Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

Joachim Ehlers”Otto Von Freising -Ein Intellektueller im Mittelalter-” 抄訳 すこし

 

出だし

 

Prolog 人と時代
嫉妬心で心がいっぱいになるような(Konkurrenzneid zerfressenen)中期中世の貴族社会にあって、司教オットー・フォン・フライシングは、決してそのような問題に遭遇しなかった。他の人が嫉妬をこめて仰ぎ見るものは、彼が血統ですでに大いに恵まれている事であった。彼は皇帝ハインリヒ四世の孫、そしてハインリヒ五世の甥、コンラート三世の異母兄弟であり、フリードリヒ・バルバロッサの叔父であり、バイエルンのzweiter Herzögeと、パッサウの司教を兄弟に、ベーメンの公爵とビザンツ皇帝マヌエル一世の姪を義兄弟にもっていた。彼は帝国教会の高い地位を与えられたが、彼はそれに対して最終的には失敗するのだが、抵抗したのであった。

彼は現代しばしば誤解されている自身の著作”Die geschichte der zwei Staaten”(二国論)と”Die Taten Kaiser Friedrichs”(フリードリヒ大王の事跡)を後世に残した。前者は歴史神学的に確定された普遍的年代記で1、悲観的傾向を伴っているとされている。後者は将来への希望を伴うバルバロッサ賛美で、時代の変わり目を切り出して描いていると誤解されている。著者(オットー)が両著作の構想の間にある矛盾を保存していたことはそのままにしておかねばならない(と言われてきた)。しかし、彼は偉大なる史料編纂者であっただけでなく、出来事の意味を飽く事無く追い求め記した、歴史哲学者でもあったのである(と言われている)。テクストの精確で厳密な読解は確かに、そういった話が誤りである事を示している(zeigen daß von beidem keine Rede sein kann ちょっと自身がありません)。オットーは歴史の意味を探すことなどしなかった。そうではなく、彼は代わりに長い人間学的根拠(anthropologische Begründungen)を有していた。彼の友人の求めに応じて仕事を行った時に、事物に関する経験的でここへの明確な知識がそれを示している。彼はGeschichteを書いたのではなく歴史的素材を(2格を対格の意味でとりました)、哲学的理論の例示のために用いたのである。私たちは各所で、皇帝フリードリヒの事跡に関する作品は、作家による歴史的偏向などではなく、確実な死を目の前にして地上の唯一愛好したものである、フライシングの教会への哀惜が増したのだが、彼にはそこへ復帰するだけの権力が無かったため、皇帝の好意を仰ぐ必要が生じたことによるのだということを確認する事になるだろう。