Disce libens

otium cum dignitate

A. momigliano "Ecclesiastical Historiography"1節の訳出

 

3節あるうちの一節を訳します。

 

見直ししてないのでミスがあるかもです。

 

 教会史と花火に関連があるということは、一見するとよくわからないことであろう。けれども今回扱う事例では、花火が教会史研究を明確に促進させる題材となるのである。
 ベネデット・バッキーニの名は17C末のベネディクト会の学識僧の中では群を抜いて知られている。1661年にパルマで生まれた彼はマビオンがフランスに権威あるものとしてもたらした研究法を、中世の歴史に適用したのである。だが、教会の領域でも、パルマやモデナの知的サークルでも、バッキーニの手法は懐疑の的となったうえ、彼の特徴が問題を厄介にしていた。彼は、17Cにおいて現代ほどは変わったことでない知的資産を持っていた。工学と化学の知識がそれである。この知識によって彼は、モデナ公であるリナルドの成婚祝いで花火をこさえて成功を収めることが出来た。公は大喜びをし、その功績によってバッキーニは1697年に、公の文書館を監督する立場に就任した。それは、他のイタリアの文書館がそうであるように、前の世紀においてかわいそうにも見捨てられた状態にあった。彼が任に在ったのは一年弱に過ぎなかった。Il Giornale dei Letteratiという彼がほぼ一人で編集し執筆した雑誌は、ボランディストのパペブロキウスの擁護により、異端審問の不興を招いてしまった。雑誌は廃刊にされてしまい、バッキーニは修道院に会計係として呼び戻されてしまった。イタリアにいたMontfauconですら、明らかに彼に不向きな業務から彼を解放してやることは出来なかった。だが、公の文書館に納められていた文書の研究に携わっていた一年弱は、十分に彼の名が後生に伝えられるだけのものであった。それは、ラヴェンナのアグネッルスの手になるLiber Pontificalis、司教文書の発見である。それは実際には再発見ともいえる出来事であった。
 9Cのラヴェンナ司教区年代記は当地において、15,16世紀の人文主義者、ビオンドやジョヴァンニ・フェレッティなどにより読まれてきた。けれども彼らの中でも後代に属し、重要度の高い歴史家のヒエロニムス・ルバエウスは、1590年に、当該文書が文書館から消滅しており、利用出来ないことに不平を漏らしている。1697年のモデナでバッキーニが発掘した写本は、1590年以前にラヴェンナから消滅していたテクストなのである。アグネッルスの年代記は、編纂後数世紀の間異論を受けてきたてくすとであった。その論争的な性格が、ラヴェンナの文書館から消滅した原因なのかもしれない。だから、バッキーニが1705年にそれを出版しようとしたら多くの厄介ごとが彼に舞い込んでくるのだった。

 

 年代記の著者であるラヴェンナのアグネッルスは、820年から845年の間に司祭職にあった。彼の編纂した司教文書は、彼がラヴェンナの集会所(カピトリウム)において同僚に対して語った一連の内容を纏めたものである。彼の生きた時代において、ラヴェンナの司教座は、ローマの首位を認めて和解を果たしていたが、ビザンツ皇帝と連携して、ラヴェンナ大司教の立場からローマを非難し、独立(autokephalia)を主張した過去に対して、彼はノスタルジアを抱いていた。彼は自身の趣向を入れ込み、671年の大司教マウルスの死と、その前に彼が後継者に対してなした、ローマからの権威を示す記章、パリウムの受け入れの拒否の指示の様子を描いた(パリウムとは高位聖職者が帯らへんに帯みたいなアレです。端的に言えば、ローマのパリウム授与の拒否、ローマによって高位聖職者が任命されるという立場になることを拒否するという意味(訳者))。

 アグネッルスの主張は、教会論に対して非常に重要で軽視できない問題を提起することになる。彼は5cの皇帝ヴァレンティアヌス三世がラヴェンナの司教に大司教位と、パリウムを授けたと書いている。周知のように、パリウムを授ける権利はローマがケチ臭く独占していた大権であった。どの大司教も自身の座を、ローマに対してお願いをなし、パリウムを授与されなければ保持できないはずであった。この慣行は4cにはさかのぼり、8cにはローマのほかの教会への卓越性を示す象徴として理論家された。パリウム授与に関わる理論と実践は、宗教改革時代には問題になっていた。そして教皇がパリウム授与を独占的に行えるということへの疑念は、新教徒のみならずガリカニストからも発せられていた。4から6cの間に、パリウムは皇帝から授与されたと主張するテクストは、そのことを肯定否定する両サイドを加熱させた。以上の脈絡は17世紀になっても十分力を持っていたのである。バッキーニによるアグネッルス再発見以前も、ローマ、ビザンツの皇帝による、自身の領域内へのパリウム授与の証拠となるテクストを17cの宗教的論争をする人間は収集していた。その中でも強力な資料は、パリの大司教ピエールによるものであり、彼の死語40年後1669年に作品が出版されたときも、ローマのフランス教会への権利を巡る論争の渦中にぶちこまれた。


 事をややこしくすることに、アグネッルスのテクストのみが、ヴァレンティヌス三世からのラヴェンナへのパリウム授与を主張するものなのではない。15,16世紀に出現したとある文書はその授与を記しているとされたが、バロニウスはそれを容易に偽作であることを証明した。ローマの権威を否定したい立場の著述家は、バロニウスの証明を認めようとしなかったが、17世紀にはその証明はあらゆる立場から認められるものとなっていた。だが、バッキーニがアグネッルスのテクストを再発見したことで、問題が再燃する。ここにアグネッルスという9cの歴史家の作品があり、自明に先の偽作とは独立している。だが、偽作と同様、内容としてはローマ皇帝ラヴェンナ司教にパリウムを与えたことを述べている。アグネッルスは党派心が強いとは言え、学識のある人間である。彼は文書を引用し、図像や碑文を利用して主張を補強しようとする慣行に従っていた。それは、彼がバッキーニが生きていたのと同じ、antiquarianの世界に生きていたという印象を与えるものであった。


 バッキーニ自身はおおよそローマ教会の支持者といってよく、読者を不安にさせるような意図を持ってはいなかった。けれども、彼は不利だからといって証拠を隠滅する人間ではなかったし、Mauristの支持者として、教会制度の革新を認める立場にあった。少し時を経た1724年、MauristのDom Ruinartによるパリウムの歴史に関する興味深い作品が刊行されたが、バッキーニがそのテクスト既に知っていたわけはなかった。彼は、ヴァレンティアヌスによってラヴェンナ司教に授けられた権利というものが何か忌避されるべきものとは考えていなかった。このことは彼がアグネッルスの説明をそのまま呑み込んだということではないが、ラヴェンナ大司教の自立性については判断しかねていたし、最終的に、初期教会における都市司教座の権利を巡る歴史にまで彼は手を伸ばすのである。彼は、当時広まっていた、初期教会がローマ帝国の組織構造に影響を受けて成立していたという考えを共有していなかった。1703年にでた彼の著書では、教会の階層制度について通説と別の説明を行っており、問題も生じたが出版を許された。だが、教会の権威に関するコメンタリを付したアグネッルスのテクストについては許可を得られなかった。異端審問により、彼はアグネッルスに関する自身の全論考の取り下げを命じられ、同時に公の文書館の司書で彼の弟子であったムラトーリは、ラヴェンナの司教文書を外部のものを見せることを禁じられた。ただ最終的には融和がもたらされ、バッキーニはアグネッルスの信憑性に対して疑義を示す前文を書くことで、1708年における司教文書の出版を許された。これがバッキーニが出版を許された最後のテクストとなる。

 私は以上のエピソードをあまり知られていないという理由だけからではなく、教会の歴史、ひいては教会の歴史記述につきまとうある性質を端的に示しているから紹介した。そこにおいて、9Cのローカルな歴史家によって記述された5Cの出来事が、18世紀において、そしてラヴェンナだけでなくキリスト教世界全体において実践的な意味を持っているのである。教会の連続性、教会の歴史の連続性と、地方における出来事と、教会の普遍的原理の接触も先のエピソードでは描かれている。いかなる歴史においても出来事の先例性というものは重要であり、過去の出来事はいかなる状況下でも感情を喚起しうる。たとえば、私の同時代人たちはB.C.350のマケドニアや、270年のローマのダキア撤退を、あたかも現代国家の出現や衰滅のように扱うことがある。だが、教会史よりも先例が重みを持つ歴史は存在しない。教会の数世紀にわたる連続性が、過去の教会に生じたことが現在においても妥当しうるという意識を強化し、更に本質的なことに、教会が起源に従っていることはその組織の真正性を担保するものと見なされた。その発想は時代によって形を変えてきたが、根本は常に現在していた。教会が意識的に最初期の原理や原組織の構造を逸脱するということは考えられなかった。教会は起源に回帰することこそあれ、起源を破ろうとすることはない。この原理が教会史家の仕事をある意味では単純化した。彼はある時点で出現した起源たる教会組織と、明らかにみられる変動を記述すればよいのである。その変動が初期の理念への裏切りか否かを判ずるのは彼の仕事である。一方で彼にとって、地方教会における出来事と、普遍的教会の神秘的身体の連関を記述するこの困難を感じていた。これらのことにより、教会史の記述に特有の方法が帰結する。ほかの歴史家ならば端的に過去を物語れば十分であるが、教会史家はいかなる点で彼が非難されるかを心得ていた。彼の扱う主題は常に論争の下にあった。その論争は教義のみ、事実のみに還元されるのでなく、相互が入り組んだものであった。先の事例ならば、ヴァレンティアヌスによるパリウム授与は、事実認定の問題であり、理論的な既決の問題でもあった。教会の歴史に携わるキリスト教信者は同時に神学者足らざるを得なかった。それでももし彼が事実について批判を受けたら、彼は証拠で応じなければならなかった。教会の歴史家に明白な特性は、証拠文書の提示という営みにあった。
 多くの文書が、エウセビオスソクラテス(コンスタンティノープルの)、ソゾメヌス、テオドレトゥスといった初期の教会史家において見いだされる。彼らはアレキサンドリアにおける故事学と文法学の伝統から学んでいた。ソゾメヌスは述べている。「私は事績を記した記録を、宗教的事項にかんする法や、過去の宗教会議の経過記録や、王や司教の言行緑の中から得ようとしてきた。宮廷や教会において文書は保存されており、学識者の保有するものもあるが、いくつかは散逸している。そのすべてを写し取ることをかんがえたのだが、文書の冗長性も考慮すると、それらの抜粋を作成することが適当だと考えた。」ソクラテスは自身が典拠としていた、ルフィヌスの記述に反する証拠となるアタナシウスによるテクストを発見した後、彼の教会史を改めて第二版を作成したのであった。この時代において、教会史における先例や伝統の重要性が教会史家をして、同時代の政治史家には見られないほどの文書資料への依拠と引用を旨とするスタイルをもたらしたことは特記されるべきである。
 アグネッルスがテクスト的、考古学的証拠の広範な利用を行う動機を有していたことについてはさらなる研究が必要である。だが、9Cにおいても、彼のテクストと同程度に文書証拠を提示して主張を行う事例は珍しくない。例えば、Anastasius Bibliothecariusのローマの司教文書にたいする貢献は、彼の教皇関連資料に関する詳細な知見に負っているのであり、10Cにおけるレームの教会史をものしたレームのフロダールも碩学の人であり、彼はレームからローマまで資料収集の旅行を行ったのであった。1080年前後に、ブレーメンのアダムは膨大な原テクストと過去の年代期の抜粋を利用し、ハンブルクの司教言行録を作成した。マルムスベリのウィリアムは12世紀の後半において、グラストンベリの教会史を描くに際して古代史研究の手法を実行していた。そして、ソールズベリのジョンの教皇史は、教皇令の真正性について資料批判の卓抜した手法を示している。
 私たちは教会の歴史記述において書かせない要素をいくつか確認してきた。絶えざる教義と事実の連関や、初期教会の起源にさかのぼって由来を求めることの重要性、実証的な証拠の重視、つねに現在している地方教会と普遍的教会の神秘的身体の連関の問題がそれである。ただし、これだけでは実は、最初の教会史の特性、エウセビオスの教会史の特性を説明しただけに過ぎないのである。カイサリアのエウセビオスこそがキリスト教ととして初めて、概括的な教会史記述を行ったのであり、彼こそが歴史記述の歴史学において新しい一歩を意味するのである。その影響はそれ以前の歴史家が歴史学になしたいかなるものよりも大きいと言いうるものである。それ以降の彼の流れを汲む教会史家は彼の教会に対する理解を共有し、異教徒と彼らを分かつ共通の性質を形成したのである。