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研究にあまり関係しない雑記

F.Beiser “German Historicist Tradition” Introduction : The Concept and Context of Historicism 全訳に近い内容把握 2

Beiser 序章ほぼ訳 続き

 

以下の続きです

kannektion.hatenablog.com

※一部省略、意訳が入ります 注釈は私が個人的につけたものです

駆け足で訳したため文章が扁平になっています

 続きはこちら

kannektion.hatenablog.com

3 歴史主義と啓蒙(主義)

3-1

 なぜ歴史主義は西洋世界に知的変革をもたらしたのか、この理由は既にマイネッケへの軽い参照において確認した。しかし、この知的変革の深度と射程を十分に知るためには、多くの論争と解釈を招いたことを含め、更に正確にその次元と帰結を知る必要がある。

 

3-2

 広い歴史的視座から見て、歴史主義は西洋哲学において延々となされてきた社会的歴史的、道徳的価値の超越的正当化、たとえば、それらの価値に普遍的で不可欠な妥当性や、自身の社会的文化的コンテクストを超えた場所における指示を当てるようなものを覆したのだ。そのような正当化は、強く宗教的、すなわち神の摂理や超自然的妥当性のようなものでもあった。しかし、徹底して世俗的なものもあった。すなわち、自然法や人間理性のような観念がそれである。歴史主義は両者を疑問視したのだ。

3-3

 歴史主義の歴史的重要性は、啓蒙との断絶によってよく推し量ることができる。啓蒙は18Cヨーロッパの知的生活を支配していた。歴史主義の隆盛は啓蒙の衰退と同時に起こった。歴史主義はいくつかの側面において啓蒙に端を発するのであるが、最終的には啓蒙の前提と決定的理念を掘り崩したのだ。啓蒙の遺産に忠実に、歴史主義は理性の領域を拡張していると主張したし、実際彼らによる理性の領域の拡大は自然哲学が自然を説明したと同様に歴史を理性で解明するよう促したが、この企図は最終的に、啓蒙の合理的、普遍的原理を道徳、政治、宗教に与えるという試みを否定したのだ。人間の信念や慣行の原因や理由を突き詰めるほどに、それらは特有の歴史的文化的コンテクストに依存していることが明らかになり、これらの対象を普遍的なものとするべきでないということになっていった。道徳や政治、宗教における信念や慣行を、あたかも人々が、自身の文化を超えて目的、意味、妥当性を有しているというふうに、普遍的なものとして正当化することは、不可能でないにしても、困難になった。そのため、道徳的、政治的、宗教的信念を合理的に正当化するという、啓蒙の主要な目標は幻想であるとみなされたのだ。

 

3-4

 歴史主義の観点からすれば、啓蒙の主な問題は、啓蒙主義自体が克服したとされてきた中世の遺産に多くを負っていたことにあるということになる。中世神学は常に、諸々の諸価値に超越的妥当性を要求していた。啓蒙はそれの持つ、宗教的装飾を取り除いたのではあるが、より現世的な言葉で超越的妥当性を探し続けたのである。自然法であったり、社会契約であったり、普遍的な人間理性、不変の人間本性などがそれだ。これらすべての概念は歴史の流動を超えて妥当性が保証されると考えられたのだ。仏のphilosophes,独のAufllärerや、英の自由思想家(free-thinkers)といったすべての啓蒙思想家は、具体的な社会、国家、文化を判定するためのアルキメデスの点を求めていた。歴史主義の重要な含意の一つは、そのような立脚点が不在であることなのだ。

3-5

 近年の研究者にとり、歴史的哲学的な歴史主義の重要性は、啓蒙を打ち倒したことにあるという議論は、古い神話となっている。これらの研究者は、啓蒙は決して非歴史的なものではなく、後代の歴史主義者における歴史記述の方法と準則は明らかに18Cの啓蒙の著作家において明らかに看取されるとのことだ。啓蒙と歴史主義を対置させたマイネッケは彼らの批判の的となり、マイネッケの枠組みを単純でミスリーディングとして排し、代わりに歴史主義と啓蒙の連続性テーゼを採用する。

 

3-6

 啓蒙が非歴史的なものでないのはそうだとして、更には歴史主義が啓蒙から生じたのも確かだとしても、両者に断絶がないとは決して言えない。これら研究者はその逆に両者の連続性を単純に立てすぎる誤りを犯している。歴史主義が諸点で啓蒙に負っているとしても、その他の点においては、やはり両者は対立しているのである。大切なことは両者が連続している点と断絶している点を正確にし、記述していくことだ。ここで私たちは三つの非連続な側面を確認していく[1]

 

3-7

 啓蒙の特徴的な原理は個体主義、ないしはアトミズムだ。例えば、個人は自律的で、特定の社会的歴史的コンテクストと独立の、定まったアイデンティティを備えるということがそれだ。このテーゼは社会契約論などで常に現れるものだ。これはルソーやヒュームにおいて[2]主張された広く普及した信念を反映している。不変の人間本性が存在している、具体的には人間は歴史を通して同様の存在であるというのがそれである。この個-アは、もう一つの啓蒙における特徴的な主張にまで遡る。それは、学問の正しい方法は分析的なものであり、ある現象を構成部分に分割することにあるという信念である[3]。その方法は、自然科学において用いられたものであり、社会と国家に関する学問における模範とされた。

3-8

 歴史主義の伝統に位置する思想家のほとんど(ジンメルウェーバーなどなど)が、この個体主義を疑問視していることは明白である。彼らは変わって、人間のアイデンティティが固定的ではなく可塑性があり、不変なのではなく、変わりうるとし、それが社会、歴史における特定の位置に依存していると述べた。歴史主義の伝統におけるホーリズムによってアトミズムに反対するのは、そのためにも必要なのであった。全体を個々の独自に存在する構成員に還元可能とするのではなく、歴史主義は全体が諸部分とそれらのあり方に先んじて存在すると主張した。

 

3-9

 もう一つの啓蒙主義における決定項としては自然法が存在するという信念である。それは、すべての文化、時代において当てはまる普遍的な道徳規準が存在するというものである。これらの基準は”自然”であるとされる。それは、普遍的な人間本性(nature),ないしは自然の目的それ自体に基礎をおいているためであり、更には、特定の国家において成立した実定法や伝統に左右されないためであった。自然法の伝統はそのため、歴史の変動を通して単一の人間本性があり、すべての時代、文化における同一の道徳的価値を認める普遍的な人間理性の存在を主張するのである。

3-10

 その後の時代における19Cの歴史主義者,ランケ、ドロイゼン、サヴィニー、ディルタイ、そしてジンメルは、自覚的かつ明確に、自然法の伝統を否定していった。ヘルダーやメーザー、フンボルトにおいてはこの伝統は未だいくつかの側面において利用されていたが、彼らは自然法における用語を用いる一方で、非常にその概念に批判的でもあった。歴史主義の伝統におけるすべての思想家は、自然法における教義は不当に、18Cヨーロッパにおける価値をあたかもすべての時代と文化に当てはまるかのように普遍的なものとしたと主張している。ある文化、時代における諸価値を理解するためには、それはその時代、文化の内側にたって研究し、その歴史と諸状況からどのようにしてこれらの諸価値が生じたのか調査する必要があると彼らは述べる。歴史的に諸価値を考察することにより、それら諸価値の目的と意味が全般的に特定のコンテクスト、それらの社会的、歴史的な総体における特定の役割に負っていることが明らかになるのだ。これらのコンテクストはそれぞれが唯一の、協約不可能なものであり、そのことはその内側にある諸価値にもあてはまる。そのため、歴史的、社会的コンテクストに関わらない一般化を行うことは不可能となるのだ。

3-11

 啓蒙における世界を合理化するという試みに関して重要であったのは、政治的近代化という計画、特に、官僚的集権化、法典編纂への奮闘である。[4]プロイセンのフリードリヒ大王や、ヨーゼフ二世、フランスの革命における政体で見られるような啓蒙的政策は、すべての都市、地方、宗教に当てはまる単一の法規範の形態を創出、施行しようとした。古い地方的、宗教的な慣習と法の乱立は単一の合理的な制度のために廃棄されるべきなのだ。これらの法典編纂作業は、政治的集権化と手を携えて行われた。それは、すべての地域を単一の統治者と官僚組織の下で統治、管理しようとするものであった。地方の自治と宗教の自律は中世の遺物として取り除かなければならなかったのだ。

 

3-12

 歴史主義者の伝統はこの抵抗から始まるのである。啓蒙の法的な統一性や中心による支配に対抗して、初期歴史主義者(メーザー、ヘルダー、サヴィニー)は、地方の自治と、法的な多様性の価値を援護した。啓蒙の世界史民主義に対しては、地域的基盤を持つことや、特定の時と場所に調和することの価値を説いた。そのため、個体性の原理(歴史主義における)は認識論的のみならず、道徳、政治的な意味を備えることになった。地域性や、特定の国家への志向は、個人のアイデンティティの基盤として、促進され、保護されるべきものとされた。後期歴史主義者(ドロイゼン、ジンメルウェーバー)は中央集権国家の不可避性を認識していたが、世界史民主義は志向せず、所属しているコンテクストとしての場所を、国家全体に広げたのみであった。

 

 

[1] 的外れな疑問かもしれませんが、Pocockらによる啓蒙の多義性への意識を加味しているのかと感じてしまいます。Beiserにおける啓蒙は"Enlightenment,Revolution,Romanticism"で取り上げられたようなイメージなのでしょう。

[2] Humeはそんなこと言うかしらん。引用も何もないので分かりません。人間本性における共感の存在 のような議論が念頭にあるのでしょうか。少なくとも17,18Cにおいて既に社会構造との連関で人間の性質も変容するという議論は存在していたしそのように簡単に断じてよいのかは分からないです。

[3] 著者はカッシーラーの啓蒙論を参照してます。

[4] この文章の訳には自信がないです。原文は”Crucial to the Enlightment’s attempt to rationalize the world was its program of political modernization, especially its efforts toward bureaucratic centralization and legal codification.”カンマのうち忘れ、関係代名詞の省略がすこし意味をとりづらくしていますが文脈から意味をとりました