Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

Tom Hillenbrand "Drohenland"(2015) Kiepenheuer&Witsch,  赤坂桃子訳 河出書房新社(2016)

 

 

 

 「客観的に存在する知の素材が途方もない広がりを見せているために、あたかも密閉された容器のように中身のわからないまま流通するいろいろな表現を使うようになり、使わざるをえなくなった(1)」

 この文章は引用から始まる。

 そもそも引用とは何のためにあるのか?それだけなら自分で考えつく(かもしれない)数文字の詞を、わざわざ本棚をまさぐって探してくるだけの価値がある営みだろうか。

例えばここでジンメルを引っ張りだしてきた理由について考えてみよう。ネーム・ヴァリューというのも一つの答えであることは否定しない。

 だがもう少しだけ付加するならば、ジンメルという男がきちんとした脳髄を携えた男であり、「貨幣の哲学」という著作において、きちんとした事実の整理、適切な推論がなされているという思考過程への信頼があることは(常にそう意識しているかは別にせよ)間違いない。そしてそれは自身が実際にテクストを読みその主張への仮定を呑み込んでいたり、彼の社会学者に親しんでいる場合もあれば、噂やら他からの引用を介して判断していることもあるだろう。

 つまるところ、引用という営みは単にその言葉を提示するだけでなく、それが背後に思考や認識、経験の過程を含んでいると考えられるために行われると言えよう。ここで行われているのは、複数の意味、思考過程、信頼性を、(引用句と出典という)一つの記号に圧縮する営み、あえて言うならばフィクションの作用に他ならない(2)。以上の記述を意識しつつ、本作をまずはフィクションという論点から眺めることとしたい。

パーセント、確率、あるいは統計

 本作には確率(die Wahrscheinlichkeit)、パーセント(Prozent)が多々浮上する。確率がまず第一にある事象の起こりやすさということを意味することには異論がないだろう。だが、ここまで読んだことで察しがつくように、既に存在する統計データと当該事象の性質確定を経て、ある対象のある状態への移行可能性を導出する手続きというものが確率というものには伏在していなければ(少なくともそうだと信じられなければ)ならない。そうでなければただの数字とパーセントを述べただけでしかない。つまり、確率は推論の結果であると同時に、推論自体を内側に含んでいるという説明が可能である。

 ではなぜ僕らは確率を用いるのか。ここでは端的に社会生活が思考の高速化と決定を要求していることに依ると理解しておく。だからこそ、出来るだけ短い文字数、小さな情報量で多用な事象を判断できるようにしなければならない。ダニエル・ベルの言「われわれはますます少しだけを、ますます多く知る(3)」はそういう意味で理解できる。これは本当に素晴らしいことだ。単にコンピュータの発展それ自体だけでなく、この思考経済上の技術により、投票行動、犯罪傾向、天気、株価の上下なんて世界に重要なものを数分で暗記できてしまうのである。

 だが、この圧縮技術には弱点もある。何せ全てを数字とパーセントに押し込んでしまうので、さまざまな区別を捨象してしまうのだ。別に降水確率の90パーセントと彼が怒りっぽい人間である確率90パーセントで同じ表現が用いられていることに目くじらをたてたい訳ではない。だが、その確率やパーセントという表現技法が全てを同じ形式で表すことで逆に思考上の損失を招いていることは疑いない。記号は思考経済を節約させる作用があるはずなのに、全てを同じように扱ったら誤りを招くとんでもない悪貨を含んでいることになるのである。

 本文でのフィクションの扱われ方を見てみよう。p.24では確率と記録されたデータから見た比率が同様にパーセントを用いて表現される(4)。ここでは実際に起きた割合を数えた事で出た過去を対象とした数値と、どの程度起こるだろうかという未来を対象にした数値は同様の表現手段で表されている。冒頭のみを対象に絞っても、ある状況においてプロの狙撃種が背中の上を狙う確率(p.28)、コンピュータの分析による被害者の発言とある党の綱領との一致、新憲法へ同意する確率(p.34)議会の全議員の新憲法の賛否アンケートの結果(p.101)というように様々な性質を持つ事実を同じパーセントの表現手法で表している。そして、それらの記号は基本的に確固たる事実として登場人物により利用され、導出過程を遡るような事はなされないのである。

 逆に、確率が推論過程の結果であることを忘却して、確率という記号に自動的に従っているのではないかという遣り取りが本書にはある。p.101-102で、主人公がコンピュータのテリーに新憲法賛成派がなぜ増えたのか問うた際、テリーは過去のデータから大きな要因とされる三つの事例を確率抜きで呈示する(5)。今回もそうなのかという主人公の驚きに対し、テリーはあくまで一般的傾向を述べただけだと応答をする。この言語的交流においては一般的傾向と各事例の個性は意識的に区別されるのであるが、本文の他の箇所で提示される確率も、ある条件付けをしてその場合での一般的傾向から導出されたものであることは疑いないと思われるが、それらは当該事例でも十分に有効性を持つ情報として取り扱われるのである。圧縮した記号それ自体の神秘化を本文から読み取ることは出来ないだろうか。

 固定的な記号の神秘化がなぜ起こるのかは、無秩序への恐れからである(6)。物語では過去に、確率に基づいて、犯罪を犯す可能性の高い人間を予め抹消する作戦が取られたことが明らかにされる。だが、無秩序への恐れは政治的アナーキーに対してのみではなく、不可予測性というカオスに対しても向けられる。p.390において黒幕と判明した主人公の上司が、なぜ憲法反対派ではなく、賛成する確率が50パーセント程度の議員達を殺していったかという主人公の疑問に、はっきりと反対とわかっている敵は怖くない。予測できないことこそが抹消されなければならないと述べたことはそれを表している(7)。マルコフ変調のような確実性からの乱れは彼らを不安にさせるらしい。だからこその神秘化である。不可予測性の存在を識り、それへの恐れを表明する彼らは、決して確率それ自身がフィクションであること、ある前提に立った推論に支えられた、他の結果でもあり得る儚い存在であることは考慮しないのである。もちろん確率それ自体が内在する不確実性を部分的に排除する方向も存在していて、先に述べた犯罪可能性の高い人間を排除する計画は、確率はある個体それ自体の振る舞い自体を完全に予測するわけではないということを、予め全て抹消することでその事実から目を背けるモーメントと見ることも可能だろう。

 

 だが、不確実性を排除することは人間にとり自然なことなのだろうか。過去をチェックするために、現実の世界のデータで構成された仮想現実に飛ぶミラーリング(Spiegelungsaversion)を実行した主人公は、本物っぽすぎる(zu echt)ということ故に違和感を感じる。現実に忠実であることがかえって本物っぽくない(zu unecht)というのである。これは後で判明するミラーリングの世界に偽造が行われていたことの伏線とも読めるが、余りに整理されていること、秩序化の過剰への拒絶反応と解することも出来ないだろうか。

 

信頼と権威

 教会法学においては、「権威の確定」という問題が、引用に値するテクスト、論拠の確定、およびテクスト、論拠相互の優劣の確定という形で取り沙汰された。何かを決めるためには情報は必要だが、それらが矛盾対立していないことを事例見つけるのは富者が天国にいくより難しいかもしれない。どこかで必ず僕らは、大事なのは情報が何を喋るかではなく、どの情報を採用すればよいか、どれがノイズであるかを選別しなければならない。キリスト教という信仰それ自体に関して、究極的には予言者を名乗る男の言葉を信じるのかという権威の問題に回収されることを指摘したのはホッブズであったが(9)、正しい知識が何かという問題と社会の存立基盤の問題は切断できない。

 

 先に述べたように物語中の社会は数字、確率、パーセントというメディアの権威性(10)を基盤として備えることでコミュニケーションを可能にしている。ミラーリングも同様に、仮想空間への信頼が犯罪捜査を成り立たせていたことからしても、社会のコミュニケーションを成立させるメディアの性質を持っていると言えるだろう。

 次は信頼、権威がある程度破壊された状態を本文から見てみよう。

 

 物語の後半、ミラーリングの改竄や、状況証拠の捏造で犯罪を作り上げるという現状の社会システムの利用がされていることを知った主人公は疑う。それは物語の最後まで継続していると言え、原著の最後から六行目のaber sicher ist das keineswegs.という言葉に顕著に現れている。

 

そのような時期に彼は、統計的予測では不可能であろう、コインという象徴から事件の真相を直感的に察知し(p.331)、陰謀をある程度乗り切ることになるのであるが、そのような既存の媒体への懐疑と自由な思考は、不都合も伴っている。

 

 誇大妄想と指摘される程の、普通ならありそうにない可能性として排除されるものまで心配することは(p.292)、今までのメディアの仕組みにより排除されていた可能性に真相があったという反省を経たという意味では肯定的な側面もあるが、思考経済上は非常なるロスである。完全な思考の自立もまた完全な確定性と同じく、人間にふさわしいあり方ではないのだ。主人公だって即興で行動するのは大嫌い(p.385)だし、編集も解説もない生の情報は解釈に手間を要する(p.311)のである。

 

 

 実際、どの服装にするかなどという問題なんかは機会に任せてしまって構わない。(p.47)のであり、統計処理をコンピュータに委ねてそれを判断材料にする営み自体も放棄することは出来ないだろう。問題はいかにそれが確固たる事実などではないフィクションであることを忘却しないかということなのである。先に述べた予め犯罪者予備群を抹消する作戦は、マタイ書13章に述べられた毒麦の例えに準えられており、予め毒の入った麦を抜き取っておいてしまえ。そうすれば安全であるという思考の元で作戦を貫徹した。だが、人間はどれが毒麦でそうでないかを完全に識別することなど出来ないのだ。更に言えば一度刈り取れば後はもう安心ということもまたあり得ない。この比喩をむしろ何かを何かに置き換える人間の営みそのものに適用したい。置き換えが完全ではあり得ないこと。さらには置き換える前が何であったかしばしば忘却をしてしまうことを意識して、ふと刈り取る前に手を止めなければならない。そうでないと何を失ってしまったのか分からなくなるし、刈り取ったあとの残りが全て口に入れても大丈夫なんてこともあり得ないのだ。完璧な思考は出来ない、だが、思考も決断も避けることは出来ない。そのような状況下で、ヴォルテールカンディードの言うとおり、僕らは日々自分の庭を耕さないといけないのだ。それは時に用いる道具を再検討することでもある。

 

 

(1)Simmel, philosophie des Geldes, p.505. 

(2) ここでのフィクションにつき、木庭顕, "余白に"p. 368 於, 来栖三郎『法とフィクション』、に従い、「AをBのごとくに考える」、更に区分して「本当はAであるものをBの如く考える」と「AをBで置き換える」営みのことと定義する。勿論今述べた引用の作用は後者である。

(3)Bell, The Coming of Post-Industrial Society, p. 468

 (4)原著p. 28 "《Aber die Wahrscheinlichkeit liegt laut Terry bei allen unter 25 Prozent, denn in 91 Prozent aller verzeichneten Fa.lle waren Pazzi und Heuberger allein essen》"

 (5)原著p.107"《rasche Vera.nderungen im Abstimmungsverhalten von Politikern in der Regel auf einen der drei genannten Faktoren zru.ckzufu.ren sind》"

(6) プラトンが指摘したような数学、数字のイデア的な性質(ないしはイデア的だと思わせる性質)も関わるかもしれないがここでは論じない。序数,基数のような数字それ自体の区別などに関しては、ダンツィク, 『数は科学の言葉』参照

 (7)原著p.414"《Diese Leute waren unbekannte Variablen, sie waren ein Risko.Deshalb mussten wir sie aus der Gleichung entfernen.》"

(8) くじが5割で当たると分かったとして、今引いたそれがあたりかはずれかは確言できないことを想起せよ

(9)ホッブズの聖書解釈と信仰の由来に関する議論につき福岡安都子『国家・教会・自由』, p. 206-235彼が初めて以上の認識を示したのではなくアウグスティヌスもなぜ、さまざま宗教がある中でキリスト教を選び、そのキリスト教の教えを保持するという宗派もさまざまある中でカトリック教会に帰依するのかという問いにおいて権威の問題として論じている

(10) ここでは、その根拠を問うことを停止させる作用として権威を理解する