Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

Maurizio Viroli, From Politics to Reason of State: The Acquisition and Transformation of the Language of Politics: 1200–1600(1992) p.1-15 内容紹介

 

 とてもキリが悪いところで終わっています。p. 30が一つの切れ目なのでここがちょうど半分くらい。残り半分を近日のうちに載せます。

追記 残り半分を当日中に全部訳しましたが、間違って削除して意気消沈してるので15-30はもう載せません。ごめんなさい

 

注意書き  civilとか、justiceとかreasonといった語についてはかなり訳を揺らしている。civilとpoliticalの語の両方に政治的という訳語を当てていることもある。

 

 

イントロダクション

 16世紀において政治思想の言語の変容、正確には政治という語のそれ自体の内容変化が生じた。それに加え、政治科学というものの位置づけも変容する。政治の科学は堕落や腐敗への対抗と言うよりは、それに追随する手段へと変容した。

 このような革命の内容はあまり理解されていない。その無理解を補うために本研究はある。13世紀イタリアで出現した政治に関する固有の言語が17世紀において失われてしまった。それは、政治というものが国家理性の類義語となってしまったことに関連している。その最後の時代において、その言語を保つために奮闘した人がいないわけではないが、結局は国家理性との癒着を防ぎ、政治固有の高貴さを保存することはできなかった。
 政治と国家理性の関係を巡る議論の通時的流れはいくつか見いだせるだろう。その一つはプラトンにおける政治的な人間とtyrantの関係を巡る議論に端を発し、現代におけるいわゆるリアリストと政治における倫理の必要を説く人間との対抗に至るものである。これは長期間にわたるうえ、広い地域で見いだされる論点であろう。
 だが今回私が扱うのは地域的にも時期的にもより限定されているものである。ブルネット・ラティーニなどにより表現されるような、正義やreasonに従って共和国の統治を行うことを意味する政治の概念とその衰退である。18世紀初頭のイタリア語の辞書では、政治は国家の統治という意味と、正しい統治という意味を有するものとされ、二つの意義の対抗が見て取れるが、事実上17世紀にはすでに、政治の意味変容は終了していたと言える。
 後者の意味に近い政治の言語は、政治的徳や市民法アリストテレス主義の伝統に根ざしており、その衰退と国家理性の言語の出現は連関を有する。

 13世紀から17世紀のイタリアにおいても政治の概念をめぐる対抗は存在した。それは、個人同士が理に叶った共同生活を送る為の共同体の保存を意味するような政治と、メディチ家のstatoに代表されるような特定の個人や集団が公的制度を支配することを意味するような政治の間にあるそれである。その時代に置いてstatoは、中性的な国家を意味する語ではなく、支配一般や、特定の共同体のあり方を指すものであった。その時代にはstatoとres publicaが背反する意味でも用いられた事は忘れてはならない。

 先に述べたように、国家理性に対抗する意味での政治概念も、reasonに則った政治という意味を有していた。だが、13世紀のラティーニが表現した意味でのそれと、16世紀のボテロのそれは大きく意味が異なる。まず政治を定義する際のreasonに、キケロ的伝統に由来するrecta ratio、正しい理性の意味を付与することが可能である。それは、立法や統治や行政決定における一般的な衡平の原理を表している。それに対して国家理性という語が内包する理性は、国家の保存のための適切な手段を考察して導き出す能力を意味している。後者は正当性や外にある正しい原理という意味よりも、個人、特に統治者に内在する技量といった意味を強く帯びている。それに対して前者の意味では、そのような個人的な賢慮は、recta ratio in agibilium、実践における正しい理性を意味し、正義の原理と結びついていた。

 以上のような区分を見ると、政治に正しい理性を求める側が衰退して国家理性を標榜する思想家が出現してきたのは、現実的に政治活動を分析する潮流がでてきたためだと結論づけたくなるかもしれない。だが、国家理性論に組みする思想家も、現実の政治、政策に対して伝統的な立場の人物と同様に異論の提示を行っていたことを無視してはいけない。歴史的文脈を踏まえれば、二つの立場の違いはあくまでも政策論レベルでの相違として理解するべきであろう。

 実際、それら二つの立場が同時期において存在し、政策や政治行動の評価を巡って対立していた事例はいくつか存在する。その意味で、14世紀イタリアにおいて存在していたのは、政治的生活を尊重する人文主義者と、観想と孤独を好むその批判者の対抗であるという視点は修正される必要があるだろう。その時期において既に、後の時代の国家理性の伝統の萌芽が看て取れるためである。そこに見られるものはrepublicとstateの対抗なのである。

 res publicaを尊重する側だけでなく、国家理性の伝統に棹さした思想家にも、ローマにおける政治を論ずる言語との連関を見いだすことができる。たとえばratio publicae utilitatis, ratio necessitatisといった言葉がそれであろう。だが、その意味はそれまでの解釈とは懸け離れている。グィッチャルディーニが国家理性の語を用いる際に意識していたのは、正義に基づいた統治や、よく秩序づけられた政体に結びつけられた政治の言語が不十分で、reasonに反しているということであった。


 政治をめぐる言語と同様に国家理性の伝統における言語も発展と変容を経験している。グィッチャルディーニにおいてはstateの起源は不正な簒奪に由来するものとされたが、ボテロにおいてはstateの存在は所与のものとして前提されている。この変化は、stateの正当性を難じる反対の立場からの批判を回避する効果を有していた。それにより、この伝統は自身の正当な立場を確立させ、stateを維持するための実力の論理に基づいたreason合理性を標榜した。


 本研究では幾人かの人々が、以上で述べた二つの立場に置ける言語をいかに描いていったかを追いかけていく。概略すると以下のようになる。
 ラティーニは、政治的徳とローマの市民的知恵の伝統に則り、政治の概念を濃縮させた。彼の弟子であるダンテは、政治の概念を拡張し、正義に則って政体を設立し、維持をするための正当な手法としても理解した。そのような発展の動向にはアリストテレス政治学の再発見も関連していた。

 バルドゥスは自身を都市を成り立たせるための営みとしての政治を理解する潮流とは区別し、政治を市民的な規律、正義をめぐる学問として把握することで、ローマの政治哲学(civil philosophy)の伝統との接続を行い、人文主義的な政治と立法の接続のこうしとなった。(law centred paradigmに基づいた人文主義理解?)そして、コルッチョ・サルターティは、市民的な幸福を得るための唯一の前提条件を得るため手段としての政治の理解を押し出した。それに対しそれ以降の人文主義者、レオン・バティスタ・アルベルティやポッジョ・ブラッチョリーニには、stateを重視した立場が入り込んでおり、同時にそれまでの政治の言語の衰退が見られる。

 マキャヴェッリ君主論はstateの保存のための著作と読みうるが、同時に彼には政治を共和国での営みに関わるものとして理解しようとする伝統の擁護者でもあった。そのような意味で、彼を国家理性の起源とする通説的な理解は誤っている。それに対してグィッチャルディーニは、国家統治の技法と共和国の維持のための思索の伝統を統合する必要を感じていたが、最終的には国家理性的な政治理解に軍配を挙げている。二つの立場の位置づけの変動を見るためには、グィッチャルディーニこそが理想的なモデルケースだと言える。

 それ以降の人間も本研究では扱うが、最終的に以降が完了した後では、共和国という政治的現実を失った伝統的な政治の言語は、存在するとしても単なるノスタルジーを述べるものや、ユートピアを追い求めるものとして受け取られるようになった。そのようなコンテクストの違いとして喪失は理解し得るだろう。それと同時に本来政治をめぐる一立場にすぎなかった国家理性の言語は、政治の同義語だと見なされるようになっていき、賢慮は正義や法とは切り離されたものとして理解されるようになる。

 以上のような動向の叙述が、近代政治思想における重大な局面の理解に資することを期待する。エピローグにおいて、現代の政治理論への可能なオルタナティブを提示することを目指したい。別に理論に興味のな人は読まなくてもいい。


1 政治の言語の獲得

 politics,politicalといった表現は教皇や封建君主による文書には見られないが、12世紀以降哲学者や神学者は政治というものを論じだしていた。大きな政治的状況としては、イタリアにおける君主の支配から自由な共和国の出現、知的状況としてはアリストテレス主義の出現、ローマ法の再発見が見られる。

政治的な徳の伝統
 中世にイタリア都市国家へ訪れた旅行者は、その政治体制がヨーロッパその他の地域と顕著な相違を有していることを記録している。有名どころではオットー・フォン・フライジング、彼は1156年からイタリア諸都市を訪れたが、そこの人民たちが自由を愛し、支配者を避けて自身等が執政官を通じて都市を支配していることを報告している。彼らはその執政官が権力を持ちすぎないように毎年別の人に代えているそうである。更に共和国を守るために彼らは古代ローマの技法を真似ているとも報告している。

 13世紀に数多く書かれた都市の行政をめぐる文書は、ローマの政治・法思想が一般的に受容されていたことの証左である。市民の政府を論じた文書の焦点は都市の最高権力を託されたポデスタにあった。ポデスタは対外関係においては都市を代表し、法的軍事的行政的な力を一手に掌握していたが、それでも選挙によって選ばれたオフィサーに過ぎず、制定法の下に置かれていた。立法権力を彼は有しておらず、さらには任期の終了時には自身が与えられた権威を正しく運用したことを報告する義務を有していた。そのようなポデスタのありようは都市の行く末を左右するものであり、多くの政治的論考はポデスタがいかに行動すべきかについて述べていた。ただし、14世紀以降に都市国家が統治形態を変更し、シニョーリによる支配(シニョリーア(僭主)制)、ある一族による支配に服するようになって後はそのジャンルは衰退していった。