Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

Stephan Kuttner, "Notes on the Glossa ordinaria of Bernard of Parma", Bulletin of Medieval Canon Law, 11 (1981), pp. 86-93.

 

今後は頻繁に更新していきます。その代わり自分の再確認用のメモという性格が強いので読みにくいものになると思います。

 

 

 

リーベル・エクストラの標準注釈の歴史はまだ描き切れていない。グラティアヌスの標準注釈の研究状況の、シュルテの1872年のモノグラフのタイトルを借りるならば「その起源から最近の版まで」といった状態と比べると、パルマのベルナルドゥスによる注釈に関して私たちの知ることの出来る情報は、その後期中世におけるインキュナブラ版や、1582年のEdiio romanaの印刷を介した伝達に関してと同様、概略的で場当たり的である。ベルナルドゥスの最低でも四回にわたる改訂が、1241年より前から、彼の死(1263-66)までに行われていたことは、Beryl Smalleyと筆者による1945年に出された論考において示されている。
 だがそれは研究の端緒でしかない。ベルナルドゥスによる注釈の作成は想定されているよりも技巧的ではないが、その作成様式を知ることは重要である。
 標準注釈の「死後出版の」歴史はまったく手つかずのままである。例えば、ベルナルドゥスのCasus longiは注解された教皇令集の手稿の中に、独立した層として組み込まれているように思われる。それは写本の、初期の印刷板のどこに見いだされるだろうか。LaurinはCICの研究の序文においてHain 8030,8034(ニュルンベルク1491,1496)をCasusが挿入された最初のインキュナブラ版だと報告している。私はバークレイでHain8029(Venice1492)を確認した。リヨンの1509.1510,1528はCasusを欠いており、パリ1529や影響のある1547年版は含んでいる。しかし、シャルル・デュムーランはCasusを取り除くことを決定している。彼は”qui visi sunt parum vtiles consilio Iureconsulti disertissimi”と述べている。

 Casusを組み込んだ全ての版、それは1582年のローマにおける公式版も含んでいるのだが、はさらなる精査が必要である。というのも主要な異読は最初のページから出現しているからである。精査作業は、これまで検討されていなかったCasusの最後に見られるNotabiliaにまで及ばないとならない。ベルナルドゥスのCasusは写本ごとに膨大な不一致が見られる。X 1.1.1、Firmiter credimusの注釈において事案(casus)が"Nota quod post symbolum Apostolorum..."から始まっているのを例外として、X1.2.9 Cum M. Ferrariensis以前のいかなる事案も"Nota quod.."の文言を含んでいない。これまで記録されていなかった、ベルナルドゥスのNotabiliaのベルガモにおける独立した写本伝承、Civica MS MA 137は彼のCasusを検分した写本との完全な一致を得た。それと対照的にローマ版は追加の12個のnotabiliaをグレゴリウスの勅書の事案の冒頭に"Premisssa salutatione sic pone casum"という形で含んでおり、Firmiter credimusには10の、X. 1. 1. 2には5の、X1. 2. 1には2の、X1.2.2には3の追加のnotabiliaが付されている。Casusを長くすることで、ローマ版の校訂者は1547年のパリ版に従ったことになる。以下がパリ版のタイトルページとなっている


Gregorii noni Pontificis maximi Decretales epistolae ab innumeris paene mendis, cum textus, tum glossarum repurgate: quarum casibus superaddita sunt brevissima Bernardi glossatoris notabilia nunc primum in lucem edita. Parisiis Apud Jolandam bonhomme sub signo Unicornis. 1547

 献辞において校訂者のプレモンストラントのベネディクトゥスは"epistolae nunc autem disertissimi glossatoris Bernardi notabilibus illustratae, quae non tantum peritioribus verumentiam rudiorubus utiles habentur"と記している。しかしそのように述べられたNotabiliaを示す写本の証拠は見つかっていない。当該テクストの校訂は16世紀より余分な加筆をそぎ落とす形で行われ、筆者もそれにコミットしているが完遂されてはいない。中世の人間の主眼としていたことは、筆者の細心の注釈を見いだすことであったのであり、その作業は外の教皇令への注釈などを参照にして行われていた。
 歴史家はその一方で起源と発展を追跡しようと望んでいる。インノケンティウス四世の立法は1945年の論文を書いていた筆者達に、ベルナルドゥスの注釈が最後の第四ヴァージョンへと至る変化を追跡する指標を与えてくれた。しかしながら、インノケンティウスによる、公会議前、公会議時、公会議後の制定を追跡せずとも、最初の校訂を識別することができたかもしれない。それは序文に続く最初の注釈と、第一巻の結論部の注釈を見ることで特定可能だったのである。(以下、写本とローマ版(こちらは第二版以降の変化を反映しているとされる)の対比が行われる)"

近世ヨーロッパにおける 外国人を保護する都市の責任についての議論(2)

 

以下のものの続きです。

 

kannektion.hatenablog.com

 

 


3.4 ソトのDeliberacion の概要

ソトは自身のDeliberacionの4,5章を都市から外部の貧民を排除していいのかという問いについての考察に当てている。外国人(exteros,extrangeros)とは主に別の都市からくるスペイン人、スペイン以外の国からくる人々の両者を指している。
 ソトが排除に反対する第一の理由は、排除が追放刑と同様の結果をもたらすという点にある。追放刑は重大な犯罪を犯した者のみに通常課せられる刑だが、それを外からの貧民に課すことは不当である。これは、自然法および万民法の観点からして、害を与えない限り(culpaを有さない限り)各人が望んだ場所に向かう自由が認められており、公的な場所を自由に通行することも同様に認められているということを前提としている。そして仮に誰かを都市から追放して、故郷に戻すという場合には追放とは言えないせよ、その行為は、本人に手落ちがない場合には損なわれない権利を奪っていることになる。
 ソトによる万民法を持ち出した正当化は、ビトリアのius peregrinandi,peregrendiの正当化を思い起こさせる。そのような意味で、彼の議論を、ヨーロッパ外に向けられていた議論をヨーロッパ内に転用したものとして評価しえる。しかしながら、両者は権利行使の主体が、南アメリカへの旅行者と、貧民という点で異なっていることは無視できない。
 公的な場を利用する権利としての万民法をソトは援用しているが、それに対してTannerのような批判者は、彼の議論は各人が都市を訪れることを正当化するものではなく、都市内部に外部の者も利用可能な道などをもうけることを求めているのみであるという反論を加えている。だが、ソトが援用している万民法とは、それに基づいて各人が行使できる権利(この場合は通行権など)を導出するためのものであった。
 同時代の法学者は、どの道が公道(via publica)に相当するのかについて議論を加えていた。彼らは公道から誰かを排除するという政策は、単なる都市行政官には行うことができず、主権者の決定が必要であるという点において殆ど一致していた(メモ:ここにおける「主権者」の原文、含意は後で調べる)。ただし、主権者ですらそのような決定を行い得ないという主張をする者も少数ながら存在していた。
 都市外部の者が都市の街道を利用できるのかという問いと、彼らが都市に入ることが出来るのかという問いの間には大きな相違が存在していた。両者は結びついていたが、区別された上で取り扱われている。モリナの議論はその例証となる。モリナはビトリアの論から導かれる国境の開放性を否定し、各領域の外国人を排除する権利を正当化しようとする。しかしながら、公道については万民法において各人が利用可能であることを認めており、誰も正当な理由なくその利用を禁止してはならないとされる。同様に都市における物乞いの事例において、ソトは都市に入る権利よりも、街道を利用する権利に重点をおいていると考えて差し支えない。
 ソトの批判者達も、公道が、河川などと同様に公のものであり、万民法によって全ての者にアクセスが認められるとは考えている。だが、彼らはソトとは異なり、物乞いがもたらす害を強調している。例えば病気を持ち込んできたり、異端的な考えを広めたりすることがあるといったものである。このような害の防止という点から、貧民のアクセスを防ぐことは正当化されるという。
 ソトが外部の貧民を排除することに対して反対する理由は他にもある。確かに物乞いに施しを与えることは、例外的な状況を除き義務ではなく善意に基づくことであるが、物乞い自身は自身の必要を満たす権利を常に有しているのである。そのため、物乞いが都市の外部に向かわないように強制することは、他の住民に対して都市の貧民に施しを行うことを要求しない限りは行いえない。そうでなければ物乞いに対して欠乏状態を強制していることになる。そのため、都市において貧民の必要を満たすための施策がなされていない以上は、貧民は自身の糧を得るために相応しい場所に自由に移動する権利を有する。
 3つめの理由は移動の自由というものが、地域間の富の不均衡を是正する効果を有するということである。外部の貧民の存在を許容することは、政治体の多様な部分における、相互扶助の義務から免除する手段となるのである。(?)
 4つ目の理由として、地域ごとの富裕さだけでなく、都市によって住民の慈善に対する姿勢が異なる点が挙げられる。ソトは物乞いが同じ場所に長い期間いるともらえる額が少なくなったり、顔を覚えられて物乞いをすることに恥を感じるようになるかもしれないと指摘する。そういった心理的障壁を緩和するためにも移動は効果的だと彼は考える。
 5つ目に挙げる理由は神の法と自然法に基づいて要求される歓待の徳に基づいているものである。このことを立証するために、ソトは聖書から異邦人を歓待することを正当化する文言を多く援用する。

3-5 生じなかった論争
 ソトの議論は無視された訳ではないが、後代のスコラ学者に大きな反響を与えることはなかった。神学的領域でこの問題についての議論はいくつかの軸がある。一つはソトのテクストや、アロンソ・デ・カストロバスケスといった論者からなるものである。二つ目の軸は排外的な政策を支持するものである。 Martin Becanus, Theophile Raynaud,Paul Laymanといった論者からなる。三つ目は後の時代における排外政策反対派からなる。最後にはインゴルシュタットにおける論者(Valencia, Peltanus, Tanner)達がいる。

 ソトの議論はバスケスらによって支持されたが、Tannerはソトを多くの点で批判している。1606年に出た著作では、外部の貧民を受け入れることに依り予期される危害を挙げている。特にプロテスタントと異端の蔓延が挙げられている。彼はPeltanusを批判して外部の貧民が都市に入る権利を否定する。彼に依ればまず、確かに貧民は万民法に基づいて公的空間を利用する権利を有するが、それが共同体に対して重大な道徳的な差し迫った危険をもたらすときは停止されると言う。更には、外部の貧民の追放の責任は、それら貧民の故郷にあるのであって、当地にはないとも述べる。続いて、それぞれの貧民の故郷が、必要最低限の、重要性の高い援助程度は行うことが出来るという見解を示す。異邦人への歓待というものも、共同体を毀損しない範囲で認められるともTannerは述べる。最後に、彼はアンブロシウスが貧民を排除することを批判しているテクストの解釈を示し、アンブロシウスは単に土着の貧民を排除してはならないと述べていると主張する。
 その他に、新しい政策を認めたのはブラバンイエズス会士Becanusである。彼は当地の行政が移動を続ける貧民を排除する行為が正当かを問うている。彼によればそれを正当にする事情は三つ想定できる。1都市の資源が十分でなく、慈善の命令(order of charityなので慈善を行う修道会?)が当地の貧者を優先するように要求している場合。2外部の貧民が病気をもたらしたい異端や不和をもたらす場合。このような都市への損害を持ち出す議論は人文主義者が、スパルタやローマの排外的政策を擁護するときに一致して援用するものでもあった。3多くの外部からやってくる貧民に労働能力がある場合。都市において物乞いを認めることは怠惰を招きかねない。そのため労働に駆り立てることが適切な政策とも言える。しかしながら結局Becanusはソトの論証を否定してはいない。その他のソトの反対者もソト自身への反論に成功してはいない。
 実はスアレスやモリナ、コバルビアスといった論者はこの論点について多くを語っていない。このことは、彼らが救貧の義務自体については語っていることを踏まえると不思議である。
 道徳神学者達はどうして政策反対の姿勢を示さなくなったのか。このことへの推論的説明として、政策に言及した神学者の居住地等に問題があったことが考えられる。多くの政策はドイツの地域で行われたため、スペインの神学者の射程に入ってこなかったことは考えられる。更には、ドイツ以上にスペインでプロテスタント流入の問題は深刻であり、宗教的な危機として神学者達がこの問題を捉えるようになったことも挙げられる。
 その他にも、ソトやその後継者の論法が同時代の思考の風潮と会わなかった、分析手法が適切でなかったことが考えられる。ソトは貧者を平等な権利を有する、不幸な個人として描いていたが、更に後の時代の神学者は脅威を与える集団としてイメージしていた。後代の神学者は同時代における立法を必要とする状況は、わざわざソトに言及して論駁をする手間を免除していると考えたのかもしれない。
 ソトの議論は誤っているとまでは言わないが、同時代の人々が認識する社会状況からかけ離れていたという点で、時代遅れになっていたと評価し得る。そのことも踏まえた上で、更にソトの議論を見ていく。

Antony Black, Political thought of Europe 1250-1450, イントロ 内容紹介

 

 

 

 

 

 1250-1450にかけての政治理論は、多様な学問的伝統から成立したものだった。神学や法学、キケロアリストテレスのテクストの伝統といったものが主要なバックグラウンドである。キリスト教というものはその時代均質的なものではなかった。地域階層の偏差が大きい。特に教会の腐敗とそれへの批判や、異端という形をとった対抗いった要素が多様性をもたらしている。


 中世の理論家が規範的、理想的な議論ばかりしていたという見解は覆されている。experientia, rerum magistraを彼らはルネサンス人と同様に評価していた。法学者は慣習や先例に依拠し、法理論かはde jure な問題とde factoの問題にある区別に注意を払っていた。倫理学者は個人の救済に関心を向けることで、更に日々の生活における正義にかなった振る舞いとは何かについても考察を巡らしている。オッカムのような政治理論家は、具体的な状況下における正当な振る舞いを解明することに奮闘したという意味で、道徳神学の一部と考えることが出来る。


 公的な文書、書簡や取り決め、年代記といったものは同時代の人間が許容可能と考えていた言語のありかたを確認する事が出来る。そのような文章の多くは、修辞学者、法律家や教会人によって作られた物になる。彼らの言語は形式的な部分も多い1276年に書かれた作文法に関する教科書("De arte prosandi")や、宗教者によって記された年代記には、不和の反対物、調和であったり共通善を強調するものが多い。


 それではこのような共同体主義的な理念が後期中世において支配的だったと言えるのだろうか。まず言えることは殆どの人々は複数の集団、ギルドや家、村落、教会、信徒集団といったものに重複して帰属していたことである。そのような秩序の中で静態的に人々が過ごしていたことは確かだろうが、そのことから直ちに、多くの人々が個人主義的と言うよりは共同体主義的な志向を持っていたとは言えない。


 教育を受けていない普通の人々の意見は殆ど残されていないし、記録されやすい、反乱といった極限状態における主張が日常的な意識を反映しているとも言いがたい。だが、人々が極端に隷属的であったということは言えそうである。それと同時に、政治的な言語が変化した度合いと比べると、人々の意識の変化は緩やかであった。


 政治的な見解、言語は都市と地方、貴族と農民では異なっているだろう。都市内部での階層における政治的意識の違いを占める証拠は少ないが。世俗と教会の裁判所における政治言語は似通っており、両者ともに大学出身者や人文主義者が鎬を削っていた場であった。


 政治言語の地域的な分断腺はイタリア半島とそれ以外の間に引くことが出来、それは都市国家の早期成立が重要な原因となっており、それと同様にキケロに端を発するレトリックの伝統を採用していたことも影響していた。


 ヨーロッパ全体に関係していた問題としては、国家教会関係に関わる問題が挙げられる。それは十四世紀までは実際上の、教皇と特定の地域や支配者との関係に関わる問題が中心とされていた。
 イタリア以外のヨーロッパにおいては理論の類縁性は高かった。神学と哲学が国際的な正確を保持し、アクィナスやマルシリウスといった神学者達はイタリアから北ヨーロッパ君主制の地域まで移動をしつつ研究を繰り広げた。


 スペインや北ヨーロッパ君主制立憲主義的な形態へと移行していると評価されており、そこでは王と法、貴族、議会との関係や、世襲選挙制度の対立や、抵抗の問題に対して共通の特徴を身につけていた。実際において多くの著作家は特定の王国を念頭に置いた上で議論を行っていた『ブラクトン』や、ルーポルド・フォン・べーベンブルク、オレーム、フォーテスキューらは、自身の国の特定の問題を念頭において議論を展開していた。そのため、それを単に一般的な議論として読んだだけでは十分な理解がなされない。


 この時代の多くの著作はラテン語で記されており、それは行政、法律における共通言語でもあった。それでもやはり、母語として用いる人が殆ど居ないという意味でラテン語は死語なのであり、著作家達も内的思考においてラテン語を用いていたとは必ずしも言えない。そのため、私たちが手にするテクストは、一定の内容構成、修辞的技法を解して成立したものであるということを強く意識しないと行けない。このことは解釈上の問題を引き起こす。既にギールケは、知的エリートがラテン語によってゲルマン人の民主的な理論を、絶対主義的な鋳型にあてはめえてしまったという問題を指摘していた。彼らは同時代特有の、コミューンや共同体を、ローマ法におけるuniversitasとして相違を無視したまま把握するといったことを行っていた。この時代の学識ある人間は、同じ言語を用いつつも、複数の語彙を代わる代わる用いていた。そのため、類似の事実、見解を述べるに際しても、念頭に置いている人々の相違によって叙述が大いに異なるということがあり得る。それらの複数の「言語」を識別することは、不必要な混乱を回避することに繋がるのであり、それこそがこの時代の政治言語を理解するための必要条件となる。


 神学の言語は、ウルガタ訳による新約、旧約聖書やアンブロシウス、アウグスティヌスといった教父の言語に基づく。これは教会のみならず、行政に関する言語でも用いられていた。これは王政や服従といったものと結びつきがちだが、同時に統治者の道徳的責任や、神の前に置ける人間の平等も強調していた。聖書からの政治的言語の導出はアレゴリー的な方法が採られており、花嫁として教会を把握する伝統や、二つの剣という比喩がこの言語に由来する。


 その他にも、ヨーロッパの各部族の土着語や慣習に由来する言語も存在する。これは、封建的な発想と結びついており、宣誓や忠誠(fidelitas)、支配権(dominium)の語といった語に言及するものであった。政治的権威をdominiiumの語を用いて表現することは、支配と土地所有の結びつきを示唆するが、同時に全ての権力がキリストから由来するという宗教的な含意も有している。このような言語は学術的な言語によって完備されていった。


 その学術言語の基盤をなすのは、まずはローマ法であり、それはローマの元首制と帝政の政治的概念を反映している。だげ、ディゲスタの中には共和主義的な思考を反映した文言も残存しており、更にはローマ帝政の政治言語もストア派哲学の影響を受けている。後の時代の皇帝立法を加えた上で、アックルシウスの注解を経て、キリスト教政界で共有されるユス・コムーネが生成された。それと同じ時期に、教会法も教令集が作成されていった。


 キケロ的な言語は主にDe officisのテクストに基づいて生成された。ペトラルカ以降はキケロの修辞的な文体が、人文主義者達に深く影響を与え、ルネサンスの構成要素の一つをなした。
 アリストテレスの政治言語は倫理学政治学の著作から引き出されていった。それは様々な統治形態を評価する基準を与える。中世の著述家達はアリストテレスのように、様々な国家が実際にいかにして統治されているかについての経験的分析を行うことはなかった。彼らはアリストテレスの分類法を引き継ぎ、それを現実の政治状況で用いようとした。アリストテレス自身はポリスを規範的価値を持つ政治共同体としていたので、共和主義的思想の勃興を支えるものとなっていても不思議ではないのだが、実際にはポリスをcivitasとして把握し、殆どの政治的結合に対して利用可能な概念とした。そのことも手伝って、彼らはポリスにおける寡頭制や民主制に関するアリストテレスの議論にあまり注意を払わなかった。このことにより、本来のアリストテレスの体系からしたら混乱と思える事態が生じていたが、そのことは、彼らがアリストテレスを教義としてではなく、一つの政治言語として用いたことに求められるだろう。


 アリストテレスの言語を用いる者は、主な者が大学、学校出身のものであったため、スコラ学者と総称されたが、そのくくりは多様性を見落とすことになる。大学出身者は宗教的、世俗的、政治的に様々な役割を果たす者がおり、一部は大学の学生向けに書いていれば、別の者は聖職者、世俗の統治者に向けて書いていたりするのである。彼らにとりアリストテレスの言語は、現下の問題を分類して把握し、さらなる考察を行うための道具として有用であった。


 このような事情を踏まえるならば、実際に彼らが用いている言語と、彼らが述べようとする主張の相互作用や、ある言語を採用した事による、主張可能な事項の限定といった事態に目を向ける必要もあるだろう。それと同時に重要なのは、政治言語を教義やイデオロギーと混同しないことである。すなわち、神的権威の言説と絶対君主制の結びつきや、封建制権威主義や人民の統治の結びつきを想定するといったものである。特定の思考枠と特定の政治形態の嗜好は直結する訳ではない。クザーヌスが述べるように、神的権威はキリスト教世界の人民を通じて作用しうるのであり、同時代において、君主が臣民と何らかの契約を結ぶという事態を説明する仕方は、17世紀を待つまでもなく複数存在していた。前述したローマ法、教会法であったり、キケロアリストテレスを用いる伝統も、当然多様な政治的態度と結びつきうるものであった。ただし、特定の政治状況において採用されやすい言語というのも当然存在している。イタリア都市国家の共和主義者は、神学よりも法学、法学よりも場合によってはキケロをより好んで用いていただろう。


 盛期以降の中世は様々な視点から分析されてきた。ギールケがドイツ団体法論でこの領域を開拓したと言えるが、そこではゲルマン的なゲノッセンシャフトの伝統が、ローマ的なヘルシャフトの発想で変容していったことを示すことに主眼が置かれていた。メイトランドはイギリスの政体が中世の法と議会の伝統に根を有することを示した。ギールケ自身は新教徒であり同時にプルードンヘーゲルの政治理論を信奉し、後には保守的な国家主義者となった。団体主義者たちは近代国家、近代資本主義以前の時代を郷愁をもって眺めることがあり、同様にギールケはその時代の団体的、共同体的側面を強調した。ウルマンは中世の思想家、運動を下降的、神権的か、上昇的、すなわち人民主義的かで分類していき、後者の側面をルネサンスが引き受けたとする。このような、他の分野の専門家から苦笑されるような一般化を見ると苦々しい思いになる。そして、スキナーは初期ルネサンスを市民的自由の展開として読み解いている。ここにおいてもテーマが解釈において過大な役割を果たしていることが見られる。中世は多様な木が乱れる雑木林なのであって、封建的な思考が一面に広がるものでもなければ、共和主義的な種だけが育っていった場でもないのである。

 

 

近世ヨーロッパにおける 外国人を保護する都市の責任についての議論(1)

以下は、後期スコラ学の倫理理論を扱ったDaniel Schwartz,2019, The Political Morality of the Late Scholastics: Civic Life, War and Conscience の第3章、Keeping Out the Foreign Poor: The City as a Private Person pp. 58-78 の前半の紹介です。

 

 

 

 

Schwartz2019
p58- 

3 .1 外国貧民への倫理 

 16世紀初頭の不作によって、生活のできない農民の都市への移動が増大した。それにより物乞い、浮浪者の数は都市において増大したため、ニュルンベルクサラゴサといった都市では、流入者対策のための政策を議論していた。

 


 後期スコラ学者達は、都市にもともと住んでいる貧民が、都市の外から来た貧民より優先して救われるべきか、共同体の境界線を保つということが貧民救済の目的としてどのように成立するかについての貢献をなした。ソト(Domingo de Soto1494-1560)などの初期の論者は、都市という領域に限定されず、広い規模での連帯を想定して、救済が行われるべきだと述べた。後期の論者は、その政策は複数の善の衝突、都市の利益、外国の貧民の福利の衝突を前提として考察されるべきであると解いた。Adam Tanner(1572-1632)などの論者は、外国の貧民については「私たちが考慮すべき問題ではない」のであり、それは本国が考慮すべき問題だとも述べた。

 


 都市が外国の貧民を除外することは、後の時代においては私人が正当な権利を行使しているものと同様の評価を受けることがあった。つまり、都市は公的な視点、君主であったり、理想的な支配者の視点に立つことなく、その都市の市民のみを考慮した視点に立つことが許されるという視点が存在していたのである。

 


 最も有名なその時代における対貧民政策は、1525年におけるイーペルでの布告である。この布告は三つの目的を有していた。

 


 1 ほんとうに貧民であるのか、補償を求めて貧民のふりをしているのかを手続きで識別すること。
 多くの物乞いが実は生計を立てることができ、一部の者は隠れた材を有しているのではないかという疑いを人々は抱いていたのだ。その他にも、一部の者は補償を受けるために自ら不具になったのではないかとも考えられていた。

 


 2 貧民への援助の供給を再整備すること。 
 現行の救貧制度は奔放なものだと考えられており、多くが教会によって管理されていたため、事態の重大さに対処できないと考えられていた。物乞いは道を占拠し、病を蔓延させる存在だと考えられていた。そのため、道ばたでの物乞いを、公的な保護制度によって抑制する必要があったのである。合理的な官僚組織によって社会問題に対処する組織が必要とされた。

 


 3 貧民の外からの流入を制限し、外部における移動も規制すること。
 都市の物乞いは単に都市の外から来ているだけでなく、領国の外から来ている者もあった。例えばスペインにおいては、物乞いは北ヨーロッパ、フランスなどからやってくることもあったのだ。この目的は第一の目的とも連関しており、このような外国の貧民は故郷に戻ることを強制されることもあった。この章では主にこの最後の目的について論ずる。

 

 

3.2 道徳神学以外の領域における議論

 「貧困についての多大な議論」と称されるものへの最大の貢献は、人文主義的な作法で書かれた、支配者側に向けた論争的テクストによってなされたのである。

 最も有名な政策への用語は、人文主義者ヴィーヴェス(Juan Luis Vives)による、De subventione pauperum(1526)であり、それはスペイン帝国の一都市、ブーリュジュの政策に言及していた。その他のスペイン地域、スペイン全体にも改革の波が広がっていた。1523年、スペイン議会であるバリャドリードのコルテスにおいては外国の貧民の立ち入り禁止が議論されており、1525年のトレドのコルテスは、物乞いを身分調査した上で、神聖の貧民と分かった物のみに物乞いの認可を与えることを要求した。枢機卿の主導で貧しい農民達は1539年に、宮廷を動かして領域レベルの改革を導入させたが、依然として論争の対照であった。 そのような流れに引き続いて都市の改革が実行された。スペインにおいてはサモラの改革が有名だが、それは改革の正当性がサラマンカ神学者に問い合わせられ、承認を得たからであった。ソトは自身の承認が留保を伴っていることを私たちに伝える。その留保とは、「立法の内容が私に間違って伝えられており、実際には同意を与えなかったような立法が含まれている」ということであった。その後に書かれたのが彼の Deliberacion en ;a causa de los pobresである。それはスペイン語ラテン語の版が存在している。内容は1539-1540、1543-44に行われた抗議に基づいたものである。

 


 ソトのテクストはBenedictine Juan de Roblesのテクストに記された、ソトの選好する議論への応答に向けられている。Roblesは現地の貧民が他国の者より優先されるべきだということを論じていたが、彼はソトに同意して、他国から来た貧民も排除してはならないと述べている。彼に依れば本国以外での物乞い行為の禁止が許されるのは、各地域が自身の地域の救貧を適切に行っている場合のみだとされる。そうでない場合は、行政の側が、外国人が援助を受けることを妨げてはならないとされる。ただし、Roblesは、最も貧しいスペインの地域においても当地の貧民を救済することが出来る、すなわち、全地域が適切な救貧を行うことが可能だと考えている点でソトとは現状認識が異なる。Roblesはほんとうに貧民の状況にある人を識別し、そうでないものを労働市場に放り込む仕組みに期待しているが、外部からの貧民が真に窮乏した状態にある場合には援助を惜しむべきではないと考えている。

 

 

3.3 Medinaの議論とその受容

 道徳神学の枠内においては、Juan de Medinaとソトの議論が重要である。
 ソトは新しい救貧政策を攻撃していることはよく知られているが、それはJuan de Medinaの Codex de elemosynaに後続して公にされたものである。Medinaの議論の力点は必要性と利益に置かれていた。彼は外部の貧民は都市の内側の貧民より追い込まれており、相対的に有徳であると述べる、そのため、その地域の貧民を他国の者より優先する根拠は、他の全てが等しいならば正当だが、そうでないため正しくないと述べる。
 次にMedinaが述べるのは、もし全ての都市が貧民が入ってくることを禁じる場合、当の貧民が放浪を続けざるを得なくなるということである。そのような人々はのたれ死んだり、本来ならば手を出す必要のなかった犯罪に手を染めて、刑吏のもとで裁かれるということになりかねないのであるから認めがたい。
 そして三つ目として、当地の行政官らは、外部からの貧民が「彼を本当に救うべき自身の同郷の人がいるのだから、彼を故郷に送り返すべきだ」といった発想のみに依拠してはならない。彼によれば、そのような発想をする人は国家、都市の中には多くの、負債や上位の組織から要求、課税によって、その地に余裕のある人が全くいないものがあることを意識するべきである。
彼は更に続ける。
「追放されたり、彼に敵対する人が居たり、持ち物を接収されていたり、名誉を奪われたといった理由で、自身の故郷に戻ることができない人がたくさん居るのであり、彼らはそこにい続けるよりも、故郷を去るほうが望ましいと考えたのである。そのため、彼らが自身のすみかを変えたのは不正な罰によると言えるのである。貧民の出身地の多くは、敵の侵入や、舵、その他の災害にさらされていたりするのである。どうしてそんな状態の地に戻れと言えるのだろうか」
 Medinaの議論はイエズス会などの議論に大きな影響を与えてきた。貧民は故郷に戻されると危険な状態に陥るという認識は特に多くの論者が引用している。ただし、Tannerのような論者は、そのような貧民が送り返したり、追放されたときに受ける害は、その故郷に原因があるのであって、彼を追い出した地域にあるのではないといった反論をしている。

 

 

(つづく)
 

Civic Life, War and Conscience

鴎外『ヰタ・セクスアリス』における性欲

 

 以下に載っけたのは、東京大学性欲研究会誌第9号に寄稿したものである。

タイトルの通り、素材は鴎外の『ヰタ・セクスアリス』を扱っている。こっちに掲載していいと許可してくれた性欲研会長にはお礼申し上げます。会誌第8号は通販しているのでぜひ買ってくれると嬉しい。9号については原稿料がわりにもらったものが部屋に少し余っているので、言ってくれたらただで差し上げます。

 

 

 

 それにしても改めて読んでみると、自分の書いたものがしばしば他人に、概念や論理の演算をしているだけでそれが示しているものへの接近が弱いと評される理由がなんとなくわかった気がする。それと誤字を見つけたのだがどこにいったのかわからなくなった。また後で修正する。

 

 確かに後もう一つ二つの踏み込みが足りない分析になってしまっていることは否めない。どうしても言葉の背後にある現実を捉えるのは難しい。言い訳じみた言い方だが、自分はその概念の演算をして入るだけで楽しくなってしまうのでそこから先に進む力がまだまだ湧いてこないのである。スコラ学を研究して入るからといって自分自身がスコラ的になる必要はないしなってはいけないということは常に胸に抱いて生きていきたい。

 査読通過して掲載が決まった論文については、そういう部分もなんとか拾い上げようと頑張っては見たが、成功しているかどうかは人に読んでもらわないとわからない。掲載が待ち遠しいところである。

 

 

 せっかくなので対象テクストが載っている青空文庫へのリンクを貼っておく。

www.aozora.gr.jp

 

 

 

それではスタート

 

 

  今回、性欲について考えるに当たっては、森鴎外ヰタ・セクスアリス[1]を題材として選択した。選択の理由だが、まずそれなりに知られている人間を対象とした方がよいだろうという在り来たりなものに加え、三島由紀夫が鴎外の作品について評するように、「簡潔で清浄な文章」[2]で成り立っており、その表現も「よけいなものをぜんぶ剥ぎ取り、しかもいかにも効果的に見せないで、効果を強く出す」[3]ものであることから、明快な分析に適した文章を描いていることがそれである。そして更に重要かもしれないが、この「性欲」という語を文学の領域で初めて、現代の意味で用いていると評価されていること[4]も理由の一つである。起源においてそのものがいかにあったかは、私たちが意識しようとしていまいと、現在における当のものの有りようを規定するからである。本稿がその規定する枠を意識し、性欲についての新たな考察、意味付与を行うための一助となれば幸いである。

 以上のように手法を説明したが、もう少しだけ付言しておく。分析においては、単にテクスト内における性欲の語を列挙的に解説する作業ではなく、テクスト内に存在する、筆者ないしは登場人物の意図、問いにも着目した読解を行った。鴎外自身ないしは主人公が記すように[5]、このテクストを小説に分類するのも、文芸的なものと規定するのも困難かもしれないが、叙述と筋を含む以上、単なる理論書として扱うのは困難で、切り張りの分析は語にまとわりつくコンテクストを閑却してしまうことになってしまうからである。それに連関してもう一点、先に起源に言及したが、このテクストにおいて鴎外が初めて性欲の語を使い始めたのではない。ヰタ掲載の7年前に鴎外は、ドイツの精神医学の受容に基づいた論文である、「性欲雑説」を記しており、それ以前にも性欲に連関する考察、論考を発表している。だが、今回は文学の領域で公にされたものの中で、性を主題化したものを扱うという限定を行った。

 本論は以下のように進めることにする。まずテクストの概略を紹介した後、物語の冒頭と末尾を検討することで、テクスト内で当初に立てられた性欲に関わる問題と、末尾における解答の不在ないしは不十分さを確認し、テクストへの向き合い方を決める。そうした上で直前に立てられた問題への見通しを得るためにテクストを読み説いていき、解答を模索する。その中で、鴎外の用いている性欲の語のありようが見えるようにしていきたい。

 

本論

 まずはヰタのストーリー概略を見る。邦訳すると性的生活[6]とでもなるタイトルが示すように、哲学教師金井湛の性生活を記した作品である。だが、単に主人公の性に関する物語を著者が記したものではなく、その性生活は、金井自身が実際に記した「性欲の歴史」であり、金井の年齢ごとに区切られ、年代順に進んでいく物語である。読者は冒頭で、金井が自身の性欲の歴史の執筆を思い立つシーンに立ち会った後、金井の六歳の頃から始まる彼の性に関する記述を読み進めることになる。それは、性に関わるものではあるが、淡々と描かれているという印象は免れないし、色恋沙汰とでも言うべき出来事にも乏しいものではある。そして、21歳の頃の話で中断され、末尾において物語の冒頭の時間に引き戻される。そこにおいて、金井が子どもに見せ、公にする意図が失われたことが示された上で、彼による性欲の歴史の中断に至る。

 以上のような話の筋からして、一度は書くことを決意した金井が、なぜ途中で自身の性欲の歴史を中断し、公にする事を諦めたのかは当然疑問となるだろう。そこで、まず冒頭の記述から執筆の背景にある意図を見いだし、その後に末尾の記述から当初の意図がいかに扱われているかを確認することで、部分的解答を試みる。

 まず物語の冒頭を見ると、そこでは主人公金井の執筆意欲が記される。それは哲学に関するものではなく、文学的な執筆意欲であるが、芸術に対する要求の高さのため、容易には取り付けない[7]。そして、自然派の流行[8]やその他の性欲的描写を中心とした小説の出現や、性欲の発露とでも言える事件の流行[9]、あらゆる芸術は公衆へ向けられた性欲の発揮であるとする哲学書との接触[10]を経た上で、金井の奇妙な執筆意欲が湧き起こる。

 既に広まっている性に関する書物などには、人間のあらゆる出来事には性欲が関わっているといったことは記されているが、そもそもの性欲が人生においていかに芽生え、いかに人の生に作用するかを記したものはないと金井は考える[11]。そうして執筆を決意するのであるが、同時に性欲的教育の問題にも興味が出た金井は、自身の書いたものが教育に適するか、息子に見せられるかも検討しようとする[12]

 以上が執筆の経緯であるが、その他にも意図や問いが文中に散見される。金井は自然派やその他の性欲的描写を伴う作品に違和感を示し、以下のように述べる。「人生は果たしてそんなものであらうかと思ふと同時に、或は自分が人間一般の心理的状態を外れて性欲に冷憺であるのではないか、特にfrigiditasとでも名づくべき異常な性癖を持つて生れたのではあるまいかと思った」[13]。その他にも、出歯亀事件という、この語の語源となる事件の発生と、世間における「出歯亀主義」なるものの流行を見て金井は、「世間の人が皆色情狂になつたのでない限は、自分丈が人間の仲間はづれをしているかと疑はざるを得ないことにになった」[14]と違和感を表明する。そして、自身の性欲的歴史を書けば、「或は自分の性欲的生活がnormalだかanomalousだか分かるかも知れない」[15]と金井は考えるのであった。

 次に末尾を見る。執筆の中断はまず、自身の書いているものに芸術的価値を見いだせないことから来ている。「併し恋愛を離れた性欲には、情熱のありやうがないし、その情熱のないものが、奈何に自叙に適せないかといふことは、金井君も到底自覚せずにはいられなかつたのである」[16]。それではその情熱の欠如がなぜ生じたのか。金井の分析によれば、「悟性が情熱を萌芽のうちに枯らしてしまったのである」[17]。更に、「受けなくてもいいdubを受けた」[18]こともその一因だという。dubとは騎士への任命のことを意味するが、本文中では吉原における童貞の喪失を比喩的に表現している[19]。そうだとすると、冒頭で出された、自分がfrigiditasとでも言うべき性癖を備えているのではないかという問いには肯定的に応えることになるのだろうか。金井は考え直して、「世間の人は性欲の虎を放し飼にして、どうかすると、その背に騎つて、滅亡の谷に墜ちる。自分は性欲の虎を馴らして抑さへている」[20]と述べる。それでは、それが解答なのだろうかと思うと、金井は書いたものを読み返す。読み返した後に同様の見解を保持していたかは果たして示されない。ただ冒頭に出された別の問いである教育の問題へと触れ、「Pruderyに支配されている教育界に、自分も籍を置いているからは」公開は難しいと述べ、更に息子に見せられるかという問いについても、「若しこれを読んだ子が父のやうになつたら、どうであらう。それが幸か不幸か。それも分らない」とし、読ませない事にするのであった[21]

 以上のような執筆中止や公開の断念とその説明については、不十分さを感じずにはいられない。まず、自身の性癖、性欲への向き合い方や、それをどう評価するのかにつき、読み返しを経た金井がどのような判定を下すのかは空白のままである。更には、他人に見せることの断念について、先に紹介したような理由は、執筆を思い立つ当初から考慮されているはずである。冒頭においても、今後は性欲に関する教育を積極的にし、「人の性欲的生活をも詳しく説かねばならぬ」[22]といった当時の風潮が示されており、教育界が単にPruderyのみに支配されているとは言い難い。むしろ金井が自身を例外的に感じるほど、性欲についての言説が積極的に行われる環境ではなかったか[23]。そうであるならば、金井の述べる公開断念の理由が、某かの誤魔化しを含んでいるか、読み返しにより、当初の想定を裏切るほどの何かを金井が見いだしたということではないだろうか。以下では、金井の性欲的生活を記した文章に立ち入り、上で示した問いに対する空白や、不十分な箇所を埋めるべく検討を行う。具体的には、恋愛と性欲、情熱との関係であり、金井は性について冷憺であるのかという問題への解答であり、それを公に出来なかったのは何故かということである。その検討を経由しつつテクストにおける性欲の語、概念の持つ意味の広がりと限界を考察したい。

 

 ここからはヰタ末尾において、金井が自身は冷淡ではないか、性欲が欠けているのではないかという疑いに対し「自分は性欲の虎を馴らして抑さへている」と応答したことについて、金井が15歳の頃に成立した「三角同盟」を題材にし、検討する。三角同盟は、金井と大男の古賀、美男子の児島で形成された交友関係であり、金井は「僕の性欲的生活が繰延になつたのは、全く三角同盟のお陰である」[24]との評価を下している。古賀は男色ではあるが、その矛先は外側に向けられている。そのため、同室の金井は被害に遭わず、他の寄宿舎の男色の先輩から狙われることも免れていた。そして家のことを慮る児島については、「彼の性欲的生活は零である」[25]と評される。そして更に彼らを説明するのに、獣の比喩が用いられるのであるが、そこでは「児島の性欲の獣は眠ってゐる。古賀の獣は縛つてあるが、をりをり縛を解いて暴れるのである。」との表現がなされている。その他にも、遊郭のような場に向かったり、後輩男子生徒と男色行為に及ぶ学生について「平生性欲の獣を放し飼にしてゐる生徒」との評価もなされる。性欲の虎について考えるのに格好の場面といえよう。

 まず古賀について確認する[26]。彼の性欲の獣については「縛る」と「解く」の語で表現されるように、三角同盟の仲間内である時は少しも欲を発揮することはなく、月に一度くらいの荒日には、美少年の部屋に入り込んで翌日に後悔をするというあり方をしている。彼は他の寄宿舎の学生とは異なり、性に奔放であることを白眼に見ている。更には、安達という男が女のために学課を全廃し親を泣かせたことに対し、義憤を感じる精神も持ち合わせている。荒日のある彼においては性欲の獣を完全に寝かしつけることは出来ないものの、強い克己心、ないしは理性でもって平生はそれを縛り付けていると言えるだろう。

 次に児島について見る[27]。「彼は言動も挙動も貴公子らしい」人物で、洋学者の父を亡くしている。弟が放蕩をなして心痛を抱える母を慰めるためにも熱心に勤めている。芸者に好意的に話しかけられても淡々と機械的に応じるような人物であり、20歳を過ぎた時点でも女性との関係を有さなかったとも記されている。彼の場合、性欲の獣は確かに眠っているとの表現が適切かもしれない。

 そのような二人と比べて金井の性欲はどう評価されるのだろうか。まず、児島同様に眠っていると評価できるとして、その眠っているということが単に冷憺であるのではないのかと疑うことはできるだろう。そもそも性欲の獣が眠っている際に、それは「馴らして抑さへた」結果眠っている場合と、初めから眠った状態であり、性的刺激を受けたとしても抑えるような苦労をせずとも何も起きないという場合では懸隔を有する。児島について金井はその家庭環境や本人の真面目さを描き、性欲を抑えているような印象をこちらに与えるが、同時に性的な誘惑に対して児島が古賀のような葛藤を感じる描写は全く存在しない。第三者である金井の視点を介するにせよ、性欲的生活が零であるとまで言われた児島はImpotentだと言えるかも知れない。それでは金井はどうであるか。「僕が若し児島のやうな美男に生まれてゐたら、僕は児島ではないかも知れない」[28]との自白を行う金井は、単にImpotentなのではなく、容貌のせいでその機会がなかったから性欲を抑えることが出来たとの評価は可能だろうか。

 そうではないと思われる。友人の母親に歩み寄られたり[29]、年頃の女中と二人暮しをした際にも[30]、金井は何か思うところはあったが、終ぞ行動を起こすことも、強い欲望に囚われることもなかった[31]。先の自白の意図は、別様に理解されるべきである。容貌については例えば、14歳の時に友人の美少年である埴生が芸者と手をつないで庭を歩いた話を聞いて、美しい想像をする。そしてそのような美しい想像は、恋愛の萌芽であり、性欲とは結びついていないと金井は述べるのだが、その想像は埴生の美しさによっても担保されているのであった[32]。ここにおいて容貌は性欲とは区別された恋愛の構成要素と見做されている。その他にも金井は、「その美しい夢のやうなものは、容貌の立派な男女の享ける福で、自分なぞには企て及ばないといふやうな気がする。それが僕には苦痛であった」[33]と述べている。そして、金井は自身の容貌について、「女が僕の容貌を見て、好だと思ふということは、一寸想像しにくい」[34]と評し、親に対してそのため縁談に気乗りがしないことを伝える。恋愛と婚姻を同様に容貌と絡めているのは興味深いが[35]、ここでは容貌が直接性欲と結びつけられて論じられてはいないことを確認しておきたい。

 以上のようであるならば、美男子ではないことは金井にとり恋愛や結婚を困難とする障害であったが、性欲について果たしてどうかは分からない。美男子でもない古賀も性欲を満足させている有様を金井は見ているところからして、相違は感じられる。だが、先のもし金井が児島のような容貌だったらと空想する箇所では、恋愛ではなく「性欲の満足を求めずにゐる」ことについて、違ったかも知れないと考えるのである[36]。ここにおいてテクスト内における性欲と恋愛の関係を明確にする必要が生じる。

 ヰタ冒頭において「恋愛は、よしや性欲と密接な関繋を有してゐるとしても、性欲と同一ではない」との主張がなされ、関係と区別という両側面が見て取れる。これは性欲の自伝を描く前の概念的な理解である。だが、先の埴生と芸者の関係の場面では金井は恋愛の萌芽である美しい想像が「どうも性欲そのものと密接に関聯してゐなかった」[37]のであり、「僕だつて、恋愛と性欲とが関係してゐることを、悟性の上から解せないことはない。併し恋愛が懐かしく思はれる割合には、性欲の方面は発動しなかつたのである」[38]と述べる。ここにおいては、観念的には恋愛と性欲に繋がりがあることは分かるが、実感としてそれが結びついていないという、金井の転倒したとも言える[39]二元論が表明されている。これは金井の14歳の時の考えだとされるのであるが、その主張を飲み込むならば[40]、悟性の上で分かるという言葉は冒頭の性科学を踏まえたような主張とは異なり、他人の恋愛の情景や恋愛物語を目の当たりにして得た知識として、恋愛と性欲の結びつきを知ったということであろう。この場合に二元論をもたらしているのは、理論と実践という二項対立というよりは、他人、世間と自身の対立であり、その内実は自分以外の人間は恋愛と性欲の結びつきがあるようだが、自分の経験としてその接続は感じられないということである。このように理解するならば、美男子でないことは金井の理解によれば恋愛の障害とはなり得るが、金井の実感として性欲を求める妨げにはならなかったはずである。それなのに斯様な主張をなしたのは、そのような自身の実感に基づき開き直り、性欲のみを追求することを是としなかったためだろうか。ヰタ末尾で述べられる、「世間の人は性欲の虎を放し飼にして」、「滅亡の谷に堕ちる」ことの実例と言える埴生や安達について、金井が彼らの営みを恋愛として理解していることは、他人においては性欲と恋愛は混ざり合っているものだとする認識の証左とも言える。だが、先に言及した古賀の性欲の有様や、11歳の時に見た大人が吉原の話をする光景などは恋愛とは離れた単なる性欲が他人においても存在すると認識していたことを示してはいないか[41]。だとすると、先の二元論で自己の外に立つのは、単なる他人ではなく恋愛と性欲が結びついた美しい光景を生み出す他人であり、そのような外部が悟性を僭称してそのような光景を生み出し得ない自身の性欲を縛り付けるか眠らせるかしていたのだと考えられる。

 

 以上のような検討を経て最後に、末尾の「自分は性欲の虎を馴らして抑さへている」に代表される主張について考察をしてみる。自身の冷憺さを否定し、「自分の悟性が情熱を枯らしたやうなのは、表面だけの事である」[42]と金井は述べるが、直前で検討したように、その悟性は性欲が恋愛と結びつくことを要求し、美男子でない自分が恋愛に不適格だと断じる作用を有していた。そのような悟性は金井が満足のいく性欲の充足や恋愛を求めることを完全に封じてはいないだろうか。「虎の恐るべき威は衰へてはゐないのである」と言うが、発揮されないものを恐れる道理はない。仮に年を経て却って美男子になったり、悟性が衰えてそのような制約が消えてしまえばその限りではないにせよ、現状金井が「人並みはづれの冷憺な男」であることに疑問の余地はない。この事態をもたらした直接の原因である、恋愛と性欲が結びついたあり方を上位に置く金井の悟性は「併し恋愛を離れた性欲には、情熱のありやうがないし、その情熱の無いものが、奈何に自叙に適せないかといふこと」[43]を金井に自覚させ、性欲単体を否定し、更には恋愛と性欲が結びついたものを理想とし、それを実際に得られない苦痛を与える源にもなる[44]。だが、その悟性は恋愛の萌芽である美しい想像に基礎付けられており、その想像は性欲とは殆ど独立に生み出されたものであった。これを纏めると、恋愛と性欲が切り離された金井の心性こそが、美しい想像を生み出し、その美しい想像[45]が恋愛の性欲の結合や、恋愛の美しさを称揚してそこから逸脱せざるを得ない自己を苛むという図式に至るのであるが、この成り行きにも先の観念と実感の二元論同様に転倒を感じざるを得ないだろう。金井の叙述は単に自叙に適さないどころか、自己が孕む転倒、倒錯を開示してしまうものとなってしまっている。このような破綻を提示してしまうことの恐怖が、金井に公開断念を決意させた真の原因ではないだろうか[46]。仮に以上の図式を回避するならば、性欲と恋愛の分離を大っぴらに肯定することが必要であるが、金井の美しい想像はその二つの結合を当然とした。少なくとも金井の思考において、現代の性欲と恋愛の関係において時に理想とされるプラトニック・ラヴの可能性は殆ど見出すことはできず、二つの分離という発想は恋愛に結びつかない性欲という、彼に取りいくらか負のニュアンスを持ったものとしてのみ理解されている。金井は、真にその二つの分離を徹底させることができなかったのであろうか。それとも、彼の思考のうちでは見出されない性欲に結びつかない恋愛へのdubを何かの偶然で受けることが出来れば、何か変化が生じるかもしれない。勿論、その経験は今までの「悟性」や「美しい想像」を捨て去ることも意味するであろう。それともそこにおいて「性欲の虎」が目覚めてくるのだろうか、その場合には自身における二つの分離は治療されるのだろう。どちらにせよ今の自己は放棄されなければならないことは含意されているし、そもそもそのような想定も金井の「美しい想像」の中には含まれていたのかもしれない。それに21歳で洋行している際には女性と関係を持っているが、結局そこでも恋愛感情は抱かなかったようである[47]。先に述べたような変容の可能性も叙述において潰されていることを金井は読み取ってしまったのかもしれない。なんとも救いの無い話では無いだろうか。いかに変容の可能性が本文で潰されているかの分析は心苦しい。金井は性欲の虎を馴らしていると述べているが、そこにおける性欲は明らかに恋愛と結びついた性欲の意味であろう。その虎により滅亡の谷へ堕ちることは寝ている以上無いのだろうが、性欲と名のつかない−むしろ現代の用語ではそれこそが性欲そのものなのかもしれない−よく分からない衝動[48]で不満足な発散をしてしまうことや、自己否定的な美しい想像に苛まれることも緩やかな破滅なのでは無いのだろうか。これ以上はテクストの範疇を超えることになるので、私も「断然筆を絶つ」ことにする[49]

 

[1] 初刊行は1909年、本稿での本文からの引用は、タイトルを示さず1972年刊行の『鴎外全集 第五巻』のページ数のみを記す。以下ではヰタと略記する。

[2] 三島由紀夫,『文章読本』, p. 52

[3] 同上

[4] 斎藤光, “セクシュアリティ研究の現状と課題”, 『セクシュアリティ社会学』, p. 231、それまでは「淫」、「色」といった語が性に関する事物を表現していたが、それは道徳的にマイナスなニュアンスを帯びていたし、子孫を残す衝動などとの連関はあまりに意識されずに表象されていた。「性」の語は本性、性質といった、ものの中核的部分を指す意味で利用されていた。

[5] p. 177。井上優, “性と知、あるいは領土化をめぐる言説の構想”, 思想 1997年5月号, p. 110は、同時代の文壇においても同様の評価が存在したことを紹介している。

[6] 金井自身は性欲的生活と表現している。「Sexualは性的である。性欲的ではない。併し性という字があまり多義だから、不本意ながら欲の字を添えて置く」p. 90

[7] p. 86

[8] 鴎外と自然主義の関係については、小堀桂一郎,”自然主義反自然主義”, 『講座 比較文学』,参照のこと。

[9] p. 87、生方智子, “『ヰタ・セクスアリス』と男色の問題系”, p. 43は本文刊行時期の性に関する言説の流行を紹介している。

[10] p. 88

[11] pp. 88,89

[12] pp. 90,91

[13] p. 86

[14] pp. 87,88

[15] p. 90

[16] p. 177

[17] p. 177、唐木純三『森鴎外』では、「名から物へ」というキー・ワードの下、現実の人生経験を書いたまま、経験に対応する概念が先行して把握される事態が分析される。

[18] pp. 177,178

[19] p. 170

[20] p. 178

[21] p. 178

[22] p. 91

[23] 但し、公平を期するために指摘しておくが、当作品が掲載された雑誌、『スバル』は、発禁処分を受けている。

[24] p. 138

[25] 同上

[26] 以下pp. 130-142

[27] 以下pp. 130-155

[28] p. 142

[29] pp. 129,130

[30] pp. 147-152

[31] 金井においても児島においても、三角同盟での性欲を放し飼いにする他の学生への批判を三角同盟での集いで行う以上、そうした機微をそもそも解さなかったという解釈は困難だろう。

[32] pp. 122-124

[33] p. 121

[34] p. 156

[35] 井上1997, p. 123は、金井が「「恋愛」-「性欲」-「結婚」の一致という、いわゆるロマンティック・ラヴ・イデオロギーに包摂されている」との評価を下している。もちろんそのような着想の影響を見るのは容易だが、同時に金井がそれらの一致を見ずに区別を明白に主張していること、遊郭、吉原といった性のみを享受される場の記述を多量になしていることも評価されるべきであろう。

[36] p. 142

[37] p. 123

[38] p. 124

[39] 概念の上では物事は区別されていても、渾然とした経験においては区別されないというのが通常ではないかという意味で転倒の語を用いる。

[40] つまり、執筆当時の金井の見解を勝手に持ち込んでいるのでないのならば。

[41] pp. 102-109

[42] p. 178

[43] p. 177

[44] 「この美しいものが手の届かないりそうになつてゐるといふことを感じて、頭の奥には苦痛の絶える隙がない」p. 142

[45] 上の注釈の箇所における美しい想像は、安達の性欲と恋愛を対象としたものとなっている。

[46] 以上のような破綻が、冒頭で提示された性欲が人生においていかに芽生え、いかに人の生に作用するか、性欲に関する教育に適するかという問いに対する解答を殆ど不可能にしたということも大きな理由となるだろう。

[47] pp. 175-177

[48] 「負けじ魂」、「Neugierde」などと本文では表現されるが、例えば三角同盟以外の寄宿舎の若者達も同様の感情を主軸にして性的に奔放な生活をしていたのではないか。再読して自分については内心を記述し、他人の性欲については観察で断ずることの非対称性、不公平さに気づかないほど金井は愚鈍では無いだろう。その点に気付いたとすると当初の図式も破綻しかねない。

[49] p. 177

最初から最後まですべて読む気持ち, Pocock, Barbarism and Religion 1巻 intro

 

 

 みんな大好きポーコックの時間です。

今までのポーコック関連エントリは以下の通りです。

kannektion.hatenablog.com

kannektion.hatenablog.com

kannektion.hatenablog.com

kannektion.hatenablog.com

 

 ポーコックのBRはぐうたらしていた2年生のころから読んでいるのですが、読み方がつまみ食い的で、3巻はほぼ通読、2巻もかなりの章を読み切り、6巻も同様、5巻と1巻はちょっとかじった程度で、4巻はほぼノータッチという形になっています。

 

 そのため友人と最初から通読しよう会を開くことにしました。博士をとる頃までには完了してるといいなあくらいの勢いでやっていきます。

 

 今回はそのレジュメ代わりの、最初の最初、第1巻のintroの紹介をします。紹介形式と抄訳の混じった鵺的文体になっていますが、広い心で見てもらえると嬉しいです。

 

 

 

 

p.2

タイトルについて

 

 市民社会における古代の徳の理念の残存というマキャヴェリアン・モーメントの提示した図式に対抗する図式をもたらすことが本著の狙いだという。ギボンの着想の根幹は彼の時代の社会において古代における衰退のプロセスは再度生じないと言うことであるそうだ。

 この著作のタイトル(Barbarism and Religion)については、徳と商業、古代と近代、衰退と崩壊といったもの以上の要素がギボンの著作には含まれているのだという認識を示している。ゲルマン人たちの中にヨーロッパ的自由の萌芽が存在し、それが帝国のシステムにとって変わったのである。そしてギボンにとりキリスト教の問題は衰退原因としてよりも、衰退以降の新しい統治システムとして意味を持っていた。

p.3

 衰退と崩壊(Decline and Fall)はアントニヌス帝政を論じた最初の巻以降にまたがる重大かつ広範な論点である。最初は2-3cを扱っているが、それ以降の巻は11c以降の自体を扱い、ビザンツを論じている。これは中世までの歴史となっている。このギボンの企画の意図を理解しないとならない。たんに古代ローマの衰退と崩壊ではない。このギボンの企画の意図を理解しないとならない。そしてその企画を最初から持っていたということと、それに伴う困難に気づいてなかったことについての証拠は持っている。そのような事情により、その著作は当初の意図を大きく超える含意を得ることになった。

 野蛮人の語はゲルマン的な遊牧民を主に指しており、それはアジアも射程に入っていた。そしてそれはスコットランドの四段階発展論(それ以外の含意もあると思うが)といった図式を引っ張っている。

p.4

 

啓蒙への入り口

 

 以上の図式は啓蒙された歴史のテーマを背景に引きずっている。市民社会の歴史とその道徳性は中世の野蛮な時期の後、ヨーロッパ人が政治的決定権を得るようになったきっかけである国家システムの歴史の基礎をなしている。ギボンは近代というワードで、教会支配との距離も、古代との距離も意識している。法学者らによって近代の歴史は市民的道徳性によるシステムを形成するために利用されたのであり、それは教会支配からの独立に寄与するものだ。

 ヴォルテール、ヒューム、ロバートソンといった歴史家はキリスト教からヨーロッパ市民社会へと言う流れに興味があるようだ。dfはキリスト教時代への移入を扱っているという意味で彼らとは異なっている。p.5そして、彼が啓蒙の図式に乗っているとするならば、彼はその方法で後期古代世界を記述ないしは包摂しようとしたと考えられる。彼がそのような意図を形成し、著作の含意に気づくには時間がかかった。帝国の衰退として始まった企画は教会の隆盛を伴い、啓蒙された歴史の著作家の中でひとりギボンは教会史家となり、プラトン的新プラトン的そしてスコラ的哲学についての最も優れた歴史家にもなった。啓蒙がヨーロッパ精神から取り除こうとしたものであった。ギボンはその歴史を終焉まで視野に入れて描いた。だが、ヴォルテールと異なり、彼はそれを単なる暗黒、愚昧さに満ちた歴史的思考を不可能にするものとしてではなく、積極的な自己理解をする力を持った営みとして描いた。彼は信仰を持たなかったが、聖職者の歴史家同様に叙述したのであり、彼の人生と思考を理解するためには、啓蒙が宗教への反乱としてではなく、宗教的議論の産物として出現していた世界を視野に入れる必要がある。

 これで本巻のなんとなくの意図がつかめる。ポーコックは啓蒙されたと形容される歴史記述の営みにギボンを様々な側面で巻き込むものとしてDFを描いている。そしてポーコックは啓蒙をヨーロッパ文明におけるダイナミックな営みとして理解しようとする。ただし留意すべきはEnlightenment、それ以上にThe Enlightenmentは実際にその名前が当てはまる営みよりも後に生まれた語であるということだ。後者は固有名詞化された題目だから余計に後の用法ということだろう。そしてそのような語でくくることの意味を考えないといけない。ポーコックは啓蒙という概念をフィクションとは考えておらず、それを特定の営みを指し示すものとして把握可能であることも認めている。この営みの担い手達は確かに自分たちの営みの特異性、意義を自覚していたし、彼らの著作には光を連想させる比喩が入り込んでいたそうである。ただし、その担い手達は啓蒙という言葉で自身らを括ってカテゴリー化し、同時代の他の営みと自らを差異化し排除しようとしていたわけではない。

p.6

 

 

従来の啓蒙理解との差異

 

 ここにおいてポーコックは既存のナラティヴとの関係を述べようとする。ヴェントゥーリはギボンについて、イングランドでは啓蒙の営みが見られなかったとして、ギボンが啓蒙の営みから切り離されており、更には自国の文化とも切り離されていると評していた。確かに彼の言語環境などを鑑みるとそういえるかもしれない。だが、彼の著作がイングランドでも多くの反響を生んでいたのであり、実際彼は他の言語で書く可能性もある中、英語で執筆しているのであるから、その事情を考慮に入れなければならない。

 ヴェントゥーリはどういう図式を提示したいのか。『啓蒙のユートピアと革命』においては、啓蒙を一部のフィロゾーフの存在を指標として描いている。彼らは世俗的で社会批判をなすような人々とされ、英国には長らくそういう人は不在だと語られる。確かにヴェントゥーリはイングランドをそういった啓蒙の光の外に追いやったのではないが、彼によるイングランドでは異なった波長が存在していたという主張は、彼が決して十分に探求をしていないことを示唆する。

p.7

 本巻でポーコックは、ギボンがフィロゾーフを参照して定義される啓蒙からはまったく外れていることを見る。彼はフィロゾーフから追い払われたという訳ではない。彼は最初から百科全書派のようなグループの営みに賛同していなかったのであるから。だが、これは彼による啓蒙の拒絶を意味しない。ポーコックはバークが啓蒙の担い手であることを示す。彼は文人の一団(gens de lettres)やその後嗣に対抗して啓蒙のヨーロッパを守っているという自己理解を有していた。ここにおいてバーリンが定義するような対抗的啓蒙の要素が見られるが、それはあくまでも別の啓蒙と対抗する啓蒙を担っているという意味で妥当である。このように啓蒙を複相化させたうえでギボンへと翻ってみると、フィロゾーフの存在を必須としない啓蒙の形が浮かび上がってくるのだ。ポーコックはここでは啓蒙に関して二つの特徴を指摘している。一つ目は諸国家の体系が、商業社会的市民社会的下支えを伴って出現しており、それにより宗教戦争や単一の君主国家の覇権といった可能性が否定されることである。もう一つは、教会や信徒の集団が市民社会の権威に挑戦し平和を乱すことを否定するために、それら団体の権力を減らすための営みが存在していることである。後者の特徴に関して、ギボンのDFの15,16章はギボンに、半宗教的なフィロゾーフというレッテルをもたらした。しかしこれらの章はDF全体を踏まえて再考されなければならない。

 

啓蒙の多義性、多層性と宗教

 p.8

 ニケーア信条に端を発する受肉や三位一体の教義に基づいた神学は、現世的でない王国がこの世界の内側にて現在するという信念を支えていたが、その思考と深い関係を持ちつつ、方法論や慣習、文書や法によって基礎づけられた精神文化が発展していったのであり、それは神学と独立に発展する可能性を持ち、市民社会における精神生活の基盤ともなったとポーコックは述べる。しかし結局この思考は神学の拒絶をしながら、神学と関係づけられており、カルヴァン派ルター派カトリックといったそれぞれの教義の性格とも連関を持っていた。啓蒙を神学と独立に考えることは出来ないのであり、その志向の発露は神学的議論において見ることも可能である。これはDFを理解するためにも重要な視点である。若きギボンについての考証を行うことで、彼が啓蒙と名付けられる多様な営みにいかなる仕方で触れていったのかについての多様な解答が存在し得ることを見ることができる。

 ここにおいて私たちはイングランドにおけるある種の啓蒙の存在を指摘することになるのであり、フィロゾーフの中心点とし、イングランドを例外とする思考からも脱却できる。確かに英国にはその宗教的配置などを踏まえてそれ固有の啓蒙の性格が生まれている。しかしながらイングランドの教会もプロテスタント的啓蒙のプロセスに組み込まれていたのであり、それはDFと著者ギボンを理解するために欠かせない視点である。ここでポーコックはトレヴァー・ローパーの議論に従い、英国と西のプロテスタント諸国はグロティウス的、アルミニウス的、エラスムス的であるという彼の結論を引っ張っている。イングランドの教会はカルヴァン主義的な啓蒙に関与していたのであり、一部カトリック的であった。プロテスタント的啓蒙はギボンのイングランドローザンヌにおける経験を理解するのに重要である。p.9

 本巻においてポーコックは、ヴェントゥーリが「イングランドにおける啓蒙の巨人」と評した男に居場所を与えるため、、啓蒙の定義や地勢図を塗り替えようとしている。当然本著で考慮されていない啓蒙の色彩もあるだろうが、それが重要でないことは意味しない。ポーコックの行う批判は、"The Enlightenment"と名付けられる観念に対するものであるが、それはその啓蒙という名詞に対してではなく、それに冠詞をつけてひとくくりにしようとする思潮に対して向けられている。この後家族的類似性とか多様性とかをポーコックは述べている。ふむふむ。

 

 本巻はギボンにおける啓蒙を追っかけるのであるが、それはギボンの若き日の軌跡を、多様な仕方で定義される啓蒙めいた営み、文脈を通してみることで果たされる。それは彼がローマからイングランドに戻る1765年までが視野に入っている。その時期までにはまだギボンはスコットランド啓蒙と接触していないのであるが、彼は自分の描こうとする歴史記述の型をなんとなく認識している途中であり、その時点でDFの大枠を意識していたと考えられるのである。もちろんその執筆はその時点より10年くらいなされることであるから、挑戦的なテーゼかもしれない。けれども、ギボンの歴史叙述の型(historiography),ひいては彼の歴史哲学は彼による多様な啓蒙への応答の中で形成されてきたのだとポーコックは主張する。p.10そのためそれはヨーロッパ全体の文芸的、批判的学術動向と連関しているのである。

 

 

以降の流れと方法について

 

 第二巻はきっと啓蒙の大きな歴史叙述を紹介するだろう。それは主にギボンが出版を始めた1776年あたりの動向を中心としている。それ以降の著作はギボンの生涯やDFが位置づけられる多様なコンテクストを提供することになる。ポーコックはレシ、物語ではなくてパンチュール、歴史的世界の図像を提供することを目論んでいる。これはいくつかの学問的分野でとられている、通時的視点に留まらない、共時的な関係の束に着眼して当該対象の構造を描こうとする手法を念頭に置いた主張だろう。ポーコックによれば描くコンテクストの一部は、出版当時における知的動向についてのものであるし、別のものはギボンと関係のある古いテクストが形成した過去の文脈でもある。ポーコックはそのいくつかについてDFとの関係を離れて深く探求するつもりである。実際彼はそうしている。以降の巻を読めば一目瞭然。後者のコンテクストは偉大な著作の一団の中に存在するテクストに関するものであり、単に問題とする著作との関係では収まりのつかない強固な独立した文脈を背負っているのである。ポーコックはDFの病理学、発生論ではなくて生態学を行おうとしているのである。つまり、そのテクストが存在した世界についての研究であり、たんに生成のみに論点を絞ってはいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イツァーク・ギルボア『不確実性下の意思決定理論』5章のメモ

 国際フォーラムでの発表の準備にかかりっきりでしばらく手に余裕がなかったため、最後の更新から日が空いた。

 それに加えて短い準備期間で多少無理をきかせたため体調を壊しているという事情がある。げんにまだ熱がある状態であるが、寝てばかりいるのもひまなので更新する。読み違えがあったりしたら後で訂正する。

 

 

 

 以下のものの続きである

kannektion.hatenablog.com

 

 


5 主観的確率
5.1
 確率を主観的信念の反映だ解釈する立場が紹介される。与えられた情報から各選択肢が当てはまる確率を高い順に並べてもらうテストの例が挙げられ、それが主観的確率の提示の実例とされる。

5.2
有名な主観的確率をめぐる議論としてパスカルの神の存在を巡る主張が紹介される。ハッキングはこの主張の特性を以下のように説明する。まず、パスカルは信じることを、信じうる、信じるべきという事象と区別して思考している。更には、神の存在ではなく、神の存在確率が特定の区間に存在しているという見解のみを要求しているので、弱い不可知論に対しては反駁可能な論証をなしている。実際、パスカルの発想は、意思決定のマトリクスの枠組みの先駆、弱支配戦略の観念、期待効用最大化観念の祖型。複数の事前確率の想定といったものを含んでおりかなり斬新なものだと評価し得る。

5.3
古典統計学ベイズ統計学の相違が説明される。ベイズ統計学の定義に含まれる範囲は分野により相違している。コンピュータ科学では事前確率を事後確率に多少なりとも適用する立場が広くベイズ主義とされるのに対し、経済学では未知のあらゆる事項に対して状態空間モデルと事前確率の制約をあてはめる立場のみをベイズ主義としている。
 古典統計学においては複数の未知のパラメータ、確定しない格率変数を処理することになるが、ベイズ主義的立場においては、所与の観察から事後確率を測定し、そこから特定の変数のみを処理することになる。一定の値に仮定されているパラメータと、観察可能な変数の間での区別が行われない(信頼区間なども含め?)。

5.3.2

 ベイズ主義の想定では、与えられたサンプルに逐次応じて想定する変数を変えるため大数の法則が適用されない。その法則は確率変数の独立性を想定しているためである。そして、古典的立場においても独立性は部分的にしか想定されていない。どういうことか。
 たとえばコインで10度裏が出た場合、試行の独立性を想定するならば正しいコインにおいて次にどちらの目が出るかに偏りはない。だが、もしかしたらこの場合は裏が出やすいコインである可能性も想定するべきであろう。さらには試行の独立性が存在しない場合も存在する(最初に出た目が次に出た目を規定するように)。分布パラメータが未知の場合には、サンプルはそれぞれ同一条件の試行とみなしえないのであり、とりあえず設定することで独立性が得られるのでしかない。

5.3.3

 ベイズ主義者の場合所与のサンプルにおうじてパラメータ推定がなされる以上、事例ごとの独立性を真剣に想定することは出来ない。だが、ファネッティは大数の法則の条件を、独立で同一である確率変数に限らず、交換可能な確率変数に適用することで問題に対応している。
 交換可能な確率変数とは、独立ではない同一の分布をなす変数のことを指す。本著では問う格率でpが1/3,2/3のどちからになるB(p)に含まれるX1,X2を考えている。この二つは一方の値に応じてもう一方の値の格率が相違するため独立ではないが、分布は定義上同一である。このような変数は独立同一分布の変数を混合することで生成可能である。このような場合ににおいても、パラメータpに関して特定の値への信念を持つならば、それは同一で独立な格率分布として処理可能である。変数の相関はパラメーターが未知であることのコロラリーとされる。ファネッティはそのような確率変数の系列においても、サンプル平均は、特定のパラメータにおける期待値に収束するということを示したらしい。

5.3.4
 古典統計学の考え方では、ある標準偏差が知られている格率変数について、特定の区間内の信頼水準が定まったとしても、その信頼水準を直ちにある特定の要素がその区間内に含まれている格率に置き換えることはできない。つまり、変数として処理されるのは当該格率変数なのであって、具体的な特定の要素の出る目を変数として扱うことができない。ここにおいてμで表現されている特定の要素は変数ではなく条件の定義を行うための道具でしかない。
5.3.5
 古典統計学の手法に従って導出された格率と、設定条件から導出され得る格率が原理的に反する事態が紹介される。長さ1の一様分布の同一の確率変数に従った二点の距離が0.6ある場合はその中に区間の中点が含まれる格率は定義上100パーセントであるが、古典統計学の手法では50パーセントでしかあり得ない(説明略)。純粋な古典論理の言語ではいくつかのデータ条件を反映した推論を既述できない。

5.3.6
 しかし、古典統計学にはベイズ統計学とは区別された、一般性客観性の非常に高い推論の構成のために貢献するところもある。
 例1 犯罪者の有罪無罪認定と、その犯罪者に対する態度の区別において   前者の法廷での営みにおいては主観的信念は採用されず、事前確率もある一定の外在的ルールによって導かれることになる。だが、後者においてはベイズ的な、証拠によりアドホックに事前確率を変更する態度も認められる。
 例2 科学において、科学者の経験からくる事前確率を導入したうえで事象を分析して確率を導出することは、事前の研究作業の手引きとしてはよいが、研究として公開される場合には更に客観性の高い基準での導出が要求される。