Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

R.W. Southern, "Medieval Humanism"、I,II,VII節

R.W. Southern, "Medieval Humanism"、I,II,VII節

 

冒頭と最後です。

 

 

 「ヒューマニズム」という言葉には、より広く流布している、人間の知識、活動領域の拡大と結びついた意味と、もう一つ、学術的な領域で用いられる古典学的な、ギリシア、ローマの文物の研究と結びついた意味がある。どちらも中世には当てはまらない、ひいては中世に敵対的なものだと従来は思われていた。前者の意味は科学の発展なども含意しているが、中世の教皇の権威に基づいた階層的組織や超自然への信仰はそれに対して敵対的だと考えられている。後者の意味におけるヒューマニズムに対しても、中世の学は人間性を軽視し、古代の著作家の文芸的価値を無視しているという点で敵対的だと思われていた。

 

 カロリング期や12世紀のルネサンス、そしてヒューマニズムの存在を認める論者もいるが、それは一過性の事態だと考えられており、さらにその含意も明確ではない。中世の著述家や古典愛好家を眺めてみると、彼らが引用の対象としている古典作家に対して無関心であることがわかる。例えばソールズベリのジョンは多くの古典作家からの引用を行なっているが、典拠の問題などに殆ど注意を払っていない。そういう意味で、後のルネサンスを代表するペトラルカ等とは異なった心性を有している。

 

 上に見た例からもわかるように、ヒューマニズムという主題は混乱を伴うものでもある。その混沌とした状況を追跡する代わりに、この論考においてはなぜ私が1100年から1320年までがヨーロッパ史における偉大なヒューマニズムの時代であったと考えるのかについて簡単な説明を行った上で、最後にはなぜこの時期のヒューマニズムに対して後の時代のヒューマニストが敵意を持つのかについても考えることにする。

 

 まず、上に述べた疑問に応えるために、私たちが探求の対象とする時代において人文主義を形成するための基本的な兆候をみていく。まずは、人間の本性における尊厳が認められることが一つ目である。中世の原罪の教義における、人間が堕落した存在であるという考えはそれに敵対するように思えるが、人間を偉大な神の作品とみなし、その高貴さが堕落した後でも続くと考えるヒューマニズムの存在を期待できるかもしれない。それに並行して、自然の尊厳というものが認められている必要があるといけない。人間は自然の一部として存在する以上、人間に尊厳が認められるならば、自然に対しても尊厳が認められる。そして最後に、世界の理性を通じた理解可能性というものが挙げられる。それは、自然に秩序が存在しているということも前提としている。

 

 これらの尊厳、秩序、理性そして理解可能性といったものが人間の経験において優位を占めている場合に、その経験が引き起こす見通しはヒューマニズムとして規定されるものだと考えて良いだろう。このヒューマニズムはどちらかといえば前者の意味、すなわち「科学的な」ヒューマニズムに接近すると考えられるだろう。

 

 しかしながら1050年以前の時点では、そのような特徴は見て取ることができない。法律、統治、医学、議論における理にかなった手続き手続に対する意識は備わってなかったのであり、人間は神意の道具として規定されていた。これが11世紀以降半以前までの世界である。

 

 当時は人間の世界における位置付けを行う際に、宗教的な、神中心的な枠組みを利用していた。その枠組みのほうが後の時代に出現する楽観的世界観よりも、現実に相応しかったのである。1050年以降になって初めて世界観における強調点が一変することになる。

 

II

 

 11世紀中葉以降の修道院からは、変化の徴が見て取れる。修道院における神を知る手段として、人間と人間の経験が強調されていく中で、神を知り得る存在としての人間という自己意識が出現し、それが人間の尊厳を高めていった。

 1079年、ベックにおいてアンセルムスは自己の精神という小部屋に入り込み、「神」という言葉以外のものを排除した上で、その言葉それ自体が神の存在の論証を導出するということを発見した。そのことは彼にとって新しいものであると同時に真理でもあった。それは魂の内側で営まれる内省によって事物を知るという分析的方法の勝利であった。新しいことを発見することができるという考えそれ自体が、行き当たりにぶつかっているという意識を持っていた世代にとっては新しい出来事であった。新しい事物の発見は、人間精神内部にある力の解放をもたらした。

 

 聖ベルナールは内省という方法を広く行き渡らせ、その手法を修道院の著述家の共通財産とした。更にベルナールは自己愛から他者、隣人への愛、神の愛に至るということを主張し、ここにおいて自己愛という利己的とも形容しうる現象が神に至るための好ましい方法として描かれるという転換が生じたのである。人間そして自然から出発して、それを神へと至る好ましい道とみなすことが新しい時代の特徴であった。

 

 ベルナルドゥスの同時代人、リカルドゥスは以下のように述べている。

 

未だに自らを観るに至らない者は、神を観ようとしても果たされることはない。

神の見えざる実在へ手を伸ばす前に、自身の見えざる実在をまず理解することだ。

汝自身を理解せずして、汝の上にあるものを如何にして理解するというのか。

 

 この人間への探求が修道院の最初のプログラムとするならば、修道院の人間における別の側面として、次に友愛の経験について理解されなければならない。

これはルネサンス人文主義者達も有していた経験であった。自己の知識が人間の贖われる最初の段階とすれば、その知識を分け合う友愛は重要な補助の役割を果たすのである。

 

 リーヴォルのエールレッドは友愛に関する論考を物したが、修道院の経験を次のようなことばで表現している。「友愛は知識に他ならない。」、「神は友愛である」

 彼によれば自然は人間に友愛を求めさせ、その友愛を経験が強め、理性がそれを規制し、宗教生活がそれを完成するとされる。ここにおいては自然から神へ至るプロセスが示されている。

 

 更に、12世紀においては人間と人間の友愛のみならず、神と人の友愛関係が描かれた。神は単に恐れ敬うべきだけのものではなくなっていったのであり、人々は神の恐れを避けようと震える以外の神との関係の結び方を模索するのである。

 

 そのような変化は詩歌、賛美歌の領域において見出される。以下の1250年頃に作成された有名な詩歌は、最初の2行の恐ろしい光景が、それ以降のキリストによる救いによって緩和されているという点で象徴的である。

 

怒りの日、その日こそ

地上が塵と帰る日

....

覚えていてください、 慈悲深いイエス

私はあなたのやってきた目的であり、

その日においてもあなたは私を滅ぼさないことを

私を求めて、疲れ切ったあなたは座った

(私たちのために)あがないをなされた、十字架の苦しみを負うことで

これほどまでの労苦が無駄であろうはずもない。

 

 人間としての苦しみと感情を有する神のイメージはアンセルムス以降、心情的な考察の対象となっていったが。上の詩もその一例である。神による創造の営みは人間性に満ちた行為として解釈されるようになっていった。

 

 私たちはそのような描写が過酷な現実を覆い隠す外皮であると反論することも可能かもしれないし、このことは、宗教におけるヒューマニズムが避けがたく備える性格なのかもしれない。しかしながら、それはヨーロッパの宗教分裂以降も生き延びたヒューマニズムの一つの型なのであり、民衆の世界認識に貢献し続けたのであった。

 

 更には以上のような宗教的テーマはヒューマニズムのテーマからは程遠いと考える者もいるかもしれない。それでも、私たちが人間の尊厳への意識の成長や、人間の力と宇宙に占める位置の増大を求めている場合に、12、13世紀の賛美歌や瞑想が豊富な実例を提供することは確かなのである。実際、これらの宗教的発展は、人文主義の果たした最も偉大な勝利であるとも言える。その時代のヒューマニズムは世界を人間性で征服し、神を自身ら人間と区別がつかないほどに人間の友人へと変えたからである。

 

VII

 

 私たちが検討してきた時代におけるヒューマニズムに対する拒絶には、多くの理由が考えられるだろう。神学的基礎、世界の理解可能性、人間中心主義、楽観主義といった特徴が拒絶をもたらす原因かもしれない。しかしながら神とも理性とも不和を起こすことなく、人間を賛美する人間がこの論考で描かれた思考様式をヒューマニズムの枠で括ることを拒絶することは不思議なことである。11世紀について知識があれば、12,13世紀において人間の尊厳についての意識や世界と人間の理解可能性、実践領域における理性の適用といった事象が大きく進展したことは誰でも認めるであろう。そうだとするとその2世紀がヒューマニズムの諸価値に敵対的だと回顧されるのはなぜだろうか。

 

 この疑問への回答は14世紀初期を見ることで明らかになるかもしれない。その時期より、前時代の楽観主義は崩れ、知的活動の素材の流入は止まり、地理的拡大も終了した。更に各所で不和が見られるようになってあらゆることが不安定になったのである。その前の時期までは多少問題があっても将来はよくなるという意識が存在していた。それまでの教皇や皇帝による秩序で安定が齎されるという理想も実効性を保っていたのである。神の支配する世界も秩序だったものと理解されていた。

 だがその状況は一変する。劇的な災厄というものは存在しなかったが、それまでの拡大傾向が止まるだけで十分な変化の原因となったのである。新しいヒューマニズムの担い手であるペトラルカは、14世紀中葉において、前2世紀における知的活動に対する理にかなった失望を有していた。人間がそこを目指して位進んでいた知的、実践的秩序は突然達成不可能となったのである。

 

「どこを向いても暴君が存在しており、暴君がいない場所があったとしても、人民が暴君の代わりの役を務めている。一人から逃れたとしても、大勢の手に落ちるだけである。もし公正で温和な王が治める土地を示してくれれば、何処へだって身包み揃えて飛んでいくのだが...

インドであれペルシアであれ、ガラマンテス人の土地の辺境まででもそのような王のいる場所を求めて訪ねるだろう。だが存在し得ないものを探してもむだなことである。この時代においてはあらゆることがどうでもよくなったので、労苦をとる必要もない。」

 

 過去への希望は埋もれていったのである。その埋没の過程は静かなものでなく、軽蔑、嘲笑、失望感を伴って行われたのである。聖職者による学校は単に失敗の責任があるというだけでなく、大いなる隷属を促進したものだとみなされるようになった。

 

 あらゆる思考体系はその中に弱点を含んでいるが、それは同時に利点も構成していた。中世の科学的思考の弱点は権威あるテクストと諸命題への依存であった。そして同時にそれらによって議論の素材が確保され、大胆な結論を導くための基礎が形成されたという意味で、それらは思考体系の基礎をなしていたのである。しかしながらそのことは発展の限界を定めることになりもした。

 

 思考体系とその目的への信頼が失われると、その細部も営みも敵意に晒されるようになる。実際中世の学校における写本ほどそのテクストの物理的状態が、魅力を損ねるものはなかった。読解困難な文字、判読困難な縮約形や、テクスト本体より読みづらい注釈で埋め尽くされた欄外といったものは嘲笑を引き起こした。学習のための補助知識が向けられていた、当の対象である目標自身が信頼されなくなると、付加物は野蛮で非人間的なものと考えられるようになる。

 

 そうして、12,13世紀におけるヒューマニズムの残存物の引受人として、新しいヒューマニズムが出現する。それは普遍的秩序への希望を持たず、感覚、個人的徳、古典テクストが示す古代の理想社会への郷愁が人間的価値の支えとして保持された。新しいヒューマニズムは個人と過去という領域に引きこもった。それは聖職者ではなく貴族を文化の保護者とし、神学と科学てはなく文芸から知的刺激を探求した。人間の高貴さは理解不能な世界との格闘によって表現された。この転換が生じた際に、盛期中世のヒューマニズムは、形式主義と人間的経験への敵意を持ったものとして誤解されるようになったのである。