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研究にあまり関係しない雑記

イツァーク・ギルボア『不確実性下の意思決定理論』1~4章のメモ

 頭の整理にメモをとってみた。

 数式は飛ばすか、自然言語での表現に置換するかしている。今回の範囲で出てきたものは理解できた。

 1~5章が第一部なのでキリが悪い。各論に入る前の基礎づけの議論に該当する。

 

 

 

1 研究の動機付けとなる例
 以下の四つは同様に格率を扱っているが、後の事例ほど概念的な難しさが増している。
1 コインの裏が出る格率
2 放置した車が盗まれる格率
3 手術が成功する確率
4 今年戦争が起きる格率

 


2 自由意志と決定論
2.1
 不可予測性の原因としての自由意志を指摘しているが、同時に自由意志が関与する問題においても非常に蓋然的な事例も想定可能であり、現状の研究は意思が介入する事例も予測の対象としている。
2.2
 初期条件によって予測が可能であるという説明もあるが、結局日常に収集可能な情報量を前提とした実践的意味で完全な予測は出来ないという前提に立つ。
2.3
 自由意志そのものは、複雑な内面は外的観察の対象たり得ない。しかし、可能な選択肢の中からの決定という事例は擬似的に観察可能であり、分析の対象としうる。
2.4
 自由意志と強い意味での決定論の対立はさておき、弱い意味での決定可能性は想定可能である。合理的行為者の推察や反省に基づいた選択を観察者が十分な理由を以て行うことは可能である。決定木における枝の切除が確実に行われる事例も想定は可能である。確実に切除される枝を採ったことについて想定可能であるのに、確実にそれは排除されているという一見矛盾した場合もある。その想定の能力も、確実な枝の排除をもたらす自己の選好規則や能力についての知見も合理性の根幹をなす。多数の可能世界を想像し、同時にそのいくつかの不可能性を認識することも同様である。
2.5
 確かに、一瞬で判断がつく選択と、熟考を要する選択があるため、それぞれ習慣的判断と合理的判断に二分したくなるかもしれないが、前者においてもその機械的判断を継続するかについて判断する余地はあるのであるうえ、数多くの中間事例があるため、その二分法は有効ではない。

2.6 
 不確実性下の意思決定のモデルは選択と世界の状態のマトリクスを基本とする。要素は行為の結果である。選択はアクターが制御可能な側で世界の状態は左右できない。その区分がないのは希望的観測であり合理的ではない。行為と状態の区別を冷静に行うことは合理的選択の分析のための核である。

3  無差別の原理
 n個の事象につき、特定の事象の確率的優位性がない場合はそれぞれ発生確率を1/nとするという原理は、事象の区分が恣意的に可能であるという事態によって恣意的な確率配分を導いてしまう。

3.1.1
 全ての可能命題に真偽値を振り分けることで世界の状態を規定してみる。これを正準的な空間として理解する。当該空間を変換して[0,1]区間に対して割り当てると、一様に分布した状態となるものとして把握できるかもしれない。
3.1.2
 しかし、当該確率変数が[0,1]区間において一様分布であるということは自明ではない。当該変数を変換して作った一対一対応する殆どの変数も同様に一様分布であることができるが、それと当該確率変数が一様分布であることはたいてい両立しないのに、一つだけ一様分布と考えることはあまりに恣意的である。
 更に、当該空間の自然な分布の設定の仕方が多様に存在するうえ、当該分布の事後的検証も行い得ないという問題も存在する。
3.1.3
 無差別の原理は結局有限の、自然言語に依存したような事象でも、連続体として状態空間を想定する場合でも適切ではないのであり、一様分布の想定はかなりの恣意性を含む。

3.2
無差別の原理は確かに、戦争が起きる、起きないの事例に当てはめるのはナンセンスだが、コインの場合はそうでもないように思える。この直感はどこから来ているのか。

3.2.1
 まずはコインの裏表が対照的な事象だという説明があるかもしれないが、戦争の事例も結局、その事象を抽象化すれば起きると非起きるの対照的なものだとも言い得るだろう。実際、戦争の事例において追加的な構造、情報を付与し関数を与えることで無差別性を破ることが出来るとして、同様にコインの作動と裏表の関係について関数を導入して無差別性を破ることが許されないことは自明ではない。
3.2.2
 もちろん、コイン投げの場合は投げ方からコインの出目の結果が特定されるような事例は防いだとして排除し、スムースな分布関数をもたらすような動作をしている場合かつ、結果を表す空間が適切に区分されている場合のみをコイン投げと規定すれば問題回避は可能かもしれない。

4 相対頻度
4.1
 大数の法則を確認、i.i.d.確率変数の実際値の平均は期待値に収束する。それを前提として、同一条件における事象発生確率を実際の発生頻度と近似可能である。ただしこの手法には循環がある。確率の近似として用いようとする大数の法則の基礎付けそれ自体に確率の概念が導入されている。1.事象の発生確率の変数が仮定され、2.変数の独立性における独立という語が確率論によって定義されており、3.期待値に収束する確率が高いといった表現に代表されるような、確率論の用語で大数の法則は記述されている。
 しかしながらそれは直観的には非常に至当に思えるのであり、実際の確率の定義の導出のために利用可能である。これは確率の定義に対する「頻度主義的」アプローチと呼ばれる。実験結果と実際の確率の置き換えと、試行回数の増加による漸近を措定している。

4.2
4.2.1
過去の経験頻度が現在の確率を保障するのか?ヒュームによる懐疑がある。人間知性論においては「あらゆる事柄の逆がそれでも可能なのである。なぜなら、逆の事柄は、あたかも現実と合致しているかのように、決して矛盾を生じ得ないからである。明日は朝日が昇らないだろうと云うことは、決して妥当性のない命題ではなく、明日は朝日が昇るだろうというその確証命題が導かれないのと同様に、この命題の矛盾も導かれない。それゆえ、この命題が偽であることを証明しようとする試みは徒労に終わるのである。」(Hume, Human Understanding section IV)と述べられている。ただし日常において、科学においてその一般化は不可欠であり常に行われているという事実にはなんらなの慰めがあるらしい(そうか?)

4.2.2
 ここはいわゆるグルーのパラドクスの話をしている。前のセクションに付加する形で、帰納推論の手続きレベルの自明性への懐疑が提示される。

4.2.3
 他の条件が同じ場合、単純な理論を先行することが正当であるという立場から、帰納推論は正当化しうる。その単純性なるものはしかし当座のところ用いる言語体系に依存している。前のグルーのパラドクスも然り。ゴルモロフの複雑性のはなし。特定の有限列を生成可能な全てのチューリング・マシンの中で状態数が最小か、マシンの記述が最小のマシンを選ぶ手続きを想定し、そのマシンの記述が当該列と比較して充分小さいならばランダムではない。そうでなければランダムであると定義し得る。当該表現を圧縮して体現できる法則的記述が存在するか否かを問題としていると言い換えられるかな。
 ソロモノフはゴルモロフの複雑性論を転用している。例えば芸術の理解を、簡潔なアルゴリズムで対象の近似物を生成できると定義するように。ゴルモロフの複雑性の定義は、単純性の判断を言語の記述の次元に落とし込んでいるという特性が存在する。特定の言語環境においてそれに応じた最も単純な理論的表現を想定することが可能である。

4.2.4
帰納をめぐる問題を3点確認してそれらについてコメントする。1.それまでの時点での観察から導かれていた関数がそれ以降の事例においても適切であるのかはいかにして知り得るか。2.それまでの時点での観察から導かれていた複数の関数があるとして、それ以降の変数において両関数が等価でなくなった場合、それらを予測に用いるべきかについて以下に判断すべきか。3.グルーのパラドクスで出てくるような、2つの理論(グリーンと規定する、グルーと規定する)のうちどちらが単純だと認定することになるのか。
 1一般化については、導出する関数の将来における一致についての必然的連関を否定することでひとまず応答する。2単純性については、先のような法則記述の短さを問題にして選別することは可能であり、そうでないならばデータは依然としてランダムであるということである。3グルーのパラドクスについては、関数における真偽値と、当該真偽を表現する名辞を区分して分析することで多くの問題が回避可能である。
 値に対して名前を付与することは、過去の観察を想起しカテゴリー化するための営為である。
4.2.5
 人間の心を、目的追求のために最適化された道具として想定することが可能である。すくなくとも現状いかにしてうまく機能しているかについては考察する価値がある。色などの対象につき、名付ける、一般化をするという作用は基本的には時間的継起性を伴ってなされたほうが単純であると考えられるのであり、グルーやブリーンの記述よりは通常通りの記述の方が、グッドマンが提示するパラドクスの事例においても単純だと考えられる。
 単純性への選好は限定合理性を背景にして説明可能である。単純性への選好は原始的生活において、事例が実際に単純であった場合には利益をもたらすし、複雑であった場合も大きな害をもたらさなかったと想定される(Gilboa and Samuelson(2008)を読むと説得的になるのかな)。以上の見解には自然が意図的に複雑なパターンを生成しないという前提が含まれている。ただし競合的な理性的生物が増加し交流の機会が増大すれば前提は変化する。
 もう一つの説明は、過剰適用に対する保障だとされる。計算能力が十分な理性的存在は既出の事例から過剰に複雑な関数を想定することが可能であるが、予測において失敗する可能性が高くなる。

4.3
 頻度主義で確率を想定することには確かに十分な理由がある。しかし、最初に提示した事例の後半、3 手術が成功する確率4 今年戦争が起きる格率を想定する場合にはそのアプローチは適切ではないと主張する。3の場合に先行する事例を選別する基準も、執刀する人物によって変化する変数を考慮する手法も見えてこない。(医療技術の変化を想定すればいつまでのデータが妥当かという問題もあるだろう。)4においても、あらゆる年度も同一の構造を持っていることはあり得ず、これまでの平均をとってそれを確率と述べることは適切とは言いがたい。これは事象に伴う複雑性の問題だといえる。もちろんあらゆる事象において同一なるものは存在しないという反論も可能であるが、その場合は同一化可能な類似性を保持しているか、同一化してもよいほど事態が個性に依存していないかという視点を導入することになり、それに基づけば1,2の事例は同一化可能であり、3,4は不可能であると言える。4が3より複雑と言えるのは、戦争は後続する戦争の可能性を無視できない大きさで左右するという事例ごとの独立性の低さが存在しているためである。
 まとめると、大数の法則は確立変数の独立性、同一分布性を要求する。頻度主義は同一条件性を想定できる独立な場合のみ有効である。独立性のみ存在する場合は頻度主義により確率を定義し得ること、独立性も同一性も存在しない時には確率を割り当てることが不可能であることを後で論じる。