Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

Benjamin Straumann (2016) Crisis and Constitutionalism(危機における政体論)intro pp. 1-21 紹介

 

 constitutionは、政体 constitutionalは、政体論的という訳語を機軸とします。constitutionalに端的に肯定的な意味が着せられているような場合は少し技巧的に訳しています(よく秩序づけられた政体など)。
 pocockをBR参照せずにMMだけで古典的共和主義者に括ってるのは気に食わないけどArihiro FukudaやGabba,Moatti,Zetzelなんかを参照してるし許しましょう(寛大な心)

 ちなみに自分は、バロットの研究なんかはあんまりいいとは思ってないのでストラウマンとは少しだけ評価が違うかもしれない。Clifford Andoの研究は以前Brillのコンパニオンに載ってた奴をよんだことがあるはずだが全く記憶にない。

 ページ数は本文のものを指す。(p.3)とあればそこからは3ページ目の記述の紹介となります。

 書ききって見直さず貼ったので、誤字脱字など指摘いただけると嬉しいです。

 

以下本文紹介です。

イントロ

ローマの共和国の没落と政体論的発想の出現

 (p. 1)デモクラシーを冠した政治体制が19世紀頃に出現するまで、ローマの法、政治思想は群を抜いた影響をヨーロッパにおいて有していた。現代からすれば、古典古代の政治思想といえばギリシアが先に念頭が挙がるかも知れないが、そう思われるようになったのは比較的最近のことである。

 

 (p. 2)ポリュビオス以来、政治思想はローマの共和国における政体論的特性に注意を払ってきた。共和国という以上は王政以降に始まりキケロの時代に危機と迎える体制を指す。そしてそのキケロの時代は同時にその危機への政体論による応答、対策が構想された時代でもあった。彼の議論がそのような危機に対する応答としてなされただけではなく、リヴィウスやその他の同時代の歴史家の叙述も、共和政初期の政体に遡り、権力、権威の適切な配分、制約のあり方や、非常事態の例外的な権力の取り扱いを探るものとして読むことができる。政体に組み込まれた権力と底から逸脱する非常時の例外的権力の関係こそ、共和国の危機をもたらした一大要因であった。そして共和政体が元首政、帝政に移行したことは、政体の権力のありよう、移り変わりとはいかにして生ずるのかという問題を後の時代の思想家に考えさせる契機となった。そのような議論に関心を抱き、私たちは初期共和制の共通善や徳、腐敗の欠如といったものではなく、末期共和制の危機と破綻を扱うことにする。

 

 ローマ共和制の政治的、政体論的思考はギリシアや初期のローマに仮託されるイメージでぼかされてしまっている。ひとまずそれを古典的共和主義像と呼ぶことにする。(p. 3)旧来の研究にみられる古典的共和主義像は一枚岩ではないが、プラトンを想起させる再配分、適切な秩序のイメージ、ポリュビオスの混合政体の教義、サルスティウスの腐敗への警戒、それ以上にアリストテレス的な徳への関心といったものを重視している。だが、これらの像はローマの特性に十分な配慮を行っていないと思われる。ペティット、ヴィローリなどの優れた議論を例外として、古典的共和主義像はギリシア・ローマやそれらに影響を受けた以降の政治思想もごちゃ混ぜで扱っているように見受けられる。端的に言えば政治思想と念頭に置く政体の連関で個性を捉える視点がない。

 

 そのごった煮の始祖といえるのがコンスタンの自由論である。これはファーガソンコンドルセのような先駆者を持つ、古代と近代の区別と比較を行う伝統の一角に属していた。コンスタンによる軍事社会である古代と商業社会である近代における自由の比較は、クーランジュ、ブルクハルトやウェーバーにまで影響を及ぼした。彼の視点はアテネがスパルタやローマより個人の自由を重視したといった区別はあるが、それは体制の違いでなく、彼にとり古代の政体はどれも似たようなものとされた。(p. 4)それらはどれも個人の自立への視点に乏しく、集合的権力への参与と、自由を同一視しており、権力を制約するという視点を欠いていたと解される。

 斯様なステレオタイプは古代の思想や事物に向き合う際に付きまとってきた。特にそれはギリシアのポリスを優先的扱うようにし向けるものとなった。たとえばラーエ(Paul Rahe)の1992年の研究は、コンスタン的な古代のポリスと近代の政治体制の断絶を結論として確認するものとなっている。ラーエの研究は、その表面的な断絶を結ぶ政体の無視によってそのような結論に至っていると言える。つまり、ローマを見落としている。(p. 5)二年後の同研究のペーパーバック版では、イントロに於いて初期近代における市民による統治の理想が、ローマの制度と法によって生じたことを強調し、西洋政治思想におけるローマ的なるもの影響を評価しているが、最終的にはヘラスが優先されるべきだと主張する。


 そのような選択の下でラーエが見せる古代と近代の比較は、ある批評が述べるようにコンスタンの提示したそれの単なる1ヴァージョンのようである。それに対してミラー(Fergus Millar)の2002年の研究は、ローマの政体について論じたのいくつかの思想家、仮定的なアプローチとしてアリストテレスの理論からのローマ共和制の評価や、ポリュビオスマキャヴェッリ、ハリントンといった人物の思想を扱っている。ただ、彼自身はローマの民主制的特性を強調しようとしているが、彼の対象とした思想家はそのような視点をほとんど見せていないために、収まりの悪い記述となっている。
 本著は前の二つの著作の欠陥を補うことを試みた著作だと言える。ただし、前二者と古代の体制についての見解を共有はしない。ローマの政治思想への貢献、政体論(constitutionalism)を評価しようとする。前政治的、市民的権利やそれに対応する政治的正義への関心をそれらは含意している。(p. 6)


 この著作は先に述べたラーエの研究を、ローマの政治思想への貢献を見ることで補うものとも言えるが、コンスタンの図式と異なり、共和国の危機において、立法権人民主権の制限を巡る、自由主義的とも言える着想が出現したことも評価する。ミラーがポリュビオスを分析しつつ人民主権的要素を共和制末期に見るのは一理あるが、ポリュビオス自身の分析は「最もローマが民主主義的であったとき、最も腐敗した状態にあった」(6.57.9)という結論に至っていることを無視できない。


 コンスタンは古代の政体観念の復権フランス革命直後の恐怖政治を結びつけて考えているが、これは古代共和主義と近代の自由主義という図式をもたらした。以上のような二分法はアメリカ革命においても見ることが出来る。
(p.7)初期アメリカの研究者は、その二分法のうちのどちらの要素がどの程度影響を有していたかは主題として扱っているが、その二分法自体は疑問に付されることはない。ベイリン(Bernard Bailyn)の革命のイデオロギー的起源を巡る1967年の研究は、自由主義の側を強調し、共和主義は英国のホイッグの伝統との連続を観念するための副次的役割しかない。ウッド(Gordon Wood)の研究はそれに対して、1787年に至るまでは古代の共和主義が大きな役割を果たしたことを指摘し、それ以降は個人的、私的な自由が優先されるようになったとする。しばらく前に、ポーコックは古典的共和主義の伝統の影響が合衆国設立初期にも至ることを論証しようとした。


 (p. 8)このような共和主義と自由主義を対抗関係に置く図式は共和主義一般を扱う歴史記述に総じて見られるものである。スキナーの自由主義以前の自由などの著作においては、このような対立は社会の政体論的枠組みは構成員たる個人の自由に関連するのかという論争に於いて、それに肯定的に答えたネオ・ローマ的理論家と、その批判者たるホッブズのような人物の対立として再版されている。スキナーが前者に含めるのは、ハリントン、マキャヴェッリ、ミルトンなどで、彼らは個人の自由は自由な国家に依拠して初めて存在し得ると考えた。
 以上のような図式を強化するのはスキナーの2008年の研究であるが、そこにおいてはホッブズがその「ネオ・ローマ的」な立場への強い反対者として描かれる。だがスキナーの描くホッブズの自由の概念は、ホッブズリヴァイアサンにおいて述べた「言葉の適切な意味」における狭い意味の自由を強調しすぎており、著作のほかの箇所ではそれ以外の意味での自由概念を幾度も用いていることを無視しているかのようである。


 (p. 9)仮にホッブズの自由概念をスキナーの述べるように切り詰めたものとして理解することに理があるとしても、先に述べた「ネオ・ローマ的」な理論家との対抗に置くことは適切ではない。それらの思想家は志向する政体のあり方に多様性を有しているが、政府の権威を抑制するために政体に組み込まれた安全装置の提唱という点で共通している。その場合特に政治参加といったものを強調している訳でもないし、君主制であっても自由な国家足り得るということになる。そうであるとするならば、「ネオ・ローマ的」なるものの特異性はいかほどのものなのだろうか。制度的抑制による自由の確保という視点を重視した場合、端的に言ってしまえば彼らの述べた自由は、自由主義以降の自由と何ら異ならないのではないだろうか。
 (p. 10)「ネオローマ的」と自由主義的が有効な対立軸でないことは、徳や参加、自治を強調するような共和主義と自由主義の対抗に論点をシフトさせる。ただし、現代の理解からすれば疑問に付すことが出来る。ギリシアの場合ですら、歴史的存在としてのアテネは政体理論や制度に興味がある人間の素材となりえるからだ。ギリシアの制度的現実ではなく、政治思想自体は勿論その後の時代に於いて影響を有していたが、司法審査(graphe paranomon)の存在や、高次の法(nomoi)と単なる法令(psephimata)の区別といった政体理論の格好の素材としての要素は、ヒュームという例外を除いて、長い間無視されていた。それに対して共和制末期もローマの歴史的現実は、本書で扱われるような、政治的、政体論的思想をもたらしたのである。


 勿論ローマの共和主義も強い影響を有していた。ペティットらが定義するような支配の不在としての自由といった発想も結構なことである。(p. 11)だがそのような観点は規範的、歴史的見地より批判される。本著は古代の著作から、そのような観点と対照的な議論を提出する。ローマ人の高次の政体論的秩序により獲得され保証される特定の諸権利や規範に重点を置いた議論がそれである。ローマの制度的配列がよくできていることは、ポリュビオスにおいてすでに強調され、近代に於いてマキャヴェッリがその視点の最初の支持者となった。だが、彼らの視点はかなり実用的なものであり、ローマ帝国の拡大は共和的政体秩序の最大の成果だとされた。だが、ローマの政体への視点にはもう少し規範的色彩を帯びたものも存在しており、本著ではそちらを重視している。


 (p. 12)このような視点を補強するような研究動向も存在している。実際近年ではギリシア、ローマの政治思想を歴史的現実や文献学の成果を踏まえて詳細に扱う研究も増えている。ウィルツプスキ(Chaim Wirszubski)のlibertas概念を扱ったモノグラフや、ニコレット(Claude Nicolet)のローマ市民権についての研究、ニッペル(Wilfried Nippel)、フリッツ(Kurt von Fritz)らの古代の混合政体についての研究などはその一環である。アメリカにおいて古典学者、古代史家が政治理論にも論ずる傾向が生じていることもそれに一躍買っている。ホクストラ(Kinch Hoekstra)、バロット(Ryan Balot)、アトキンス(Jed Atkins)なんかはとてもよい貢献をしている。

 (p. 13)以上のような貢献の一翼を担うことを期待して私も研究をした。それは先述したようなローマ共和制の危機における政体論、非常事態への対応と、その後世への影響を扱うものであり、ほかに例を見ないものである。その不在の理由の一つは、古代における法の支配の有効性への懐疑と、力の役割の重視があった。(p. 14)サイム(Ronald Syme)の記念碑的研究(ローマ革命)は、元首制への移行をプロソポグラフィの手法で古い貴族権力の解体に求め、共和制の基礎も、彼らの社会的力に還元された(おそらくパトロネージ理論のことを指す)。サイムの研究の影響で、ローマの政体は法に基礎づけられていないかのような視点も存在していたが、近年になってリントット(Andrew Lintott)の研究に見られるように、ローマの法的政治的機構の中心性が強調されるようなっている。その法的政治的なるものも、単にデ・ファクトな存在にとどまらず、規範的観念的性質を有したものも視野に入れた研究が増えている。(p. 15)ブライケン(Jochen Bleichen、彼は石井紫郎先生が訳していたはず)はmos maiorum(偉大なる(?)慣習)や、直ちに適用はされない一連の法的な規則の役割を強調し、その上でローマで行われた政体論的法的議論にも目配りした上で、慣習や実定法、そのほかの政体における規範、政治慣行の区分を破壊せず論じている。


 本書も単に行為を指示するような意味での規範にとどまらず、慣習に含まれるようなルールまで視野に入れて論ずる。「政体論的」と形容されるある秩序は、末期共和制の議論や活動を理解するためには欠かせないものであり、それを政治文化といったものに縮減してしまうことは、その規範的側面や、法的な価値を取りこぼしてしまう。それはそれまでの伝統を受けて育まれてきた特定の組織体であり、非常に脆い存在なのである。そしてカエサルグラックス兄弟が破壊しようとしたのはそれであった。そういう規範的な色彩を捉えておかないと、元首制移行も対して変わらず同じような政治文化が存続したという分析にも至りかねない。
 (p. 16)紀元前133年に初めて、殺人が政治闘争の優越した手段として出現してしまった。その被害者であるティベリウスグラックスが同僚を罷免したことは完全に否定的な評価を受けている。これらの事例は規範の侵害として、私たちが見ていく共和制末期の論者の意識の中心に存在していた。近年の研究によれば、グラックス兄弟をローマ人が避難したのはその再配分政策によるのではなかったとされる。そうではなく、彼らは政体の規範を犯したために多くの人の反対に遭遇した。どういうことか。
 キケロが指摘するのは農地改革の問題や、彼らの政策の内容ではなく、彼らの民会の権力に依拠した熱狂的な姿勢と、政体に結びつけられて不可侵であるはずの護民官の侵害こそがグラックス兄弟の破滅を招いたとされる。「彼が没落した原因として、自身に介入してきた同僚の権力を廃止するという暴挙をなしたこと以外になにが挙げられるだろうか?」(Cic. Leg 3.24)以上のような指摘も念頭に、共和制の政体論的秩序の中心性とその規範的性質という信念に重点を置いて本書は展開する。


 (p. 17)共和制の再建を目指して行われた理論的な対応を行った人物は、その批判者たちが共同体の政体論的規範を捉え損ねていることを指摘する。ある活動のあり方や、一連の立法がなにも法に依拠していないという主張は、政体論的秩序が有効性を持っていないということの証左ではなく、むしろその実在を前提とする主張なのである。このことは2,3章において論じられる。


 (p. 18)ただ留意してほしいのは、事実の上での政体なるものが共和制末期のローマにあったということを私が論じようとしているのではないということである。正確にはそうではなく、共和制末期のローマ人たちが、政治における緊急手段や、行政権力や特定の立法が正統性を有するのか否かについて、高次の秩序や、より具体的に定められた規範に依拠しつつ判断することが必要だと明確に感じ取ったということを描こうとしているのである。そのための前提としての制度的、歴史的コンテクストを扱うのが第一部であり、第二部ではキケロの考察を中心に危機における理論的、哲学的考察の有り様を追求する。先に見た例外的措置の出現などに際して、それの正統制を判定しする上位の規範の要求が生じることで、ローマの政体の概念自体が共和制の危機に置いて明確にされたのである。キケロの政治理論に関する著作で、彼は諸規範と諸権利の探求を行い、こと政体論に実体を与えていったのである。この政体論へのフォーカスががギリシアに比べた際のローマの特色であり、これは同時代の知的潮流、モアッティ(Claudia Moatii、本当にすばらしい研究者である。再読したいので誰か読書会しましょう)が述べるような「理性の時代」の潮流に竿差しているのである。

(p. 19)第三部においてはそれまでに触れたローマにおける思想の後の時代での運命を扱う。ルネサンス以降の思想家がローマを際だたせるものとして認識したのは、徳といったものではなく、上位の秩序を観念する政体論的発想なのであった。このような視点を有していた決定的な人物はボダンである。彼以降、サルスティウス的な徳の衰退と共和制の崩壊を結びつける言語とは別の、共和制の崩壊をを巡る伝統が出現したかのように見受けられる。政体論及び政体論的配列はその伝統の内実なのである。その伝統は、共和制末期の政体論を巡る論争において暗に念頭に置かれていた問題が主権に関わるものだということを拾い上げている。ボダン以降の人間は主権という概念を通して共和制の危機を眺め、共和制の歴史を通して主権の概念を眺めることとなったのだ。ジェンティーリやグロティウス以降の自然法学者は詳細かつ規範的な自然状態の図式を提示したが、政体論の伝統は単なる自治というものがいかに脆いのかということに注意を払い、制度化された政体がいかに共和国を正義に則り、安定したものとなるかを考察した。そのような伝統の政治的現実の接触例として、私はアメリカ革命におけるアダムスを例に挙げる。
 (p.20は省略してp.21)まとめておこう。コンスタンの言うような古代と近代の自由なる二分法は理論としては一見すると明快で一貫しているように見えるが、その実歴史的現象を大いに歪めてしまうものである。すなわち、ローマ共和制末期おける危機の応答として、権力への制限、政体による安全装置の構想といった政体論的政治思想が展開されたことや、そのルネサンスにおける継承をその図式は排除してしまうのである。キケロの著作に見られる政治思想や法廷演説での主張、リヴィウスの歴史記述は、そのような危機への応答として読まれるべきである。それまでの共和国の制度が機能不全に陥る中で展開された思想、特にキケロのそれは、政治理論を扱うための新しい実質を発見した。そのようなローマにおける機能不全は、一種の自然状態の様相を呈していた。非常手段への依存や、例外的権力を有する人物の出現は、キケロや同様の心性を持った人に対して、自然法や自然的正義といったものに基礎をもつ規範的政体概念の創出と、更にそれの具体化となる諸規範と諸権利を探求することの必要性を強く実感させた。その結果、ローマにおける規範的概念としての政体論は、ギリシアにおけるそれとは全く異なったものとなっているのだ。

 


以上