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研究にあまり関係しない雑記

近世ヨーロッパにおける 外国人を保護する都市の責任についての議論(1)

以下は、後期スコラ学の倫理理論を扱ったDaniel Schwartz,2019, The Political Morality of the Late Scholastics: Civic Life, War and Conscience の第3章、Keeping Out the Foreign Poor: The City as a Private Person pp. 58-78 の前半の紹介です。

 

 

 

 

Schwartz2019
p58- 

3 .1 外国貧民への倫理 

 16世紀初頭の不作によって、生活のできない農民の都市への移動が増大した。それにより物乞い、浮浪者の数は都市において増大したため、ニュルンベルクサラゴサといった都市では、流入者対策のための政策を議論していた。

 


 後期スコラ学者達は、都市にもともと住んでいる貧民が、都市の外から来た貧民より優先して救われるべきか、共同体の境界線を保つということが貧民救済の目的としてどのように成立するかについての貢献をなした。ソト(Domingo de Soto1494-1560)などの初期の論者は、都市という領域に限定されず、広い規模での連帯を想定して、救済が行われるべきだと述べた。後期の論者は、その政策は複数の善の衝突、都市の利益、外国の貧民の福利の衝突を前提として考察されるべきであると解いた。Adam Tanner(1572-1632)などの論者は、外国の貧民については「私たちが考慮すべき問題ではない」のであり、それは本国が考慮すべき問題だとも述べた。

 


 都市が外国の貧民を除外することは、後の時代においては私人が正当な権利を行使しているものと同様の評価を受けることがあった。つまり、都市は公的な視点、君主であったり、理想的な支配者の視点に立つことなく、その都市の市民のみを考慮した視点に立つことが許されるという視点が存在していたのである。

 


 最も有名なその時代における対貧民政策は、1525年におけるイーペルでの布告である。この布告は三つの目的を有していた。

 


 1 ほんとうに貧民であるのか、補償を求めて貧民のふりをしているのかを手続きで識別すること。
 多くの物乞いが実は生計を立てることができ、一部の者は隠れた材を有しているのではないかという疑いを人々は抱いていたのだ。その他にも、一部の者は補償を受けるために自ら不具になったのではないかとも考えられていた。

 


 2 貧民への援助の供給を再整備すること。 
 現行の救貧制度は奔放なものだと考えられており、多くが教会によって管理されていたため、事態の重大さに対処できないと考えられていた。物乞いは道を占拠し、病を蔓延させる存在だと考えられていた。そのため、道ばたでの物乞いを、公的な保護制度によって抑制する必要があったのである。合理的な官僚組織によって社会問題に対処する組織が必要とされた。

 


 3 貧民の外からの流入を制限し、外部における移動も規制すること。
 都市の物乞いは単に都市の外から来ているだけでなく、領国の外から来ている者もあった。例えばスペインにおいては、物乞いは北ヨーロッパ、フランスなどからやってくることもあったのだ。この目的は第一の目的とも連関しており、このような外国の貧民は故郷に戻ることを強制されることもあった。この章では主にこの最後の目的について論ずる。

 

 

3.2 道徳神学以外の領域における議論

 「貧困についての多大な議論」と称されるものへの最大の貢献は、人文主義的な作法で書かれた、支配者側に向けた論争的テクストによってなされたのである。

 最も有名な政策への用語は、人文主義者ヴィーヴェス(Juan Luis Vives)による、De subventione pauperum(1526)であり、それはスペイン帝国の一都市、ブーリュジュの政策に言及していた。その他のスペイン地域、スペイン全体にも改革の波が広がっていた。1523年、スペイン議会であるバリャドリードのコルテスにおいては外国の貧民の立ち入り禁止が議論されており、1525年のトレドのコルテスは、物乞いを身分調査した上で、神聖の貧民と分かった物のみに物乞いの認可を与えることを要求した。枢機卿の主導で貧しい農民達は1539年に、宮廷を動かして領域レベルの改革を導入させたが、依然として論争の対照であった。 そのような流れに引き続いて都市の改革が実行された。スペインにおいてはサモラの改革が有名だが、それは改革の正当性がサラマンカ神学者に問い合わせられ、承認を得たからであった。ソトは自身の承認が留保を伴っていることを私たちに伝える。その留保とは、「立法の内容が私に間違って伝えられており、実際には同意を与えなかったような立法が含まれている」ということであった。その後に書かれたのが彼の Deliberacion en ;a causa de los pobresである。それはスペイン語ラテン語の版が存在している。内容は1539-1540、1543-44に行われた抗議に基づいたものである。

 


 ソトのテクストはBenedictine Juan de Roblesのテクストに記された、ソトの選好する議論への応答に向けられている。Roblesは現地の貧民が他国の者より優先されるべきだということを論じていたが、彼はソトに同意して、他国から来た貧民も排除してはならないと述べている。彼に依れば本国以外での物乞い行為の禁止が許されるのは、各地域が自身の地域の救貧を適切に行っている場合のみだとされる。そうでない場合は、行政の側が、外国人が援助を受けることを妨げてはならないとされる。ただし、Roblesは、最も貧しいスペインの地域においても当地の貧民を救済することが出来る、すなわち、全地域が適切な救貧を行うことが可能だと考えている点でソトとは現状認識が異なる。Roblesはほんとうに貧民の状況にある人を識別し、そうでないものを労働市場に放り込む仕組みに期待しているが、外部からの貧民が真に窮乏した状態にある場合には援助を惜しむべきではないと考えている。

 

 

3.3 Medinaの議論とその受容

 道徳神学の枠内においては、Juan de Medinaとソトの議論が重要である。
 ソトは新しい救貧政策を攻撃していることはよく知られているが、それはJuan de Medinaの Codex de elemosynaに後続して公にされたものである。Medinaの議論の力点は必要性と利益に置かれていた。彼は外部の貧民は都市の内側の貧民より追い込まれており、相対的に有徳であると述べる、そのため、その地域の貧民を他国の者より優先する根拠は、他の全てが等しいならば正当だが、そうでないため正しくないと述べる。
 次にMedinaが述べるのは、もし全ての都市が貧民が入ってくることを禁じる場合、当の貧民が放浪を続けざるを得なくなるということである。そのような人々はのたれ死んだり、本来ならば手を出す必要のなかった犯罪に手を染めて、刑吏のもとで裁かれるということになりかねないのであるから認めがたい。
 そして三つ目として、当地の行政官らは、外部からの貧民が「彼を本当に救うべき自身の同郷の人がいるのだから、彼を故郷に送り返すべきだ」といった発想のみに依拠してはならない。彼によれば、そのような発想をする人は国家、都市の中には多くの、負債や上位の組織から要求、課税によって、その地に余裕のある人が全くいないものがあることを意識するべきである。
彼は更に続ける。
「追放されたり、彼に敵対する人が居たり、持ち物を接収されていたり、名誉を奪われたといった理由で、自身の故郷に戻ることができない人がたくさん居るのであり、彼らはそこにい続けるよりも、故郷を去るほうが望ましいと考えたのである。そのため、彼らが自身のすみかを変えたのは不正な罰によると言えるのである。貧民の出身地の多くは、敵の侵入や、舵、その他の災害にさらされていたりするのである。どうしてそんな状態の地に戻れと言えるのだろうか」
 Medinaの議論はイエズス会などの議論に大きな影響を与えてきた。貧民は故郷に戻されると危険な状態に陥るという認識は特に多くの論者が引用している。ただし、Tannerのような論者は、そのような貧民が送り返したり、追放されたときに受ける害は、その故郷に原因があるのであって、彼を追い出した地域にあるのではないといった反論をしている。

 

 

(つづく)
 

Civic Life, War and Conscience