Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

古代ローマにおける宗教 2

前回の続きです

 


Schiavoneの6、 Rituals and Prescription の紹介です

 

 後期共和制においては、古い神官の持っている知恵とはまず第一に慣習mosの擁護者としての役割を担う者とされていた。それは先祖代々続く宗教的社会的慣習を体現していた。

 注1 初期のローマの歴史家、ファビウス・ピクトルやキンキウス・アリメントゥスは紀元前三世紀くらいに仕事をし、ギリシア語で書いた。次の世紀にやっと、ポルキウス・カトの手になるOriginesにおいてラテン語での歴史記述がなされた。そのことが後期共和制の分化をはぐくむきっかけとなった。その時代には年代記的伝統とius pontificiumの間に確固とした関係が存在していた。それはカッシウス・ヘミナや年代記ファビウス・ピクトル(先の人と混同されてはならない)おいて具体的な結実をみることができる。厳格な歴史的思考を伴って、共和制の貴族主義的イメージが作り上げられていったのである。キケロの著作や、同様に共和主義的伝統の構築者である人物の著作において、その経緯が顕著に反映されている(この点をもって、構築を偽造と表現するアルフェンディのような研究者もいるが、その見解に対し、モミリアーノが適切に反駁を行っている)。

 フェストスが提供する、このmosという語についての含意は古代の心性を理解する手がかりを与えてくれる。
"Ritus est mos comprobatus in administrandis sacrificiis"「Ritusというものは、犠牲(式)の執行においてcomprobatusな(承認された)mosのことなのである」
 儀礼と犠牲の、そして儀礼と慣習の結びつきが個々には現れている。mosとは承認された儀式のありかたの変容において姿を現すものであり、それは聖職者の領域で会った最初期ローマの思考において見られるものであり、sacerなものを構築していく際に体現されたものでもある。
 
 神官たちは暦の保持者でもある。月の満ち欠けであったり、dies fastiであったりをそれは含んでいた。彼らは社会的時間に対して決定的影響を持っていた。更には彼らは都市の記録すなわち、疫病、戦い、王の名前といった出来事の一覧を保持していた。
 彼らの宣言は変更不能であるという意味で客観性を帯びており、それへの遵守が権力をもたらした。
 iusとは、mosの最も規定力の強い形態だと言うことが出来る。どのようにして社会的慣行と宗教的想像力が混じり合っていたのかについて説明することはできない。そこからできあがったものは、長い時間をかけてできた沈殿物に由来しているのであり、それにアクセスする手段はない。間違いなく、反復によって刻まれた時間性が決定的役割を果たしている。mosは経験をかたどる象徴的が変化していく過程として特徴付けられている。それは具体的に儀礼や規則、iusといった形態をとることになる。そしてそれは、現在を規律づける作用を備えているのであり、直面するであろう不確実性や不安を、自身の連続性についての自己確証の手段を与えることで減少させる。それは現在に古い基盤を持っているかのような様態を与え、今後も反復していくであろうという雰囲気を与える。
 神官による規範の言明は特定の形態をとっており、それはその後のローマの法文化の発展に影響を与えている。それは託宣の形式で行われた返答に他ならなかった。すなわちそれは、隠れた真実の開示であり、疑問の余地も恣意の介入も存在しないものとして、特定の状態においていかにしてiusに叶った行為ができるかと問いかける家父の疑問に答えるものであった。それは言語と身振りを伴った儀礼的行為が、家のグループ間にとり重要な事業に際していかに行われるべきかを伝えるものであった。例えば、ある人や物に対する力を備えていることを宣言する行為(manus:最初のdominionの存在を言語的に表象する行為は手を握っている形象を介して行われた)、propertyの移転(mancipium)、遺言の作成、婚姻、自由な人間が法的に債務を払うまで債権者の支配の下に置かれること(nexum)などがそれだ。神官の返答は共和制の法的言語においてresponsumと名付けられるものの原型となった。それは重要度の高い、権威主義的なコミュニケーションであり、それを媒介として、隠された知恵は特定の形式を得て、秩序を与え規律づける力を行使した。そしてそれは、ローマの社会活動において最も重要な範型の一つとなった。
 以上のような社会的秩序化の様式に類似した者を、確かにギリシアにおいても見ることが出来る。それはthemis,themisthesといった概念に結びつけられており、王の役割を担った司祭が、応答の形式で託宣を公にするという形態をとっていた。しかしながら、その原初的形態が端的に別の規制様態に取って代わられることがなく、洗練と発展を経て残存しているのはローマ固有のことである。


 確かにresponsaは一般的な規範という者を直接形成はしていない。その時々の事例に対する応答でしかなかった。しかし、その応答が忘れ去られることはなく、その記録は神官団によって形象されていった。家父に対する応答はそれまでの先例との比較を経ることになったのである。

 私たちはことばと権力の結びつきに目を向ける必要がある。それは非常に密接なものであり、iusの実践はそれによって拡張された。
 注7 キケロのもたらす記憶においては、神官は"veteres illi, qui huic scientiae praefuerunt, iptinendae atque augendae potentiae suae causa pervolgari artem suam noluerunt"という言葉で表現されている。


 renponsaの営みの中で、具体的問題の検討と、声を介して賢慮のある意見は生み出された。最初のiusにかかわる知的体系は、事例に応じて、共同体における家父の行為を導くことを意図したものであった。
 質問への応答過程において、手がかりに基づいた、記号論的知見が反映されるようになった。それは一種の過去に対する予言とでも言うべきものであり、魔術的な儀礼性が、セルヴィウスの改革によって政治制度に導入された、経験的、測量的な合理性と結びついたことにより生じた。提出された質問、疑問を検討するに際して、神官はその事例の詳細に目を向け、そこから熟達した者のみが見いだしうる兆候を見いだした。それは、あらゆる事例をmosの枠組みに位置づけ、最もiusを体現した儀礼的行為を特定するために必要な営為であった。診断学的な探求方式が発達し、兆候の組み合わせが生み出す意味の追求に重点が置かれた。これは同時代のギリシアにおける臨床医学的な著作にも見られる知的傾向である。古典的なiusの観念とギリシアの医学的知識の間には単なる類似性以上の関係がある。それらにおいては詳細、手がかり、出来事に向けられた具体化した合理性の発露を見ることが出来のであり、それが共通の枠組みをもたらしている。

 神官による応答の効力は、直接の処罰などではなく、秩序の観念や名誉のような者で維持されていたが、その実質は記録された個々の出来事と、その規範的意味の定式化の追求の関係によって確保されていた。それはscientiaとprudentiaの統合、arsとususの統合を含意していた営みであった。
 
 そのような特性を帯びていた神官によるiusの知識は次第に新しい特徴を得ていく。その規範は身振りや言語を伴う行為のモデルを提供したのであり、それはパトリキプレブスの差異を気にせず適用されることもあった。その準拠点は個々の家父の社会的振る舞いに集中していた。実際与えられた規範的知識は市民である限り利用することが出来たのである。
 そうであるからこそ、このような知識は政治闘争の目的物ともなった。セルヴィウス期の改革はその反映とも言える。

 セルヴィウス改革において、パトリキ支配の構造が変容することとなった。確かに富の多少が重要性を持つ貴族性的な発想に主導されたものであったが、それは旧氏族の区分けを解体する効果も伴っていた。プレブスの社会構造において形成されていた層は、制度的具体化をみることになった。ここでもたらされた、パトリキプレブスの混合した貴族制的体制は、共和制の安定をもたらす契機とも成った。
 そして、ローマ共和制に強い影響を及ぼす、政治、宗教、そしてiusの知識の相互作用の様式が形成されていった。政治の領域の拡大と、宗教と氏族的な王政による結びつきの比重の低下が連動していった。紀元前5世紀には、魔術的宗教的世界収縮がみられ、iusがその他の社会的規制作用の比肩し得ない影響をもつものとして台頭してきた。紀元前3世紀ごろには、規範的作用の体系としてiusは、その他の領域と区別され、自律した存在へと変容していった。
 ただしその変容過程は明瞭なものではない。古典的な宗教的想像力がその創造力を費消された際もiusの世界との接触は続いており、伝統的宗教の法学化の形をとってそれは表現された。そしてそれは最終的に、純粋なius pontificiumの形成を導くこととなったのである。
 都市の変化が最も重大な帰結をもたらしたのはiusの生成に携わった、神官の知恵に関する領域である。階層対立によってもたらされたのは、単にパトリキが神官団を独占しているということへの非難のみならず、都市全体の規律に関わる規範が、隠された、独占的な知恵によってもたらされた託宣の形式をとっていることに対する疑問であった。ギリシアにおいては、書き言葉の進展に由来し、民主的な性質を備えた、政治的命令としての「立法」の導入という対応がなされた。だがローマでは、闘争を介して、別の予想もつかない帰結がもたらされた。