Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

鴎外『ヰタ・セクスアリス』における性欲

 

 以下に載っけたのは、東京大学性欲研究会誌第9号に寄稿したものである。

タイトルの通り、素材は鴎外の『ヰタ・セクスアリス』を扱っている。こっちに掲載していいと許可してくれた性欲研会長にはお礼申し上げます。会誌第8号は通販しているのでぜひ買ってくれると嬉しい。9号については原稿料がわりにもらったものが部屋に少し余っているので、言ってくれたらただで差し上げます。

 

 

 

 それにしても改めて読んでみると、自分の書いたものがしばしば他人に、概念や論理の演算をしているだけでそれが示しているものへの接近が弱いと評される理由がなんとなくわかった気がする。それと誤字を見つけたのだがどこにいったのかわからなくなった。また後で修正する。

 

 確かに後もう一つ二つの踏み込みが足りない分析になってしまっていることは否めない。どうしても言葉の背後にある現実を捉えるのは難しい。言い訳じみた言い方だが、自分はその概念の演算をして入るだけで楽しくなってしまうのでそこから先に進む力がまだまだ湧いてこないのである。スコラ学を研究して入るからといって自分自身がスコラ的になる必要はないしなってはいけないということは常に胸に抱いて生きていきたい。

 査読通過して掲載が決まった論文については、そういう部分もなんとか拾い上げようと頑張っては見たが、成功しているかどうかは人に読んでもらわないとわからない。掲載が待ち遠しいところである。

 

 

 せっかくなので対象テクストが載っている青空文庫へのリンクを貼っておく。

www.aozora.gr.jp

 

 

 

それではスタート

 

 

  今回、性欲について考えるに当たっては、森鴎外ヰタ・セクスアリス[1]を題材として選択した。選択の理由だが、まずそれなりに知られている人間を対象とした方がよいだろうという在り来たりなものに加え、三島由紀夫が鴎外の作品について評するように、「簡潔で清浄な文章」[2]で成り立っており、その表現も「よけいなものをぜんぶ剥ぎ取り、しかもいかにも効果的に見せないで、効果を強く出す」[3]ものであることから、明快な分析に適した文章を描いていることがそれである。そして更に重要かもしれないが、この「性欲」という語を文学の領域で初めて、現代の意味で用いていると評価されていること[4]も理由の一つである。起源においてそのものがいかにあったかは、私たちが意識しようとしていまいと、現在における当のものの有りようを規定するからである。本稿がその規定する枠を意識し、性欲についての新たな考察、意味付与を行うための一助となれば幸いである。

 以上のように手法を説明したが、もう少しだけ付言しておく。分析においては、単にテクスト内における性欲の語を列挙的に解説する作業ではなく、テクスト内に存在する、筆者ないしは登場人物の意図、問いにも着目した読解を行った。鴎外自身ないしは主人公が記すように[5]、このテクストを小説に分類するのも、文芸的なものと規定するのも困難かもしれないが、叙述と筋を含む以上、単なる理論書として扱うのは困難で、切り張りの分析は語にまとわりつくコンテクストを閑却してしまうことになってしまうからである。それに連関してもう一点、先に起源に言及したが、このテクストにおいて鴎外が初めて性欲の語を使い始めたのではない。ヰタ掲載の7年前に鴎外は、ドイツの精神医学の受容に基づいた論文である、「性欲雑説」を記しており、それ以前にも性欲に連関する考察、論考を発表している。だが、今回は文学の領域で公にされたものの中で、性を主題化したものを扱うという限定を行った。

 本論は以下のように進めることにする。まずテクストの概略を紹介した後、物語の冒頭と末尾を検討することで、テクスト内で当初に立てられた性欲に関わる問題と、末尾における解答の不在ないしは不十分さを確認し、テクストへの向き合い方を決める。そうした上で直前に立てられた問題への見通しを得るためにテクストを読み説いていき、解答を模索する。その中で、鴎外の用いている性欲の語のありようが見えるようにしていきたい。

 

本論

 まずはヰタのストーリー概略を見る。邦訳すると性的生活[6]とでもなるタイトルが示すように、哲学教師金井湛の性生活を記した作品である。だが、単に主人公の性に関する物語を著者が記したものではなく、その性生活は、金井自身が実際に記した「性欲の歴史」であり、金井の年齢ごとに区切られ、年代順に進んでいく物語である。読者は冒頭で、金井が自身の性欲の歴史の執筆を思い立つシーンに立ち会った後、金井の六歳の頃から始まる彼の性に関する記述を読み進めることになる。それは、性に関わるものではあるが、淡々と描かれているという印象は免れないし、色恋沙汰とでも言うべき出来事にも乏しいものではある。そして、21歳の頃の話で中断され、末尾において物語の冒頭の時間に引き戻される。そこにおいて、金井が子どもに見せ、公にする意図が失われたことが示された上で、彼による性欲の歴史の中断に至る。

 以上のような話の筋からして、一度は書くことを決意した金井が、なぜ途中で自身の性欲の歴史を中断し、公にする事を諦めたのかは当然疑問となるだろう。そこで、まず冒頭の記述から執筆の背景にある意図を見いだし、その後に末尾の記述から当初の意図がいかに扱われているかを確認することで、部分的解答を試みる。

 まず物語の冒頭を見ると、そこでは主人公金井の執筆意欲が記される。それは哲学に関するものではなく、文学的な執筆意欲であるが、芸術に対する要求の高さのため、容易には取り付けない[7]。そして、自然派の流行[8]やその他の性欲的描写を中心とした小説の出現や、性欲の発露とでも言える事件の流行[9]、あらゆる芸術は公衆へ向けられた性欲の発揮であるとする哲学書との接触[10]を経た上で、金井の奇妙な執筆意欲が湧き起こる。

 既に広まっている性に関する書物などには、人間のあらゆる出来事には性欲が関わっているといったことは記されているが、そもそもの性欲が人生においていかに芽生え、いかに人の生に作用するかを記したものはないと金井は考える[11]。そうして執筆を決意するのであるが、同時に性欲的教育の問題にも興味が出た金井は、自身の書いたものが教育に適するか、息子に見せられるかも検討しようとする[12]

 以上が執筆の経緯であるが、その他にも意図や問いが文中に散見される。金井は自然派やその他の性欲的描写を伴う作品に違和感を示し、以下のように述べる。「人生は果たしてそんなものであらうかと思ふと同時に、或は自分が人間一般の心理的状態を外れて性欲に冷憺であるのではないか、特にfrigiditasとでも名づくべき異常な性癖を持つて生れたのではあるまいかと思った」[13]。その他にも、出歯亀事件という、この語の語源となる事件の発生と、世間における「出歯亀主義」なるものの流行を見て金井は、「世間の人が皆色情狂になつたのでない限は、自分丈が人間の仲間はづれをしているかと疑はざるを得ないことにになった」[14]と違和感を表明する。そして、自身の性欲的歴史を書けば、「或は自分の性欲的生活がnormalだかanomalousだか分かるかも知れない」[15]と金井は考えるのであった。

 次に末尾を見る。執筆の中断はまず、自身の書いているものに芸術的価値を見いだせないことから来ている。「併し恋愛を離れた性欲には、情熱のありやうがないし、その情熱のないものが、奈何に自叙に適せないかといふことは、金井君も到底自覚せずにはいられなかつたのである」[16]。それではその情熱の欠如がなぜ生じたのか。金井の分析によれば、「悟性が情熱を萌芽のうちに枯らしてしまったのである」[17]。更に、「受けなくてもいいdubを受けた」[18]こともその一因だという。dubとは騎士への任命のことを意味するが、本文中では吉原における童貞の喪失を比喩的に表現している[19]。そうだとすると、冒頭で出された、自分がfrigiditasとでも言うべき性癖を備えているのではないかという問いには肯定的に応えることになるのだろうか。金井は考え直して、「世間の人は性欲の虎を放し飼にして、どうかすると、その背に騎つて、滅亡の谷に墜ちる。自分は性欲の虎を馴らして抑さへている」[20]と述べる。それでは、それが解答なのだろうかと思うと、金井は書いたものを読み返す。読み返した後に同様の見解を保持していたかは果たして示されない。ただ冒頭に出された別の問いである教育の問題へと触れ、「Pruderyに支配されている教育界に、自分も籍を置いているからは」公開は難しいと述べ、更に息子に見せられるかという問いについても、「若しこれを読んだ子が父のやうになつたら、どうであらう。それが幸か不幸か。それも分らない」とし、読ませない事にするのであった[21]

 以上のような執筆中止や公開の断念とその説明については、不十分さを感じずにはいられない。まず、自身の性癖、性欲への向き合い方や、それをどう評価するのかにつき、読み返しを経た金井がどのような判定を下すのかは空白のままである。更には、他人に見せることの断念について、先に紹介したような理由は、執筆を思い立つ当初から考慮されているはずである。冒頭においても、今後は性欲に関する教育を積極的にし、「人の性欲的生活をも詳しく説かねばならぬ」[22]といった当時の風潮が示されており、教育界が単にPruderyのみに支配されているとは言い難い。むしろ金井が自身を例外的に感じるほど、性欲についての言説が積極的に行われる環境ではなかったか[23]。そうであるならば、金井の述べる公開断念の理由が、某かの誤魔化しを含んでいるか、読み返しにより、当初の想定を裏切るほどの何かを金井が見いだしたということではないだろうか。以下では、金井の性欲的生活を記した文章に立ち入り、上で示した問いに対する空白や、不十分な箇所を埋めるべく検討を行う。具体的には、恋愛と性欲、情熱との関係であり、金井は性について冷憺であるのかという問題への解答であり、それを公に出来なかったのは何故かということである。その検討を経由しつつテクストにおける性欲の語、概念の持つ意味の広がりと限界を考察したい。

 

 ここからはヰタ末尾において、金井が自身は冷淡ではないか、性欲が欠けているのではないかという疑いに対し「自分は性欲の虎を馴らして抑さへている」と応答したことについて、金井が15歳の頃に成立した「三角同盟」を題材にし、検討する。三角同盟は、金井と大男の古賀、美男子の児島で形成された交友関係であり、金井は「僕の性欲的生活が繰延になつたのは、全く三角同盟のお陰である」[24]との評価を下している。古賀は男色ではあるが、その矛先は外側に向けられている。そのため、同室の金井は被害に遭わず、他の寄宿舎の男色の先輩から狙われることも免れていた。そして家のことを慮る児島については、「彼の性欲的生活は零である」[25]と評される。そして更に彼らを説明するのに、獣の比喩が用いられるのであるが、そこでは「児島の性欲の獣は眠ってゐる。古賀の獣は縛つてあるが、をりをり縛を解いて暴れるのである。」との表現がなされている。その他にも、遊郭のような場に向かったり、後輩男子生徒と男色行為に及ぶ学生について「平生性欲の獣を放し飼にしてゐる生徒」との評価もなされる。性欲の虎について考えるのに格好の場面といえよう。

 まず古賀について確認する[26]。彼の性欲の獣については「縛る」と「解く」の語で表現されるように、三角同盟の仲間内である時は少しも欲を発揮することはなく、月に一度くらいの荒日には、美少年の部屋に入り込んで翌日に後悔をするというあり方をしている。彼は他の寄宿舎の学生とは異なり、性に奔放であることを白眼に見ている。更には、安達という男が女のために学課を全廃し親を泣かせたことに対し、義憤を感じる精神も持ち合わせている。荒日のある彼においては性欲の獣を完全に寝かしつけることは出来ないものの、強い克己心、ないしは理性でもって平生はそれを縛り付けていると言えるだろう。

 次に児島について見る[27]。「彼は言動も挙動も貴公子らしい」人物で、洋学者の父を亡くしている。弟が放蕩をなして心痛を抱える母を慰めるためにも熱心に勤めている。芸者に好意的に話しかけられても淡々と機械的に応じるような人物であり、20歳を過ぎた時点でも女性との関係を有さなかったとも記されている。彼の場合、性欲の獣は確かに眠っているとの表現が適切かもしれない。

 そのような二人と比べて金井の性欲はどう評価されるのだろうか。まず、児島同様に眠っていると評価できるとして、その眠っているということが単に冷憺であるのではないのかと疑うことはできるだろう。そもそも性欲の獣が眠っている際に、それは「馴らして抑さへた」結果眠っている場合と、初めから眠った状態であり、性的刺激を受けたとしても抑えるような苦労をせずとも何も起きないという場合では懸隔を有する。児島について金井はその家庭環境や本人の真面目さを描き、性欲を抑えているような印象をこちらに与えるが、同時に性的な誘惑に対して児島が古賀のような葛藤を感じる描写は全く存在しない。第三者である金井の視点を介するにせよ、性欲的生活が零であるとまで言われた児島はImpotentだと言えるかも知れない。それでは金井はどうであるか。「僕が若し児島のやうな美男に生まれてゐたら、僕は児島ではないかも知れない」[28]との自白を行う金井は、単にImpotentなのではなく、容貌のせいでその機会がなかったから性欲を抑えることが出来たとの評価は可能だろうか。

 そうではないと思われる。友人の母親に歩み寄られたり[29]、年頃の女中と二人暮しをした際にも[30]、金井は何か思うところはあったが、終ぞ行動を起こすことも、強い欲望に囚われることもなかった[31]。先の自白の意図は、別様に理解されるべきである。容貌については例えば、14歳の時に友人の美少年である埴生が芸者と手をつないで庭を歩いた話を聞いて、美しい想像をする。そしてそのような美しい想像は、恋愛の萌芽であり、性欲とは結びついていないと金井は述べるのだが、その想像は埴生の美しさによっても担保されているのであった[32]。ここにおいて容貌は性欲とは区別された恋愛の構成要素と見做されている。その他にも金井は、「その美しい夢のやうなものは、容貌の立派な男女の享ける福で、自分なぞには企て及ばないといふやうな気がする。それが僕には苦痛であった」[33]と述べている。そして、金井は自身の容貌について、「女が僕の容貌を見て、好だと思ふということは、一寸想像しにくい」[34]と評し、親に対してそのため縁談に気乗りがしないことを伝える。恋愛と婚姻を同様に容貌と絡めているのは興味深いが[35]、ここでは容貌が直接性欲と結びつけられて論じられてはいないことを確認しておきたい。

 以上のようであるならば、美男子ではないことは金井にとり恋愛や結婚を困難とする障害であったが、性欲について果たしてどうかは分からない。美男子でもない古賀も性欲を満足させている有様を金井は見ているところからして、相違は感じられる。だが、先のもし金井が児島のような容貌だったらと空想する箇所では、恋愛ではなく「性欲の満足を求めずにゐる」ことについて、違ったかも知れないと考えるのである[36]。ここにおいてテクスト内における性欲と恋愛の関係を明確にする必要が生じる。

 ヰタ冒頭において「恋愛は、よしや性欲と密接な関繋を有してゐるとしても、性欲と同一ではない」との主張がなされ、関係と区別という両側面が見て取れる。これは性欲の自伝を描く前の概念的な理解である。だが、先の埴生と芸者の関係の場面では金井は恋愛の萌芽である美しい想像が「どうも性欲そのものと密接に関聯してゐなかった」[37]のであり、「僕だつて、恋愛と性欲とが関係してゐることを、悟性の上から解せないことはない。併し恋愛が懐かしく思はれる割合には、性欲の方面は発動しなかつたのである」[38]と述べる。ここにおいては、観念的には恋愛と性欲に繋がりがあることは分かるが、実感としてそれが結びついていないという、金井の転倒したとも言える[39]二元論が表明されている。これは金井の14歳の時の考えだとされるのであるが、その主張を飲み込むならば[40]、悟性の上で分かるという言葉は冒頭の性科学を踏まえたような主張とは異なり、他人の恋愛の情景や恋愛物語を目の当たりにして得た知識として、恋愛と性欲の結びつきを知ったということであろう。この場合に二元論をもたらしているのは、理論と実践という二項対立というよりは、他人、世間と自身の対立であり、その内実は自分以外の人間は恋愛と性欲の結びつきがあるようだが、自分の経験としてその接続は感じられないということである。このように理解するならば、美男子でないことは金井の理解によれば恋愛の障害とはなり得るが、金井の実感として性欲を求める妨げにはならなかったはずである。それなのに斯様な主張をなしたのは、そのような自身の実感に基づき開き直り、性欲のみを追求することを是としなかったためだろうか。ヰタ末尾で述べられる、「世間の人は性欲の虎を放し飼にして」、「滅亡の谷に堕ちる」ことの実例と言える埴生や安達について、金井が彼らの営みを恋愛として理解していることは、他人においては性欲と恋愛は混ざり合っているものだとする認識の証左とも言える。だが、先に言及した古賀の性欲の有様や、11歳の時に見た大人が吉原の話をする光景などは恋愛とは離れた単なる性欲が他人においても存在すると認識していたことを示してはいないか[41]。だとすると、先の二元論で自己の外に立つのは、単なる他人ではなく恋愛と性欲が結びついた美しい光景を生み出す他人であり、そのような外部が悟性を僭称してそのような光景を生み出し得ない自身の性欲を縛り付けるか眠らせるかしていたのだと考えられる。

 

 以上のような検討を経て最後に、末尾の「自分は性欲の虎を馴らして抑さへている」に代表される主張について考察をしてみる。自身の冷憺さを否定し、「自分の悟性が情熱を枯らしたやうなのは、表面だけの事である」[42]と金井は述べるが、直前で検討したように、その悟性は性欲が恋愛と結びつくことを要求し、美男子でない自分が恋愛に不適格だと断じる作用を有していた。そのような悟性は金井が満足のいく性欲の充足や恋愛を求めることを完全に封じてはいないだろうか。「虎の恐るべき威は衰へてはゐないのである」と言うが、発揮されないものを恐れる道理はない。仮に年を経て却って美男子になったり、悟性が衰えてそのような制約が消えてしまえばその限りではないにせよ、現状金井が「人並みはづれの冷憺な男」であることに疑問の余地はない。この事態をもたらした直接の原因である、恋愛と性欲が結びついたあり方を上位に置く金井の悟性は「併し恋愛を離れた性欲には、情熱のありやうがないし、その情熱の無いものが、奈何に自叙に適せないかといふこと」[43]を金井に自覚させ、性欲単体を否定し、更には恋愛と性欲が結びついたものを理想とし、それを実際に得られない苦痛を与える源にもなる[44]。だが、その悟性は恋愛の萌芽である美しい想像に基礎付けられており、その想像は性欲とは殆ど独立に生み出されたものであった。これを纏めると、恋愛と性欲が切り離された金井の心性こそが、美しい想像を生み出し、その美しい想像[45]が恋愛の性欲の結合や、恋愛の美しさを称揚してそこから逸脱せざるを得ない自己を苛むという図式に至るのであるが、この成り行きにも先の観念と実感の二元論同様に転倒を感じざるを得ないだろう。金井の叙述は単に自叙に適さないどころか、自己が孕む転倒、倒錯を開示してしまうものとなってしまっている。このような破綻を提示してしまうことの恐怖が、金井に公開断念を決意させた真の原因ではないだろうか[46]。仮に以上の図式を回避するならば、性欲と恋愛の分離を大っぴらに肯定することが必要であるが、金井の美しい想像はその二つの結合を当然とした。少なくとも金井の思考において、現代の性欲と恋愛の関係において時に理想とされるプラトニック・ラヴの可能性は殆ど見出すことはできず、二つの分離という発想は恋愛に結びつかない性欲という、彼に取りいくらか負のニュアンスを持ったものとしてのみ理解されている。金井は、真にその二つの分離を徹底させることができなかったのであろうか。それとも、彼の思考のうちでは見出されない性欲に結びつかない恋愛へのdubを何かの偶然で受けることが出来れば、何か変化が生じるかもしれない。勿論、その経験は今までの「悟性」や「美しい想像」を捨て去ることも意味するであろう。それともそこにおいて「性欲の虎」が目覚めてくるのだろうか、その場合には自身における二つの分離は治療されるのだろう。どちらにせよ今の自己は放棄されなければならないことは含意されているし、そもそもそのような想定も金井の「美しい想像」の中には含まれていたのかもしれない。それに21歳で洋行している際には女性と関係を持っているが、結局そこでも恋愛感情は抱かなかったようである[47]。先に述べたような変容の可能性も叙述において潰されていることを金井は読み取ってしまったのかもしれない。なんとも救いの無い話では無いだろうか。いかに変容の可能性が本文で潰されているかの分析は心苦しい。金井は性欲の虎を馴らしていると述べているが、そこにおける性欲は明らかに恋愛と結びついた性欲の意味であろう。その虎により滅亡の谷へ堕ちることは寝ている以上無いのだろうが、性欲と名のつかない−むしろ現代の用語ではそれこそが性欲そのものなのかもしれない−よく分からない衝動[48]で不満足な発散をしてしまうことや、自己否定的な美しい想像に苛まれることも緩やかな破滅なのでは無いのだろうか。これ以上はテクストの範疇を超えることになるので、私も「断然筆を絶つ」ことにする[49]

 

[1] 初刊行は1909年、本稿での本文からの引用は、タイトルを示さず1972年刊行の『鴎外全集 第五巻』のページ数のみを記す。以下ではヰタと略記する。

[2] 三島由紀夫,『文章読本』, p. 52

[3] 同上

[4] 斎藤光, “セクシュアリティ研究の現状と課題”, 『セクシュアリティ社会学』, p. 231、それまでは「淫」、「色」といった語が性に関する事物を表現していたが、それは道徳的にマイナスなニュアンスを帯びていたし、子孫を残す衝動などとの連関はあまりに意識されずに表象されていた。「性」の語は本性、性質といった、ものの中核的部分を指す意味で利用されていた。

[5] p. 177。井上優, “性と知、あるいは領土化をめぐる言説の構想”, 思想 1997年5月号, p. 110は、同時代の文壇においても同様の評価が存在したことを紹介している。

[6] 金井自身は性欲的生活と表現している。「Sexualは性的である。性欲的ではない。併し性という字があまり多義だから、不本意ながら欲の字を添えて置く」p. 90

[7] p. 86

[8] 鴎外と自然主義の関係については、小堀桂一郎,”自然主義反自然主義”, 『講座 比較文学』,参照のこと。

[9] p. 87、生方智子, “『ヰタ・セクスアリス』と男色の問題系”, p. 43は本文刊行時期の性に関する言説の流行を紹介している。

[10] p. 88

[11] pp. 88,89

[12] pp. 90,91

[13] p. 86

[14] pp. 87,88

[15] p. 90

[16] p. 177

[17] p. 177、唐木純三『森鴎外』では、「名から物へ」というキー・ワードの下、現実の人生経験を書いたまま、経験に対応する概念が先行して把握される事態が分析される。

[18] pp. 177,178

[19] p. 170

[20] p. 178

[21] p. 178

[22] p. 91

[23] 但し、公平を期するために指摘しておくが、当作品が掲載された雑誌、『スバル』は、発禁処分を受けている。

[24] p. 138

[25] 同上

[26] 以下pp. 130-142

[27] 以下pp. 130-155

[28] p. 142

[29] pp. 129,130

[30] pp. 147-152

[31] 金井においても児島においても、三角同盟での性欲を放し飼いにする他の学生への批判を三角同盟での集いで行う以上、そうした機微をそもそも解さなかったという解釈は困難だろう。

[32] pp. 122-124

[33] p. 121

[34] p. 156

[35] 井上1997, p. 123は、金井が「「恋愛」-「性欲」-「結婚」の一致という、いわゆるロマンティック・ラヴ・イデオロギーに包摂されている」との評価を下している。もちろんそのような着想の影響を見るのは容易だが、同時に金井がそれらの一致を見ずに区別を明白に主張していること、遊郭、吉原といった性のみを享受される場の記述を多量になしていることも評価されるべきであろう。

[36] p. 142

[37] p. 123

[38] p. 124

[39] 概念の上では物事は区別されていても、渾然とした経験においては区別されないというのが通常ではないかという意味で転倒の語を用いる。

[40] つまり、執筆当時の金井の見解を勝手に持ち込んでいるのでないのならば。

[41] pp. 102-109

[42] p. 178

[43] p. 177

[44] 「この美しいものが手の届かないりそうになつてゐるといふことを感じて、頭の奥には苦痛の絶える隙がない」p. 142

[45] 上の注釈の箇所における美しい想像は、安達の性欲と恋愛を対象としたものとなっている。

[46] 以上のような破綻が、冒頭で提示された性欲が人生においていかに芽生え、いかに人の生に作用するか、性欲に関する教育に適するかという問いに対する解答を殆ど不可能にしたということも大きな理由となるだろう。

[47] pp. 175-177

[48] 「負けじ魂」、「Neugierde」などと本文では表現されるが、例えば三角同盟以外の寄宿舎の若者達も同様の感情を主軸にして性的に奔放な生活をしていたのではないか。再読して自分については内心を記述し、他人の性欲については観察で断ずることの非対称性、不公平さに気づかないほど金井は愚鈍では無いだろう。その点に気付いたとすると当初の図式も破綻しかねない。

[49] p. 177