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Sapere aude!!

読書録、学んだ事のまとめ 

Frederick Beiser”The German Historicist Tradition” intro おわり

内容に同意するとは言っていない

括弧内は補足です。

 

Oxford university press Frederick Beiser”The German Historicist Tradition”(2015)(ハードカバーは2011)

 


GHT 1-6
歴史主義の危機?
1921年、エルンスト・トレルチは、”歴史主義の危機”と題した衆目を引く論文をDeutsche Rundschauに寄稿した。歴史主義が危機にあるという考え、つまり、それが自壊に向かっているという考えはよく伝播するものであった。トレルチの論文が現れて後、歴史主義の危機はこの手の話題における決まり文句となっていった。あたかもそれは異論の余地のないことであるかのように、歴史主義は何故か破綻してしまい、二十世紀の最初の数十年のうちに消失してしまったのだ。残った問題は、この不思議な出来事を説明する事だけであるかのように思われた。

 

 

しかし、歴史主義の危機という出来事の存在は疑問に付されなければならない。1920年以降、ドイツの学問界において歴史主義は強い影響力を保持し得なくなっていたのは確かだが、歴史主義の伝統のうちに悲劇的な欠陥を持っていた。といったような危機によって衰退が引き起こされたのかを疑う事には理由がある。もしそれが危機によるものならば、それは歴史主義に内在的な問題によるというよりも、批判者によって生み出された問題に関係しているだろう。トレルチは歴史主義における危機を主に、自身の保守的な宗教観を脅かした事に見出していた。歴史主義の危機について云々することは自身の精神的危機を論敵に内包せしめる修辞的な手法なのであった。危機が実際に存在していた事への疑いは、歴史主義の危機に関する多くの理論を見ることで更に大きくなる。歴史主義にはそれへの反対と同じくらい多くの危機がある事が明らかになっている。簡略な二次文献への調査だけで、少なくとも、5つの異なった歴史主義の危機の説明のヴァージョンが見られるのだ。

 

 

1 トレルチの説明によれば、歴史主義の危機はその人間の価値へのアプローチに対する相対主義的な含意にある。もし価値が特定の社会的歴史的コンテクストの産物であり、それらのコンテクストが固有の共約不可能なものであるならば、普遍的絶対的な価値は存在しない事になる。歴史主義は相対主義であるが故に、生の無意味さの感覚であるところのニヒリズムを導くというのである。

2 別の説明によれば(シュネーデルバハを参照しています)、歴史主義の危機はニーチェの『反時代的考察』の第二部”生に対する歴史の利益と不利益について”における、歴史主義の背景にある価値と文化への攻撃に端を発するという。歴史主義へのニーチェの非難の本質は、それが内包する歴史学への関心が、存在に関する現実の問題からの逃避であるということにある。他人がなした事に関する、過去について得る全ての知識は、現在どう生きるべきかを教えてはくれないと彼は言う。ニーチェの作品は、当初あまり影響を与えなかったが、後に影響力を誇り、戦後世代に大きな負荷を与えた。

3 また別の説明では(Jaeger Rusen)、歴史主義の危機は、自然科学に基づき歴史学の概念を押し進めたカール・ランプレヒトの、『ドイツ史』が刊行された1890年より始まるとされる。ランプレヒトは歴史学は、自然科学同様に因果法則を決定するべきであると信じていた人物であった。ランプレヒトは自身の方法論を擁護する為に、ランケ史学の伝統の下にあるヴィルヘルム時代の最も評価されていた歴史家であるマイネッケらに論争を挑んだ。そして、ランプレヒトとベローの論争である。所謂Lamprechtstreitに帰結する事になった。一節では、この論争によって歴史主義者達は自身の方法論への信頼を失ったとされる。

4 もう一つの説明においては、歴史主義の危機は歴史の意味、構造や進歩に対して信頼をモテなくなった事に起因するとされる。この崩壊は、何百万もの若者を無為な死に追いやった第一次世界大戦の余波の一部だとされるのだ。大戦以前、歴史主義者は歴史の進展に対して強い信頼を置いていた。先頭に立つ歴史家、ドロイゼン、トレルチやマイネッケ等は自由派の国家主義者であり、中央集権国家ドイツの価値を信じており、それは歴史を指導し大いなる自由、平等、幸福へと導くものだとされた。しかし、ドイツにおける実際の戦争の遂行によってその信頼は大きく損なわれる事になった。ドイツは、国民を更なる自由と幸福に導く事無く、全ての世代を破滅の淵に追いやったのである。

5 最後に挙げる説明によれば(イッガースを参照してます)、歴史主義の危機はその内的な矛盾や、非一貫性に起因するとされている。その客観的知識への理想と歴史による強い条件づけ(という理論的前提)との対立である。歴史主義者達の科学や客観性への理想は、歴史家が全ての価値や先入見から自由な中立的な観察者となるかのような、自然科学的な客観的な知識への理想と同義であった。しかし、歴史主義の理論的視座にとってはそのような理想は全くもっておめでたいだけのものであった。その緊張は明確である。もし全ての視座が歴史的文化的条件付けを免れ得ないならば、どうやって歴史家は客観的で不偏不党の記述が出来ると言うのだろうか。


どの説明が正しいと言えるだろうか。全てであるとも言えるし、全て誤りだとも言えるのだ。全て正しいというのは、それらが歴史主義者の伝統における問題を実際に指摘しているからであり、全て誤りであると言うのは、それらのどれもが歴史主義者の伝統の消失を説明出来ていないからである。歴史主義の危機についての全ての説明の背後には、暗黙の前提として歴史主義が悲劇的な欠陥や非一貫性により消失したという観念があるのだ。しかし、私たちが見てきたように、この欠陥や非一貫性についての一致は得られていないのである。更には、そのような一致があったとして、歴史主義がそれにより消失したとは言えないのである。いつからある知的な潮流が、単なる理論的困難のみの指摘によって消失が説明できる事になったのだろうか。

 

もっと単純な歴史主義の衰退の説明が可能であるからこう述べているのである。ここで私たちは歴史主義の背後にあった目標を思い出してみよう。それは、歴史に科学としての地位を与える事であった。この目標を達成するために歴史主義者は大いに功を奏してきたのである。少なくとも歴史学は補助学ではない自立した学部を大学において得る事ができ、自然科学同様の名誉のある学問的分野と見做されるようになったのである。疑いを抱くならば、十八世紀中旬よりこの潮流が生じて以来、歴史学が学問の一角として目を見張るほどの地位向上を遂げてきたことに目を向ければ納得するであろう。そのため、歴史主義が消滅した理由は単純なのである。それ自身の目標を達成した為に、歴史主義は存在しなくなったという訳である。ここにおいて、歴史主義は失敗に終わった営為ではなく、大いなる成功を収めたと見られるべきである。その上、歴史主義は今でも大きな影響力を持ち続けており、現在でも消滅したというのは正確ではない。歴史主義は私たち皆の中で生きているのであり(←)、こういってよければ、マイネッケの言うところの革命の後継者として、私たちは皆歴史主義者と言えるのである。