的な根拠が立てられないという応答をしてその議論を骨抜きにされる危険性が存在する[33]。それを避けるためにも、いったいいかなる恐怖が正当とされるのかの追求が必要だろう。

 更には、仮に恐怖の正当性がなにがしか定められたとして、その基準がいかに作用するかという点にも疑問が残るだろう。ホッブズ自身がしばしば主張するように、彼の議論は、人々の誤った観念を払拭することで効力を持つのであり[34]自然法もまた、何か上位にある存在が強制を用いて人々に課するものではなく、何が真に自己保存と安全に資するかの正確な認識を伴って始めて、明確な効力を有するのである。そうであるならば、その自然法に基づいた先制攻撃に関する議論は、容易に誤った議論、認識で曇らされ、恣意的な利用を被ってしまうだろう。以上の危惧は必要性(Necessity)に関する議論にも同様に当て嵌まる。そのような論点についてホッブズがいかに考えていたかについて理解するために、彼による戦争と平和に関する具体的な議論を参照する必要があると思われる。

 

[1] Sir N Malcolm“Hobbes`s Theory of international relation”, Aspects of Hobbes, 2002

[2] ibid pp. 432,433

[3] ibid, pp. 433-436、モーゲンソーやブル、E・H・カーらが挙げられる。

[4] Lev p. 90

[5] もちろん彼の自然法は神が付与して命じるという類のものではない

[6] ibid pp. 185-6

[7] ibid, p.439

[8] C, Beitz, Political Theory and International Relations, p. 28, 1979

[9] De Cive邦訳, pp. 88-90

[10] ibid, p. 452

[11] ibid, p. 450

[12] ibid, p. 454

[13] ibid, p. 448

[14] Jaede, Thomas Hobbes's Conception of Peace, 2018, p.2-16. Jaedeは後者を共和主義、リベラルな価値を体現する立場と理解する。その代表としてカントを置くがそのカント理解自体がそもそも誤りである。

[15] もちろんこの立場の代表とされるカントもそのようなことはしていない。別稿参照のこと。

[16] Hobbesが述べているのはあくまで個人の安全であるため、現代のリアリズムが述べるsecurityが国家自身の安全であるならば明確な差異を有するとは言えるだろう。

[17] Richard Tuck, The rights of war and peace, 1999

[18] ibid pp.129,13

[19] ibid pp. 130-132, DCL, pp.80,93

[20] ibid p. 133,134(邦訳 p.229-p.230).Element of Law,p. 89 Lev, p.25

[21] R. Tuck, The Utopianism of Leviathan, Leviathan after 350years, 2004 pp.134,135

[22] Tuck1999, p.138,139

[23] Dialog, p.159, Malcolm2012, p. 449

[24] Tuck1999, pp. 131,132

[25] 同上

[26] Malcolm2002, p. 449

[27] Lev, p.98

[28] Tuck2004, p. 135 ここおいてもホッブズ自体テクストを引いた論証はなされない。

[29] Tuck1999, pp. 138,139

[30] ibid, pp. 47-50

[31] ibid, pp.138,139

[32] ibid, pp.127,128

[33] ibid, pp.138,139

[34] Malcolm2002,p.454 市民論邦訳 p. 6ここにおいて永遠平和まで示唆されていることに注意されたい cf) ジョンストンの Rhetoric of leviathan