Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

Blackwell Companion to Locke(2015) "Introduction" by Matthew Stuart 抄訳

はい。というわけで比較的新しい概説書(?)のintroの一部を訳してみました。

 

作品全体の簡単な紹介になっております。

 

前書き
1
著述家としてのジョン・ロックの経歴はあまりに偉大であるため、彼の過ごした豊富で、変転に富んだ人生については等閑視されている。彼の政治理論と認識論へなした貢献の大きさは彼の学識の多様さを覆ってしまいうるのだ。彼の経歴は学者としてのものに端を発するが、そのうちの多くをAnthony Ashley Cooper(シャフツベリ伯)に仕える形で過ごした。彼はロックと出会った当時は大蔵大臣の地位にあり、後に大法官となった人物である。この人的交流はロックに政治的に上位の階層の人間と接触する機会を与え、更に経済、新大陸の政策形成に関与することにもなった。チャールズ二世と弟ジェームズに対して企てられたライハウス陰謀事件の余波も収まらぬ時節、ロックもまた危機に晒され、時には偽りの名を用いつつ、国を去り5年半を追放の憂き目にあうこととなったのである。ロックは物理学者であり、化学を学ぶことにおいても熱心であったし、植物の標本集めも行っていた。形而上学者そして神学者の顔も有しており、文官にして経済理論家でもあった。彼はボイルとニュートンの友人であり、王立ソサエティの一員で、広い範囲の気象記録の保持者でもあった。彼は子どもの最上の教育法を理論化し、パウロの書簡への長大な注釈を記した。そして図書の索引の作製法を開発し、それは100年以上利用されることとなった。

2
本書においては主に哲学へのロックの貢献を扱うのであるが、哲学とは広い意味で解される。本書の目的は詳細かつ広範に記述することであり、ロックの哲学で学者の注目を集める主題をほとんど包括している。その主題とは、知識の経験主義的理論、第一性質と第二性質の区別、個人の同一性の議論であり、更に自然権の理論、社会契約の理解、宗教的寛容論も含まれる。だが、本書はそれだけでなく、ロックの全作品の中で比較的見過ごされてきた部分も含んでいる。Stillingfleetとの往復書簡である”人間知性論草稿”や、”キリスト教の合理性について”などがそれである。それに加え、ロックがその中で自身の哲学理論を発展させ、その影響を及ぼした知的文脈にも注意を払っている。そのため、ロックとスコラ学、デカルトとの関連についての章や、英国経験論、自由主義の伝統、新大陸に与えた影響についての章が割かれている。

3
以下に記される章は本書のために記されたものである。各著者は最も学識があり、注目に値する近年ロック研究に従事したものたちである。その中には2,3の新世代を担う最も有望な若手ロック研究者も含まれている。ロック研究は現在50年はそうでなかったと言えるほど栄えていると言えるだろう。各章は読者に各領域の現在の研究状況を知らせるための試みである。その多くは現在の研究状況を踏み出そうとする熱意を有している。その結果、一般の読者そして専門の哲学研究者両者に取り実際に有用なものとなっただろう。ぜひカバーされている分野を概観して欲しい。


Life and Background
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ロックは劇的な時代を生きた。英国の内戦の時代に成人を迎え、クライストチャーチの学生時代に王政復古に遭遇した。そして1688年のオランダの英国への侵入を、彼の追放からの復帰をもたらすものとして祝ったのであった。この驚くべき変動は単に政治的な出来事だけでない。それは、1665年のロンドンのペスト大流行であり、その次の年のロンドン大火である。ロックはその二つの出来事を安全なオックスフォードで伝聞したのではあるが。そして17世紀の下半期における化学的知識の飛躍的増大という現象もあった。微積分の発明、科学的調査の重要な装置である顕微鏡、空気ポンプの改良、ニュートンの”プリンキピア”の発行などがそれである。これらの出来事がロックが生き、そこに対して大いに貢献した知的世界を形成している。
2
第1章では、Mark Goldieが時代の中でのロックの歩んだ過程をたどっている。彼はロックの相対的に目立たない初期に、彼がウェストミンスターとオックスフォードで受けた教育について伝える。彼はロックがクライストチャーチで要求された聖職の保持という要件に乗り気ではなく、その免除を受けたことを教えてくれる。ロックは、1667年よりシャフツベリの家に仕え、彼の主人のプロジェクトに関わっていくことになる。そして、自身の仕事にも着手し始め、後に”人間知性論”や“統治二論”に結実する草稿を書くことになる。1683年にシャフツベリが亡くなり、その年よりオランダを放浪しながらの亡命が始まる。知性論も統治論も、1689年の英国への復帰まで出版されることはなかったのである。すぐにさらなる刊行物が続くのであるが、Goldieはそれらがロックにもたらした賞賛および批評についての解説を行っている。彼は更にロックの最晩年において、友人のカドワースの実家であるオーツにおける隠居で、いかに名声と悪名という圧力から自由であったかを記している。
3
ロックの人生における主要な出来事を描くことに関して、Goldieはロックの政治権力の本性と範囲の理論化に息を吹き込んだと言える政治的なコンテクストを忘れることはしていない。もちろん自然科学との関わり、スコラ学への敵意とデカルトへの負債も描かれている。しかし、それらの主題はさらなる探求を要求されるものであり、それは次の四つの章で行われるのである。

4
2章においては、Jacqueline Roseがロックの政治理論家としての展開をもたらすいくつかのコンテクストを描いている。Roseは多様な要因に注意を向けさせようとしているが、おそらくその中で最も明白なのは。チャールズ二世の専制的な統治であろう。宗教的分裂による緊張が当時存在しており、不和は一方の側の分派的な不安定性と、片方のカトリック的不安定性によって加熱していた。チャールズ二世がシャフツベリと彼の協力者によるカトリックであるヨーク公の王位継承からの排除を妨害し、彼らの行動を処罰した1679,1681/82年の危機は、ロックに”統治二論”を描くように促した。この作品は将来現れるであろう統治、そして当時のカトリック的で恣意的な統治に対抗した著作であった。しかし、Roseはこの著作は以前の内戦の激動の記憶に脅かされていたことも指摘している。ロックの主要な標的は専制君主制という誤謬であったのだが、解説によれば、彼は議会派の内戦における過激さにも用心深くなっており、議会もまた専制的たりうることに気づいていた。その他検討されるのは、政治的党派性の増大、印刷された言葉が席巻する公共空間の成長といった事態である。ロックの寛容論を扱うにあたっては、筆者はロックがオランダで経験した宗教的共存の現実と、宗教的少数者を保護していたナントの勅令をルイ16世が破棄したことによる、大量のプロテスタント難民の流入についてロックが知っていたことを指摘している。

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ロックの政治理論の多くをもたらした原動力を理解するために、英国の社会的、政治的発展を検討する必要があることと同様、ロックの『人間知性論』における主要な関心を示すためには、彼の自然科学、自然哲学への貢献を理解する必要がある。ロックの友人であるJames Tyrrellは、道徳と宗教の基礎づけに関する議論がロックをして認識論に向かわせたのだと語るが、ロックのその刊行物においては出だしから既に、自然界に関する知識を拡大するという広大な企画に接続することを意図していることが示されている。「読者への書簡」においては、ロックは自身の役割を”an Under-Labourer”、ボイルやニュートンのような”Master-Builders”の仕事が、言語の誤用に伴う混乱によって害されているわけではないことを示すためにその基礎を明確にする人間として表現している。彼は第三書において、様々な言語の誤用といかにしてそれらを避けるかについてほのめかしている。しかし、第三書以外においても、ロックの自然哲学への関与を明らかなのである。知性論の主要な問題提起の多く-いかにして知識は経験によって生ずるのか、いかにして事物は種類に分類されるのか、物体の諸特徴とは単純であるのか、そして、物体に関する論証的科学の可能になる条件とは何であるか。-は、彼の物理学、化学や植物学、医学への考察、関与、研究によって生じてきたものなのである。

6
ロックが一人前の自然哲学者と呼べないとしても、彼はディレッタント以上の人間ではあった。彼は医学や化学に関する強い興味を1650年代以降より持っており、その十年間の終わり頃までに、それらの分野に関する膨大な量の読書とメモを残していた。次の十年の初めには、彼はボイルとの交友を持ち、医学と化学に関する講義に参加していた。そして、彼の読書は自然哲学にまで及び、デカルトの物理学、光学、天文学に関する著作も含まれていた。1660年代の中頃には、ロックはDavid Thomasとともに、化学実験室を立ち上げ、ロンドンの有力な物理学者であり、彼に医学の実技を導入し、彼の医学理論に関する知見を与えた人物であるThomas Sydenhamと交友を持ち、1675年には、ロックは医学の学士資格を授与されることになった。シャフツベリ伯との旅や交流により、その興味は妨げられることもあったが、彼の医学そして自然哲学への関心は一生続いた。そうであるから、オランダでの放浪において、医学者とともに結腸について議論したり、ボイルやニュートンの著作に関する書評をBibliothe`que universelle に寄稿する彼の姿が見られるのである。1690年代において、ボイルの著作権執行者になった際には、ボイルの論文から数百ページの化学に関するノート写本の製作をさせている。

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第3章では、、Peter Ansteyが、ロックの科学に関する哲学における緊張を描きつつ、彼の自然哲学への貢献を確認している。第一の緊張は科学の方法論における対立する観点についてである。一方において観察できない因果関係についての推測による仮説を許容する観点がありつつ、もう一方においてはネオ・ベーコン的なアプローチ、先のような推測的仮説を退け、その代わりに自然史の集積という営みを奨励する視点である。Ansteyは、ロックが、自然史の方法論にコミットしつつも、そのコミットが彼のcorpuscularianism(ニュートンの光粒子説)への信奉によってしばしば不安定になっていることを示している。もう一つの緊張は、自然哲学は観察に基づくべきというロックの考えと、論証的知識としての科学的知というアリストテレス的な理想への憧れの間に横たわるものである。ロック自身の観点からすれば、物体に関する論証的科学は不可能であるはずである。しかしAnsteyは、微小な粒子の観測が可能になるならば、そのような論証的科学へ向けた進歩も可能であることをロックは認めているのだと提唱している。そして、Ansteyは初期ロックの方法論的見解と
、その後のロックによるニュートンのプリンキピアという業績の受容に対立を見て取るのである。知性論やその他の著作において、ロックは確かに原理や命題の体系を打ち立てるという事業に関して否定的な言辞を行っているのだが、ニュートンがその事業をなんとか成し遂げていると述べることはできたのであろう。Ansteyによれば、ロックの科学の方法論に関する視点は彼の人生の終盤まで変化し続けたということができるようだ。

8
ロックの知性論は意欲的で、広範な哲学的著作であり、科学の哲学に関する論文にとどまらないものである。その著作は、同時代の科学のみならず、著者と近い時代の哲学的著作に影響を受け、それらへの応答を含んだ著作と言える。ロック自身の背景にある哲学は、スコラ学とデカルトによるものが大半を占めている。彼のスコラ学との関係は第4章のAshworthの論考の主題であり、デカルトとの関係は第5章のDowningの論考が扱っている。

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いきなり知性論を手に取った読者は、ロックのスコラ学及びデカルトとの関係は敵対的なものだろうと考えることになるだろう。彼の両者への言及は常に批判的であり、嘲笑的な色を含んでいるときもあるほどだ。AshworthとDowningの論考は、ロックがどれほど的確に、もしくは的を外して先駆者たちの視点を理解したのか、そしてどれほど徹底して、もしくは不完全にそれらを退けたかについて繊細な像を提供してくれる。それらの結論は、デカルトへのコミットはスコラ学よりも大きいということは確かに出来るにせよ、非常に入り組んでいる。Ashworthによれば、このことは、ロックのスコラ学との接触がアクィナス、スコトゥス、オッカムといった人物の著作によってもたらされたものではなく、確かに有力ではあるが、それほど重要ではない人物の著作を知ることで行われたことが一つの原因であるとされる。物体の本性についての主題においては、ロックは確かにスコラ学に同意を示しているのだが、Ashworthは、ロックとスコラ学の議論の類似性は表面的だとされる。スコラ学の影響が確認されるのはロックの形而上学ではなく、論理学や言語哲学においてなのである。

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ロックの理念に関する理解や、直感的、論証的知識の描写の中にデカルト主義の影響を見てとることは確かに可能であるが、彼はデカルトの基本命題を拒絶しているのである。デカルトが延長を物体の本質だと述べ、世界の本質を充満の原理(ラブジョイが述べてるやつですかねん)に見てとるのに対し、ロックは物体と延長を同一視する議論に対抗しており、さらには真空の可能性を認める議論を行っている。デカルトが思考を精神の本質とするのに対し、ロックはデカルト主義者の結論であるところの思考が常に行われているという命題に挑戦している。デカルトはロックにとっては生得説批判と懐疑主義に関する記述におけるターゲットの一人なのであった。

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ロックはデカルトの哲学を評価しているわけではないのであるが、Downingの議論が正しいのであれば、彼はこのフランスの哲学者を詳細に読み込むほどの注目はしているようなのである。彼女はロックがデカルト省察及び哲学原理の主要な節に対して応答しているだけでなく、デカルトによるガッサンディへの返答や書簡におけるそれら命題の込み入った擁護に対しても応答しているのである。このことがは、ロックがスコラ学を既に活力を失った伝統とみなしているのに対し、デカルト哲学を判断に入れるに値するだけのものとみなしていたことを提起するのであり、実際にそうしていたのである。彼が人間知性論の最も古いヴァージョンに手をつけ始めた時、デカルト主義の認識論及び形而上学に対抗するという目的は存在していなかったのだが、その意欲は間もなく彼のうちに生じたのであった。

Government Ethics, and Society

1
ロックの統治二論は知性論と同年に世に出ており、その著作は大きな影響を及ぼすことになった。知性論が伝統的な知識の源泉に関する議論に対して、近代における代替の説明を提供したように、統治二論は政治的権威の源泉についての近代の代替理論を提供したのである。二つの著作はともに長い形成期を経て、世に問われており、統治二論-その主要なメッセージとは、王の権威はアダムに由来する神聖な恩寵によるのではなく、統治される人間の同意に基づくということである-はもともと、将来起こるであろうチャールズ二世に対する反抗への正当化として書き始められたのであったが、その後、1688年の名誉革命の事後的正当化として作り直されて読者に提供された。しかし、知性論がロックの認識論と形而上学に関する初めての著作であったのに対し、統治二論は、彼の政治的著作の最初のものではなかったのである。1660年に彼は、出版はしなかったのであるが”Two Tract on Government”および『自然法論』、『寛容について』を書いているのである。その他の短い未刊行の政治に関する著作、擲り書きといったものは1670年より作られている。ロックの政治思想を学ぶ者は、いかにしてこれらすべての著作に整合性を見出すのか、そして、どのようにして彼の様々な問題に関する視点が発展していったかという問題に直面することになるのである。

2
ロックの「自然法」-それは、人間がいかに振る舞うべきかに関する最も普遍的な原理である-についての視点にはある問題が関わってくる。彼の自然法論は、プーフェンドルフ、グロティウス、フッカー、そしてスアレツにまでさかのぼる自然法論の伝統に立脚しているように見えるかもしれない。ロックは自然法を神のその被造物に対する所有権に基づいて生ずる究極的規範として把握しているように思われるのであるが、それに反し、統治二論は、個人の自身を所有するという事実に基礎付けられている自然権という図像を提供するように思われる。問題は、後者の著作においても「全能で無限の叡智を備えた創造者の作品」であるすべての人間を拘束する自然法について語られており、議論が混乱していることにある。

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S. Adam Seagraveが19章で説明している通り、解説者の中にはロックの統治二論の目的は自然権自然法の枠内で基礎づけることにあると議論しているものも存在し、ロックは自然法と独立の自然権を定立しようとしたという議論をするものもいるのである。一つの魅力的な提案はこうである。ロックに取り神の人間に対する所有権が実際の所有権であるのに対し、私たちの自身に対する権利は制限された用益権、領主が借地人に与える権利であるとみなすことである。Seagraveはしかし、この議論を不十分だとみなしており、異なる考えを論じている。彼はロックの知性論における動物としての人間(ロックが”man”と呼ぶもの)と個人や自我の区別に着目している。Seagraveによれば、前者は神の作品であり、所有物である。しかし、人間が自身の活動、そして自身のPropertyの獲得を通じて個人へと成長するのだとされる。神の私たちへの所有権が私たちのものに勝る理由は、私たちの自身に対する所有権が神の許可に依存しているからではなく、神の創造的な活動が私たちの活動より偉大であるからだとされる。それが私たちの活動より偉大であるのは、私たちが存在する事物に働きかけるのに対し、彼はex nihilo、無から創造する営為を行っているからである。

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ロックの説明においては、神の私たちに対する権威及び私たちの自身に対する権威は私たちがpropertyであるという事実に由来するとされる。このことは所有権の認識をロックの政治哲学の核心とみなすことにつながる。そのため、彼が最初の所有がいかにして出現したか、そしていかにして所有が貨幣及び政治共同体の設立をもたらしたのかを説明する必要を彼が感じていたとしても不思議ではない。20章においてRichard Boydが詳しく語っている通り、ロックは私的所有権は人間が自然の恵みを収集し、土地を区切って囲い込み、自然の事物を書こうするようになったと同時に出現したと述べている。神は始め、世界を共有物として与えたのであるが、誰かがその自然の状態からものを取り除き、彼の労働と混ぜ合わせた時、その者はその事物を得るのだとされる。しかし、ロックは同時に、個人がそのような手法で正当に所有できる量への制限を述べている。使用可能な分量を超えた事、及び獲得した者を放置した時、物の獲得は自然法違反だとされる。

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明らかにロックの所有論において問題だと思われることは、いかにして神が集合物として与えた事物を私的獲得することを正当化するのかということである。各人が自身の労働を自身の所有物を得るため用いて良いとする人間の暗黙の同意によっての正当化を想像することはできるが、ロックはそのような手法はとらない。Boydが言うには、ロックの提供する正当化は、-個人の自己保存の権利に基礎付けられたものである-まず共有とされているものからどれだけを合法的に獲得できるかを控えめに制約することから始まる。新しいものを作りだすための労働力の使用は、他人には労働力によって作り出されるまでは存在していなかった者に対する権原の主張はできないため、正統な私的所有の範囲を拡大するのである。そして、私的所有権の完全な展開は、貨幣制度の発明とともに初めて可能になるのである。ロックは貨幣経済の物々交換経済に対する有利な点を認識していた。そしてここにおいて、彼は大いなる不平等をもたらすことになる制度を正当化するために暗黙の同意の概念に頼っている。(この概念の導入の問題に関しては27章で扱われる)

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ロックは政治社会を、私的所有権が創設されたのちに現れるものとして描いている。Boydが提唱するように、おそらく彼は、政府を貨幣経済とともに出現する不平等による社会的不安への対応として出現するものとして考えているのであろう。ロックによれば、政府が出現する際は、本源的に自由な、自然状態にある人々の間の社会契約として生ずるのである。このことを歴史に基づく推論として示そうとすることもロックの記述には見られるが、21章のJohn Simmonsの記述は、これらの歴史に基づくかのような主張は、ロックの主目的ではないのだと注意を促している。Simmonsによれば、ロックの主要な関心ごとである自然状態とは、現在においてさえ存在しているということができるような、私たちがそこから生み出されるような領域なのである。それは相関的な状態-未だ暗黙にも、明示的にも他の人間とともに社会に入ることを同意していないとみなされる状態のことを指すである。人は他者とは自然の状態でありながら、特定の人間との間のみの関係において市民社会に参入することができるとされるのである。

7
ロックの政治哲学における主要な主張は、他人との政治的な状態に入ることの自由な同意を行うまでは、政治的権威に正当に服しているとは言えないということである。ロックはさらに、自然法は、個人が同意によって失うことのできる自由の範囲や、政治権力の外皮を保持している者の大権に制約を加えることを述べている。Simmonsはロックが政治状態に同意することに三つの段階を設けていたことを示そうとする。政治社会への加入→特定の統治形態への同意→特定の個人への政治権力の信託という段階である。この簡潔な図式を複雑にさせるのは、二つ以上の段階が同時も行われるためである。その上、同意が明示的でなく、暗黙であることもその複雑さに拍車をかけるのだ。ロックがそのような暗黙の同意は何を必要とするのかについて何を考えていたのか、彼は暗黙の同意が個人に政治社会の完全なメンバーソップを与えると考えていたのかは難しい問題である。

8
ロックが興味を持った政治社会の問題は、人民の宗教への遵守を確保するために、政府が正当に行為できる範囲に関わるものである。22章においてAlex Tucknessはロックの宗教的寛容に関する最も強固な議論は、人間の可謬性、普遍的原理の適用に関するロックの視点と密接に連関していると論じている。Tucknesは、このことが今までの学会において、1689年の寛容書簡に注意を払い過ぎていたために見落とされていたと主張している。寛容書簡は、人は強制して何かを信じさせることはできず、真の信仰のみが永遠の生を保証するものであるため、人々を真の宗教に導くために権力を行使するのは見当違いであるということを第一に主張している。オックスフォードの牧師であるJonas Proastは、すぐにこの著作に応答をし、強制力は確かに直接的に信仰を与えることはできないが、適切な強制力の使用は間接的ながらそれを達成することができると主張した。彼が言うには、強制力の行使は人間を導いて、「強制されなかったならば、考えることがなかったであろう、彼らを納得させるに足る適切な推論と議論を検討させる」ことになるのである。

9
Proastの応答は、ロックの死まで続いた彼との書簡のやり取りを開始させることになる。ロックの側の手紙は数百ページにも及んでいる。そしてそこでは、Tucknessが伝えるところによれば、彼は強制により人々を真の宗教にミビチクことの不可能性というテーゼを脇に置いて議論を行っている。その代わりに、ロックは人間の可謬性と、道徳的原理は適用において普遍的でなければならないという要求を強調するようになっている。この軸の思考は彼の初期の著作、死後まで刊行されなかった『寛容に関する論考』においても現れているものである。後半の著作では、ロックはその議論を明快にしている。自然法は神により制定され、神は人間の可謬性が「真の宗教を促進せよ」というような指示では失敗してしまうことを予想できているため、自然法はそのような規定を含んでいないというのだ。ロックの後の書簡において、「各教会は自身にとっては正統なものとしてある」というような議論は、「真の信仰は強制されえない」という議論よりも優越性が与えられているのである。彼の時代において、この議論は強力な宗教的寛容の擁護を果たしたのである。

10
政治学、認識論そして宗教論において、ロックは各人が自己決定し、自身の道を探すことに責任を持つことを強調している。いかにして人々にこれらの行為を準備させるかは、彼にとり重大な問題であった。23章でRuth W. GrantとBenjamin R. Hertzbergは、ロックがこの問題に関する議論を展開した二つの著作を検討している。1つ目は『教育に関するいくつかの考察』(Some Thoughts Concerning Education)である。それは、1693年に刊行されたが、それは1684年よりの私的な応答を通して練り上げられたものである。もう一つは、『理解の指導について』(Of the Conduct of the Understanding)である。こちらは元々、人間知性論の4版に章として書き足される予定のものであったが、死後に別の著作として刊行されたものである。前者において、ロックはいかにして子どもが、賢明で祐徳な成年、「欲求を理性に従わせる」人間になれるかの指示を提供している。後者では、自身の理解力を向上、拡大させたい大人に対するアドバイスが行われている。

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多くの点において、ロックの教育に関する視点は、顕著に近代的なものとして注意をひく。彼は身体刑の日常的な使用と、奴隷的な規律に対して反対した。彼は、家での教育、独立した学習そして生涯学習に好意的であった。彼は、教育は気性と各人の才能にに適合しているべきだと主張した。私たちはこれらの発想が近代的なものとみなすことは、 ロックの教育哲学が広範な受容をされ、継続的な影響を保っていることの証左と思えるかもしれない。しかし、GrantとHertzbergは、彼の教育理論もやはり、難点なしにはすまなかったことを示している。例えば、ロックのプログラムの目標は、正当とされるものに対する挑戦を行い得る独立した思考する人間を育成することであったが、彼は両親と講師が褒賞と非難を子供の人格形成のために用い、子供が尊重を大いに求めることを利用することを提案している。権威からの承認に方向付けられた教育が、既存のものを破壊するだけの人間を育成し得るかどうかは、正当に疑問に付されるべき点であろう。GrantとHertzbergはここにおいて矛盾というよりは緊張を見出している。そして彼らが言うには、これはロックに限る問題ではなく、伝統的、権威的ではない自由主義的な教育に関心がある人間が直面する問題であることを示している。