Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

初期ローマにおける宗教

 スキアボーネの The Invention of Law in the West (Ius. L'invenzione del diritto in Occidenteの英訳)の第5章の紹介です(ちなみにスペイン語訳のほうが先に出ている)。全体の半分くらいは読みましたが、その中でも特に未知の事項がおおく、理解しづらかった箇所でもあります。注釈も追いかけましたが、全体的に内実はよくわかっていないが、ここまでならば言えるといった前置きをした話が多く、どうソースを読めばこういう説明ができるのかよく理解していないというのが正直なところです。以前SPQRの邦訳をパラ読みしたが、紀元前6世紀くらいのことについてはやはり憶測、推測に近いものを述べるか、単に物的証拠について語るかにとどまっていました。ローマのその時代の実情を研究している/できるひとの根性には頭がさがります。さらに少し理解するため参照されているモミリアーノなどの諸研究を読む必要があるのでしょう(それよりも参照されていた一次史料を読み込むのが大切か)。宗教と法の分化といったテーマが継続される第6章も紹介したいところです。

 

 

 


Schiavone

5 King, Priests, Wise Men
p. 64~

 本章は聖職者の階層制度ordo sacerdotumが問題となる。この制度は都市ローマの成立初期から存在している。この論点については比較的資料が調っているため、その実像を明確に記すことも可能である。

 

 初期ローマにおいて、王と神官が補完的な役割を果たしていたようである。その制度は、王に体現される軍事集団の権力と、ユピテルマルス、クィリヌスといった神々、そして儀礼に関する規範的な知の体系を一つの秩序に纏め込んだものであった。それは、宗教的経験が社会全体に行き渡ることを可能にしている。権力関係は、儀礼に基づいた命令権と軍事的指導者の実体的な力が交わる形で存在していた(モミリアーノの研究が示すように、軍事指導者は下部の軍事集団間の闘争を経て出現してきた)。この両要素の均衡は脆いものだとしても、王とユピテル神官の協働という形で表現され、一応は維持されてきた。このような均衡が、王の権力、カリスマと合わさる形で、初期の都市におけるgentesとcuriaeの統合を可能としている。

 

 初期における王と神官の役職の区別は、王位にある者に要求される資質によって行われた。それは軍事的才や年齢、身体の精強さなどが挙げられる。そういうのがないという点で神官は王ではない存在とされる。逆に、儀礼の才(?)、信仰心といった宗教的な性質が神官職にに要求されることによって、両者の役割に厳密な線引きが行われるということはなかった。ロムルスから始まる初期の王の性質は、魔術的、宗教的な彼らの役割を考慮することなしには理解し難い。王としての権威と神聖さの関係については、ローマの場合、rex sacrorumの残存も相まって、かなりの史料が残されている。

 

 神官の活動は、祭儀の実行から魔術的な儀式へと移っていったが、それらの間に断絶は存在しない。fratres Arvales, Fordicidiaや、軍事行動を神聖化する演舞などに代表される、大規模に行われた儀礼は、軍事指導者の偉業を称えると同時に、家長の権威の増大の役割も担っていた。ローマにおける「公的」な空間のイメージは、儀礼的、宗教的空間の経験を背景に形成されている。

 

 王政が敷かれていた際より活発であった、神官集団の作用についてはあまり史料が存在していない。しかしながら、それらの役割が専門化していく過程についての手がかりならば有している。実際、聖職者(flamines)に帰せられる犠牲、儀礼的役割と、神官(pontifices)に由来する、知恵を示す役割の間に区別が存在したことの証拠は、十分存在している。後者の役割が提供する知恵は、社会的な効用を強く有していた。彼らの規範的な神託は受け継がれることで、神と人間の健全な関係の存在を確信させ、政治的な領域で宗教的図式を再形成することで、家父の地位に資するものでもあった。ギリシアエトルリアから部分的に受け継がれた最も古い神話は、ローマの文脈において再解釈されている。それは幾人かの学者が主張する「神話の解体」であり、そのことは、魔術的宗教的想像力に依拠することで形成された、神聖さに依拠するモデル、精神構造からの脱却をもたらした。この側面を分析する必要がある。

 神々を人的な形象に落とし込むことは、紀元前八世紀の中頃には達成された。その過程は全体として錯綜した訳ではない。むしろ、その営みには一貫した神学的構造のようなものが現れているのである。最高位にユピテルマルス、クィリヌスの三神があり、これは後の時代にはユピテル、ユーノー、ミネルヴァに置き換えられた。

 Dumezilの研究によるその過程の再現は、最初の最高神の三組を、共同体によって他とは区別されるものとみなされた「社会的機能」を体現するものとして理解した。この図式はその時代の分析によって支えられておらず、否定されるべきものである。そのテーゼは、ユピテルが魔術的、法的側面から見た主権性を体現し、マルスは戦争、戦士を、クィリヌスは農耕、農民を体現していると理解していた。その図式の否定は、モミリアーノがフランス系の学者に批判的な見地から行った批判的分析の価値を減ずるものではない。聖職者、戦士、農民と言ったそれぞれの身分がその三つの機能に直接対応しているのではないことは、Dumezil自体も認めている。そのような三つに分断された階層から成る社会構造を想定することは認められない。しかしながら、以上の指摘を踏まえても、ローマにおいて、規範的な精神構造が何某か存在していたことそれ自体は否定されない。そしてそれの構造が対応していた実際の儀礼的な行動様式(? ritualistic syndrome)を探索することは確かに可能である。同様に、最初期のユピテル像から、最高神の人的形象による具体化と、宗教やiusの確定によって確保された統一的な都市の構造の間の緊張を見ることも可能である。


 しかしながら、フェストゥス(Sextus Pompeius Festus)によれば、それ以外にも見るべきものがある。彼のテクストには、最高司祭(pontifex maxmimu)が二つの役割を備えていたことが示唆されている。それぞれ、神々に向けられたものと、人々に向けられたものという区分が可能なものとなっている。その区分こそが、ローマの心性の根底にある、一体の規範的言語、-それはプラウトゥスにおいて見られるように、神聖なものと法的なものが一体したfas-iusの結びつきによって表現されていた。-の多様化を理解するためのヒントとなるのである。その区分を実際の状況において描き出すことは困難かもしれないが、後の時代において定式化が行われている("iudex atque arbiter habetur rerum divinarum humanarumque")。フェストゥスが同時代のこのような図式を、さらなる過去に投影したということは間違いないことである。というのも、彼はその定式の含意を持ち出して、彼が論じている神官の古くから持つ重要性を立証しようとしているからである。

 ポリュビオスが見いだしたように、神官集団はローマの記録において、彼らが古代社会の維持に必要な役割をになっていたことに応じて、共同体において知恵を有していた者、知識を蓄え、それを解釈するとして描かれている。このような事態にたいし、何某かの革命的出来事を想定する必要はない。社会的分化が生じ、一部のエリート集団が形成されるプロセスは、文化の次元においてその影響を及ぼしている。紀元前九世紀ごろに起きたそれは、出生に基づいた貴族制をもたらし(vos patricos solos gentem habere)、その集団によって集団生活に不可欠な機能を独占した。魔術的、宗教的統制を行う機能や、軍事指導を行う機能がそれである。結局規範的性質を持つ言語の複合は、共同体の心的経験の結果と言うよりは、潜在的な集合心性に具体的な形態を付与して完成させた、一部の集団によるイニシアチブにより生み出されたものである。

 儀礼によって体現される、神々との、彼らの憤激を招かないような丁重結びつき、契約は、家父同士の結びつき、reciprocityを規律するための形式として利用されたのであり、それは音声言語や身振りをも定型化したものであった。超自然的なものとの調和と、家父の共存はどちらも共同体にとっての欠かせない前提条件であり、常に危険な均衡を保っている。神学的、社会的秩序は儀礼の実行なくしては保てなかった。 


 セルヴィウス王の改革などを経てその構造は変容していくようである。ローマ共和制はセルヴィウス・トゥッリウスをローマの自由の立役者とみなしている。(CiceroのPro Sestioが引かれている。彼もトゥッリウスだからね)

 
 人的配置の再形成、軍団の再構成などの改革の成果は、新しい戦士階級が形成されたことのみならず、端的に古い氏族集団、クーリアから自由な市民が形成されたことにある。あたらしい人的集団、そしてその軍事組織との連結は規律、連帯感や、部族的な組織異常に厳密な上位者への従順さももたらした。それは共同体の再強化、新しい王のイメージの形成も引き起こしている。


 このような改革の結果により出現したケントゥリアに地盤をもつ軍事集団は、もはや単なる兵隊の集まりではなくなっている。指導者への決定権、選出権を持った集団はそれ単体で一つの政治体の性質を有しているだろう。
 公的次元はもはや宗教的空間のみに求められるものではなくなっている。軍隊と集会の持つ機能がその公なるものを体現するようになっていた。フェストゥスが描いたような宗教的権威と結びづけられたヒエラルキーは変容していった。神々との密接さは祭儀を行う集団の優位性を直ちに帰結しなくなった。神官集団が従来備えていた儀礼を執り行うための、象徴的な知識は直ちに彼らの優位性を意味するものではなくなった。依然としてiusは宗教性と魔術性を帯びたものではあったが、civitasそれ自体の産物、都市全体が担う関心事として認識されるようになっていた。


 政治はローマにおいてそれ単体として出現したのではない。その点においてイオニアなどとは区別される。それは宗教的思想に由来する、特定の認識を伴った慣行に付随する形で出現したのである。

 

 

 

 

 

 以上です。