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読書録、学んだ事のまとめ 

F.Beiser “German Historicist Tradition” Introduction : The Concept and Context of Historicism つづき

Graftonの"What was History" 面白かったです。

この著作とは方面が違いますが多少重なる議論もありました。

 

それでは始めます

注釈はぼくのオリジナルなのであてになりません

 

4 歴史学的知識という問題

4-1

啓蒙との一定の断絶以外にも、歴史主義が知的革命であるとされる理由は存在しているのだ。それは、歴史の科学としての資格を、古代にまで遡る知のパラダイムを排することにより、正当化する試みのことである。そのパラダイムアリストテレスの『分析論 後書』における、科学は、論証可能な知識から成り、その論証は必然的な前提による推論によって行われるというものである。アリストテレスによれば、ある命題の審議は三段論法により検証可能である。そして、その場合のすべての前提は、普遍的、必然的に正しいものである、すなわち、真偽は、全ての事例に措いて真であるかそうでないかに分けられる。このような、数学的原理に依拠した科学の理想は、歴史学には適用困難であった。そのような意味での厳格な基準によれば、歴史学は科学ではないとされる。歴史の主要な対象は、普遍に対立する意味での、特殊であり、あれこれの人や出来事という論理的では他でもありえたものであって、アリストテレスの要求する意味での普遍性と必然性に欠けていた。アリストテレスはこのように結論を導きだし、このような理由で、歴史学を、知の形態として詩学よりも下位に置いた。歴史家は、ある人がある時代に措いて、何をなしたかを伝えるのみであるが、詩人は、ある性質の人間が同様の状況に措いてどのように行動するのか、といういくらか普遍性を備えたものを伝えるという意味で。

 

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この歴史学に対する汚名は、初期近代に至るまで維持されてきた。スコラ学への反動の存在にも関わらず、アリストテレスの科学に関する理念は17,18世紀の偉大な人物において生きながらえている。例えば、デカルトホッブズライプニッツそしてヴォルフはアリストテレスの検証可能な知識としての科学としての科学のモデルを支持していた。彼らは、証明可能な命題、それらの全てが定義から、もしくは自明の前提から導出されるような命題の体系から、科学は構成されると主張した。ある命題が、科学としての身分を得る為には、普遍的かつ必然的な妥当性が要請され、歴史学の命題を含んだ経験的命題は、そのような意味で、知識としては扱われなかった。以上のような理由により、これらの思想家は正当にも歴史学を科学の領域から排除していたのである。デカルトは、『方法序説』において、最も正確な歴史に措いても知識の基礎たり得ないとの警告を発し、ホッブズは、『物体論』にて、歴史を哲学から排している。「なぜなら、そのような知識は、経験や権威であって、推論ではないからである。」ライプニッツとヴォルフは共に、歴史学は、特殊性と偶発性の領域に属するが故、科学としての地位を得ることは出来ないと明言している。ヴォルフが記すところによれば、一般的な歴史学の知識は、知識における最も低い地位を占めている。なぜなら、それは感覚に依存しており、諸々の出来事の原因に向けられた洞察を我々にもたらさないからである。初期近代の合理主義者達は、そのため、科学と歴史の間に断絶を見出している。歴史家は、プラトンの言うところの洞窟の深みに囚われたままだと言うのである。

 

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重要な点に措いて、18世紀の啓蒙の時代は、歴史的知識を正当化することに関する問題をいっそう深めることになった。啓蒙の第一の価値は、自分で考えると言う意味での知的な自律である。自分で考えるために、私たちは自信の洞察に基づいて、同意を行うようにしなければならず、自身の理性や敬虔により確信できた命題のみを受け入れるのである。私たちは権威に基づいて、信念や信仰から命題を受け入れてはならない。ここにおいて、歴史はまたしてもこれらの基本的要求を満たすのに失敗したようである。自身の理性と敬虔のみで、歴史の命題を検証し得ないのである。歴史は過去を扱うものであり、過去は存在しておらず、各人の経験を超えているという問題であった。自然科学には再現性があるのに対し、歴史の固有の出来事にはそれがないのだ。というのも、歴史は必然的に、検証と、他人の手による資料への信頼と信念に基礎を置くからである。そのため、歴史はその本性上、科学たり得ないのであった。

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その徹底的な変革にも関わらず、カントのコペルニクス的転回は、過去との完全な断絶に至ることは出来なかった。合理主義への鋭い批判をおこなったが、そこに含まれる科学の理念を未だにカントは保持していたのだ。彼の合理主義の理念への傾倒は、科学が自明の原理によって構成される体系から成るとする彼の主張からも読み取ることが出来る。合理主義の伝統における数学的理念への拘りは揺らがなかったのだ。そのような立場は、”自然科学の形而上学的基礎”の前文における、ある原理は、その主題が数学的操作を許容する程度だけ科学的であるとする記述にも現れている。

 

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歴史主義者達はどのようにしてこれらの困難に対峙したのであろうか?カントや啓蒙思想、合理主義に対してどのようにして彼らは歴史学の科学としての地位を立証しようとしたのだろうか?その応答には多くのヴァージョンがあり、それらは全て複雑なあり方をしていたのだが、後述する。ここでは、主要な展開を概観していく。

 

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17世紀の末期に、応答の1ヴァージョンは明確化されていた。新しい合理主義の精神に感化されて、フランス、オランダにおける、多くの初期近代の歴史家達、バイユ、デュボス、Frensnoyらは、歴史自身に高度の明証性を要求するようになった。これらの歴史学的ピロニズムは、Descartesの方法論的懐疑を歴史に持ち込んだ[1]。彼らは伝統的な歴史学の情報源には懐疑的で、十分な明証性が確かめられた時のみそれらを受け入れるようにした[2]。全ての資料は出来る限り、その起源を辿られ、文書館の原典と照らし合わされることで認証されなければならなかった。Descartesが科学的方法の原理を打ち立てたように、歴史学的方法の原理が打ち立てられることになった。利用される資料は、目撃者によるもの、同時代の記述により確証できるもの、他の検証された事実と整合するもの…といったもののみに限られた。歴史家達は、単純で質素な事実こそが、探求の目的であり、出発点ではないことを悟った。この歴史における新しい合理主義者の精神は、18世紀を通じて徐々に成長していき、その世紀の末には特にドイツにおいて、標準と成っていた。例えば、ミュンヘンマンハイムゲッティンゲン大学などでは、出版許可を行う前に、全ての歴史学的著作は徹底した資料の研究に基礎づけられていなければならず、これらの資料は著作に引用されていなければならなかった。18世紀末、19世紀のドイツの歴史主義者は、新しい合理主義的精神のチャンピオンなのであった。19世紀の偉大な範例はランケであり、彼はそれまでの伝統の象徴であり、蓄積に他ならなかった。

 

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もう一つの応答のヴァージョンは、ベーコンに端を発するものだ。彼は、17世紀の初頭に、アリストテレスの伝統とその論証的な知識の枠組みに向けた先鋭な批判を行った。彼は、Novum Organonにおいて、論証を主軸とするパラダイムを非効率的な自然調査の方法として攻撃した。確かに論証という手法は、既に得られた知識の説明や整理に関して有効ではあるが、新しい知識の獲得の手法としては有用ではないと彼は言う。発見をなす為には、私たちは単に自然について推論する以上のことをしなければならず、自然に直接向き合い、疑問に答えるように自然に働きかけなくてはならない、すなわち、実験を行わなくてはならない。自然を分解、統合するだけの力があれば、私たちは自然についての知識を得ることができるのである。故に、自然について知ることは思考に関わる問題ではなく、行動に関わる問題なのである。「人間の知識及び人間の力は一つに結合するのである」懐疑派の、私たちが自然を知る可能性に対する懐疑は、人間が自然に対して力を持ち、自身の命令の通りに帰ることが出来るという事実で反論することが出来るのだ。ベーコンは、古い論証的知識の枠組みを、特に懐疑派に対する弱さと言う点で疑った。その枠組みへの批判としての、懐疑派の知識への攻撃は反論の余地のないものであった、自然は推論や論証のみでは知り得ないということを明確に示していたのだ。

 

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ベーコンは常にこの新しい方法の社会的政治的利点を主張していたが、その方法が主な対象としていたのは自然研究についてであると見做していた。その方法の人間的事象にとっての重要さと適用が見られるのはヴィーコの”Scienza Nuova”においてである。ヴィーコの大きな貢献はベーコンの枠組みが自然的事象以上に人間的事象にとって当てはまることを発見したことである。社会的政治的環境は私たちに取って十分理解可能で無くてはならないとヴィーコは言う。それというのも、それらは私たちが創りあげたものだからだ。自身等が殆ど関与しない自然的事象について人間は殆ど知り得ないが、文化的事象—それらの法、言語、制度そして技芸は人間のなしたものである については多くを知りえるのだ。ヴィーコの作品はドイツで殆ど知られることはなかったが、その背景にあるベーコンの枠組みは、ヴィーコとは別の媒介者により十分に知れ渡っていた。それはカントである。ベーコンの枠組みは、カントの思考の背景にある「思考の新しい手法」と全く同様のものであった。彼の”Kritik der reinen Vernunft”の序文において[3]、カントはアプリオリな知識を全ての知識の枠組みとした。その上で、私たちはアプリオリな対象を自身がそれらを構成する範囲においてのみ知りえると彼は主張したのだ。更に彼によれば、私たち自身の知るという営為は、私たちにとっては明白なことであり、私たちが構成する範囲において、物事を知ることが出来るのだ。カントが自身の研究の方針として、ベーコンの”Instauratio Magna”から引用を行っているのは理由のないことではないのだ。

 

 

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そのため、カントの強力な合理主義や、非歴史的な理性の概念、更には彼が「歴史的思考」を欠いているということにも関わらず、彼の哲学はやはり、新しい人間の科学にとって革命的な重要性を備えているのである。その重要性はベーコン的な知識の枠組みに由来する。カント自身は彼の原理の社会的文化的領野への適用を予見していなかったが、その原理の持つ含意はその語の発展に十分なものなのだった。フンボルト、ランケ、ドロイゼン… は皆、カントの原理を歴史的知識自身に当てはめたのである。カントによる新しい枠組みは、少なくとも原理として、過去と現在の人間世界の全域を理解する鍵を与えるように思われたのだ。彼らの信念によれば、私たちは人間世界を理解可能なのである。そのことは、それらを自分たちが構築しており、何をなしたのであれ、自身の創造したものは自分たちに取っては明白なのである。と言う明快な理由によっていた。同様の手がかりによって、私たちは過去を理解することが出来る。というのも、私たちにはそれを追体験し、以前それをなした昔の人間と同様の創造的行為に参与する能力を備えているからである。

 

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ベーコンの枠組みと同程度に重要なのは、新しく出現していた歴史に関する有力な認識(science)である。それはまだ、歴史の科学としての地位を主張できるほどではなかったのであるが。結局のところ、私たち現在の世代は、過去の全ての出来事を構築することはなく、私たちは累積した遺産—現在、私たちがその中で生きる世界を構築した強力で、明白に異質な力の相続者なのであるというのがそれだ。そうだとしたら、私たちは、自分たちが構築したのではなく、自分たちを構築したものである過去と言うものをどうやって知ることが出来るだろうか。けれどもこの認識が、歴史主義が革命的である要素なのである。歴史主義は過去に対する全く新しい姿勢を含んでいた。それは、過去を何か失われたものとするのではなく、生成する現在の一部であるとみなす。歴史主義者にとって、過去と言うのは単に異質なものではなく、自身に深く根付いたものとされるのだ。それは、失われるものではなく、今-ここに私たちと共にあるのだ。過去が今の私たちを形成する。このような過去の見方の背後には、ヘルダー、メーザー、サヴィニーそしてフンボルトによる、歴史主義的な、新しい全体論的な人間学が存在している。その人間学とは啓蒙主義個人主義、原子論に対抗して生じたものであった。旧来の人間学は、歴史的、社会的地位から自立した人間の固定的本性、同一性というものを仮定していた。文化が変容したり、社会的、歴史的立場が変わったとしても、個人は本質的には同一だと考えられたのだ。過去は個人の内面には根付いてはいない。というのも、歴史は、個人の同一性形成においては役目がないからである。それに対して、新しい歴史主義者の人間学においては、個人の同一性は徳的の文化や、社会的歴史的地位にまさに依存しているとされる。そのため、過去とは私たちの内面に根付いており、現在の私たちを形成している。この新しい人間学は、私たちの自己認識は、自身の過去、起源にさかのぼることで初めて可能になることを含意している。そして、過去を知る為には、自分たちがというものが与えられる過程を遡り、私たちに既に何が与えられているかを開示すればよい。

 

4-11

しかし、懐疑的な人間はこう述べるであろう。この点を正当に受け入れたとしても、歴史に科学の地位は依然として与えられないと。つまり、自分たちが歴史によって形成されるということを受け入れたとしても、私たちは過去がどのようであったかを決定することに対して、依然として望ましい立場に立ったことにはならないのである。何と言っても、私たちは内省のみによって過去を知ることは出来ないのである。私たちは過去を知るに際して、非常な骨折りを避けることが出来ない。それは、いくつかの情報の破片を正当に理解し、記録や遺物から得られる不整合な情報の破片を、再構成することの困難に外ならない。そのうえ、いかなる再構成も科学の水準から求められるものからは隔たっているように思われるのである。だが、繰り返しになるが、このような懐疑に対して歴史主義者は回答を備えているのだ。その回答は、クラデニウスが1750年代に用意したものに端を発する。そして、彼の様々な方面に向けられた一連の推論は、歴史主義の伝統の大要を表している。1751年の”Allgemeine Geschichtswissenschaft”において、彼は歴史的懐疑派(Pyrrhonist)に対し、歴史的知識にはそれ固有の知識の基準を有しており、それは、論証的な知の基準とは独立に考察されるべきだと主張した。確かに歴史的知識はしばしば不確定であるが、それらを論証不可能であるという理由から一纏めにして棄却するのは不合理である。歴史学は数学ではなく、そのような性質を備えることを望むべきではない。アリストテレスが述べたように、私たちはその主題が許容する以上の厳密さを期待することは出来ないのである。勿論、私たちが歴史的命題の多くを疑うことは可能であるが、それは、歴史学における明証性の基準に達してない時のみに有意なのであり、それを幾何学的明証性を得られないことで疑うことは意味をなさない。クラデニウスは細部にまで渡って、歴史家の証拠収集と精査の方式を解説した。これら説明された方式は、基準と厳格さを保障し、それに従うことで、歴史家は、主題に関する十分な精確さを得ることができ、少なくとも確実性を得ることに失敗したこと—これを知ることが出来ることもやはり科学であることの指標である の確信を得ることができた。

 

[1] 木庭 ”ローマのポーコック”(2008) ではDescartesとピロニズムの距離を指摘されていましたね。

[2] 古代学の資料批判とどういう点で異なるのか具体的な説明が欲しいところです。

[3] KrVの序文は結構長いです