Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

近世ヨーロッパにおける 外国人を保護する都市の責任についての議論(2)

 

以下のものの続きです。

 

kannektion.hatenablog.com

 

 


3.4 ソトのDeliberacion の概要

ソトは自身のDeliberacionの4,5章を都市から外部の貧民を排除していいのかという問いについての考察に当てている。外国人(exteros,extrangeros)とは主に別の都市からくるスペイン人、スペイン以外の国からくる人々の両者を指している。
 ソトが排除に反対する第一の理由は、排除が追放刑と同様の結果をもたらすという点にある。追放刑は重大な犯罪を犯した者のみに通常課せられる刑だが、それを外からの貧民に課すことは不当である。これは、自然法および万民法の観点からして、害を与えない限り(culpaを有さない限り)各人が望んだ場所に向かう自由が認められており、公的な場所を自由に通行することも同様に認められているということを前提としている。そして仮に誰かを都市から追放して、故郷に戻すという場合には追放とは言えないせよ、その行為は、本人に手落ちがない場合には損なわれない権利を奪っていることになる。
 ソトによる万民法を持ち出した正当化は、ビトリアのius peregrinandi,peregrendiの正当化を思い起こさせる。そのような意味で、彼の議論を、ヨーロッパ外に向けられていた議論をヨーロッパ内に転用したものとして評価しえる。しかしながら、両者は権利行使の主体が、南アメリカへの旅行者と、貧民という点で異なっていることは無視できない。
 公的な場を利用する権利としての万民法をソトは援用しているが、それに対してTannerのような批判者は、彼の議論は各人が都市を訪れることを正当化するものではなく、都市内部に外部の者も利用可能な道などをもうけることを求めているのみであるという反論を加えている。だが、ソトが援用している万民法とは、それに基づいて各人が行使できる権利(この場合は通行権など)を導出するためのものであった。
 同時代の法学者は、どの道が公道(via publica)に相当するのかについて議論を加えていた。彼らは公道から誰かを排除するという政策は、単なる都市行政官には行うことができず、主権者の決定が必要であるという点において殆ど一致していた(メモ:ここにおける「主権者」の原文、含意は後で調べる)。ただし、主権者ですらそのような決定を行い得ないという主張をする者も少数ながら存在していた。
 都市外部の者が都市の街道を利用できるのかという問いと、彼らが都市に入ることが出来るのかという問いの間には大きな相違が存在していた。両者は結びついていたが、区別された上で取り扱われている。モリナの議論はその例証となる。モリナはビトリアの論から導かれる国境の開放性を否定し、各領域の外国人を排除する権利を正当化しようとする。しかしながら、公道については万民法において各人が利用可能であることを認めており、誰も正当な理由なくその利用を禁止してはならないとされる。同様に都市における物乞いの事例において、ソトは都市に入る権利よりも、街道を利用する権利に重点をおいていると考えて差し支えない。
 ソトの批判者達も、公道が、河川などと同様に公のものであり、万民法によって全ての者にアクセスが認められるとは考えている。だが、彼らはソトとは異なり、物乞いがもたらす害を強調している。例えば病気を持ち込んできたり、異端的な考えを広めたりすることがあるといったものである。このような害の防止という点から、貧民のアクセスを防ぐことは正当化されるという。
 ソトが外部の貧民を排除することに対して反対する理由は他にもある。確かに物乞いに施しを与えることは、例外的な状況を除き義務ではなく善意に基づくことであるが、物乞い自身は自身の必要を満たす権利を常に有しているのである。そのため、物乞いが都市の外部に向かわないように強制することは、他の住民に対して都市の貧民に施しを行うことを要求しない限りは行いえない。そうでなければ物乞いに対して欠乏状態を強制していることになる。そのため、都市において貧民の必要を満たすための施策がなされていない以上は、貧民は自身の糧を得るために相応しい場所に自由に移動する権利を有する。
 3つめの理由は移動の自由というものが、地域間の富の不均衡を是正する効果を有するということである。外部の貧民の存在を許容することは、政治体の多様な部分における、相互扶助の義務から免除する手段となるのである。(?)
 4つ目の理由として、地域ごとの富裕さだけでなく、都市によって住民の慈善に対する姿勢が異なる点が挙げられる。ソトは物乞いが同じ場所に長い期間いるともらえる額が少なくなったり、顔を覚えられて物乞いをすることに恥を感じるようになるかもしれないと指摘する。そういった心理的障壁を緩和するためにも移動は効果的だと彼は考える。
 5つ目に挙げる理由は神の法と自然法に基づいて要求される歓待の徳に基づいているものである。このことを立証するために、ソトは聖書から異邦人を歓待することを正当化する文言を多く援用する。

3-5 生じなかった論争
 ソトの議論は無視された訳ではないが、後代のスコラ学者に大きな反響を与えることはなかった。神学的領域でこの問題についての議論はいくつかの軸がある。一つはソトのテクストや、アロンソ・デ・カストロバスケスといった論者からなるものである。二つ目の軸は排外的な政策を支持するものである。 Martin Becanus, Theophile Raynaud,Paul Laymanといった論者からなる。三つ目は後の時代における排外政策反対派からなる。最後にはインゴルシュタットにおける論者(Valencia, Peltanus, Tanner)達がいる。

 ソトの議論はバスケスらによって支持されたが、Tannerはソトを多くの点で批判している。1606年に出た著作では、外部の貧民を受け入れることに依り予期される危害を挙げている。特にプロテスタントと異端の蔓延が挙げられている。彼はPeltanusを批判して外部の貧民が都市に入る権利を否定する。彼に依ればまず、確かに貧民は万民法に基づいて公的空間を利用する権利を有するが、それが共同体に対して重大な道徳的な差し迫った危険をもたらすときは停止されると言う。更には、外部の貧民の追放の責任は、それら貧民の故郷にあるのであって、当地にはないとも述べる。続いて、それぞれの貧民の故郷が、必要最低限の、重要性の高い援助程度は行うことが出来るという見解を示す。異邦人への歓待というものも、共同体を毀損しない範囲で認められるともTannerは述べる。最後に、彼はアンブロシウスが貧民を排除することを批判しているテクストの解釈を示し、アンブロシウスは単に土着の貧民を排除してはならないと述べていると主張する。
 その他に、新しい政策を認めたのはブラバンイエズス会士Becanusである。彼は当地の行政が移動を続ける貧民を排除する行為が正当かを問うている。彼によればそれを正当にする事情は三つ想定できる。1都市の資源が十分でなく、慈善の命令(order of charityなので慈善を行う修道会?)が当地の貧者を優先するように要求している場合。2外部の貧民が病気をもたらしたい異端や不和をもたらす場合。このような都市への損害を持ち出す議論は人文主義者が、スパルタやローマの排外的政策を擁護するときに一致して援用するものでもあった。3多くの外部からやってくる貧民に労働能力がある場合。都市において物乞いを認めることは怠惰を招きかねない。そのため労働に駆り立てることが適切な政策とも言える。しかしながら結局Becanusはソトの論証を否定してはいない。その他のソトの反対者もソト自身への反論に成功してはいない。
 実はスアレスやモリナ、コバルビアスといった論者はこの論点について多くを語っていない。このことは、彼らが救貧の義務自体については語っていることを踏まえると不思議である。
 道徳神学者達はどうして政策反対の姿勢を示さなくなったのか。このことへの推論的説明として、政策に言及した神学者の居住地等に問題があったことが考えられる。多くの政策はドイツの地域で行われたため、スペインの神学者の射程に入ってこなかったことは考えられる。更には、ドイツ以上にスペインでプロテスタント流入の問題は深刻であり、宗教的な危機として神学者達がこの問題を捉えるようになったことも挙げられる。
 その他にも、ソトやその後継者の論法が同時代の思考の風潮と会わなかった、分析手法が適切でなかったことが考えられる。ソトは貧者を平等な権利を有する、不幸な個人として描いていたが、更に後の時代の神学者は脅威を与える集団としてイメージしていた。後代の神学者は同時代における立法を必要とする状況は、わざわざソトに言及して論駁をする手間を免除していると考えたのかもしれない。
 ソトの議論は誤っているとまでは言わないが、同時代の人々が認識する社会状況からかけ離れていたという点で、時代遅れになっていたと評価し得る。そのことも踏まえた上で、更にソトの議論を見ていく。