Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

R.W. Southern, "Medieval Humanism"、I,II,VII節

R.W. Southern, "Medieval Humanism"、I,II,VII節

 

冒頭と最後です。

 

 

 「ヒューマニズム」という言葉には、より広く流布している、人間の知識、活動領域の拡大と結びついた意味と、もう一つ、学術的な領域で用いられる古典学的な、ギリシア、ローマの文物の研究と結びついた意味がある。どちらも中世には当てはまらない、ひいては中世に敵対的なものだと従来は思われていた。前者の意味は科学の発展なども含意しているが、中世の教皇の権威に基づいた階層的組織や超自然への信仰はそれに対して敵対的だと考えられている。後者の意味におけるヒューマニズムに対しても、中世の学は人間性を軽視し、古代の著作家の文芸的価値を無視しているという点で敵対的だと思われていた。

 

 カロリング期や12世紀のルネサンス、そしてヒューマニズムの存在を認める論者もいるが、それは一過性の事態だと考えられており、さらにその含意も明確ではない。中世の著述家や古典愛好家を眺めてみると、彼らが引用の対象としている古典作家に対して無関心であることがわかる。例えばソールズベリのジョンは多くの古典作家からの引用を行なっているが、典拠の問題などに殆ど注意を払っていない。そういう意味で、後のルネサンスを代表するペトラルカ等とは異なった心性を有している。

 

 上に見た例からもわかるように、ヒューマニズムという主題は混乱を伴うものでもある。その混沌とした状況を追跡する代わりに、この論考においてはなぜ私が1100年から1320年までがヨーロッパ史における偉大なヒューマニズムの時代であったと考えるのかについて簡単な説明を行った上で、最後にはなぜこの時期のヒューマニズムに対して後の時代のヒューマニストが敵意を持つのかについても考えることにする。

 

 まず、上に述べた疑問に応えるために、私たちが探求の対象とする時代において人文主義を形成するための基本的な兆候をみていく。まずは、人間の本性における尊厳が認められることが一つ目である。中世の原罪の教義における、人間が堕落した存在であるという考えはそれに敵対するように思えるが、人間を偉大な神の作品とみなし、その高貴さが堕落した後でも続くと考えるヒューマニズムの存在を期待できるかもしれない。それに並行して、自然の尊厳というものが認められている必要があるといけない。人間は自然の一部として存在する以上、人間に尊厳が認められるならば、自然に対しても尊厳が認められる。そして最後に、世界の理性を通じた理解可能性というものが挙げられる。それは、自然に秩序が存在しているということも前提としている。

 

 これらの尊厳、秩序、理性そして理解可能性といったものが人間の経験において優位を占めている場合に、その経験が引き起こす見通しはヒューマニズムとして規定されるものだと考えて良いだろう。このヒューマニズムはどちらかといえば前者の意味、すなわち「科学的な」ヒューマニズムに接近すると考えられるだろう。

 

 しかしながら1050年以前の時点では、そのような特徴は見て取ることができない。法律、統治、医学、議論における理にかなった手続き手続に対する意識は備わってなかったのであり、人間は神意の道具として規定されていた。これが11世紀以降半以前までの世界である。

 

 当時は人間の世界における位置付けを行う際に、宗教的な、神中心的な枠組みを利用していた。その枠組みのほうが後の時代に出現する楽観的世界観よりも、現実に相応しかったのである。1050年以降になって初めて世界観における強調点が一変することになる。

 

II

 

 11世紀中葉以降の修道院からは、変化の徴が見て取れる。修道院における神を知る手段として、人間と人間の経験が強調されていく中で、神を知り得る存在としての人間という自己意識が出現し、それが人間の尊厳を高めていった。

 1079年、ベックにおいてアンセルムスは自己の精神という小部屋に入り込み、「神」という言葉以外のものを排除した上で、その言葉それ自体が神の存在の論証を導出するということを発見した。そのことは彼にとって新しいものであると同時に真理でもあった。それは魂の内側で営まれる内省によって事物を知るという分析的方法の勝利であった。新しいことを発見することができるという考えそれ自体が、行き当たりにぶつかっているという意識を持っていた世代にとっては新しい出来事であった。新しい事物の発見は、人間精神内部にある力の解放をもたらした。

 

 聖ベルナールは内省という方法を広く行き渡らせ、その手法を修道院の著述家の共通財産とした。更にベルナールは自己愛から他者、隣人への愛、神の愛に至るということを主張し、ここにおいて自己愛という利己的とも形容しうる現象が神に至るための好ましい方法として描かれるという転換が生じたのである。人間そして自然から出発して、それを神へと至る好ましい道とみなすことが新しい時代の特徴であった。

 

 ベルナルドゥスの同時代人、リカルドゥスは以下のように述べている。

 

未だに自らを観るに至らない者は、神を観ようとしても果たされることはない。

神の見えざる実在へ手を伸ばす前に、自身の見えざる実在をまず理解することだ。

汝自身を理解せずして、汝の上にあるものを如何にして理解するというのか。

 

 この人間への探求が修道院の最初のプログラムとするならば、修道院の人間における別の側面として、次に友愛の経験について理解されなければならない。

これはルネサンス人文主義者達も有していた経験であった。自己の知識が人間の贖われる最初の段階とすれば、その知識を分け合う友愛は重要な補助の役割を果たすのである。

 

 リーヴォルのエールレッドは友愛に関する論考を物したが、修道院の経験を次のようなことばで表現している。「友愛は知識に他ならない。」、「神は友愛である」

 彼によれば自然は人間に友愛を求めさせ、その友愛を経験が強め、理性がそれを規制し、宗教生活がそれを完成するとされる。ここにおいては自然から神へ至るプロセスが示されている。

 

 更に、12世紀においては人間と人間の友愛のみならず、神と人の友愛関係が描かれた。神は単に恐れ敬うべきだけのものではなくなっていったのであり、人々は神の恐れを避けようと震える以外の神との関係の結び方を模索するのである。

 

 そのような変化は詩歌、賛美歌の領域において見出される。以下の1250年頃に作成された有名な詩歌は、最初の2行の恐ろしい光景が、それ以降のキリストによる救いによって緩和されているという点で象徴的である。

 

怒りの日、その日こそ

地上が塵と帰る日

....

覚えていてください、 慈悲深いイエス

私はあなたのやってきた目的であり、

その日においてもあなたは私を滅ぼさないことを

私を求めて、疲れ切ったあなたは座った

(私たちのために)あがないをなされた、十字架の苦しみを負うことで

これほどまでの労苦が無駄であろうはずもない。

 

 人間としての苦しみと感情を有する神のイメージはアンセルムス以降、心情的な考察の対象となっていったが。上の詩もその一例である。神による創造の営みは人間性に満ちた行為として解釈されるようになっていった。

 

 私たちはそのような描写が過酷な現実を覆い隠す外皮であると反論することも可能かもしれないし、このことは、宗教におけるヒューマニズムが避けがたく備える性格なのかもしれない。しかしながら、それはヨーロッパの宗教分裂以降も生き延びたヒューマニズムの一つの型なのであり、民衆の世界認識に貢献し続けたのであった。

 

 更には以上のような宗教的テーマはヒューマニズムのテーマからは程遠いと考える者もいるかもしれない。それでも、私たちが人間の尊厳への意識の成長や、人間の力と宇宙に占める位置の増大を求めている場合に、12、13世紀の賛美歌や瞑想が豊富な実例を提供することは確かなのである。実際、これらの宗教的発展は、人文主義の果たした最も偉大な勝利であるとも言える。その時代のヒューマニズムは世界を人間性で征服し、神を自身ら人間と区別がつかないほどに人間の友人へと変えたからである。

 

VII

 

 私たちが検討してきた時代におけるヒューマニズムに対する拒絶には、多くの理由が考えられるだろう。神学的基礎、世界の理解可能性、人間中心主義、楽観主義といった特徴が拒絶をもたらす原因かもしれない。しかしながら神とも理性とも不和を起こすことなく、人間を賛美する人間がこの論考で描かれた思考様式をヒューマニズムの枠で括ることを拒絶することは不思議なことである。11世紀について知識があれば、12,13世紀において人間の尊厳についての意識や世界と人間の理解可能性、実践領域における理性の適用といった事象が大きく進展したことは誰でも認めるであろう。そうだとするとその2世紀がヒューマニズムの諸価値に敵対的だと回顧されるのはなぜだろうか。

 

 この疑問への回答は14世紀初期を見ることで明らかになるかもしれない。その時期より、前時代の楽観主義は崩れ、知的活動の素材の流入は止まり、地理的拡大も終了した。更に各所で不和が見られるようになってあらゆることが不安定になったのである。その前の時期までは多少問題があっても将来はよくなるという意識が存在していた。それまでの教皇や皇帝による秩序で安定が齎されるという理想も実効性を保っていたのである。神の支配する世界も秩序だったものと理解されていた。

 だがその状況は一変する。劇的な災厄というものは存在しなかったが、それまでの拡大傾向が止まるだけで十分な変化の原因となったのである。新しいヒューマニズムの担い手であるペトラルカは、14世紀中葉において、前2世紀における知的活動に対する理にかなった失望を有していた。人間がそこを目指して位進んでいた知的、実践的秩序は突然達成不可能となったのである。

 

「どこを向いても暴君が存在しており、暴君がいない場所があったとしても、人民が暴君の代わりの役を務めている。一人から逃れたとしても、大勢の手に落ちるだけである。もし公正で温和な王が治める土地を示してくれれば、何処へだって身包み揃えて飛んでいくのだが...

インドであれペルシアであれ、ガラマンテス人の土地の辺境まででもそのような王のいる場所を求めて訪ねるだろう。だが存在し得ないものを探してもむだなことである。この時代においてはあらゆることがどうでもよくなったので、労苦をとる必要もない。」

 

 過去への希望は埋もれていったのである。その埋没の過程は静かなものでなく、軽蔑、嘲笑、失望感を伴って行われたのである。聖職者による学校は単に失敗の責任があるというだけでなく、大いなる隷属を促進したものだとみなされるようになった。

 

 あらゆる思考体系はその中に弱点を含んでいるが、それは同時に利点も構成していた。中世の科学的思考の弱点は権威あるテクストと諸命題への依存であった。そして同時にそれらによって議論の素材が確保され、大胆な結論を導くための基礎が形成されたという意味で、それらは思考体系の基礎をなしていたのである。しかしながらそのことは発展の限界を定めることになりもした。

 

 思考体系とその目的への信頼が失われると、その細部も営みも敵意に晒されるようになる。実際中世の学校における写本ほどそのテクストの物理的状態が、魅力を損ねるものはなかった。読解困難な文字、判読困難な縮約形や、テクスト本体より読みづらい注釈で埋め尽くされた欄外といったものは嘲笑を引き起こした。学習のための補助知識が向けられていた、当の対象である目標自身が信頼されなくなると、付加物は野蛮で非人間的なものと考えられるようになる。

 

 そうして、12,13世紀におけるヒューマニズムの残存物の引受人として、新しいヒューマニズムが出現する。それは普遍的秩序への希望を持たず、感覚、個人的徳、古典テクストが示す古代の理想社会への郷愁が人間的価値の支えとして保持された。新しいヒューマニズムは個人と過去という領域に引きこもった。それは聖職者ではなく貴族を文化の保護者とし、神学と科学てはなく文芸から知的刺激を探求した。人間の高貴さは理解不能な世界との格闘によって表現された。この転換が生じた際に、盛期中世のヒューマニズムは、形式主義と人間的経験への敵意を持ったものとして誤解されるようになったのである。

 

 

 

 

 

 

Cary j. Nederman, The Bonds of Humanity- Cicero’s Legacies in European Social and Political Thought, ca. 1100–ca. 1550, 第1章補遺

http://kannektion.hatenablog.com/entry/2020/06/14/220352

 

上の記事を補うものです。

 

 


 中世ヨーロッパにおいて影響のあったキケロのテクストは、De innventione, De oratore, De republica, De legibus, Brutus, Paradoxa Stoicorum, Orator, De finibus, Tusculanarum disputationum, De natura deorum, De senectute, De divinatione, De fato, De amicitia, TopicaそしてDe officiisである。影響力のある偽作としてはRhetorica ad Herennium, であり、当時から偽作を疑われていたのはGenus optima oratoreである。ただし完全に各著者に伝わっている訳ではない。

 理性、言論そして平等性

 キケロDe oratore(1.31)における、最初の弁論家が存在しなければ人間は永久に野蛮な都市のない状態に留まっていただろうという推測と、と彼による共同体形成の促進という議論

「あるとき、偉大で賢い人間が魂に内在する自然的才能であり、教育を解することで改善すれば大いなる機会を与えてくれる言論の能力を発見し....彼は人々を、言論や理性により積極的に注意を払うために、野蛮で残虐な状態にある動物を飼い慣らされた、親しみやすい動物へと代えた。私は語られない、雄弁を欠いた知恵は人間の習慣を変えて、異なった生活様式をもたらすことはできないと考える」(De inventione1.2-3)

 キケロは理性を人間の連帯の根源だとし、別の時には言語がそうだ都市、更に別の時には両者を挙げる。De finibus2.45においては「理性は人々を彼の本性に向けられた喜びへと促し、言語と習慣と自然的均一性を生み出し、そして個人をうながして友情や家族の感情から発して関心を拡大させ、同胞市民や全ての人類への社会的紐帯を形成させる」それとは対照的にDe natura deorum2.148では「言論の才能を得よ。それによって私たちは正義、法、政治秩序に結びつけられるのであり、それによって残酷で野蛮な状態から抜け出すことになる」。他にもBrutus59では「理性は人間の栄光であり、理性を照らすのは雄弁である」と述べられる。ここにおいては理性と言語はあまり区別されていないと考えるべきであろうか。ただし、キケロもその区別に意識的であり、知恵とその言語による開示が切り離されてしまうことがあることは認識している。哲学は論理的原則、理性的議論の原理に基づいていなければならない。雄弁は真実の探求という目的で規制されなければならない。

 

 

コバルビアスと16世紀における人文主義、スコラ学(1)

 

 

 Katherine Elliot van Liere, Humanism and Scholasticism in Sixteenth-Century Academe: Five Student Orations from the University of Salamanca,  Renaissance Quarterly Vol. 53, No. 1 (Spring, 2000), pp. 57-107の本文の前半までです。

 著者のLiereはここでも扱われているコバルビアスと同時代の法学をめぐる研究で1995年にプリンストンで博士号を取っている人です。そっちは入手できず読めてませんが、他のカイエタヌスやビトリア を扱っている論文は読んだことがあるくらいです。そのほかにもカトリックの歴史記述についての研究もしています。

 

それでは以下紹介です。

 

 

 16世紀における人文主義とスコラ主義の対抗という図式は、そのような図式に対する異議申し立て、リヴィジョニズムを経た上でもやはり、大枠として認められている。だが、その両方の主義が接続していることが認められている学問領域として法学がある。その領域においては人文主義者とスコラ主義者の協働が生じていたのだ。両者の敵対という通説的理解はその接触を覆い隠してしまう。近年の研究者達も、法においても両者の対抗が存在していたという図式を保持しており、バルトルス的なmos italicusを人文主義的なmos gallicus(それはポリツィアーノやアルチャート、ビュデによって展開された歴史的方法論を指している)が放逐したのが16世紀だと理解している。確かにその二つの対抗は重要だが、それのみに注目していると、両者の接触という事態から目を背けてしまうことになる。
 付録として付したラテン語原文の史料は、人文主義的、スコラ的それぞれの潮流が法学において融合しているあり方を示すものである。ここではバルトルス主義はmos gallicusに頭を垂れてなどいない。これはサラマンカ大の法学部で1538,39年に記され、恐らく実際に講述された、学生による学術的な講演録に基づいたものである。著者はディエゴ・デ・コバルビアス(1512-1577)で、彼はサラマンカ大で1539年から1548年まで市民法とカノン法を教えた(27の時から!)。カール五世やフェリペ二世の顧問も務め、教鞭を執った後はロドリゴやセゴヴィアで司教もやっている。彼は「スペインのバルトルス」という異名も有しており、スコラ的な方法論を備えていたことは大いに認められている。彼の講演の中心テーマは「軍事と学芸」であり、それはスコラ的伝統人文主義的伝統の両者で古典的テーマとして認められてきたものであった。

 その五部からなる講演録は学生の手になるものとして残っているという点で、同時代のその他の残存史料とは異なっている。他の残存テクストの殆どは大学教師の手になるものであり、有名どころだとネブリハのrepetitionesや、ビトリアの講義録などが挙げられるだろう。コバルビアスの講演は、学生身分の最後の時期に記されたものであり、実際1538年の12月にはlicentia(講義資格)を彼は授与されている。講演録のタイトルは講義のポストを得るための講演と題されており、そのlicentiaの口述試験のために作成したと想定されるのだが、それは伝統的な修辞学の伝統を反映したものとなっている。講演録の中には彼が資格授与のための審査で苦労したことを臭わせる表現も存在しており、第三部以降はlicentiaの口述試験の後にも手を加えたと考えられる。そのような時期に行われていたこともあり、講演録は当時の大学の雰囲気を伝えるものだと言えよう。
 修辞学的には講演録の第二部は聴衆に興味を持たせるためのprooemiumの役割を備えており、第三部はperoratio、直接的な訴え(具体的に言えば資格付与の訴え)のために行われたものとなっている。これらは法学の分野における著者の専門知識を示すためとよりは、修辞の能力を示すために作られたと考えられる。

 

以上です。 次から コバルビアスとバルトルスの伝統という箇所に入ります。

 

異端審問官じゃない方のトルケマダ

 

異端審問官の方のトルケマダについては日本語ウィキペディアにもあるのに枢機卿にして教会論で有名なトルケマダ(Juan de Torquemada)の説明はない(ちなみに異端審問官のトルケマダの叔父にあたるのであるが)。公会議の時代における彼の議論の意義について勉強する前に

http://kannektion.hatenablog.com/entry/2020/04/14/192354

 上の記事で紹介したAntony Black, Political thought of Europe 1250-1450, のpp. 80-85あたりにおける説明を見る。
 

 

 

 彼自身はSumma de ecclesiaCommentarium super toto decretoにおいて教皇主義的な立場と世俗主義的な教義の中間の道を歩むと主張している。彼は教皇がprincipatusの権利に基づいてキリスト教世界の内部問題についてのjurisdictioを有すると説明しているが、それは「罪の矯正、平和の保持そして永遠の救済へと信徒を導くため」のものに限定されるという。教皇はadministratioを行うものであり、教会のdominusではないという。更にダンテと同様に霊的権力と世俗的権力を神学的徳と道徳的な徳に対応させている。だがトルケマダは結局前者の優位を主張したうえでそれ「世俗権力を指導、規制、規律し、世俗権力も永年の幸福へと向ける」とも述べる。
 更に各論においては教皇は怠慢に基づき君主を罷免し、臣民の服従義務を解くことが行い得るとの説明にも至っており、信仰の防衛のための課税まで認めている。更には異端的な支配者からの支配圏奪取、不信仰者への戦争の決定が行い得るという主張にも至る。具体的にユダヤ人に対する霊的世俗的刑罰権も導いているのである。結局実際にはイノケンティウス三世的な教皇主義を外交のためにこしらえた二元主義で隠していると説明がされている。

 
 ざっくりとこんなかんじ

 

 そのため後代のカイエタヌスなどは好んで引用したのであろう。そしてビトリア教皇の世俗権力を否定する議論において彼に対する批判的言及を幾度かなしている。ちなみにIzbickiの有名な研究(Protector of the faith)は、トルケマダの理論は同時代の更に過激な教皇主義の主張を抑えていることも示しているので注意が必要である。実際自分も引用したアレヴァロはトルケマダの同時代だが彼もどっこいどっこいかトルケマダ以上の教皇主義者であるし、多分もっと過激な論者もいるんだろう。
 カイエタヌスをいくつか読んだらトルケマダも読んでいかないといけない。ひとまずは専門的な二次文献でもっと詳しく学んでおく。

Cary j. Nederman, The Bonds of Humanity- Cicero’s Legacies in European Social and Political Thought, ca. 1100–ca. 1550, 序章と第1章

Cary j. Nederman, The Bonds of Humanity - Cicero’s Legacies in European Social and Political Thought, ca. 1100–ca. 1550, 序章と第1章


 序章では、12-16世紀のキケロ主義への着目があまりに弱いことが、近年初期近代や古代という文脈でキケロを丁寧にやってる研究が存在していることと対比して指摘される。そのうえで、キケロ主義なるものを緩やかに捉えることを述べ、それと同時にあらゆるキケロを引用した論者をキケロ主義としてくくる積もりはなく、人間の自然的な紐帯やそれに伴う義務、義務をもたらすsocietasという考えと適合的な議論が行われているものに限定するとも言っている。そして、いわゆる政治的人文主義的思潮だけでなく、皇帝主義といったものとも結びつくキケロ主義の柔軟さを指摘し、影響史というよりは古典の解釈、受容史として捉えることも表明される

 第一章では社会的政治的秩序の基盤の含意にかんするキケロ主義の特性が説明される。人間は連帯する衝動を有しており、それは、内在的であるが発展させなければならに言語能力と結びついているといったことや、理性は神に由来しているが、それが人間の努力によって開花させられる必要があることが特性であるといった議論がその特性である。人間の理性行使による自覚的な共同体形成、自然法に基づいた正義の設立の必要についての認識といったものも挙げられる。その他にも共同体のための自己犠牲や、共同体の善といった価値、それと同時に不偏不党性や友情という価値も指摘される。自身の理性的能力に従って、どの義務がもっとも拘束的か判断するのが人間の特性だとされる。
 人間は自然的に徳へと向けられているのであるが、周囲の環境によって堕落しているという認識が示される。そのため、各人が程度の低い欲求の追求へと向かい、相互の衝突が生じるとされる。このような時点において、それまで人々を結びつけていた同胞に対する感情が失われるのであり、代替の手段が必要となる。キケロのDe officiis 2.41で説明されるように、欲望に基づいて支配関係が生じた場合には、抑圧された側が「性格の優れた人間を王として建て、それにより人民が正義を享受できるようにする。多くの人間が教令集者に支配されている場合に、彼らは顕著な徳性を有している人間に保護を頼むようになる」のである。
 ただし、キケロは無制限の政治的権力が王にに与えられることは危険なことだと認識していた。原始的な王政は正当で善良な人間が王位を有している間は適切に機能してるが、共同体がそのような統治者を生み出し損ねたならば、「同一の声で同時に全員へと要求を行うほうが生み出されることになる。....根本法の存在理由は王の存在理由と同じである。公平な権利が常に追い求められるために存在している」(De offiviis 2/41-42)。法体系が個人的な統治にとってかわるのだが、両者の根幹の目的は同一である。制定法であれ、よき統治者であれ、正義と自然法に一致していなければならない。共同体の制定法はキケロが「真の法」(veri iuris)と説明したものの要求を満たさなければならず、人間の恣意に服してはならない(De legibus 1/42-45)。人定法の目的は正義の規律にかなった形で社会的関係を制御することにあるのであり、私法は自然法に服して、そこから効力を得ることとなる。

 

 そのほかにも演説の能力と政治家の資質、友愛、愛国主義、理性的能力といったものへのキケロの説明が紹介されている。

 キケロの社会、政治に関する理解の多面性は、人間は多くの根拠に基づいて、いろんな種類の人々に対して多くの義務を負っているという彼の認識に由来しているという。だが、キケロはしばしば共同体の善に基づいて行動することが最善であるという主張をを行っている。人間は思索をなすこともあるだろうが、人間の紐帯を守るために共通善に貢献しないとならない。「社会的な衝動に基づいている義務は知識に基づいているものよりも本性的である...正義によって規定された義務は知識の追求や、それによって得られる義務に優先するのである。というのも前者は同胞の人間達に関わるものであり、そのようなものよりも神聖なものだと人の目に映るものはないのであるから」(De officiis 1.153,155)多様な議論の中でも、最終的に政治的生活が哲学に優先するということが彼の議論の確信と言い得るかもしれない。

 彼の思想の多くの要素は、次章以降でみる異なった性格の思想家たちに受け継がれていくことになる。

 

Harald Maihold, Strafe für fremde Schuld?, Böhlau Verlag, Köln, 2006, pp. 29-37

 

 サブタイはDie Systematisierung des Strafbegriffs in der Spanischen Spätscholastik und Naturrechtslehreです。

 

 

1 公的な刑法の出現


 「近代的」国家概念の形成は罪の原理の発展に寄与してきた。Gerd H. Wächterは彼の刑法研究において「主観的な責任原理は刑罰の国家化の帰結である」という主張を提示している。近代国家の出現による世界の変化に呼応して、社旗における目的、理想、価値といった者が再定義されることとなった。
 別の箇所において教会の理論と実践上の、罪の概念の世俗刑法への仲介や西洋法文化の形成への役割が説明される。重要な貢献はバーマンによる12世紀の「教皇革命」に関する研究であり、それはバーマンが説明するようにヨーロッパの法理解の基盤を作り出した。その他にもMartin Ohstが彼の「告解義務」についての研究で示したように、法学における神学的概念の借用について、フランシスコ会士Angelus de Clavassio(~1495)のSummade casibus conscientiaeが範型的役割を果たしていることが知られている。
 「近代的」な刑の概念は主観的な責任の概念に基づいているのであるが、それは初期近代の国家の出現という条件と同様に同様に教会の伝統に由来する認識に基づいているのであり、対抗宗教改革と領域国家の出現という出来事か生じた16世紀のスペインの学知において、「近代的」刑罰概念にいたる里程標を見いだす事が出来るのである。

 近代的刑法に関する問題を歴史的によく理解するために、「公的刑法の出現」を探求するプロジェクトが執り行われた。そして、1993年の10月より「スペインスコラ学における学識刑法」というものに献身した。

 この研究は「他の人に対する刑罰Strafe für einen anderen」という近代刑法の領域の一部に属する問題についてよりよくとらえるきっかけとなる。主要な焦点は「後期スコラ学」の刑法の教義にあるのだが、それは罪に基づく刑罰という近代的な側面と、罪と関係ない刑罰という前近代的な要素の両方を含んでいる。「他の人に対する刑罰」という考えについての研究は、研究テーマに基づいた断面図をもたらすのではない。その問いは初期近代の法学的神学的テクストの研究の下に浮かび上がるものである。

 「他の人に対する刑罰」という考えについての研究は刑罰概念についての理論的な議論のみを対象とするのではない。それは学識刑法学の原理を実践と調和させる理論的基礎をも探求する。

2 Literaturbericht
 
 a 中世における罪と罰
「法学者に対して刑罰の実践が問題ないものと映れば映るほど、それは歴史家にとっては問題ないものではなくなってくる」(Vicot Achter 1951)
 現在の見解において、刑罰要求(Strafaussspruchなので刑罰の表明?)が含意しているとされる倫理的非難は、Viktor Achterが示したように、12世紀の南フランスで確認され、ドイツでは14世紀に初めて見いだされる。それまでは倫理的非難を表明する制裁という者は知られていなかった。

 古ゲルマン、西ゴート法は結果志向の、他者への侵害に対する客観的責任に由来している。そこには現在的意味での「刑罰」はない。古法の贖罪とは損なわれた秩序を元に戻すものであった。贖罪は加害者ではなく、親族などの第三者によるうこともあった。ここにおいては通常想定されているような、家族の共同責任といったものは見いだされない。当該贖罪は教会による実質的な代行を伴うこともあった。

 「他の人に対する刑罰」という現象は法制史研究において全く以て知られてない訳ではない。法制史家と神学者は、古い刑法において代理が認められていたことを認識しており、それについて奇妙に思っていた。

 カノン法学者の作業は大きな意味を有している。Dominico Schiappoli
Josef Kohlerらがその端緒を開き、Vito piergiovanniとMarianが12-15世紀のカノン法学にかんする本格的な研究を行った。それらの研究は刑罰が加害者にのみ課せられるという考えが、トマス・アクィナスの霊的な刑罰である破門についての議論の影響の下でいかに広がっていったかということと、それが世俗の刑罰については殆ど妥当していなかったことを示している。

 Woldemar EngelmannとGeorg Dahmはイタリア古法における刑法において、「罪なき刑罰」に関する議論が、法実践上でも見いだされると述べている。
 戦争における殺害という問題についてはRaymund Kuttjeが初期近代の事情に関して研究している。戦争の対立における罪のない人々の殺害という問題は正戦論と緊密に結びついており、その議論はKarl-Heinz Zieglerが示したように、バルトルスのTractatus represaliumを介してカノン法からレジストへともたらされた。

 b スペインの後期スコラ学における刑法
 スペインの後期スコラ学における16世紀の刑法理論は主にスペイン語圏で詳細な研究がなされていた。そこにおける主要な研究対象はまずフランシスコ会士のAlfonso de Castro(1495-1558)である。特にカストロによる刑法の義務的性格についての議論が採り上げられている。その他にはFrancisco de Vitoria(1486-1546)の死刑に関する議論やFrancisco Suarezの刑法の治療的な目的に関する議論が研究対象とされていた。
 二十世紀の初頭にすでにJerenimo Montes Luengosはスペインノ学者による刑法に関する命題をまとめており、そこから彼らによる「刑法の属人性」についての擁護を見いだしている。
 スペインスコラ学の帰責理論についての膨大な貢献はFerdinand Galeaによるラテン語の博士論文に纏められており、それはサラマンカの外では殆ど広まっていない雑誌に載っており、重要なテキストであるDiego de Covarrubias y Leyva(1512-1577)のVariae resolutionesについての詳細な注解が行われている。ただし、当該研究は神学的観点からの分析が多く、本研究が行う歴史的分析とは異なっている。
 ドイツ語の研究としては Hellmuth von WeberとFriedrich Schaffsteinによる、スコラ的方法が、ドイツ圏の刑法研究(Carpzovなど)に与えた多大な影響に関するものが挙げられる。そういった側面はスペイン後期スコラ学の原状回復理論二関するGünther Nuferによる研究も備えている。


c Wahrnehmung eines Störfaktors
 「他の人への刑罰」も、スペイン後期スコラ学の刑法理論も研究において全く知られていない訳ではない。そしてスペインの16世紀の学者が近代刑法の創設者ともしかしたらみなされ、自身の関係のない罪による刑罰という現象が認識されるようになる一方で、阻害要因として、それらの理論は現行の刑罰や罪に関する理解と殆ど適合しないという主張が挙がるかもしれない。そういった議論を脇に置いた上で、現象を歴史的に整理する研究がなされることとなる。
 本研究の目的はもっとも研究に相応しい代表的なテクストから基礎的な範型を探求することであり、それによって「他の人への刑罰」というものが論拠によって裏付けられることである。更には現行の刑法の文脈から切り離してそれらを把握し、その文脈の変容それ自体も見いだすこととなる。

Stephan Kuttner, "Notes on the Glossa ordinaria of Bernard of Parma", Bulletin of Medieval Canon Law, 11 (1981), pp. 86-93.

 

今後は頻繁に更新していきます。その代わり自分の再確認用のメモという性格が強いので読みにくいものになると思います。

 

 

 

リーベル・エクストラの標準注釈の歴史はまだ描き切れていない。グラティアヌスの標準注釈の研究状況の、シュルテの1872年のモノグラフのタイトルを借りるならば「その起源から最近の版まで」といった状態と比べると、パルマのベルナルドゥスによる注釈に関して私たちの知ることの出来る情報は、その後期中世におけるインキュナブラ版や、1582年のEdiio romanaの印刷を介した伝達に関してと同様、概略的で場当たり的である。ベルナルドゥスの最低でも四回にわたる改訂が、1241年より前から、彼の死(1263-66)までに行われていたことは、Beryl Smalleyと筆者による1945年に出された論考において示されている。
 だがそれは研究の端緒でしかない。ベルナルドゥスによる注釈の作成は想定されているよりも技巧的ではないが、その作成様式を知ることは重要である。
 標準注釈の「死後出版の」歴史はまったく手つかずのままである。例えば、ベルナルドゥスのCasus longiは注解された教皇令集の手稿の中に、独立した層として組み込まれているように思われる。それは写本の、初期の印刷板のどこに見いだされるだろうか。LaurinはCICの研究の序文においてHain 8030,8034(ニュルンベルク1491,1496)をCasusが挿入された最初のインキュナブラ版だと報告している。私はバークレイでHain8029(Venice1492)を確認した。リヨンの1509.1510,1528はCasusを欠いており、パリ1529や影響のある1547年版は含んでいる。しかし、シャルル・デュムーランはCasusを取り除くことを決定している。彼は”qui visi sunt parum vtiles consilio Iureconsulti disertissimi”と述べている。

 Casusを組み込んだ全ての版、それは1582年のローマにおける公式版も含んでいるのだが、はさらなる精査が必要である。というのも主要な異読は最初のページから出現しているからである。精査作業は、これまで検討されていなかったCasusの最後に見られるNotabiliaにまで及ばないとならない。ベルナルドゥスのCasusは写本ごとに膨大な不一致が見られる。X 1.1.1、Firmiter credimusの注釈において事案(casus)が"Nota quod post symbolum Apostolorum..."から始まっているのを例外として、X1.2.9 Cum M. Ferrariensis以前のいかなる事案も"Nota quod.."の文言を含んでいない。これまで記録されていなかった、ベルナルドゥスのNotabiliaのベルガモにおける独立した写本伝承、Civica MS MA 137は彼のCasusを検分した写本との完全な一致を得た。それと対照的にローマ版は追加の12個のnotabiliaをグレゴリウスの勅書の事案の冒頭に"Premisssa salutatione sic pone casum"という形で含んでおり、Firmiter credimusには10の、X. 1. 1. 2には5の、X1. 2. 1には2の、X1.2.2には3の追加のnotabiliaが付されている。Casusを長くすることで、ローマ版の校訂者は1547年のパリ版に従ったことになる。以下がパリ版のタイトルページとなっている


Gregorii noni Pontificis maximi Decretales epistolae ab innumeris paene mendis, cum textus, tum glossarum repurgate: quarum casibus superaddita sunt brevissima Bernardi glossatoris notabilia nunc primum in lucem edita. Parisiis Apud Jolandam bonhomme sub signo Unicornis. 1547

 献辞において校訂者のプレモンストラントのベネディクトゥスは"epistolae nunc autem disertissimi glossatoris Bernardi notabilibus illustratae, quae non tantum peritioribus verumentiam rudiorubus utiles habentur"と記している。しかしそのように述べられたNotabiliaを示す写本の証拠は見つかっていない。当該テクストの校訂は16世紀より余分な加筆をそぎ落とす形で行われ、筆者もそれにコミットしているが完遂されてはいない。中世の人間の主眼としていたことは、筆者の細心の注釈を見いだすことであったのであり、その作業は外の教皇令への注釈などを参照にして行われていた。
 歴史家はその一方で起源と発展を追跡しようと望んでいる。インノケンティウス四世の立法は1945年の論文を書いていた筆者達に、ベルナルドゥスの注釈が最後の第四ヴァージョンへと至る変化を追跡する指標を与えてくれた。しかしながら、インノケンティウスによる、公会議前、公会議時、公会議後の制定を追跡せずとも、最初の校訂を識別することができたかもしれない。それは序文に続く最初の注釈と、第一巻の結論部の注釈を見ることで特定可能だったのである。(以下、写本とローマ版(こちらは第二版以降の変化を反映しているとされる)の対比が行われる)"