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研究にあまり関係しない雑記

アンソニー・グラフトン "人文主義と政治理論" 内容まとめ

A.Grafton
"Humanism and Political theory "in The Cambridge History of Political Thought 1450-1700 の内容紹介です。

 

 二時間くらいで打ったのでパンクチュエーションがひどいですが許してください。

 

 

 

 

 

p9-10
i Scholarship and power


 リプシウスのルーヴァンにおける講義と書簡の話がされる。ルーヴァンにおいてはセネカのテクスト(De Clementia)を扱い、君主の権威、義務に関連する議論を論じたようである。そこにはハプスブルクの王妃も参加しており、書簡からは自身が行った講義にリプシウスが満足した様子が伝わる。どうやら聴衆も満足していたらしい。聴衆の中にはハプスブルクの大公もようだ。

 だがグラフトンはこれは少し変な話だということを指摘する。というのも、リプシウス自身はオランダのハプスブルクへの反乱を、軍事制度などの面で間接的に支えたと言い得る人物である。その反乱はハプスブルクの支配地の慣習への無頓着にも起因しているだろう。そういう問題がある中で、なぜリプシウスは君主にそういった古典についての講義をしてそれで満足のかのような姿勢を見せているんだろうか。

 リプシウスのバックグランドである人文主義の発祥地イタリアでの事例を見れば、似たような幻惑とも困惑ともつかない感覚を私たちは抱くかもしれない。しかしながら、彼らの政治理論、政治ついての教義を理解しようとするならば、彼らの掴みがたさを心得ていないといけない。

ii Dictatores and philologists
p. 10-12

13Cイタリアにおける二つの出来事をまずは見る。
1 都市、大学におけるdictatoresの出現という現象。彼らは法律家や演説家ではないが、経済的、行政的な仕事を行っていた。書簡の文体の洗練といった知的事業を行い、書簡、契約文書の文体に関する著作をものした。そういう人たちは、文書業務が増えてきた都市の政府で仕事を果たすことになった。
2 知識階層が都市内での小さなグループを形成するようになったこと。このグループの構成員は様々な職業人から成っている。しかし、全員が古典テクストの探求を行っていたという共通点を有する。彼らは韻律なり、歴史なり、文献学的問題なりについて議論を交わし、研究所を執筆する者もちらほらいた。

 両グループは切り離されておらず、両方に帰属していた人間もいた。ローマ法を研究しつつ、別の職業についてたdictatoresもいたようである。有名どころだと、コーラ・ディ・リエンツォは、ローマ法文lex regiaなどを利用し、同輩に自身の都市の権威の増大を訴えようとした。

 初期の人文主義者たちは、キケロセネカを、共通善の追求を意義を際立たせるために利用した。ただし、最初期は文献学の成果との接合はあまりなされていなかった。その時代の優れた学者であったペトラルカは、ローマの碑文や、リヴィウスのテクストを研究していた。彼はキリスト教出現以前の初期ローマを、人間の偉業の発露として評価していた。彼は自信の著述を、ヴェルギリウスやオヴィディウスになぞらえる形で行った。ただし、彼はローマの活動的な生活のエトスを現在のイタリアにおいて復権しようとはしていない。この公的生活への参与は、ヴェルギリウスがたたえたものではあったのだが。彼は自身の由来であるフィレンツェにも格別の愛情を示すことはない。彼からすればキケロの政治へのコミットはわけのわからないものである。「この哲学者(キケロ)はいなかで老後を静かに過ごしていればどんなによかったろうか。わがキケロよさようなら。君の知らない神の誕生から1345年において。」(Familiares 24.3)この14世紀の優れた古典学者は、実践的政治的目的よりも、文学的、文献学的目的のために生きたのだ。

p.12-15
iii Humanism in the service of the city-state

 1400年前後には状況が変わった。コルッチョ・サルターティがその代表である。まず文献学的研究にも精を出し、ポッジォやブルーニといった後輩の支援を行った。それと同時にフィレンツェ市政にも携わっている。ヴィスコンティ家の牛耳るミラノに対抗するために、共和主義を持ち上げるイデオロギー戦略を展開し、他都市と連合をすすめた。

 ブルーニも似たような道をたどった。ダンテを評価し、俗語がラテン語と同様に文芸的価値を有することを認めた彼は、人間の才は徳が評価される社会においてその成果を生むことが出来ると考えていた。ローマは帝国になることでその条件を喪失してしまった。ブルーニの歴史記述はその見解のコロラリーとして、特異な性質を帯びている。ローマの崩壊はイタリア自由都市成立の条件として肯定されるのだ。そして、トゥキディデスなんかを援用してフィレンツェの政体をギリシアのそれに匹敵するものとして賞賛している(自分としてはトゥキディデス持ち出してそういう議論がどうして出来るのかよくわからないが。ここの参照先はハンス・バロン)。ブルーニはバロンが述べるような、「歴史記述のコペルニクス的転回」をもたらしたのだが、そのことはフィレンツェ市民という政治的立場に由来するものなのだ。
 1420以降の人文主義者は、いろんな政治的色彩を帯びた役割を演じるようになる。まずはローマを援用した共和主義的自由を持ち上げる人たちがいる。それだけでなく、先述したミラノや、アラゴン支配下にあるナポリ教皇庁人文主義者を雇って自身の立場に対する太鼓持ちを得ようとするのだ。その具体的役割もいろいろで、敵対者の政体を非難し、戦争を擁護し、愛国心を持ち上げ、政策の提言を行った。
 もちろん彼らは、単に既存の体制に組み込まれるのみならず、政治体制の雰囲気を改める役割を果たしている。彼らは古典的な、公的舞台において適切に言論を行う人間への評価を復興させ、伝統的な大学教育のあり方を不十分だと非難している。政治活動に必要な広い見識のために、レトリックの素養が必要だと彼らは考え、更に歴史研究、道徳哲学の必要を説いた。
 実のところ彼らの要求は満たされたとは言いがたい。レトリックや歴史の教員は法律の教員の三分の一くらいしか俸給を得ていなかったようだし、当然後者の学識のほうが人々にとって魅力的であり続けた。そのほかにも、同じ時期に出現してきた神学校が非人文主義的な学識の道を提供していたのである。このような背景から出世したのは、シエナベルナルディーノや、フィレンツェのアントニオといった人だけに限られていたのではない。
 けれども人文主義者達は大部において勝利を得たと言っていいだろう。彼らはエリートの嗜好を変えることに成功したのであり、貴族やエリート達は知的背景として彼らの成果である新しい版のテクストを読むようにはなっていった。価値観、評価される技能という面を含めた思考様式の改革はある程度なされたといっていいだろう。


 iv "Civic humanism " and its rivals
p. 15-20

 ただし以上のような改革は政治思想における革命をもたらしたとまで言えるだろうか。バロンなんかはそう考えている。図式としては、ヴィスコンティ家の挑戦に対して、フィレンツェが自由の擁護者として自身の立ち位置を先鋭化していき、その挑戦から生き延びた後はフィレンツェ人の自己理解、政治理解が変容していったというものである。

 確かにサルターティはカエサルのような人物に批判的であったし、同時代における一者支配にも警戒していた。ブルーニは明確にラディカルであり、フィレンツェの危機が去った後は、それまでの古代を称揚し同時代を落とす対話編の見解を枉げて、第二の対話編ではフィレンツェの軍事的精強さ、自由、徳を持ち上げている。その他にもポッジョ、パルミエリといった人物が挙げられるだろう。

 近年の研究はミラノによる危機はバロンが想定するほど重大なものでないとして彼の研究に修正を加えている。更には、彼の援用したテクストを詳細に読めばバロンが述べるほど皆が一様に自由やその他の共和主義的な価値の称揚をしてる訳でないことが解る。例えばブルーニの著作は対話編であることを踏まえれば、そこにフィレンツェの称揚と批判の両面が含まれていることは自明に見いだされるのである。最初の古代のみの称揚が、ミラノの危機の後フィレンツェも持ち上げるようになったというのはあまり適切な読みではなく、両方の議論が同時に読まれることを意図したテクストとなっている。このテクストの執筆時期もどうやら、バロンがいうように第一と第二の間に政治的危機を挟んだということはなく、どちらもその危機の後に執筆されたようだ。その他のテクストについても、1402年というミラノによる危機が先鋭化された時期が意味を持つように執筆時期を読み取ったバロンの理解は、現代の文献学的研究により疑問に付されている。

 フィレンツェの市政に関与する人文主義者が多かったのは確かだが、そのことが直ちに政治への関与と学術的嗜好を融合させたということを意味しない。ブルーニは自身の共和主義的嗜好を、実際の政治活動においては緩和させていたのである。ハンキンズの研究が主張するように、ブルーニはあくまでも公的義務として市政に携わっていたのであり、自身の技能をフィレンツェ政府から課された職務において生かしたに過ぎないのである。

 以上のような帰結については、いわゆる市民的人文主義への対抗的な思潮の存在を挙げることが出来るだろう。まず、人文主義者のうちの、君主国に仕える者たちはフィレンツェにいる人々とは対抗的な社会観を抱いていたことが挙げられる。君主国のほうが正義や平和を維持するのに適切だという見解を彼らは主張していた。共和政体においては腐敗や派閥が生じやすいという主張も彼らは行う。ポッジォがスキピオを賞賛するように、ヴェローナのグァリーノという人文主義者はカエサルが同様の賞賛に値すると考えていた。グァリーノは古代世界についての学識が、道徳的で活動的な市民を生むというフィレンツェの学者が抱いていた見解に同意できなかった。彼は古典テクストが公的生活についての教訓を多く含むことを認めていたが、彼の同時代の政治についての見解はそこからかけ離れたものであった。

 もう一つの対抗的な要素としては星占術的な世界観が挙げられる。神意が人間世界の事象を決定しているという意識は、14世紀のフィレンツェにおいても影響を持っていたのである。人間の決定、意思の役割を縮減するこのような風潮は、ブルーニ、ポッジォによっては批判されたのであるが、ルネサンス時代の社会全体においては強く非難されることはなかった。15世紀末、サヴォナローラが権勢を得たフィレンツェにおいても、このような神意によって歴史を解釈しようとする風潮は消えていなかった。
 そして最後に、イタリアの大学における法律家、哲学者の影響も挙げられる。法律家は緊急時における法の不在を述べ、スコラ学者は人文主義者より先にアリストテレスの著作を紹介し、国家体制の分析のための素材を提供した。マルシリウスなんかは人文主義者以上に都市の自律性を強調したといえよう。修道会士は、神学的著作において商人が果たす政治的社会的機能を説明した。先述したシエナベルナルディーノがそれである。そして彼らこそが、商人に利子を取るという罪を犯さずに、金融活動を行うための理論を提供していたのである。


v The topics of humanist political discourse
p. 20-29


  以上のような点を踏まえてもやはり、人文主義者達はcitizenshipや国家についての議論のための新しい言語を提供したと言える。それは貴族(ここでのpatricianは常総市民を含む?)が家政、都市、そして国家において以下に振る舞うべきかについての政治的、社会的言語であった。15世紀以降は都市行政に関することと家政に関することはアナロジカルに、どちらも他者の幸福への配慮、支配に関わるものとしてとらえられていた。ルドヴィコ・カルボーネはいかにして「家を組織し、国家を司るべきか」について総括的に論じている。ブルーニは擬アリストテレスの家政論を翻訳している。そこにおいてブルーニは、原テクストには存在しない妻の権利を擁護するコメンタリを残している。その他の人文主義者は、子供の教育についてプルタルコスのいくつかのアネクドートや、クィンティリアヌスの体系書を援用する形で論じている。
 夫婦関係について人文主義者たちは、それほど忠実に古典をとりあげてはいないようだ。例えばプルタルコスは夫が妻に貞淑さや服従をあまり期待しないように論じているが、それをフランチェスコ・バルバロはねじ曲げて利用し、年配の夫に対し妻は粛々と従うようにと述べている。その他にもレオン・バッティスタ・アルベルティは家政についての対話編で、強い夫が若い妻を従えるという図式を当然のこととしてせつめいする。
 その他にも経済活動について肯定的な評価を行う論調も存在していた。アリストテレス倫理学などを援用し、富を徳の基礎として論じていた。富は寛大さ、物惜しみしなさという徳の基盤となるのである。富の顕示という営みも出現することとなった。これはメディチ家の例を想定すれば容易に理解されるだろう。(このような事例をもってグラフトンは彼らの思潮がmodern and attractiveと述べるのだが、本当にそう評価できるものだろうか)

 次は人文主義者の都市行政の評価についてである。アリストテレスに従い彼らは都市住民を平民と貴族に分類していた。更にはリヴィウスを読み、都市の設立状況が人民の性質、徳性を左右することを理解していた。当初は都市行政についての明確な言語は形成されていおらず、レトリックについてや、過去の伝記的事実についての知識を転用する程度であった。更にはフィレンツェは近年の研究が示すように、統一的都市というよりは、様々な区画、ギルドの複合体であったのだが、そのような側面への視点を備えた人文主義者はいなかったようである。
 ただし、彼らは二点の貢献を行っている。一つ目は自身の都市の由来を古代にまで求め、更に古代の言語で権威付けを行ったこと。サルターティが典型である。それともう一つは、都市を一つの制作物とし眺めたことである。ブルーニは例えば、フィレンツェの理想的構成について論じ、都市計画の先駆となった。その他の都市、教皇庁などでもそのような視点を提供した人間がいたようだ。そういう都市の構成への配慮は、トマス・モア、トンマーゾ・カンパネッラといった16世紀の人物に受け継がれている。

 国家、civitasと区別されたres publicaについては、人文主義者によって多大な議論がなされてきた。君主制下の著作家は宮廷と臣民の関係に焦点をあててきた。これは統治者が一都市に限定されない、広い領域に対して影響を及ぼしているためである。更にはこのアプローチが古くはイソクラテスから、中世はソールズベリのヨハネス以降多くの先行者を有しているからである。王と廷臣の関係や、王が法に拘束されるか、臣民の善に以下に気を配るべきか、重い課税をいかに避けるべきかといった話はルネッサンスにおいても重大な意義を有していた。

 共和制下の著作家は自身をとりまく周辺国家について言及していた。サルターティはフィレンツェを、ヴィスコンティの陰謀から諸都市の自由を守る防壁として理解していた。だがこのような議論は、ニコライ・ルービンシュタインの研究が示すように、強い反論を引き起こすものだった。実際ピサはフィレンツェに1406年に服していたが、その都市にlibertasがあったとはとうてい言えまい。国家間関係について人文主義者が的確な分析を提供できたとは言いがたい。

 人文主義者が提供したのは、柔軟で説得的な、国家や自身が仕える統治者の賞賛や正当化なのであった。この側面での人文主義者の影響は多大であった。古典のきらびやかな言語を用いた支配者の装飾なんかがすごかったようである。ロレンツォ・デ・メディチに対する賞賛はウェルギリウスなり、オヴィディウスなりを使って行われていた。これは彼の軍事的資質の不足を覆い隠すものでもあった。その隠蔽が露骨なのはポリツィアーノによる、パッツィの反メディチ陰謀への非難である。それはサルスティウスのカティリナ反乱についての記述を援用することで行われたが、サルスティウスが行った、反乱の根源である社会的、政治的問題への分析については全く言及されていないのである。

 人文主義者はどうやら、危機的な政治的状況を分析するための資格をあまり提供していない。彼らは賞賛や非難や隠蔽は行った。彼らの発明品はレンズではなくてテンプレートなのだ。彼らはプラトントゥキディデスアネクドートの山として引っ張ってきただけであり、真に知的な営為を行った訳ではない。人文主義者の人物や制度の理想化は同時代にも、後の時代にも強い影響をもっていた。そういう理由のみで彼らは分析に値するのである。

 



以上