Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

スコトゥスについてざっくりと (2)(中断)

 

 中途半端なのですが、今回でいったん中断します。スコトゥスの実際の議論の理解をもう少ししたいという気持ちが生まれたためです。

 スコトゥスの価格理論とビトリアの関係についてきちんとテクスト自体と研究動向を追ってみることにします。なにかわかってきたらここに載せるかきちんとしたものを書くかします。

 



哲学批判 

 前回の続きとして、スコトゥスによる(フラッシュのテクストではDunsと表記されているがスコトゥスと表記し続ける。)哲学批判を見る。今回は何のひねりもなく殆ど訳出になっている。

 スコトゥスがその時代の哲学をいかなるものとしたかは前回の部分でも少し触れている。彼は神学の立場でありながら哲学的な方法を採り、哲学の立場、哲学者達に対して問いをたてていく。
 まず、倫理的見地からの問いである。哲学者達はあらゆる事象、特に人間に関する事象は、彼らの学が提示する目的により規制されると考えている。だが、そのようなすべてを規制し得る目的を彼らは提示し得るのだろうか。スコトゥスの理解によれば、「自然的理性」により人は、人生の目的のために明晰さを得ることができるという(Scotus, Ordinatio. prol. pars1 q.1n.71 Opera omnia I 43.)。そうして、人は先の問いについて生じる、中立性と懐疑が、そのような目的達成の妨げになることを理解するだろう。更に哲学的な見地を共有する人間は、哲学が単体でそうした目的についての答えを提出することが出来ないということも、その方法から不可避的に導出してしまうのだという。つまり、なにが正しい目的を提示できるか、及び、正しい目的があったとしてそれに人を向かわしめるかという点で哲学は実践に関する目的といったものを扱うのに不適切である。

 そのため、真に実践的な学である神学が必要となってくるのである。神学は人間の理性ないしは知性ではなく、意志に対して目的を提示するのである。スコトゥスは「実践」という語で、意志と愛、欲求を問題にしていたので、なにをいかにして愛するべきかを人間に提示する神学は、哲学よりも実践的と理解された。このように、アウグスティヌス的な立場を踏まえつつも、相手方の立場の難点を提示するという議論もスコトゥスは行った。

 他の論点もある。彼は哲学に対して神の認識や人生の目的についての問いは投げかけなかったが、哲学の提示する知の確実性の根拠についての問いを立てた。特に、感性が提示する認識を素材としつつ、感性に根拠を持たない仕方で推論を行うというその手法に疑いを向け、そのような手法を採る哲学が魂の不死性を「証明」することも理解しがたいものだと彼は考えた。アリストテレスはその難点について明瞭に述べていないし、それはその他の論証が疑わしいことの証左となっているように彼の目には映った。その他にもスコトゥスは、従来繰り返されていた、人間は不死性に対して「自然的欲求」を持っているという議論も批判した。そのような欲求が「自然的」と表現されるのは、その実現が自然になされうる、つまり恩寵の助けなしに果たされることが確実だということと、不死性が自然的な原理で論証されるという前提が必要なのであるが、その点を論じないで勝手に扱われているとスコトゥスは考える。彼はアンセルムス流の神の存在証明には同意していたが、そのような形而上学的立場からの神の存在証明が可能だとは考えなかった。