Sapere aude

読書録、学んだ事のまとめ 

J. G. A. Pocock ”Barbarism and Religion” Volume Three pp. 165~170 内容把握

 

トスカナの歴史 エトルリアからフィレンツェ

(165.2)

ブルーニは、トスカナの歴史を記述しているのだと述べ、彼の議論を続けていく。それは、彼が提唱するところによるとローマ帝国以前とその後の歴史である。その歴史は、トロイアよりも先の時代に(故に、ローマ創設のアエネイスの時代に先んずる)、イタリアの北はマントバから南はカプアまで植民を行い、連合によって帝国を建設した、偉大で文明化された民族であるエトルリア人から始まっていく。ローマの勃興は、エトルリアの歴史の転換点として描かれる。タルクィニアのエトルリア人の追放の前にも後にも、ローマ人達は隣人であるエトルリア人に負うところが大きく、恐るべき活力と真正なる尊敬をもって彼らと争った。エトルリア人が衰退したのは、南のローマの強勢と北の野蛮人であるゴール人に包囲された時のみに限られており、ローマに敗れた後も従属地というよりは寧ろ同盟国としての地位を受けていたのだ。しかしながら私たちは、この”盟友たち[1]”が反乱のきっかけを見出していたことを知っている。そして、ブルーニの出身地であるアレッゾもハンニバル戦争と同盟市戦争の時期に失敗に終わった反乱者の先頭に立っているのであった。故に、記述は同盟市戦争や、内乱に苛まれていたローマの植民地としてのフィレンツェの歴史が始まるところにまで戻ってくる。

 

野蛮人の強調

(166.2)

ローマのトスカナ統治は-ブルーニが関心を示すのはローマ帝国によるものなのだが-五世紀後の異民族の侵入によって終了した。この際にブルーニは、これ以降の私たちが知るDFの伝統に決定的な一連の認識法を取り入れる。まず、彼の強調点は野蛮人達にある。帝権委譲説の歴史記述において、彼らは周辺的な役割しか担っていなかった。彼は野蛮人たちの起源から、イタリアへの侵入までの歴史を記述することが必要だとみなした。”野蛮人の勝利”に類似したものが、私たちの目前に拓かれてくるのである。しかしながら彼は、全体的なローマ帝国の野蛮人以前の滅亡の物語を紡ぐことはしなかった。彼の著作はフィレンツェの歴史なのであり、エトルリアの歴史とそのローマによる征服は必須の序文なのであった。もし、この歴史が帝権委譲説に立つものであったのならば、ゴート人やロンバルディア人は教皇に劣後する扱いを受けていたことだろう。しかし、ブルーニにとっては帝国の衰亡はイタリア諸都市のローマ支配からの再生の序曲に他ならなかったのであり、野蛮人は普遍史キリスト教の歴史よりも、イタリアの歴史に関わる現象なのであった。野蛮人が、歴史における重要性を、西ヨーロッパの歴史家の限定された視点に負っていたことは当然の逆説であったのだ。

 

DF史観への接近

(166.3)

更なる逆説も存在している。ブルーニはフィレンツェの歴史家であり、ローマを外的な、帝国的な権力と見做す立場に立っていた。彼はエトルリアの市民性を彼の物語記述における中核に据え、主題を息苦しいローマ帝国の負担からのイタリア諸都市の再生としたのであり、帝国を引き継いだ野蛮人からではなかった。他方で、ブルーニは人文主義者でもあり、人文主義者といえばローマを師と仰いで学んでおり、彼らの文学、市民的価値、更には帝国までもが彼らの頭の中を満たしており、ペトラルカが述べるように、すべての歴史をローマ賛美として見ていた。けれどもローマは崩壊した。ローマ文学の再生による知的潮流の高まりは、ローマの崩壊を物語る必要に反して否が応でも増すことになった。そしてこの潮流に反して、少なくともブルーニにとって確かであったことは、ローマが未だに衰亡していないのならば、フィレンツェ、そしてアレッツォもこのように偉大になることはなかったであろうということである。この錯綜した地勢は、ブルーニが行う転換の背後に存するものであった。それは、私たちにとっては非常に一般的に映るものである。イタリアの侵入者である野蛮人を確認した上で、彼はローマ帝国衰退の枠組みを導入する。

 

“しかしながら私見によると、ローマ帝国の衰退は、ローマが皇帝達の手に委ねられ、自身の自由を喪失した時に遡るはずである。アウグストゥストラヤヌスはローマに資するところ大だったかも知れず、その他の君主も同様に功績による賞賛を受けていたかもしれない。けれども私たちは、内乱におけるカエサルや、三頭政治オクタヴィアヌスのように秀でた人間が残酷に人を殺すことになるか[2]を考慮せねばならない。もしそれ以降のティベリウスの残虐性やカリギュラのかんしゃく性、クラウディウスの狂気やネロの炎や剣闘に狂喜する罪業を考えるならば、カエサル(皇帝)という破滅的な名をローマが携えるようになってから衰退しだしたということは否定しえないだろう。皇帝の名に自由が退き、自由も徳も過ぎ去ってしまった。皇帝達以前には、優れた人格の人であることは、栄誉に繋がっており、コンスルやディクタトルなどの高い地位の公職は雅量を備えた精神と人格と活力の強靭さにおいて優れた人物に対して開かれていた。しかし、共和国が一人の人物の下に堕ちるとたちまち、それらの器量は統治者に疑いの目を向けられることとなった。自由に気を配る精神の力に欠けた人間が唯一皇帝のお気に召したのであった。帝国の議会は強健な者よりも怠惰な者へ、勤勉な者よりも媚び諂うものへその門を開いていたのである。諸事を司る行政組織は人間の中でも最悪の部類の者の手に落ち、帝国は徐々に滅亡していった。徳が放り捨て去れた時を嘆いておいて、国家全体の崩壊を嘆かないでいられる者があるだろうか?”

 

 

ローマ崩壊の原因について

(168.2)

私たちが考慮した著者の中で初めてローマ帝国のDFの史観を取り上げるブルーニは、ローマ帝国の成長に関するサルスティウスの記述に立ち返り、それを更に進めて帝国の崩壊を描く。サルスティウスが言うところによれば、王達[3]は才能のある人物に対して嫉妬深く[4]、都市はadempta libertate[5],市民の活力を解放するとこによって栄光と、彼らの帝国を増大させた。ブルーニはこの嫉妬を皇帝にも当てはまるとして、帝国の喪失は彼らの統治と同時に起こったとする。それは長い時間をかけて起こったプロセスである。有能で秀でた皇帝も存在していたし、ブルーニは彼らが帝国を成長させたことは否定しない。それでもやはり、帝国が自由と徳に依拠するものであり、それらが失われた時、帝国も滅びる定めにあった。それは、アウグスティヌスが述べたように、自由と徳が、栄光の追求と帝国の拡大以外に何の意味も、役割も持ち合わせなくなったことを意味するのだろうか?ブルーニはそのようには考えていないようである。彼はimperiumというものを、精神の偉大さの自由な行使による人間の卓越性を発揮できる者と見做していた。そして、彼の主張は元植民都市からの、帝国主義への非難とすることはできない。彼の記述において、コンスルと行政官がimperium militaeを行使して帝国を拡大させる余地は残っており、それはimperium domiによって都市の自由と徳を守ることにもなった。彼は、キケロ的に、帝国をdominiumというよりもpatriciumとみなす視点もおそらく排除してはいない。ブルー二が人間の道徳的本性から由来する古代の政治哲学を拒絶し、権力を求めて争う自由という市民であることへの闘争、競争的認識という、前者の哲学が取って代わろうとしたものに回帰したと難ずる者たちは以下のことを記憶するべきだろう。闘争的であるということは、哲学的であることと同程度に古いものであり、後者が前者に取って代わったということはない。サルスティウスは、ローマの衰退を彼らの敵対者としてのカルタゴの破壊に求めている。徳と統治は他の徳と統治の存在を要求するのだ。そのため、ローマ帝国は普遍的になることによって自己の基礎を掘り崩してはいないかという疑問が生ずる。少なくとも私たちはタキトゥスの、帝国の拡大は必然的に一人支配をもたらすという記述を振り返ることになる。もしそうであるならば、ブルーニは、帝国の崩壊は、帝国自身が必然的に引き起こしたと伝えてはいないだろうか。更に私たちは、アウグスティヌスのテーゼにおける、地の国の徳は、自壊的であり、虚栄の追求にすぎないという主張を思い出すことになる。

ブルーニのalternative

(169.2)

しかし、ブルーニは他の理論を携えていた。彼は既に普遍帝国への独自の批判を有しており、それは自由な帝国に向けられていた。たった一つだけの都市の徳(virtus)は、他のすべての徳を圧迫し、貪ることになる。というのがそれである。ここで言うところのvirtusは競争的、好戦的な性質の、従属した都市が失ったそれであり、自前で戦を行うことも、領域(imperiumとも呼びうるだろう)を増大させる能力が含まれていた。そこには、ローマの自由と徳によって獲得されたimperiumとその喪失というものに対する代案が存在していた。エトルリア人の、類似の志向を有した都市間の連合体制、相互に対して競争的で、闘争的でさえありながら、一つの都市が帝国に至ることを禁じる制約に服する体制がそれである。これは、ギボンから薫陶を受けた者たちが、啓蒙された観点から見たポストユトレヒト体制のヨーロッパを思い出さずにはいられないものであった。そこにおいては、同一の体制が維持されており、生得権として、帝国に服する都市の自治の自由が保証されただけでなく、等しいimperiumを動員する都市の戦争と平和への権利とも保障された[6]。ブルーニがローマよりエトルリア人の体制を好んだというのは単純化が過ぎる。帝国が自由と徳によって得られることは承知しており、それら三者(empire,libertas,virtus)が現在失われたことを嘆いた。しかし、エトルリア的体制という代案は現在存在しているものであったというわけである[7]

 

ブルーニのコンテクストからの自立性

(169.3)

ローマ帝国崩壊後、都市は自律を回復していく。そして近代-私たちは中世と呼ぶべきか-トスカナは、古代エトルリアにおける成功を再びもたらす見通しがあったのだ。ここで私たちは、フィレンツェのゲルフにおける”自由の禁止者と教会を映し出すもの”としての歴史理解を見てみよう。彼らにとり共和主義的自由の敵はギベリンと、ホーエンシュタウフェン家の神聖ローマであり、彼らの救済者は教皇アンジュー家のフランスであった。ブルーニは、反ギベリンの立場にあったが、彼の歴史において、皇帝権力委譲論(translatio imperii)の、教皇主義者的、皇帝主義者的の形態のどちらも大きく現れてこないだけでなく、そのような説明に必要な前提である、エウセビオスによる、聖化された君主という説明も現れないのである。私たちは彼からはアウグストゥスの帝国が、全世界への平和を達成したかどうかの簡潔な記述も、たった一つの都市による徳の独占に代わる教会の成長に関する説明も読み取ることはできないのである。徳と自由は独自の歴史を持っており、ブルーニは、聖化された帝国の議論や、その定刻を越え出た教会の歴史と突き合わせようとはしなかったのである。

 

次の部分への前書き?

(170.1)

私たちは年代記的に出来事をドラマ化しないようにしよう。中世的世界観は突然消滅したのではない。四代の教皇に対し,書記官として使えた者でもあるブルーニは、聖化された帝国とその権力の委譲に関する議論が活発に行われた場に身を置いていた。そのため、よりいっそう注目すべきなのは、フィレンツェの歴史が、共和国の徳と、帝国への異化というコンテクストのみによって表されていることである。彼はアリストテレス『政治学』を翻訳したが、このことが彼をして狂信的な共和主義者たらしめたのか、伝統的な君主主義者であったのかを論ずることは無益であろう。君主制に関する問題は帝国に関するものほど重要ではなかったし、正義にかなった君主、嫉妬深い暴君でもなく軍事的野心家でもない君主を描いていることは皇帝の歴史において重要ではない。彼が公共的利益や人間の自然的本性に由来した哲学を賞賛したのか、放棄したのかも同様である。私たちが見いだす彼による断絶はアリストテレス的価値によるものではなく、エウセビオスアウグスティヌス的なものである。彼は、その前提条件としてのコンスタンティヌスによる聖化された皇帝権委譲説抜きの歴史記述を行ったのであった[8]

 

[1]名詞,socius「同盟者」の複数

[2] ”trucidatos”は”trucido”「人を殺害する」が原型

[3] 何を指すのか正確なところはわからないが、ユグルタ戦争でローマに対抗した王達を指すのではないだろうか。

[4] “Semper eis aliena virtus formidulosa est”の意味は,eisが複数与格(彼らをでとり,「常に他の徳(ローマにおける徳なので倫理的徳というよりは雄々しさ、市民的徳のことだろう)のある人は、彼ら(王達)を恐れていた」くらいだろうか。

[5] admere奪う の完了分詞、libertas 自由の奪格? 「自由を奪われて」

[6] 等しいimperiumとは先の都市のこと。

[7] ブルーニの時代のエトルリア的体制とは、イタリア諸都市並立体制のことであろう

[8] 何を言ってるのかここまでではわからないので、今後記述されるのでしょう。

F.Beiser “German Historicist Tradition” Introduction : The Concept and Context of Historicism 全訳に近い内容把握 途中まで

F.Beiser “German Historicist Tradition”

Introduction : The Concept and Context of Historicism

pp.1-10 まだ続きがあります。 

 

1 知的革命

1-1

“歴史主義の成立”のノスタルジックな前文において、マイネッケは、歴史主義が西洋思想における最大の知的革命のうちの一つであると述べた。歴史主義が知的革命であると、マイネッケは信じていたのだ。歴史主義は、古代から中世を通して蔓延していた従来の思考法を、18世紀中旬より始まる、新しい歴史学的思考法で転換したと言うのが彼の見立てである。旧来の非歴史的志向は人の道徳性や理性を絶対的で、どこにおいても同一であり、変わることはないとみなしていた。新しい歴史的方法はそれを相対的で、変わりうるものであり、それぞれ固有性をもつとみなし、歴史的事象の原因や価値、信念、行為がコンテクストに依存することを示した。そのため、価値のその時代や状況を離れた普遍化は不可能であると言うのである。

1-2

現在マイネッケはあまり顧みられなくなったが、歴史主義の重要性を否定する議論はそれほど存在しない。仮に私たちがマイネッケのテーゼを受け入れるとしてこのような問いが生じてくる。歴史主義とは何であるのか、歴史主義者とは誰のことを指しているのか、その思考法の核心は何であるのか、どのようにして彼らは自己を正当化していたのか といったものである。

1-3

歴史主義に定義を与えようとする試みはたちまち大きな障害に悩まされることになる。その語のもつ多義性というのがそれであり、様々な、時には対立するような方法で用いられてきた。例えば、歴史の一般法則を描く試みとして定義されたり、それとは反対に、そのような法則の存在を否定し、固有の一回性をもった出来事として歴史の固有性を知ろうとする試みを指すこともあった。このように対立的な用法が存在する中で統一した核心の存在を仮定する訳にはなかなかいかない。

1-4

そのため、歴史主義に対しては記述的な定義を諦め、規範的(prescriptive)に定義を与えることで満足せねばなるまい。規範的な定義は、我々の探求を促進する形で行われる。我々の関心は、マイネッケの言うところの知的革命の起原を辿ることであるからして、その目的に合わせて定義する。そのためにも、彼の言うところの革命に寄与した歴史主義者達に基づいて定義を行う。

1-5

私たちの定義はトレルチに従ったものとなる。彼は、否定的な面を捨象すれば、歴史主義は以下のように定義されるという。”歴史主義とは、人間や文化、価値に関する思考の根本的な歴史化である。”思考の歴史化とはいかなるものであろうか。トレルチはそれ以上の定義を与えてはいないため補足を行う。つまり、文化、価値、制度、慣行、合理性といった人間に関わるもの全てが歴史により形成されてきたという思考に身を置くことである。そこには歴史的変化に絶対的に堪える普遍的なものは存在しない。つまり、人間事象に不変なもの、可変なものといった区別は存在し得ないのだ。それらは固有のコンテクストに依存する外ない。ヘラクレイトス主義的な流動の思考というわけだ。

 

 

1-6

今行った定義はあまりに形而上学的ではないだろうか?歴史主義が„Weltanschauung”,世界観の一つに過ぎないことは自明である。それは、近代科学に力を得て生じてきた、自然科学に匹敵する人間世界の科学を立てる為に出現したものである。歴史主義は二つのドグマが存在する。1.人間事象の全てにはその生成に十分な原因が存在する 2.その原因は全てコンテクストに依存した、歴史的なものである。

1-7

非常に大雑把に見ると、歴史主義は自然主義に対応する存在である。自然主義が自然的世界に存在する全てを原則として科学により説明可能であると述べると同様に、歴史主義は歴史的世界に存在する全ては原則として科学によって説明可能だと主張する。そして、自然主義が最終的に自然史を描くにおいて、安定した不変の種の存在を否定することと同様に、歴史主義は不変の人間本性といったものを否定する。歴史主義は自然主義の自然史の手法を利用し、人間事象に適用したのだ。

1-8

自然主義との類似があるとしても、歴史主義は自然科学の法則や方法の人間世界への適用といったように、単にその一種、模倣なのではなく、歴史主義者は、必ずしも自然界と同様の方法や、法則で説明可能であると主張する訳ではない。実際歴史主義者内部でもそれらが同様であるかは一概に定まっていない。

1-9

歴史主義は自然主義に反対して、歴史学的知識はユニークなものであり、自然科学のそれとは異なると主張してきた。マイネッケ、トレルチなどはこの立場を採用する。しかしながらここには重大な2つの問題点が存する。

1.実際のところこのような立場は歴史主義者においても少数派である。19世紀後半のドロイゼンやディルタイもこのような立場を取り、彼らの理解(Verstehen)という方法を自然主義に対立するものとして構想してきたが、彼らの方法論から歴史主義を定義するのはこの語の他への応用が困難となり、歴史主義者はこの二人に限られると言わざるを得なくなってしまう。

2.歴史主義は18世紀の、ニュートン力学の方法と法則を歴史に適用することで”人間の科学”を構想する自然的方法論に端を発するものであり、クラデニウス、メーザー、ヘルダーそしてフンボルトはこのような方法論の一大旗手であった。これらの歴史主義者の根源的役割は後世の歴史主義の研究者-特にマイネッケからは小さく見積もられてしまった。そのため、歴史主義と自然主義の明確な相違を主張するためには、彼らを歴史主義の伝統の外にあるものとみなさなくてはならなくなるが、そのような帰結は受け入れ難い。自然主義との対抗はドロイゼン、ディルタイといった後世の歴史主義から生じてきたものであり、反自然主義的に歴史主義の定義を与えることはアナクロニズムに陥る。

 

1-10

加えて、歴史的変化がいかなる事象にもつきまとう という歴史主義の中心的テーゼは二つの原理を伴う。

1.個体性の原理 この原理は歴史主義の伝統で大きな意味を持っており、その意味はその時々のコンテクストに依存しているが、一般的な定義するならば、歴史的の主題の決定や、歴史学の探究の目標というものは個体的であるということだ。例を与えるならば、特定の人、行為、文化や時代は特定の時間と場所において存在しているということだ。この原理はプラトンアリストテレスにまで遡ることができるが、歴史主義者はそれに新しい意義を与えた。物事の個体性は、物事が個々の相違に関わらず存在する普遍性や、法則がそうであるのと同様の意味で、科学的な対象であると主張したのである。

2.ホーリズム 非常に大ざっぱに定義すれば、全体は部分に先立ち、それら部分に還元できないという主張である。ヘルダーからウェーバーまで、ホーリズムは歴史主義に特徴的であった。歴史主義者は個々の人間が自己充足的な存在でも、独立している訳でもなく、彼らのアイデンティティや存在それ自体が歴史的、社会的、文化的な全体世界における位置づけに依存すると主張した。このホーリズムの主張に従えば、社会や国家などは、単なる独立した部分の集合体、構成物とみなすわけにはいかなくなり、相互に依存し合った要素から成る不可視の全体、結合というものを仮定することになる。全体は部分に還元できるとするアトミズムは、古い機械論的思考の産物として否定される。これら二つのテーゼは連関し合っている。個体は還元されない全体として理解され、それら全体は個体として理解される。

 

1-11

更に歴史主義には、古い哲学的前提、14Cのオッカムより発する唯名論を基礎においており、歴史主義者達は、様々な方式でそれを受け入れた。それは、普遍というものを、精神の構成物とみなし、独自の実在性を認めず、物に内在するものともしないという立場である。この立場は、変化、流動がいかなるところにも存在しており、永遠の形相の否定を行い、個物を優先させると言うという方法論に適合的であったため、歴史主義に資するものであった。唯名論の立場に立つことにより、歴史主義は、歴史家が、精密性、明確な因果関係の把握や、特定の事物にはそれ独自の具体化の方法を取るように促した。特定の思考、意図、信念の意味や目的というものは、それを具体化した言葉や行為、特定のコンテクストに依存しており、そういった具体化されたものは、共役不可能であるため、人間本性に対して単一の形相などを見出すことはできないのであり、特定の時や場所に従った表現、具体化を離れて価値や本性について話すことは単なる抽象論に終始してしまうというのが彼らの主張である。

 

1-12

歴史主義の唯名論的要素は、広く行き渡っており、根幹に関わる物であるのにしばしば見落とされてきた。むしろ、彼らのホーリズム的側面から、形而上学的傾向が強調されてきたのである。確かに、ホーリズムは、抽象的普遍的な実在が個物とは独立に存在していることを肯定しているとみなされ、唯名論に敵対的だと考えられてきた。一見するとこの主張は正しそうに映る。個物のみがそれ自体で存在していると考える唯名論に立つならば、全体という物は部分の構成する抽象観念に過ぎないというべきに思われる。しかし、ホーリズムの立場において、部分と独立した全体の実在を措定することは必ずしも必要ではない。全体は実のところ部分によって存在すると主張してよい。ただ、理論において説明的に部分に先行して存在すると主張することはやはり可能である。歴史主義者が、両者を両立させることは可能であり、彼らを本質主義、抽象的対象を実在すると見做しているとして非難することは些か的外れなのだ。

 

2 科学としての歴史学

2-1

歴史主義は抽象的な知的潮流に留まらず、人間世界に関わる思考を歴史に基礎付けようとするものである。それらの伝統を一貫したものとして認識させるものは、彼らの方針、目標、企図によるのだ。方針は、単純だが熱意に富んでいる。歴史に、科学としての正統性を与えることであった。それは、歴史を科学に変質させるということではない。-おそらくルネサンスの時点ですでにそれは成し遂げられているのだ-そうではなく、歴史を科学足らしめているものを明らかにしようとすることを意味していた。歴史主義の思想家は、自然主義反自然主義のどちらに他党とも、歴史の科学的地位を正当化しようとした。ここで言われるところの、「科学」とは、独語の„Wissenschaft”の意味に相当し、広い意味を備えている。„Wöterbuch der philosophischen Begriffe”に従うと、「整序された、知識獲得の方法」という定義があるが、これは適合的だろう。詳細な定義においては、歴史主義者間で相違はあるが、同様に、歴史学の科学としての地位を確立しようとした。歴史主義による知的転回は、同時に新しい歴史への姿勢を備えており、それは、歴史は自身の内的な正当性でもって、科学たりえ、新しい自然科学同様の尊重を得られるということであった。

2-2

アナクロニズムを避ける為にも、私たちの先入見であるところの、近代的、実証主義的な科学の概念を歴史主義者による定義に持ち込まないようにしよう。その概念とは、科学と人文学(art)が対立するというものである。歴史主義者は、歴史を科学として鼎立しようとしたが、それが人文学としての地位を放棄するものとは全く考えていなかった。主要な歴史主義者達は、歴史学は人文学と科学、両者のもとにあるものとみなしており、ドロイゼンのみが、人文学と科学を確然と区別したが、それは有力な説とはならなかったが、人文学と科学の関係は、彼らを立場において分かつことになるだけの問題となった。しかし総じて、歴史学が科学であるために人文学とは異なるという主張を導くことにはならなかった。もう一つの先入見は、歴史の成果が、歴史家の地平に全く依存せずに妥当性を有する。というような、完全な客観性を記録できるときにのみ、歴史が科学であると主張できるといったものである。クラデニウスにより歴史主義の伝統が創始された際でさえ、歴史は科学たりえるが、依然として地平に拘束されたものであると主張された。歴史家の立場に立つことによってのみ妥当性が得られるといった主張がそれである。このような、ある観点に依存していることは、歴史の科学たる地位を脅かすものではなく、支えるものであった。知識は依然として、視点に依存して存在しているものであり、その相対性を自覚することで初めて、絶対的、超越的な立場に立った主張を行うことに伴う誤謬を回避できるのである。この議論は更に進んで、ヘルダー、ジンメルウェーバーや新カント派によって、様々な形式を与えられた。歴史学は、客観性を要求するかという議論は、歴史主義者たちにとっては一般に想定されるものとは別の問いを意味していたのだ。故に、私たちはあらゆる伝統を客観性と言う素朴な概念に基づいて均質化してしまうことはしないようにしよう。そうするならば、歴史主義の全伝統を、ランケが誤解して捉えたものと同様のものにまで狭めてしまうことになる。

 

2-3

歴史主義の企図において科学の概念がいかようであろうと、その試みは、歴史学的というよりは自然科学的なものであった。歴史学の科学としての地位を正当化する際に、認識論的な問題を主張することは重要である。歴史学における知識というものはどのようにして可能になるのか?自然科学における知識との相違は何であるのか?客観的な歴史学的知見は可能であるのか?歴史学と人文学との関係は何であるのか?そのような疑問を考えてみると、歴史主義者達の関心は、一次的な歴史学ではなく、歴史研究の方法論や、歴史記述の方法や基準といった二次的なものに向けられることは明白であった。そのため、歴史主義とは本質的には哲学的な伝統であるのだ。18世紀後半より、歴史家が哲学的に考察を行うようになり、哲学者が歴史について考察するようになっていったのだ。

 

2-4

哲学的な伝統であるからと言って、歴史主義が歴史哲学における目標や問題と同視されてはならない。歴史主義の伝統は本質的には歴史学的知識の二次的考察を含んだ認識論的な思考であり、歴史の法則や、目的、意味といった一次的思索を含んだ形而上学的なものではなかった。歴史主義者はしばしば、歴史哲学への批判者であり、そのような形而上学的性質は、歴史学の科学としての性質を損なう物であると警戒していた。未だに強く残っている歴史主義を歴史哲学と同視する考え方は改められねばなるまい。

 

2-5

主な歴史主義者は、歴史主義の認識論的構想に着目することで見分けられる。彼らは歴史学の科学としての身分を正当化するために貢献した歴史学者であり哲学者でもあった。クラデニウス(1710-59),メーザー(1729-94),ヘルダー(1744-1803),フンボルト(1767-1835),サヴィニー(1779-1861),ランケ(1795-1886),Moritz Lazarus(1824-1903),ドロイゼン(1838-1908),ヴィンデンバルト(1848-1915),リッケルト(1863-1936),ラスク(1875-1915),ディルタイ(1833-1911),ジンメル(1867-1918),そしてウェーバー(1864-1920)である。

2-6

もちろんこのリスト以外の多くの主要な歴史主義者がいることは疑い得ない。ゲッティンゲンの古典主義者達などはその典型だろう。しかしながら、私たちは歴史学の科学としての地位そのものの生成を負うのではなく、それを正当化しようとする伝統を追っていくのであり、そのため、少なからぬ哲学者がリストに含まれ、歴史学者が含まれないという事態になったのである。

2-7

ヘーゲルマルクスは歴史主義者ではないのだろうか。実際彼らを歴史主義の伝統に位置づける研究は多い。それは恐らく確かであろう。しかし、彼らの貢献は歴史哲学において大きいのであり、更には、歴史学の科学としての地位を正当化しようとしたというより、歴史学を自然科学に近づけようとした者であった。実際、フンボルトディルタイは歴史が科学たりえると言えるのは、ヘーゲル主義の呪縛を断ち切ることにより可能となると主張していた。ヘーゲル主義、そこに含まれる弁証法の概念は彼らにとっては推測的性格が強すぎ、形而上学的であった。後にリッケルトウェーバーらが類似の理由でマルクス主義を非難することにもなる。マルクスも結局唯物論形而上学の基礎付けに多くを負っている為に。

 

2-8

歴史主義を今回は歴史学の科学的地位の正当化を試みる思潮と定義するからして、歴史学的方法に対する特定の見方を意味してはおらず、今回取り上げる歴史主義者においては、歴史学を自然科学と類似のものとみなすことに肯定的、否定的両方の立場を取る者が含まれることになる。

2-9

このように広い概念を扱うことによって私は、広く理解されている意味での歴史主義の定義に伴う問題を回避したいのだ。先に述べたような歴史主義を歴史の一般法則や目的といったものを希求するといったものと同視したり、それとは真逆で歴史への相対的視点を意味することや、解釈学の伝統とみなすことというのは全て、定義において狭過ぎると私は考える。

 

2-9

歴史主義の定義の正当さを検証するには、マイネッケの言うところの知的革命に貢献した思想家が全て含まれているかをまず考えなくてはいけないと私は考えた。他の定義においては少なからぬ思想家が除外されてしまうのだ。今回採択する広い定義は他の研究者も暗黙の内に前提としていたものなのである。