Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

Dante de vulgari eloquentia がつらい(1)(多分続かない)


 以下に訳出したのはダンテのDe Vulgari Eloquentiaの冒頭である。この本は第一書、第二書に分かれている。言語論、レトリック論には個人的興味が強いので意気込んでいたが、途中でタキトゥスのコメンタリやローブ版のクィンティリアヌスを購入したせいで目移りしてしまった。そのため続きをやるとしてもだいぶ後になるだろう。言葉の崩れが多くてとてもつらい。

 とりあえず今回は導入の説明と出だしだけの訳をのっける。

 ダンテの伝記的事実などは比較的有名であるし、文庫でもかなりの解説を確認することができる。河出文庫講談社学術文庫神曲の邦訳もそうだし、近頃読んだ帝政論の中公文庫から出た訳の注釈は、中世政治思想を研究する人にとってはかなりの情報源になると思う。

 そのため、ダンテの生まれだとか思想、経歴の詳述はやめて、このテクストに関する最低限の説明だけをまずは行うことにする。解説は底本にしたケンブリッジの羅英対訳のイントロに載っているボッタリルの説明に従っている。

 当該著作は、新生、神曲といった著作で展開される俗語での詩行の実践を理論的に正当化するものらしい。テクストのタイトルをダンテ自身がつけたのかは不明で、未完となっている。テクスト内での事件の記述からして、彼がフィレンツェから追放された直後、1302年以降から執筆されたと考えられる。二巻にヴァロワ朝のシャルルのシチリア遠征の話は其の年の話である。一巻のモンフェラートのジョヴァンニに言及する箇所では、彼が生きていることを念頭において記述がなされているが、ジョヴァンニは1305年に死亡している。情報の伝達速度などでのズレや書き終えた後に全く訂正しなかった可能性などもあるが、1303-1305にはその大部を書ききったものだと考えられる。新生の十年ほど後で、地獄編の執筆開始の数年前に位置する。
 著作の中断については諸説ある。本意からはずれだした事による意図的な断筆、他の著作に手を回していたためのやむを得ない中断、残りの文章の散逸という説明がなされる。ただ、二巻から始まる俗語の詩文に関する議論が明らかに中途半端な形になっていることは指摘されるべきである。
 テクストの伝達については、その他のものと比べると写本の数が少ないことは指摘される。汚染の少なく、原テクスト性の高いと考えられているものは3つにとどまる。其のうちの2つ、G写本とT写本は1577年にパリで印刷がされて広く利用可能になった。この印刷をした人もフィレンツェから当時追放されていたらしい。最後の写本が一番古い、14世紀に作られたものなのだが、1917年にベルリンで見つかるまでは知られていない。これはベルリン写本、もしくはB写本と呼ばれる。

 テクストの内容的特徴としては、ギリシア、ローマの先人に倣って書いたのではなく、これが完全に新しく生じたことを強調していることがあげられる。それと同時に先人との関係も記している。それなりに彼は著作に対する自負を見せているが、実際その手法の多様性や、先行者の援用の仕方は同時代において群を抜いている。

 ちなみにこのテクストで述べていることは、単に当時のイタリアにおけるイタリア語とラテン語の対抗に止まらず、日常言語と学問言語、自然な言語と人工的な言語といった一般的な対抗を念頭に於いていると理解しうる広がりを有している。

 


 とりあえずここまでにする。テクストについてはメンガルドの1968年版に基本的に依拠する。これは先に述べたB写本をきちんと取り入れたという意味で、古くて新しいテクストだといえるだろう。

 

 ちなみに同じタイトルの、ダンテの名も冠しているボードゲームがあるらしい。自分は友達が少ないので出来ないだろうが(現にいくつか買ったボードゲームは家でくさらせている)、友達の多い人は試してみるといい。

 

誤記なのかこういう表記が許されるのかわからないのがちらほらあったのでそれはカッコで括って対案を書いた。多分中世かつ学校の内側でない場特有の表記だろう。つらい。訳出での勝手な補足にもカッコを括った。


1-1

Cum neminem ante nos de vulgaris eloquentie doctrina quicquam inveniamus tractasse,

 私たちより以前に、俗語の雄弁というものに関する教義についてなにがしか扱っている人は誰もいないようである。

atque talem scilicet eloquentiam penitus omnibus necessariam videmus, cum ad eam non tantum viri sed etiam mulieres et parvuli in quantum natura permictit;

 そしてそのような雄弁(に関する知識)については皆にとって、男たちのみならず女性達、こどもにとっても自然の許す限りで明らかに不可欠だと見る。

 

volentes discretionem aliqualiter lucidare illorum qui tanquam ceci(caeciか?) ambulant per plateas plerunque anteriora posteriora putantes
(わたしは)あたかも道を進むめくらのように、これまでのことがこれからも続くと考えてきた人々の理解を多少なりとも進めることを希望しつつ、


Verbo aspirante de celis(caelisか?) locutioni vulgarium gentium prodesse temptabimus,
天からの声にモチベーションを得て、人々の(話す)世俗の言葉に役立つことをやろうかなという気持ちになっている。

non solum aquam nostri ingenii ad tantum poculum aurientes(orientesか?),
ただ私たちの才能が満たせるだけの水のみではなく

sed, accipiendo vel compilando ab aliis, potiora miscentes, ut exinde potionare possimus dulcissimum ydromellum(hydromeliの崩れたやつか?)
とても甘美な飲み物を提供することができるように、別のところから受け取り、手に入れて、より望ましい(知的)混合物を作ろうとしている(aquam, potiora をtemptoの直接目的語,locutioniを間接目的語とした)。


・・・・・・・
こんな短い箇所だけでもいくつかOLDで対処できなくて修正いれないといけないのちょっとつらい

 

深夜テンションです。すいません。

もしかしたら続きます