Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

Kinch Hoekstra, "Hobbes`s Thucydides"(2016)とかのまとめ

 

 

 

表題の論考の紹介になります。これは某カタバシスなんかで紹介されているので蛇足感もありますが、自分なりに読んで理解することも大切なのでいいとします。そのうちトゥキディデスのハンドブックにのってるほうの論考も紹介します。当該論考は思想史研究ですが、理論的には間接的に、以下で紹介したタックの研究への反論にもなっています。

 本当はホッブズのテクストの分析をちょっとやってみたメモもあったのですが、迷子になっています。再度読解して検討することにします。

kannektion.hatenablog.com

 

 

 

 注釈のEはホッブズの英語著作集のことです。

 

 

 

 ホッブズにとってトゥキディデスの翻訳は何を意味していたのか。シュトラウスによれば、彼は民主政批判と君主性の擁護をトゥキディデスから読みとったとされ[1]ホッブズの政治理論はトゥキディデス翻訳の序論から後期の著作に至るまでその目標に置いて一貫していたとし、ただ方法が歴史的なものから幾何学的なものへと移行したのみだと述べる[2]。そのことを何某かの問題意識の連続とみなしてよいならば、先の問いへの解答をホッブズの初期の業績に求めることは有効だと言えよう。少なくともトゥキディデスの「戦史」においては自然法論が正面から扱われることはないが、具体的な状況下における戦争と平和、安全をめぐる人々の言論と正当性の判断、そしてそれによる帰結が克明に記されていることからして格好の分析対象だと言える。ただし、ここでは直ちにテクストに立ち入ることなく、その出版を巡る状況を確認する。そうすることで、先に指摘した問題への一層具体的な見通しが立つと考えるためである。

 ホッブズの最初の刊行物であるトゥキディデスの訳出は出版年が1629年だと表紙に刻まれている。その表紙は、スキナーの述べるように、それまで存在していたニコルスが仏訳を底本にして行った1550年の訳の表紙に比べて、トゥキディデスの叙述の内容を描き出すものであり、戦争における対立の軸が明確にされている[3]。著作には翻訳の本文に加えて、彼自身の手になる"To the readers"、"To the right honourable Sir William Cavendish"、"On the life and history of Thucydides"の三文書が含まれているが、"To the readers"には、彼が翻訳を終えて後、刊行までに長い期間を経たことが記されている[4]。1628年に、パトロンで彼が家庭教師をしていた第二代デヴォンシャー伯が亡くなった事に関係する多忙も一因かもしれないが[5]、彼自身の出版する意図が失われたという記述も踏まえると、それ以外の事情も考慮されるべきである。

 ホッブズ自身が続いて述べるように、刊行前に見せた読者の反応に問題があったことが原因であるということは多くの先行研究が認識している。ただし、その反応がいったいどういうものかには近年まで明確な回答は出されていない。単に酷評を受けた程度の推測で見過ごされていた[6]。それに加えて、ホッブズがどの期間に翻訳に着手していたのかも不明なままであった[7]

 だが、最近になって、書誌学の成果を踏まえて以上のような空隙を埋めようとする研究が現れた。以下ではHokstra2016[8]に描かれた、トゥキディデス翻訳を巡る状況を確認する。

 1628年3月時点で、トゥキディデスの翻訳の原稿は提出されている。そこから長い期間刊行しなかったことを考えると、最低でも一年前には完成していたと見積もってよいだろう。更にギリシア語からの全訳という大業のことを考えると、訳出開始が5年以上前だと考えることは可能である。その時期の政治、出版状況を検討する。

 1625年までの国王ジェームズ一世の治世は、三十年戦争下の大陸に対し融和主義をとる国王と、好戦派のチャールズ皇太子の派閥のせめぎ合いであった[9]。そんな中で、ホッブズパトロンのキャヴェンディッシュ(二代目デヴォンシャー伯)は好戦的な派閥に属し[10]、彼らは穏健派のジェームズが出した、政治的言論に関する禁令をすり抜けるために、古典テクストの翻訳を行い、彼らの議論をもって対外戦争を肯定するための政治パンフレットとした。以上のような風潮の中には、ラテン語訳のトゥキディデスを利用し、恐れに基づいた先制攻撃は防衛的なものであるから許されるとしたホッブズの上司であったベーコンも含まれていた[11]

 そうした趨勢を経て1624年以降ジェームズは好戦派に譲歩し、1625年よりチャールズが即位することによりその傾向は一層強まった。そうして防衛戦争と称した大陸への軍事的進出が行われるが、1625年のカディスでの対スペイン戦争、1627年のフランス侵攻共に潰走し、1627年の末には戦争の責任者たるバッキンガム公は罵倒の対象となる。最終的に以上の好戦的雰囲気はイギリスの国際的地位の低下、内乱へ至る国内的不安の萌芽を招いた[12]

 以上のような状況を踏まえた際に、好戦的雰囲気が停滞し、周囲の好戦主義者が失権するか、ベーコンやキャヴェンディッシュのように逝去するかした1628年にホッブズトゥキディデスの翻訳を出版社に提出をしたことは象徴的な意味を持っているだろう。先述したように、彼の読者へ向けた前書きによれば、翻訳原稿を手にした読者の反応が出版を思いとどまった理由の一つであった。ホッブズによれば、読み手の殆どが「剣闘士の剣技ではなく流血を好んで観戦にやってくるローマ人[13]」のような感情でもって歴史に接していたのである。軍隊の規模や、流血の戦闘、多大な殺人を愛する人間の方が、戦争や都市の帰趨が如何にして決まっていったかを気にかける人間よりも数において遥かに多い[14]ホッブズは嘆く。このような主張と出版を取り巻く状況から、ホッブズの翻訳原稿は周囲の好戦派から、その他の好戦的意図を持った古代テクストの翻訳と同様に受け止められ、ホッブズがそれを不本意としたと解釈することは十分可能である[15]。更にホッブズが序文において、トゥキディデスを評価する際に、叙述の中に道徳的、政治的な教訓を織り込まなかったことを挙げていること[16]は古典テクストの一節を引用して教訓を求めようとする好戦的な派閥と一線を画している引証と解しえ、トゥキディデス論において、トゥキディデスが優れた弁論の能力を持ちながら権力を求めなかったことにつき、その時代において国家への真に有益な助言をなす者は、人々からの不興を被ることを避けられなかったからだと述べていること[17]は、先に主張されたような出版が困難である状況を暗示させるものであるだろう。

 

[1] レオ・シュトラウス, 『ホッブズ政治学』, 1990(原著1965),p. 81

[2] ibid, p. 142

[3] Q. Skinner,From Humanism to Hobbes ,2018 p.247、イングランドでのトゥキディデスのそれまでの翻訳状況については、Richard Schlatter, “Thomas Hobbes and Thucydides” , Journal of the History of Ideas, Vol. 6, No. 3, 1945, pp. 350-353参照のこと。

[4] EⅧix

[5] N.Malcolm, Reason of State, Propaganda, and the Thirty Years` War,2007 p.11,12、伯は1628/6/20に逝去している。ただし、彼の死亡が妨げになったのか、それとも死を契機に出版の方向に向かったのかは判断留保される。

[6] 田中英夫,  “ホッブズ社会哲学形成史における「歴史」の意味”, 経済論叢, 1976, p. 440

[7] Malcolm2007, p. 11

[8] Kinch Hoekstra, "Hobbes`s Thucydides", Oxford handbook of Hobbes, 2016, p. 547- 574

[9] ibid, p. 553,554

[10] Malcolm2007, p.83,84

[11] Hoekstra2016,p.553-555, Malcolm2007, p. 74-92も同様の状況を伝える。Demosthenes,Xenophon,Isokratesなどが翻訳される。ちなみにベーコンの歿年は1626年である。

[12] Ibid p. 555-557、当時のホッブズ周辺の好戦的な派閥の状況については、Malcolm2007, p.92- 123を参照のこと。

[13] EⅧix

[14] ibid

[15] ベーコンとホッブズトゥキディデスに対する姿勢の相違、ホッブズトゥキディデス解釈がそれまで解釈とは一線を画していることは、K. Hoekstra, Thucydides and the bellicose beginnings of early modern political theory, Thucydides and the Modern World, 2012, pp.25-54において論証される。

[16] EⅧviii

[17] EⅧxvi