Disce libens

研究にあまり関係しない雑記

Joseph goering, The internal forum and the literature of penance and confession




 379
 ダンテ、神曲においてトマスにグラティアヌスが二つの法廷に貢献したとの説明をさせる
 (注2 内的法廷という用語はトレント後の言葉、それまでは贖罪の、良心の法廷とよばれた。)
380外的法廷は教会の裁判所、内的法廷は贖罪の法廷であった。グラティアヌスから二世紀の内的法廷のあり方を描く
 381 教区などでの贖罪の人員の配備、
 390 司教区の司教の贖罪における権威は教皇庁にも反映されている。13世紀までに内赦院の役職が設立され、それは教皇庁のメンバーや巡礼者の罪の告白を受けた。
 注3536は関係する先行研究が。  内赦院は教区の対応物のように、教区の内赦組織からの疑問に答えた。教皇に留保された案件。

 内的法廷の手続き

 13世紀に共通の手続きが発達。それは外的法廷に影響を受けていた。ペニャフォルドのライムンドゥスのsumma de penitentiaはorfo iudiciariusを組み込んだものであった。
 391 第四ラテラノでの毎年の告解の義務付け。
394
 内的法廷はアドバイスを受け、道徳的問題を解消する場所となっていったという。
 内的法廷に入るのは意志的な自発的なものであったから、証言の提供もそうであった。395 自発的な贖罪のみが認められた。後期中世では誠実な告解を生産するのが聖職者などの技法となった。
 告解は開かれた仕方で行われた。その後告解者と聖職者が対論を行う。

 398 罪の状況などを尋ね、正確に罪の主体を特定する。
 裁き
400 告解のプロセスにおいてそれが社会的義務の妨げになる行為の場合が存在し、その場合は内赦院などに相談し、告解者を関係する教会の特免組織へ導く。

 401
 許しが与えられた後贖罪が規定される流れ
 402 聖職者の裁量は13世紀以降、制限なく行われた。
 古代の事例の厳格さを緩和し、魂の状態を配慮すること。
 それと近年の議論を踏まえrestitutiioを要求すること
404 減刑や刑の変更、断食から教会建設、補修へ。
405 下級聖職者は告解の作法を本からではなく実践により学んだ。

 422 ドミニコ会の告解の著作 ライムンドゥスのスンマとその注解はドミニコ会のスタンダードに、彼らはホスティエンシスなどのカノン法の著作も学ぶ。
13盛期以降も著作が多く出る。423 ドミニコ会の貢献は現代の学者から注目されてきた。ライムンドゥスもそう。
426 1415世紀には内的法廷の著作はとても多い。
 アルファベット順に構成されたスンマが増えていったという。 この一つにsumma summarum casuum conscientiae, すなわちSylvestrinaも。(Bergfeld beichtjurisprudenz)俗語でも書かれるように。 それと単一のテーマのモノグラフも書かれる。
427 

後期中世の内的宗教的告解の価値は非常に大きいものであった。

Decretales(グレゴリウス9世教令集), l. 3, titulus 32, C. 7 Ex publico

Ex publico

Decretales,
l.3, titulus32,C.7Ex publico (https://www.thelatinlibrary.com/gregdecretals3.html を参照) CAP. VII.
Sponsa de praesenti, non cognita, quae dicit, se velle religionem ingredi, compellitur infra certum tempus profiteri, vel adhaerere marito.
Idem Brixiensi Episcopo.
現在形における婚約者(de futuro との対比?)で、交合を経ておらず、修道院に入ることを 欲しているということを述べている者は、特定の期間ののちに申告を強制されるか、婚姻の状態に残存することを強制される。
同上(アレクサンデル 3 世)からブリクセンの司教へ。
Ex publico instrumento, quod nobis est praesentatum, et ex tuarum literarum tenore nobis innotuit, quod, quum venerabilis frater [noster O.] Veronensis episcopus de mandato nostro causam matrimonii, quae inter A. virum et M. mulierem vertebatur, suscepisset fine canonico terminandam, auditis utriusque partis rationibus et allegationibus, inter eos iudiciali sententia matrimonium approbavit, et eidem mulieri praecepit, ut ad virum suum rediens exhiberet eidem coniugalem affectum. 私たちに示されている(提供されている)、公的な手段(証拠)から、そしてあなたの手紙 の 趣旨から私たちに知らせることは、尊敬すべき兄弟のヴェロナ司教が私たちの命令によ っ て、A 男と M 女の間で交わされた婚姻の事例を、カノンの領域において解決されるべき と考えていた時、両者の理由と主張を聞いた上で、法廷の判決において彼らの間の婚姻を認 め、そして当該女性に対して、夫の元に戻って彼に婚姻の愛情を示すように命じた(という こと)。
Quod quum renueret, de mandato nostro, sicut accepimus, fuit vinculo excommunicationis adstricta. 私たちの命令について、彼女が拒
したとき、私たちが認めているように、破門という制 約 によって拘束されたということ。
Ceterum, quia praefata mulier, licet a praefato viro desponsata fuerit, adhuc tamen, sicut asserit, ab ipso est incognita, fraternitati tuae per apostolica scripta praecipiendo mandamus, quatenus, si praedictus vir mulierem ipsam carnaliter non cognoverit, et eadem mulier, sicut ex parte tua nobis proponitur, ad religionem transire voluerit, recepta ab ea sufficienti cautione, quod vel ad religionem transire, vel ad virum suum redire infra duorum mensium spatium debeat, ipsam contradictione et appellatione cessante a sententia, qua tenetur, absolvas ita, quod, si ad religionem transierit, uterque restituat alteri quod ab eo noscitur
recepisse, et vir ipse, ea religionis habitum assumente, ad alia vota licentiam habeat transeundi. に、最初に述べられた女性が、最初に述べた男によって婚約破棄されていないのに 、 依 然としてしかしながら、主張するように、彼によって知られていないのであ(交合を経 て いないのであ)、兄弟であるあなたに使徒述をして支持することで私たちは命 令 する。命令された男が女性自身的に認めていなかった限り(交合していなかった合?)、 そして同じ女性があなたのから私たちに提示されるように、修道院に入ることを 欲して いた限りで、彼女から十分に、修道院に入ってしうことになるか、ないしは彼女の夫の二ヶ月に戻るかどちらかになってしうはずだ?という告(cautio 用心?) がられた上で(つまり彼女に告がなされた上で)、矛盾えが、それによって決 定が なされる判決によって停止された上で(奪格?)彼を、斯様すこと(解こと)、 すな わち、し彼女が修道院に入るならば、両者が一方に、手からったと知られて い るのを償還するように、そして男自身は、修道の態を彼女がけ入れたならば宣誓のために、修道院に入院されるべきしをるように?。

Sane, quod Dominus in evangelio dicit, non licere viro, nisi ob causam fornicationis uxorem suam dimittere, intelligendum est secundum interpretationem sacri eloquii de his, quorum matrimonium carnali copula est consummatum, sine qua matrimonium consummari non potest, et ideo, si praedicta mulier non fuit a viro suo cognita, licitum est [sibi] ad religionem transire. ことに、主が福音書において述べているのは、夫に対して、密通拠にして自身離縁するのでなければ許しがえられないようにということである。そのなる言葉の 解 によって理解されるべきことは、その?婚姻はのつながによって結ばれるのであ 、 それなしでは婚姻は完遂されることはできないのであ、そしてそれし命じられ た 女性がその夫によって認められていないならば(交合していないなら)、修道院に入ると い う理由で(離縁が)されているのである。

Peter Landau, Aequitas in corpus iuris canonici

aequitas in the corpus iuris canonici

 

雑なメモです

aequitasは初期教父において用いられており、それはキリスト教固有の描かれ方をされたものとなっている。それは公平さといったアリストテレス的意味のみならず、慈愛、寛恕といったものをも示すものであった。古代末期のアウグスティヌスなは正義の中に愛を含めていた。衡平はキリスト教皇帝法の特色などとして用いられた。それはキケロ的な概念ともすびつている。法変更を正当化する概念とされた。286とはいえやはり古代末期においては衡平は法より高いcanonの権威を付与するものとは見なされていなかった。
 aequitasは正義からの逸脱を含意するmoderatio indulgentia などとは異なるものと見なされていた。それは寛恕ではなく正義に基づくものである。 シャルトルのイヴの手引きにおいてはその概念は指示されていない。 マルティヌスなどのローマ法学は衡平を定式化したが、グラティアヌスに体系的な説明はない。彼はmisericordia indulgentiaには言及する。 aequitasは特権授与などおに関連するものとして説明されている。特権を与える原理がaequitasに基づいてないといけないという。それは恣意を制約するものとされる。エウゲニウス3くらいの時期にaequitasがカノンの結びつけられた法解釈の原理とされる。289トゥルネのステファヌスのスンマにおいて、カノンの規則の矛盾が存在することが理解されるべきだという。というのもあるものはex rigoreに生じており、他のものは canones ex dispensatione vel equitateにできているから。 従来のrigor misericordiaの対置が置き換えられた。 とはいえ実質的機能は寛恕ともいいえる作用を有していた。290 手続き法の厳格さを緩和するものとしての衡平 291 ローマ法の修正を教皇が行うための原理として。
1140-1234までのaequitasの役割 
1 カノンの規則を解釈するための原理とされた。それはmoderatio omisseratioと言い換えられ売る作用を有していた。
2 カノン法の厳格さを緩和するための役割を有した衡平
3 厳格な慣習法以上に柔軟に、立法されていない法体系の欠缺を埋めた。解釈の一般条項として
292 4 法の変化や立法を正当化する作用を有した。
 フグッキオは欠かれてない衡平は法の欠缺の場合のみに有効だと述べた。
とはいえ ヨハンネス トイトニクスはmisericordiaの概念を用いて厳格さの緩和を主張していた。
13世紀 ホスティエンシスの定式化
1 正義と哀れみの統合としての衡平  それは常に用いられる原理とされた。 293
2 衡平とは厳格さと特免ないしは哀れみの間にあるものである と定義される。つまり厳格適用と哀れみの中間とされた
3 衡平は裁判官の眼前にあって判決、厳格さを支配するものとされた。

 これは信者の魂を危機に陥らせないことという原理も含まれており、時効取得のための善意の要求などもそれであった。

Peter Landau, Die Durchsetzung neuen Rechts im Zeitalter des klassischen kanonischen Rechts

 12世紀のカノン法は統一性と画期的な法の変化という点でそれまでの時代とは異なる。それまでは法集成が並立しており論拠の一義性は得られなかった。12世紀以前に絶対叙階が禁じられていたかなどなどの問題について、現在の法妥当性を前提にした理解では回答を与えられない。法の妥当性と法の実現性の区別は古典カノン法において歴史的所見に基づき完全に有意味に表現される、それに対して前の時代ではそうでないのである。新しい法の貫徹という論点は新しい法の妥当性についての議論を前提にするが、一般的見解は12世紀以前は得られていないという。
 研究において一般に認められているのは、新しい法の形成は教令集の受容による古い法についてのコンセンサスを前提にしているということである。 1170年頃に新しい法集成を介した補足が有意味かつ成功裏に行われた。それは授業用としてのみならず教会の裁判官の手引きにもなったものであった。グラティアヌスは初めから実務性のある著作を書いていたのである。パヴィアのベルナルドゥス、トゥルネのステファヌスなどは新しい法についての議論を行う。イノケンティウスの時期にはカノン法は新しい法をも含むものとされた。


 3つの点が際立つ

1 第三集成における教令集編集とそれをボローニャに送付したことであり、それは画期的であった。

2 イノケンティウス3が教令を通して古い公会議令,教令,重要な法の補完と変化の理論化(変化のcausaの探究?)を行ったことである。たとえばx3.5.16tなど。
3 第4ラテラノ公会議の1215年の改革立法は中世法史の決定的事件とみなされた。イノケンティウス3のpastoralisはすぐにボローニャで考慮の対象となった。教皇法の妥当性は認められ法形成の権威は教皇にあるとみなされるようになった。ここから教皇による集成の価値が決定的になった。
 教令法の妥当性は、慣習法の妥当性が制限されることにより促進された。慣習に合理性が要求されることで、その役割は制約された。Liber Extraにおける慣習の法的定義は教令の書かれた法に、あらゆる慣習法への優先を与えたのであった。ここから新しい法が12,13世紀において法的現実の中で貫徹されたかを問うことになる。それは時代と法の領域に従って区別しないといけない。その区別を踏まえるとき新しい法の現実化の可能性について語ることができる。二つのテーゼから出発する
1 12世紀中頃に新しい法の受容には期間を要した。イノケンティウス3以前には法形成は教皇制度とカノン法学の相互作用によって果たされていた。12世紀のカノン法学は法を立てる(legem condere)機能を有していたのであり、そこにその時代の法史学的の意義がある。初期において規範の創造の基準は固まっていなかったが、第3ラテラノの決定において法の妥当性、適用についての規範が定められた。そして13世紀初頭には教皇が教令による命令で直接一般妥当性のある法の変更を企画することができるようになった。教令の普遍的妥当性の原理が確立したことになる。
2 しかしながら法の貫徹は一様ではない。 手続き法などは実現が比較的成功したが、組織法などの改革に関する実態法はあまり成功しなかったという。教会の組織的改革は受け入れられていない。中世教会におけるジレンマとして法創造の時代が、組織政治が成功した時代とはいえなかったということがある。Patronatrechtの領域における法の体系化の流れ、ルフィヌスの見解は一般的同意を得られず、いくつかの認められた議論の束が存在していたが、それは教皇立法により統一化が目指された。遺言法もローマ法と異なる証人の数が教令により認められたが、実際には教皇領くらいで実現した変化であった。教会の組織法の領域、聖職録に関する規制の領域においては、第三ラテラノ公会議の決定などを経ても実行力を獲得できなかったという。第3ラテラノのカノン7、教会の収入の横領禁止なども、Inkorporationなどの抜け道を用いて形骸化されてしまった。
 教会財政の領域においては法の変化は生じていたが,その貫徹は非常に困難であった。手続き法などの領域とはことなり、このような法領域では、多大な特免の実行や制限的な規範の解釈によりその作用は限定されてしまった。 一方手続法などにおいてはのちの審問制度等に繋がる発展が見られるという。

"Athenian democracy and popular tyranny" By Kinch Hoekstra  メモ

Popular Sovereignty in Historical Perspective, Edited by Richard Bourke, Queen Mary University of London, Quentin Skinner, Queen Mary University of London , pp. 15-51です。

 

アテネの民主主義と人民の専制


注: 今回日本語で専制と表現している箇所に該当する英語は tyrannyである。

 

 

 


 人民主権が紀元前5に出てきたというのは誤っていると多くの人は考えるかもしれない。主権概念や人民主権概念の近代固有性

 初期近代の理論かと古代の関係についての誤解をまず解く というのも初期近代の論者はギリシアとの関連を持っている。ボダン、ホッブズらは主権の無答責性を述べるのであるが。それをギリシアにおけるanupeuthunos いかなる権威にも背金を負わないというギリシアの擁護で答える。そしてその語は古代の著作かにおいては専制の特徴なのであった。初期近代の主権概念と古代の専制の叙述に連関があるということがこれから示される。
 古代ギリシア専制と、初期近代の主権の類似性。事実アテナイにおいて人民の統治を専制の概念で把握することはあった。アテナイをpolis turannos人民をanupeuthunosと形容することもあった。更に人民の権威は専制的、暴政的と表現された。
 近代の論者はどうしたら専制の程度になるのかを問うた。 5世紀の人民は専制的権威を有すると考えられていた。
 政府の役職のコントロールを行い影響を振るっていたという状態は五世紀に既に発展していた。更には「out of control thesis」とデモクラットが必然的に結びついていたとされる。民主主義的な視点では 人民の権力者のコントロールの前提は権力者が人民にコントロールされていないことである。コントロールされていたりされていないことの両方が必要?turannos こそが、kuriosよりも主権と比較するに相応しい。キュリオスは人民のコントロールの下にあるが、誰かが彼に支配されていないことを意味しない。それは高次の法的政治的権威によって制限され保障されているものであった。人民のキュリオスでありつつ別の人の支配の下にあることも可能であり、多数のキュリオスがいた。それと比べると専制者は至高であった。
 専制の歴史を見ることで、デモクラシーー、人民主権への、コンフォートゾーンを飛び抜ける知見が得られる。
2 古代アテナイの行政官はチェックされ人民に責任を負う存在であった。hupeuthunosな、有責な存在だと言える。それに対して僭主は専制的で無答責anupeuthunosな存在だというのがヘロドトストゥキディデスなどのテクストの前提として読み取れる。
 そして、ボダン、ホッブズ、グロティウス、プーフェンドルフらはギリシア語の援用なども行いつつ、主権者の特徴にその無答責性を期している。それは僭主、君主制の支持に因るものではなく、理論的に人民主権を含意した着想なのであった。 3 アテナイには僭主の出現を予防し、僭主を退ける風潮も存在していたことは確かであり、更に民主制と僭主性は対立するように映るかもしれない。
 だが僭主の特徴である単一性、至高性、恣意的な権力といったものは統治する民衆の特徴でもあった。
 トゥキディデスは3.43において紀元前427年の民会の様子を描いている。そこではディオドトスが民衆の責任を負わない権威について不平を述べているのである。彼はアテナイの指導者に多くの制約が課されていることを問題にし、民衆も同様の決定に伴う責任を負うべきだと述べている。
 そこにおいて民衆がaneuthunosだと形容されたことは疑問に付されない前提として理解されているようである。確かに民主制において行政官はhupeuthunosだとしても、民衆はそうでないのである。
 民衆は単一の存在でないと考えられるかもしれないが、アテナイの著述家達は単一の存在としての正確を民衆に与えていた。そして民衆とポリスの同一視を行った。トゥキディデスにおいてアテナイの人々は行動と決定の主体であり、それはペルシアやマケドニアの民衆とは対比をなすものであった。ポリスそして人民は個人のように情念や深慮に対する能力ないしは無能力を備えるものとされ、更にその統治がturannosの行うようなものであることも描かれている。そしてそれはアテナイに批判的なコリントス人だけでなくアテナイペリクレスなども用いている表現である。この点についてはその用語が支配を被る側にとっては否定的な意味を有するにせよ、実際に権力を振るっている立場の側から見ると好ましい用語とされていたという解釈がなされており、クレオンやペリクレスは権力を有する民衆にとって好意的な表現を用いていたとされる。実際のところは更に複雑で、ペリクレスはそのような僭主的な権力を有していることの自覚を民衆に求めているという側面も備えていた。
 プラトンの著作のカリクレスやトラシュマコス、そしてアルキビアデスなどの主張も、僭主への羨望やそれが好ましいものであるという通念の存在を推察させるものである。同時代のエウリピデスなども僭主を人間の高みにあるものとして描いていた。そのような点を踏まえると更にペリクレスの言はアテナイ人にその権力の大きさを自覚させ、それに伴う被支配者からの嫉妬や羨望といった困難に対処する必要も示唆している。
 4
 民衆が単一に表象されていたことを芸術作品等を手掛かりにして更に説明している。パウサニアスによる柱廊においてデーモス(擬人化された民衆)のイメージがテセウスや12神と共に並べてられている。そのほかのデーモスの像はゼウスをかたどった成人男性であることが多かった。(ここでは写真付きで図像などが紹介される) ソフォクレスオイディプス王の様々な論点の中で、オイディプスが自身を民衆と同一視している箇所に着目してみる。これについて、ソフォクレスアテナイの民衆に実際に同一視することを勧めているという解釈や、悪い例としてそうしないように主張しているとする解釈があるが、どちらにせよアテナイの聴衆が自身と僭主の関係について考察するきっかけになったことは十分考えられる。その他にもアリストパネースにおけるエウリピデスの発言などが挙げられている。悲劇は統治者の決定と運命を例示することで、民衆にその権威の公使についての教訓を与えていたとされる。

 トゥディデスの事例におけるようにアテナイの民衆は他のポリスに対する僭主として自身を理解することが十分可能であった。さらにアリストパネースの『騎士』においてデーモスが舞台に上がり、despotesとして描かれている事例が興味深い。彼の奴隷はアテナイの指導者だと考えることが出来、それが逃れがたい力を持つ主人だとして描かれている。だがそれは政治家によって操作されうるものとしても描かれていた。デーモスの怠惰さ、貪欲がそれを他人の支配下に置いてしまうことが示唆されている。ここにおいて民衆へ暗示される教訓は権力を抑制することではなく、権力を効果的に用いることなのであった。デーモスの支配に対する批判はその権力の強さではなく、その支配を弱める性向に向けられていた。デーモスが奴隷である政治指導者に支配されているのではなく支配していることが正しいあり方だとされる。それは追従に流されず、堕落を回避し、必要な出費を行い平和を確立することを含んでいた。そのためにも単一の決定主体として自身で決定を下さなければならないということをアリストパネースは示唆している。
 そのような自体を後代のギリシア人は民衆の専制とみなしており、例えばイソクラテスクレイステネスの時代の民主制において民衆は有力者kuriosであるのみならずturannosでもあり、それが真の民主制のありかただとする。デモステネスの演説においても類似の見解が示されており、政治家を支配する民衆か、その逆かという二項対立が前提とされ、その中間形態はイメージされない。
 民衆が政治的に具現化されるのは民会と陪審であった。アリストパネース『騎士』における民衆は民会の権力と同一視され、『蜂』では陪審の権力に着目が行く。そこにおいて怨恨から陪審になる父を陪審から遠ざけようとするBdelycleonの振る舞いが陪審によってturannis esti だと考えられ、更に陪審に加わった父が自分の立場をarkoo toon hapantoonと説明し、至高の地位を有するものとしているのが象徴的である。民衆の権力を損ねようとすることは専制的なものだと考えられると同時に、民衆の権力の絶対性が強調されることになる。陪審の制度的な立ち位置も無答責性を反映したものとなっている。政務官の監視を行うが、彼ら自身は監察されない。父は実際に陪審についてanupeuthunoiな存在であると主張もしている。『騎士』においてBdelycleonは父を支配者ではなくかえって奴隷と成っている存在として非難する。政治家の行動によって民衆は他人の利益に基づいて動く者へと変わってしまいえる。

 民衆を無答責とすることは危険も孕んでおり、『騎士』などにおける議論は外からではない自己コントロールの必要を示唆するものであった。自己統御の制度は紀元前五世紀におけるソースからは見いだしづらい。籤などで選ばれた政務官はチェックの対象であったが、民衆自体はその対象となることはなかった。民衆の無答責性の正当性については、同時代の「旧寡頭制派」と呼ばれる無名の著者による文章から読み取れる。彼自身は民衆への軽蔑を示しつつも、アテナイの民主制を貴族制的理想へ対置される、民衆が支配し支配されない制度、政策実践の組み合わせとして理解している。
 その要点としては、1一部の価値のある人物が議論し熟議するという場合、その集団の利害が先行するため、無知な人物にも発言権を与えること、2無知な人物の善意は有能な人物の悪意に勝ると考えられている。3その政体が最善でないにしても、自己保存のために相応しいのであり、支配されてよく統治されているより、自由に統治するという点が重要であり、悪しき統治kakonomiasの問題に関心がないこと4善き統治eunomiaは民衆の奴隷化を含意している といった点が挙がる。
 このような仕組みは統治分担者全てに人民に対して責任を負わせ、人民自身が責任を負わないことで成立する。(アリストテレスも選挙や後の訴追などの制御する手段がなければ民衆は奴隷化し敵対的になるという見方を示す。 mede gar toutou kurios on ho demos doulos an eie kai polemios) 賢い人物への委託は民衆の支配を覆すのであり、民衆が支配権を保持している実態が保たれた制度が要求されるため、立法、発議、言論、刑罰といった権利は民衆に残されていないといけない。
 前五世紀後半にはeunomiaという法による善き秩序は反民主主義的用語であった。民主主義の批判者は貴族制寡頭制の法に基づいた制度を賞賛していた。だが、民衆に対して法が適用されるならば至高の権威は奪われることになるだろう。クセノフォンの描き出したBC 406における訴追の事例は民衆が制度的制約から解き放たれていることを自覚しており実際その通りに行動していることを示す。

 紀元前5世紀のアテナイを踏まえたアリストテレスの記述を見る。『修辞学』において専制は法などによる制約のない状態(aoristos)であった。それに対し『政治学』は一人による自己利益のための支配とされている。その区別は興味深い。
 『政治学』における専制は主人的な支配であり、王政との対比がなされているというのは有名な事実である。そしてそれは、君主が責任を負わず統治する(anupeuthunos archei)状態だという。それは既に挙げた民衆への性格規定と類似する。専制の性格規定における、自己利益の追求という側面を強調すると、確かに近代の主権概念との類似性はぼやけてしまうのであるが、それは『政治学』の一面のみを重視した結果なのであり、『修辞学』との連続性を重視するならば意味は変わってくるかもしれない。
 ホッブズは誰の利益を追求しているかによる政体分類を拒絶するが、彼の無制約な主権者の要求はアリストテレスの別の面を受容しているのだと言える。
 更に『政治学』三巻においては陪審と民会の参加者について、無制約な役職という名称を与えている箇所が見いだされる(1275a25-31)。当該箇所では先述したようなアテナイの状態の反映だと考え得る。ここにおいてアリストテレスは制約されていないことに着目しており、それは単なる時間の限定がないということ以上のことを意味しているように思われる。時において限定されたり、役職に条件が加わった者は主権者たり得ないということはボダンやホッブズも共有している発想である。
 そして更に確認すると『政治学』第四巻ではよりラディカルな民主政的理念が述べられている。
 「他の種類の民主制はその他の点は別の種類のものと一致するが、法ではなく多数者が権威を持つ。...民主制下のポリスは(一般には)法に基づいており..最善の市民が支配するからである。法が権威を持たない場所ではしかし、...民衆が君主なのであり、それは多数の人間からなる一人の人間なのである。というのも、多数者は個人としてではなく全体となって権威を有するのである(monarchos gar ho demos ginetai, sunthetos heis ek pollon: hoi gar polloi kurioi eisin ouch hos hekastos alla pantes)...そのような民衆は、それは君主制でもあるから、君主的な統治を、法に従うのではなくて、主人ddespotikosになることで支配をするのである。結論として...民主制はこの種においては一種の君主制における専制なのである。」(1292a4-29)そのほかにも君主の追従者と人民の追従者の類似性や、全てに対する権威を有している(demon panton einai kurion)といった点が挙げられている。 民主制において民衆は主権者となり、全てに権威を有し、僭主のようになることがありえるのである。このような視点から読むならば、アリストテレスはラディカルな民主主義者を無自覚に僭主の手に落ちるという点から批判しているのではなく、僭主制を自覚的に志向している点から批判しているのだと言える。
 アリストテレスは民衆の支配がデマゴーグの支配に至ってしまうことを述べている。ただし、アリストパネースの『騎士』において見いだし得るラディカルな民主制において民衆がかえって支配下に置かれる危険については、避けがたいものではないのである。ラディカルな視点においては、アテナイの民衆は個人として僭主となろうとするものに対して敵意を向けてしかるべきなのであった。

 アテナイ人は単一で至高の、責任を負わない政治権力にturannosという両義的な言葉を有していた。もし民衆が自信の利益を自分で管理するならば、それは無制約で責任を負わないものでなければならないのであり、その権威を削ぐような指導者の出現は防がないとならない。主権概念の素材はその名前の下では得られないが、人民は確かに僭主の衣を纏っていたのである。 

 J. G. A. Pocock, The Ancient Constitution and the Feudal Law- A Study of English historical Thought in the Seventeenth Century, 初版における序文と1-1

 

 J. G. A. Pocock, The Ancient Constitution and the Feudal Law- A Study of English historical Thought in the Seventeenth Century, 初版における序文と1-1

 

 これ1957年刊行とは信じがたいですね。なんならBarbarism and Religionの主題がすでに含まれているし、自分の研究にはあの著作より近しいので大変勉強になります。

 

以下全訳

 

xiii 第一版への序文

 

 私はこの本において17世紀の国制叙述の根本的性格そして問題を提示しようとした。私は英国における過去に対する思想を徹底的に分析しようとしたのでもなく、国制の歴史と理論が同時代の政治的論争のソースとして用いられた仕方を探求しようとしたのでもない。その代わりに、二つの主要な思想における学派と思われるもの-自身の国制が遠い過去にさかのぼるものであるという信念を備えたコモン・ローの法律家と、この考えを、その国制は封建的土地所有の原理によってもたらされたことを指摘することで揺らがそうとする僅かな反対者がそれである-を対置すること、これらの解釈がいかに生じたかを示すこと、そして同時代の政治理論の本質的な考えにそれら解釈がいかに関連して、その連関が当該解釈の発展によりいかに発展、阻害させられたかを考察することのほうがより示唆に富んでいるように思われる。全体からして、もっとも典型的であり必然的でありながら、歴史家によってもっとも無視されてきた、17世紀英国思想の脈絡の図像が見いだされることが期待される。それはすなわち、(17世紀英国における)彼ら自身を彼らの過去と、彼らがその過去と取り結ぶ関係を理解することで彼ら自身を理解しようとする試みなのである。このことは私がElsynge, Selden, Twysden, Somnerやその他の多くの当時の歴史家を、彼らの価値に相応しく扱っていないという失敗への弁明となるかもしれない。

 

 

 

xiii 第二段落

 

 この目的を果たたそうとする中で、私は歴史叙述の歴史に関するある一般的な言明を提示することになった。このことは思うに、16,17世紀の間に過去の探求についての最も重要な様式の一つは法研究であったということであり、そしてヨーロッパの国民の多くは、たいてい同時代の政治的発展や政治理論の刺激のために、自身の法の性格について考察することで自身の歴史についての知識を得ていたということであり、各国民における歴史に関する見解は各々の法の、そしてそれと同様に、各々の歴史の産物であるということ、更にはこの側面から見た主題の重要性は歴史叙述の歴史家によって殆ど考察されていないということである。私が試みたのは、英国の歴史思想をある点ではフランスの、別の点ではスコットランドのそれと対照的に提示することで、前者の当時における基本的な限界が、それが一つの法体系のみを介して国民の過去を考察することに縛られていたということから生じたことを示すことである。この理論の完全な(結果、到達?)は、ここで試みられたものより遙かに徹底的な英国歴史叙述の歴史と、おそらくは英国における特性が他のヨーロッパ諸国の歴史叙述と、上述した決定要因の支配下にあって異なったものとなったかを示すために考案された比較研究を必要とするだろう[1]。歴史叙述の歴史は未だに発展中の研究分野であり、英国においてはその主要問題もいまだに確定していないのである。(そのため)将来の研究のための貢献として、この研究に一定の場所が与えられてもよいだろう。

 

 

 

xvi第二段落

 

 この研究は博士の学位のために提出した、「Commonsの起源をめぐる論争、 1675-88」というタイトルのものの発展系である。それは本質的にはRobert Bradyと彼が関与した論争についての研究である。[2]Butterfield, Plumbへ感謝 Butterfieldの The Englishmann and His Historyと DouglasのEnglish Scholarsは非常に重要であった。書籍刊行のための諸々のお手伝いに感謝

 

 

 

 第一章

 

 導入 フランスにおける近代歴史叙述へのまえぶれ

 

1

 

p.1 第一段落

 

 この本は近代歴史叙述の隆盛の一側面に光を当てるために書かれた。その動向の始まりはある程度の確証をもって16世紀にさかのぼり得る。というのも、その当時に歴史家の仕事が過去における社会構造を再構成し、そこにおいて、そしてそれを介してその時代に生きていた人間の行為、言葉そして志向を解釈するためのコンテクストとしてそれらを利用するという特徴を備えるようになったためであり、それはそれ以降の歴史研究を特徴付けている。これが私たちの知るところの歴史的方法の核心であることは説明を要しない。このことが近代歴史叙述を古代の歴史叙述から区別するということは、ギリシア、ローマにおける歴史的方法との比較によって明らかになるかもしれない。古代の歴史家は理解可能な人間行為についての叙述を発見し、きらびやかに発展させた。彼らは自身のそれとは異なる同時代の社会を描き出し、様々な風土や伝統において生じる様々な人間の行為や信念を記した。しかしながら彼らは、自身の文明の過去との間に、その当時の人々の思想や行為が、それらが生じた世界全体を復元し、詳細に記述し、その復元された世界をそれらの理解のために利用しなければ理解できないほどになってしまうほどの時間の隔たりが存在しているということを仮定するまでには至らなかったのである。そしてギリシア、ローマの歴史家はこの過去の再建のための画然とした十分な方法が存在していると主張することもなかったのである。そのため彼らの書いた歴史とは軍事的政治的事象についての叙述、ないしは比較的な政治分析から構成されていたのであるが、それは、過去とは特殊な研究領域であり、その独自の法則の発見や、適切な調査方法の発展によって理解され得るものであるという想定に基づいた過去への探求を含んでは居なかった[3]。しかしながらこの探求は古来の叙述の技法というものに対して優越しているという点であると同様に近代歴史叙述の主要な特徴なのである。歴史家が自身の探求を社会の過去の段階に到達させたとき(そしてその時のみ)、彼は自らの結論を叙述に組み込むという問題に直面するのであるが、その叙述の主題は人間や統治組織の行動のみならず、社会構造の途絶えることのない変化そして自身の主題の二つの側面の相互作用を含んでいる。過去を再構成するという考えが歴史家の考えにおいていかにして支配的になり、より古い、叙述の技法としての歴史という主張に対抗して歴史家の注意をいかに集めるようになったのかについて解明することは、歴史叙述の歴史家に取り最大の重要性を有する事なのである。

 

 

 

  1. 2 第二段落

 

 

 ギリシア・ローマの歴史家にとっては過去それ自体というものは優越的に重要という訳はなかったので-歴史叙述の創始者にそれが見られるのは逆説的かもしれないが-過去の探求のための特殊な技法を発展させなかった。ここではspatium historicum、過去への視点に置ける歴史的なものと神話的なものとの境界を論ずるつもりはないが[4]、現行の議論のために一点指摘しておくのがよいだろう。ギリシアとローマの人たちは、中世や近代ヨーロッパの人たちが意識的であったのとは異なり、過去の文明が存在しており、それが自身の生活へとその制度、観念、物質的遺構、そして文書史料を通して影響を与えているということについて意識的ではなかった。彼らにとって探求する必要や、探求のための証拠を有しているような過去の世界は存在しなかった。そして彼らの歴史感覚は自身の世界への探求と、同時代の異なる社会との比較において培われていた。しかしながらローマという過去の世界がつねに私たちの前に現前しているという感覚と、それを理解し、私たちとその過去との関係を規定することの必要性は中世と近代ヨーロッパの思考における主要な要素であり続けている。そしてもし過去に対する研究を行う欲求が近代ヨーロッパ歴史叙述の主要な特性だとするならば、その欲求はヨーロッパにおける、私たちがその隆盛と起源を探し求めるべき古代世界に何かを負っているという感覚に内在しているものなのである。

 

 

p. 3 二段落目

 

 

 

 私たちがそこにおいて探求を行う領域は、人文主義という名で記述される、古代についての学識における微妙な技巧-すなわち、古代世界に接近するための方法-の変遷である。「古典古代の再生」といったフレーズが、中世思想がルネサンス思想と同様に古典古代の重要性というものを意識しており、それらが根本的にだとしても、その古代をよりよく理解するために用いた方法という点でのみ異なっていたということを理解していなければ、人文主義に当てはめられた際に無意味なものとなるということは長らく常識となっている。中世とルネサンスの人は同様に古代を自身のための手本としようとし、その教え、その正典をできる限り権威的なものとしようとした。しかしながら中世における総合的で寓意的な精神によって採用された方法は全体として、古代の生活とその当時の生活を想像に基づいて合成するといった結果をもたらすことになった。ヘクトルアレクサンドロスは騎士とされ、キリストのピラトによる裁判は封建法の様式に則って創造されるようになり、更にもっと 学術の実際的段階においては、ローマ法の用語は中世ヨーロッパの統治にためらうことなく用いられた。中世の人がもしあるとするならばどの程度、この点において何をなしていたのかについて自覚があったのかを探求するのは私の能力を超えている。ローマがキリスト教世界とは異なるといういくらかの意識は明確に存在していた。しかしながら、性格のどの側面が過去と現在で異なっているかについて区別し見いだすことや、それをなすための体系的な科学を見いだすことの必要性は感じられていなかったことも明白である。この営為は、人文主義者による新しい過去へのアプローチの帰結として生じたのであるが、しかしながらそれも偶然、間接的そして逆説的に生じたのである。

 

 

 p. 4第一段落

 

 

 

 人文主義の思想は、中世より一層強力なまで、古代世界を範型とすることの必要を主張したが、中世の学識における古代世界の提示に対して激烈な不満を表明していた。それはそれまで権威があると考えられていた古代のテクストは多数の注釈、アレゴリー、そして解釈の層で上塗りされており、テクストではなく注釈が探求されていたことを指摘した。それは純粋なテクストへの回帰-そのような訴えはそれまでもあったが-を要求し、常にその注釈者がなしてきたよりもよいテクストの理解を求めており、そのような要求は研究資料を増加させ、技術を改良させたのであるが、それはしばしば人文主義がうまくいくことを可能にした。しかしながらこの点で、歴史叙述の歴史という見地から見た際に人文主義運動の逆説であり真の重要性でもあるものに直面する。というのも、これらの主張、要求をする中で人文主義者は「それが本当にそうであったような」古代世界への回帰を求めているということは言い過ぎることはないほどであり、そして私たちは彼らのプログラムをこのような言葉で理解するときに近代的な歴史意識の出発点に立っているこということを理解しない訳にはいかないのである。そして、その移り変わりを果たすことになる逆説は以下のようなものである。すなわち人文主義者は古代世界を反映し模倣するためにその復元を試みているのであるが、その復元作業が徹底して先鋭になされればなされるほど、その反映、模倣が不可能であることが明白になるのであり、それが単なる反映、模倣以上のものでないことが明らかになるというものである。古代的なるものは古代世界に(のみ?:報告者)帰属しており、よみがえらせることの出来ない多くのものと関連し依存しており、そして結果的に同時代の社会に組み込まれることはできないのである[5]。近年の研究は新しく人文主義者がいかにして、死語となり、日常生活の一部として自由かつ自然に用いられなくなった古典的ラテン語の言語と文法を復元しようとしたかについて探求している[6]。その著者に依れば、古典ラテン語は単なる歴史的な、古事愛好的な関心の対象、自身のために研究しようとする人のためにだけ重要な消えた世界の一部となっていたとされる。しかしながら著者は更に、そのプロセスがいかにして、ラテン語による著者が生きていた世界を描き出し、更にその世界を彼ら自身の目を通して眺めようとさえし、そして彼らの著作をその世界の一部として解釈しようとすることを目指した新しい学問分野の発展を伴っていたかも示している[7]。簡潔に言えば、人文主義者は彼らの原初の目的を超えて、ギリシア・ローマの知恵を逃れがたく過去のものへと追いやり、最終的にはそこから、現代世界に直ちに直接適用されるべきだと訴えかける力を取り除いた。しかしながら同時に、彼らは独立した研究領域としての過去という問題への注意を喚起し、熱心にその探求のための技術を完成させようとした。独立した科学として考えられた過去の探求が近代の歴史家の特徴だとするならば、その基盤を築いたのは人文主義者なのである[8]。これで全てではない。彼らはギリシア・ローマの文明が独立した、過去の世界であるということを示したが、ヨーロッパ人の精神から、過去は何かの仕方で残存しているという出来事から深くそして力強く影響される感覚を奪い去ることは出来なかった。そのため彼らの作品は現在と過去の関係についての問題全体を浮上させた。過去は現在に関連しているか?過去を探求することに何か意味(報告者: 利益?効果_核心?重要性?)があるか?現在における過去の残存の性格、地位はどのようなものか?そして恐らく何よりも、いかにして過去が現在へと至ったのか?歴史的変化の問題は、これまで以上に古代文明の特徴への新しい探求が行われるにつれて、より複雑かつ普遍的なものとして考えられていったが、それはヨーロッパ人の思考を16世紀末期より前から揺り動かしていった。そういうわけで、近代歴史叙述のはじまりを私たちは人文主義の逆接の中に探し求めるべきなのである。

 

 

 p. 5 第二段落

 

 

 

 人文主義者による功績は、ヨーロッパのいくつかの学術における歴史的技法の歴史的展望と、その基本を打ち立てたことにある。しかしながらその運動の重要性は私たちの歴史叙述の歴史において、それが本来値するほどの注意を向けられていないようである。明白な見落としについては多くの原因が帰されるかもしれない。その運動が極端に遅く-その完全な帰結は18世紀初頭以前に感じ取られることはなかった-、そして自身の行為の意味を十分に意識しておらず、自身としては過去は道徳的訓育のために、模倣すべきそして避けられるべき実例の宝庫として探求するべきだと信じ続けてい学者達によってその活動を支えられていた。この人文主義の主要な原理は、しばしば指摘されるように、歴史的思考を妨げたり、すくなくとも歴史的思考に好意的ではかったりした。しかしながら16,17世紀の歴史叙述の歴史はこれに尽きる訳ではなく、それが全てであったかのように書くという誤りはなされるべきではない。歴史的思考の発展は、様々多くの仕方で、人文主義者の道徳的に捉えようとする傾向にも関わらず、見てとることが出来る。しかしながら歴史家による見落としないしは無視は、この発展があまりに様々で広範であるということからさらに説明される。その歴史は一つか二つの明確で容易に識別できる科学が、急速に発展し、その他のものを共に運んでいく-数学や物理や天文学が、科学革命の歴史において主要なテーマを提供しているように-ような事態をめぐる単純な問題ではなく、偶然にひょっとしたら数え切れないほどの学問分野の片隅でわずかに発展した、そしてそれぞれの事例において当該学問分野に相応しい歴史的技法に進化した歴史的アプローチの問題なのである。歴史叙述の歴史はそれゆえ、単一の進化の研究として描かれることはできない。少なくとも現行において最大限なされえるのは、歴史的展望(報告者: 先ほども出たが、historical outlookの意味はいまいちわからない)の発展を、それが明白に表明された(報告者 :再帰なので中動相的に訳した)いくつかの場で探求することである。

 

 

 

p.6 第二段落

 

 

 

 しかしながら、批判的技法が16,17世紀の間は非常にゆっくり発展したのであり、かなり後になって、文芸的叙述の形式としての歴史を書くということと結びついたという歴史叙述の歴史についての重大な事実がある。すなわち、一方では学者と古事愛好家があり、もう一方で文劇的な歴史家が存在しているという大いなる分断が存在していたのであり、更には、文芸の一形式としての歴史はのんびりと自らの道を進んでおり、ピュロニズムによる一種の革命、懐疑主義による、歴史についての語りは信頼できる仕方で行われ得るかについてについての広範な運動が生じるまでは、学者によって発展させられた批判的技法に注意を向けることもなければ、自身らの類似した技法を発展させることもなかった。この革命の性格はポール・アザールによって研究されてきた[9]。その革命の主導者の目は文芸的語りという意味での歴史に向けられており、それはマビヨンなどの学者によって急速に発展させられた過去についての事実の信頼性を測定するための 批判的方法は除外されたままであった(報告者: fixed uponとfixed toの並置?)。もし彼らがそのような人物に真剣な注意を払っていれば、彼らのピュロニストとしての失望はよりすくなかったかもしれない[10]。しかしながら似たような過ちを近代の歴史家も犯しているようである。歴史叙述の歴史は、歴史の名を冠した文芸作品の歴史と同定できるかのように探求されており、結果的に叙述的な歴史を描かなかった研究者の作品に重要性を認めていない、一方的な見解が生じることになってしまった。例えば故ホイジンガは、あるとき近代科学の全ての歴史は中世の大学に負っているところが殆どないと書いたことがある[11]。彼に依れば一つの例外を除いて、近代科学は神学、医学そして法という三学部科目のどれかないしは自由七科のどれかに端を発している。しかしながらもし歴史学が中世の学科に加えられるならば、修辞学の下部門として、つまり批判的目的、方法を欠いた単なる模擬弁論declamatioの一形式としてであり、結局その批判的科学への進化は完全に大学の外部で生じたことになるとされる。

 

 

p.7 第二段落

 

 このような判断は、歴史というものをその名前を冠した文芸形式と同一視すると決めたときのみに可能となるものである。私たちがそのような強迫観念を取り除いたならば、以下の事実を思い出すだろう-一連の標準的な著作[12]からはとてもよく理解され得るものであるが-すなわち、最高度の独創性と複雑性を備えた叙述的でない歴史研究は16世紀のフランスの大学-その時期においてカリキュラムや組織は未だに中世的なものであった-で行われていたということであり、歴史的思考は法学部で発展していたということである。ルネサンスの法学者の歴史的学派は、この章の残りの箇所の内容を提供してくれるが、さらなる要点を説明しておかなければならない。歴史叙述の歴史の教科書的説明は、16,17世紀の学者の成果は叙述的歴史と結合され、現在の作品のように認識される類いの歴史的著作を生み出すように成った時、それはロバートソンやギボンが利用しえたような、多かれ少なかれ検証された事実の単なる蓄積でしかないといった印象を生み出しがちなのである。これから確認されるように、このことは全く正しくないのである。初期の学者(報告者: 何のことか分からない)は、多かれ少なかれ事実をその歴史的文脈へと戻し、そこで事実を解釈することに意識的に取り組んでおり、そして既にこのような営みが歴史的考察に伴う複雑な問題を体現するということは示唆されていた。すなわち、過去の現在に対する関係、そして現在における過去の残存という問題がそれである。法律家にとってこのことは特に問題であった、というのも、彼らが過去の文脈に帰しているデータは、同時に、現在の社会が自身を統御するために準拠しようとしたものであったからである。16世紀の学者が関心を抱いていた歴史的問題は成熟しており、喫緊の問題に対して実践的なものなのであり、そして哲学的に深遠ですらあった。その問題に対する当時の学者の考えは彼自身にとっても同時代にとっても非常に重要であり、彼自身の文明の歴史的理解に影響を常に与えていた。このような種類の思考は歴史叙述の歴史の真のそして意義深い部分を形成する。

 

以上

 

[1] 原註: 私はSig. Rosario Romeoの Il Risorgimento in Siciliaにおけるシチリアの歴史思想の発展の研究に負っていることを表明する。そこから私は、表面に現れているものより遙かに多くの啓示を受けた。

[2] ここから直訳ではなくあっさりとまとめた

[3] 原註1: トゥキディデスのヘラスの歴史についての言及(『戦史』第一巻第一章)における独特の抜け目なさは、この見解を修正するというより明白にしている。彼にとっては文書から再建されるべき過去の文明というものはない。そして、文書記録の不在において(記録されている伝統以外で)、彼が都市の規模や場所、設立された日付、会場権力の発展そして土地の肥沃さといった事項の重要性についての鋭敏な感覚を示しているとしても、彼や他のギリシアの歴史家が、これらの種類の証拠を扱うための科学を打ち立てたということにはならない。近代歴史叙述は過去の社会の状態に由来する多くの文書が残っていること、そしてその文書が現在のgovernance(よい訳が思いつかない)のためにも重要であるという感覚に依存しているのである。

[4] 原註2 この問題についてのいくつかの言及は、W. von Leydenの"Spatium Historicum"にある。

[5] 報告者: 構文の取り方について was bound upが並列しているのは、 belongedか、wasか?ひとまず前者でとったが、後者ならば、「古代のものが古代に属しているということは、無数の...に関連しており依存している、そして,,,」といった訳になる。既存の訳では「のみ」を補わないとしっくりこなかったことを踏まえるとこちらの方が適切か?

[6] 原註1 Bolgar, The Classical Heritage and its Beneficiaries

[7] 原註1: Bolgar前掲書pp. 376-7.彼の言及する補助的学問は、古典古代に向けられた地誌学、植物学、文芸批判、考古学そして年代学である。

[8] 原註2: 類似したプロセスは中国における儒学における革命的変化についての研究者によって、ここ50年ほどの間に描かれている。。。(省略)

[9] 原註1: ヨーロッパ精神の危機の第二章、モミリアーノ Contributo all storia degli studi classici, pp. 75-94

[10] 原註2: マルク・ブロック 『歴史家のメチエ』は最も明確にマビヨンの批判的とあらゆるピュロニズムの対照を明らかにしている

[11] 原註3: Sobre el estado actual  de la ciencia historica(歴史学の現状について), pp. 12ff、そしてそれはF. RosentahalのA History of Muslim Hisotriography, p. 29nに引用されている

[12] 原註略 Maitland, Holdsworth,Hazeltine, Church, Gilmore, Declareuil,Daresteなど挙がっている

学振研究員が授業料を全額払うよう命じられて死にそうになってる話

 

 

 こういうブログの使い方をしたことはないですが、感情が収まらないので書きます。書いたら多少は冷静になることを期待してやってみます。

 

 文章がグダグダなので言うまでもなくわかることでしょうが、冷静な分析などではなく、単なる悲鳴と思って見てもらえると嬉しいです。

 

 

 まずは私の状況から

 

 所属は東大法研 D1 学振DC1研究員、で実家暮らし(都内)という状況です。

 

 家族構成は自分の他に父(会社員)母(専業主婦)妹(新入社員)がいるといったものです。

 

 

 私の修士時代は授業料は学生支援機構の奨学金でカバーしつつ、生活費を週三日のバイトで賄い、ご飯は親に出してもらうといった状況で過ごしてきました。博士の入学金などもあり、その間にできた貯金はほぼ0です。奨学金については先日全額の返還免除が決定しています。

 いちおう免除の参考になった修士までの業績は論文3(日本語2英語1)、国際報告2,国内報告3,翻訳1,DC1獲得, TA2, RA, GPAほぼ4.0といった感じになります。

 

 現在は生活費そのほかの費用は、学振の研究奨励金(20万に届かないくらい)を用いて全額自費で賄っています。それと後述するような理由もあり、多少家にお金を入れているという状況です。

 

 そのような状況の中で、七月の最後の日に授業料免除が一切なされないという通知を知ることになりました。正直いって頭を抱える事態に陥っていますし、理不尽さに憤りを感じています。

 

 学振研究員一月あたりの固定出費を考えてみると、健康保険料約2万、国民年金もだいたい同額、携帯代は5000円程度はかかります(最後のは実費ではありません。自分は節約のためにも研究に集中するためにもスマホを契約していないので、これより1500円は安いです)。これにさらに移動費用は1万円ほどを見積もる必要があるので(コロナで現状はここまで必要ありませんが)、これだけで5.5万円かかります。

 

 (以下のブログも参考にすると、2年前以降の住民税などを考慮する必要もあるかもしれません https://kenyu-life.com/2018/09/23/hakase_life/)

 

 それに加えて授業料を全額払うことになると、だいたい53/12で4.4万はかかることになります。

 

 この時点で、食費だとかのそのほかの生活費は一切計算に入れずにほぼ10万円のお金がなくなります。上述した住民税を考えると11万円でしょうか。

 

 これは授業料免除申請の際にも記入しましたが、母が重い病気を患って医療費がばかにならないこともあり、家に数万のお金を入れるようにしており、以前の10万円の 定額給付金も家に入れることにしていました。

 

 ここから残るお金でやりくりして生活しろということになる訳ですが、どうやって生活すればいいのでしょうか?

 

 学振研究員にとって残額は8万円弱ということになり、自分はそこからさらに数万減ることになります。ここからもろもろのお金を出すことになりますが、自分の生活では1万円余らせることも難しい状況です。もしかしたらほかの方はうまくやりくりできるのかもしれませんが、生活レベルを異様に落とした状態で自分は研究に専念できません。快適な勉強場所(現在コロナで研究室が使えないため、ファミレスなどを利用することが多いです)、良好な栄養状態、定期的な運動、筋トレの費用は絶対に外すことができません。

 

 

 

 今年度中に実家を出る予定を立てていましたが、このような収支の状況だと、引っ越し費用を貯めることもできません。家具も考慮すると最低でも40万は必要のはずですが、食事も何も食べず残りのお金を全て貯金したとしても、あと6ヶ月はかかるということになります。まず不可能ですね

 

 確かに額面上は親の収入には余裕がありますが、上掲した事情もあり、コロナで収入の減少も見込まれるなかで、わざわざ私にお金を回す義理も余裕もないですし、私としてもそれを想定していません。

 それに対して、大学の授業料免除に関する決定は博士学生に対する実家の負担を前提にしているような気がしてならないのですが、その前提は正しいのでしょうか?そもそも博士学生にもなって授業料免除申請に際して親の収入を記入しなければならないことの理由がよくわかりません。

 

 現状光熱費、家賃の負担がないからそれでもいいのではないかということなのかもしれませんが、逆にそれを負担しないと行けなくなった時にも同様の授業料支払いを命じられたら絶対に払えませんし、免除申請が却下された理由も説明されてない以上、実家から離れたからといってそうならない保証は全くありません。(そもそも今の収支で引っ越し費用を貯めることができず、現状から抜け出せないような気もしていますが)

 

 今回の件は前期分の約26万の支払いの関わる問題ですが、そもそもの大学や若手研究者支援の制度設計が、そこにいる人間が普通の生活を営めるようになされていないのではないかという悲惨な想像を衝撃を受けた自分にもたらしているので、単に現状の支払いだけではなくて、もっと長いスパンにおける苦痛を感じさせるという点で自分の心に重くのしかかっています。

 

 学振に通った時や、院試に通った時、奨学金が返還免除になった時、自分はとっても嬉しかったですし、恵まれているなあと思っていましたが、それだけ恵まれていても悲惨な未来しか想像できないような環境にいるということになるのですかね。

 

せめて来学期は半分でも免除されるといいですが、とくに状況も変わらない以上全く期待できません。これまで研究や勉強が好きだったし、ずっと続けていきたいと思っていましたが、想像以上に打ちのめされていて(まるで犬ころ扱いだという気持ちになっています。とても悲しい)、アカデミアからの退出も視野に入れています。

 

がんばっても運が良くてもこんなことになるなんて思ってもいませんでした。自分の信じていた公正さとか尊厳だとかが崩れ落ちる音が頭の中で響いています。ひとまず早く消化して研究に戻れる精神状態を作りたいです。

 

 追記

 

 今学期は諸々の事情がありTARAは取れませんでしたが来学期からは特別に取れるかもしれないのでそれに賭けてみます。現状独立生計になることはちょっと無理ですが。

 

 書籍代については研究員に支給される研究費(生活費には回せません)でカバーするようにしています。

 

 コロナによる収入源は学振研究員にはないと言われていますが、コロナで収入源になった人を優先的に授業料免除していて、その割りを食って免除されなくなっているとすれば実質的に収入源の憂き目にあっていますよね。パラドックスめいてますが。。。。。

 

 

8/1 さらに追記

  コメント申請に生活費除いて8万も残るとは驚きだとの「大学関係者」からのコメントがやってきてびっくりしました。生活費は入れずにとわざわざ書いても読み取れないことがあるようなので再度ここに記しておきます。それに加えて実家へ部屋光熱費代わりのお金も入れるので結局月六万くらいが生活費などに充てられる総額になります。

 

 

 自分は恵まれているし、運がいいのは自覚しており、それを踏まえた上で述べるが、といった趣旨のことは書いたつもりですが、贅沢すぎる、我慢しろ、恵まれている方ではといったコメントもたくさんきて不思議です。逆にその説明を傲慢さだと受け取る人もいるのでまあ角の立たない書き方は不可能なのでしょうが。