Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

Antony Black, Political thought of Europe 1250-1450, イントロ 内容紹介

 

 

 

 

 

 1250-1450にかけての政治理論は、多様な学問的伝統から成立したものだった。神学や法学、キケロアリストテレスのテクストの伝統といったものが主要なバックグラウンドである。キリスト教というものはその時代均質的なものではなかった。地域階層の偏差が大きい。特に教会の腐敗とそれへの批判や、異端という形をとった対抗いった要素が多様性をもたらしている。


 中世の理論家が規範的、理想的な議論ばかりしていたという見解は覆されている。experientia, rerum magistraを彼らはルネサンス人と同様に評価していた。法学者は慣習や先例に依拠し、法理論かはde jure な問題とde factoの問題にある区別に注意を払っていた。倫理学者は個人の救済に関心を向けることで、更に日々の生活における正義にかなった振る舞いとは何かについても考察を巡らしている。オッカムのような政治理論家は、具体的な状況下における正当な振る舞いを解明することに奮闘したという意味で、道徳神学の一部と考えることが出来る。


 公的な文書、書簡や取り決め、年代記といったものは同時代の人間が許容可能と考えていた言語のありかたを確認する事が出来る。そのような文章の多くは、修辞学者、法律家や教会人によって作られた物になる。彼らの言語は形式的な部分も多い1276年に書かれた作文法に関する教科書("De arte prosandi")や、宗教者によって記された年代記には、不和の反対物、調和であったり共通善を強調するものが多い。


 それではこのような共同体主義的な理念が後期中世において支配的だったと言えるのだろうか。まず言えることは殆どの人々は複数の集団、ギルドや家、村落、教会、信徒集団といったものに重複して帰属していたことである。そのような秩序の中で静態的に人々が過ごしていたことは確かだろうが、そのことから直ちに、多くの人々が個人主義的と言うよりは共同体主義的な志向を持っていたとは言えない。


 教育を受けていない普通の人々の意見は殆ど残されていないし、記録されやすい、反乱といった極限状態における主張が日常的な意識を反映しているとも言いがたい。だが、人々が極端に隷属的であったということは言えそうである。それと同時に、政治的な言語が変化した度合いと比べると、人々の意識の変化は緩やかであった。


 政治的な見解、言語は都市と地方、貴族と農民では異なっているだろう。都市内部での階層における政治的意識の違いを占める証拠は少ないが。世俗と教会の裁判所における政治言語は似通っており、両者ともに大学出身者や人文主義者が鎬を削っていた場であった。


 政治言語の地域的な分断腺はイタリア半島とそれ以外の間に引くことが出来、それは都市国家の早期成立が重要な原因となっており、それと同様にキケロに端を発するレトリックの伝統を採用していたことも影響していた。


 ヨーロッパ全体に関係していた問題としては、国家教会関係に関わる問題が挙げられる。それは十四世紀までは実際上の、教皇と特定の地域や支配者との関係に関わる問題が中心とされていた。
 イタリア以外のヨーロッパにおいては理論の類縁性は高かった。神学と哲学が国際的な正確を保持し、アクィナスやマルシリウスといった神学者達はイタリアから北ヨーロッパ君主制の地域まで移動をしつつ研究を繰り広げた。


 スペインや北ヨーロッパ君主制立憲主義的な形態へと移行していると評価されており、そこでは王と法、貴族、議会との関係や、世襲選挙制度の対立や、抵抗の問題に対して共通の特徴を身につけていた。実際において多くの著作家は特定の王国を念頭に置いた上で議論を行っていた『ブラクトン』や、ルーポルド・フォン・べーベンブルク、オレーム、フォーテスキューらは、自身の国の特定の問題を念頭において議論を展開していた。そのため、それを単に一般的な議論として読んだだけでは十分な理解がなされない。


 この時代の多くの著作はラテン語で記されており、それは行政、法律における共通言語でもあった。それでもやはり、母語として用いる人が殆ど居ないという意味でラテン語は死語なのであり、著作家達も内的思考においてラテン語を用いていたとは必ずしも言えない。そのため、私たちが手にするテクストは、一定の内容構成、修辞的技法を解して成立したものであるということを強く意識しないと行けない。このことは解釈上の問題を引き起こす。既にギールケは、知的エリートがラテン語によってゲルマン人の民主的な理論を、絶対主義的な鋳型にあてはめえてしまったという問題を指摘していた。彼らは同時代特有の、コミューンや共同体を、ローマ法におけるuniversitasとして相違を無視したまま把握するといったことを行っていた。この時代の学識ある人間は、同じ言語を用いつつも、複数の語彙を代わる代わる用いていた。そのため、類似の事実、見解を述べるに際しても、念頭に置いている人々の相違によって叙述が大いに異なるということがあり得る。それらの複数の「言語」を識別することは、不必要な混乱を回避することに繋がるのであり、それこそがこの時代の政治言語を理解するための必要条件となる。


 神学の言語は、ウルガタ訳による新約、旧約聖書やアンブロシウス、アウグスティヌスといった教父の言語に基づく。これは教会のみならず、行政に関する言語でも用いられていた。これは王政や服従といったものと結びつきがちだが、同時に統治者の道徳的責任や、神の前に置ける人間の平等も強調していた。聖書からの政治的言語の導出はアレゴリー的な方法が採られており、花嫁として教会を把握する伝統や、二つの剣という比喩がこの言語に由来する。


 その他にも、ヨーロッパの各部族の土着語や慣習に由来する言語も存在する。これは、封建的な発想と結びついており、宣誓や忠誠(fidelitas)、支配権(dominium)の語といった語に言及するものであった。政治的権威をdominiiumの語を用いて表現することは、支配と土地所有の結びつきを示唆するが、同時に全ての権力がキリストから由来するという宗教的な含意も有している。このような言語は学術的な言語によって完備されていった。


 その学術言語の基盤をなすのは、まずはローマ法であり、それはローマの元首制と帝政の政治的概念を反映している。だげ、ディゲスタの中には共和主義的な思考を反映した文言も残存しており、更にはローマ帝政の政治言語もストア派哲学の影響を受けている。後の時代の皇帝立法を加えた上で、アックルシウスの注解を経て、キリスト教政界で共有されるユス・コムーネが生成された。それと同じ時期に、教会法も教令集が作成されていった。


 キケロ的な言語は主にDe officisのテクストに基づいて生成された。ペトラルカ以降はキケロの修辞的な文体が、人文主義者達に深く影響を与え、ルネサンスの構成要素の一つをなした。
 アリストテレスの政治言語は倫理学政治学の著作から引き出されていった。それは様々な統治形態を評価する基準を与える。中世の著述家達はアリストテレスのように、様々な国家が実際にいかにして統治されているかについての経験的分析を行うことはなかった。彼らはアリストテレスの分類法を引き継ぎ、それを現実の政治状況で用いようとした。アリストテレス自身はポリスを規範的価値を持つ政治共同体としていたので、共和主義的思想の勃興を支えるものとなっていても不思議ではないのだが、実際にはポリスをcivitasとして把握し、殆どの政治的結合に対して利用可能な概念とした。そのことも手伝って、彼らはポリスにおける寡頭制や民主制に関するアリストテレスの議論にあまり注意を払わなかった。このことにより、本来のアリストテレスの体系からしたら混乱と思える事態が生じていたが、そのことは、彼らがアリストテレスを教義としてではなく、一つの政治言語として用いたことに求められるだろう。


 アリストテレスの言語を用いる者は、主な者が大学、学校出身のものであったため、スコラ学者と総称されたが、そのくくりは多様性を見落とすことになる。大学出身者は宗教的、世俗的、政治的に様々な役割を果たす者がおり、一部は大学の学生向けに書いていれば、別の者は聖職者、世俗の統治者に向けて書いていたりするのである。彼らにとりアリストテレスの言語は、現下の問題を分類して把握し、さらなる考察を行うための道具として有用であった。


 このような事情を踏まえるならば、実際に彼らが用いている言語と、彼らが述べようとする主張の相互作用や、ある言語を採用した事による、主張可能な事項の限定といった事態に目を向ける必要もあるだろう。それと同時に重要なのは、政治言語を教義やイデオロギーと混同しないことである。すなわち、神的権威の言説と絶対君主制の結びつきや、封建制権威主義や人民の統治の結びつきを想定するといったものである。特定の思考枠と特定の政治形態の嗜好は直結する訳ではない。クザーヌスが述べるように、神的権威はキリスト教世界の人民を通じて作用しうるのであり、同時代において、君主が臣民と何らかの契約を結ぶという事態を説明する仕方は、17世紀を待つまでもなく複数存在していた。前述したローマ法、教会法であったり、キケロアリストテレスを用いる伝統も、当然多様な政治的態度と結びつきうるものであった。ただし、特定の政治状況において採用されやすい言語というのも当然存在している。イタリア都市国家の共和主義者は、神学よりも法学、法学よりも場合によってはキケロをより好んで用いていただろう。


 盛期以降の中世は様々な視点から分析されてきた。ギールケがドイツ団体法論でこの領域を開拓したと言えるが、そこではゲルマン的なゲノッセンシャフトの伝統が、ローマ的なヘルシャフトの発想で変容していったことを示すことに主眼が置かれていた。メイトランドはイギリスの政体が中世の法と議会の伝統に根を有することを示した。ギールケ自身は新教徒であり同時にプルードンヘーゲルの政治理論を信奉し、後には保守的な国家主義者となった。団体主義者たちは近代国家、近代資本主義以前の時代を郷愁をもって眺めることがあり、同様にギールケはその時代の団体的、共同体的側面を強調した。ウルマンは中世の思想家、運動を下降的、神権的か、上昇的、すなわち人民主義的かで分類していき、後者の側面をルネサンスが引き受けたとする。このような、他の分野の専門家から苦笑されるような一般化を見ると苦々しい思いになる。そして、スキナーは初期ルネサンスを市民的自由の展開として読み解いている。ここにおいてもテーマが解釈において過大な役割を果たしていることが見られる。中世は多様な木が乱れる雑木林なのであって、封建的な思考が一面に広がるものでもなければ、共和主義的な種だけが育っていった場でもないのである。