Sapere aude

読書録、学んだ事のまとめ 

Pocock, Barbarism and Religion 3巻4章のまとめ

 

 

BR3-4

ギボン→アントニヌス帝政の崩壊という問題を扱う。

 

その前史としてのタキトゥスは元首制の不安定を叙述、元老院を無視した軍隊に左右される制度として描く。

一方、グラックス流の解釈では、内戦は軍隊維持能力の欠如によるものとされた。

→ 前二者の説明を合わせると、元首政は従来の問題への十分な解決ではなかったと言える。システムの不調の継続に対する新しい説明としては、蛮族の侵入という問題を指摘するものも出てくる。

 

 

DFが何を意味したのかの歴史を知ることが、ギボンにとりDFとは何かを理解することにつながる。5Cの西帝国崩壊をイメージし、そのあとは蛮族支配が行われるという理解が通常であるが、ギボンは2Cから議論をなす。5Cが常にcrucialと考えられたのではないが、ギボンはそういう立場から過去に遡るのではなく、5Cも重視している。

 

その5Cの時のシステムは1,2Cのprincipatusと異なることはギボンも理解しているが、その時代の分析も行い、内戦への言及もなす。

テオドシウスの子が蛮族侵入への対処失敗→テオドシウスはコンスタンティヌス君主制システムを再興した→そのコンスタンティヌスは、軍人支配と異なる新しい制度を定立した→その軍人支配はセヴェルス帝に遡る起源を持つ  という連鎖の存在

 

コンスタンティヌスの下で、遷都、キリスト教の公認というシステム変化が生じ、前者が帝国の分裂と、西の変容、東の残存という状態の布石となり、後者が、古典文化のキリスト教文化による変容、西における教皇制度を伴う教会の確立と、それによるキリスト教千年紀というEnlightened narrative、BRの勝利というnarrativeの始点となる。

 

システムの変容の意識を持ったギボン及び私たちには、410年のアラリックによるローマ侵攻がvirtusの敗北というようには理解されない。だが、どうしてそのような理解がされたかを理解しなければならない。

5Cにはそのような考えはないし、キリスト教帝国の下にあるレトリックはむしろそれへの反対が述べられる。その言語は二つの流れを汲む

 

1 元首政が自由を破壊し、帝国の不安定をもたらすとするタキトゥスのような議論、都市に重心を置いた視点、隠れたる害毒へ向けられた視点とも言える。

2 元首政が人々に平和をもたらし、黄金時代を復興させたとするようなウェルギリウスの議論、コスモポリタンな視点、と同時に属州側の視点とも言える。

 

以上の両義性は、対外拡大をローマが行って以来存在するものであり、ポリュビオスの時代にも遡る。

 

1の論拠として、皇帝なるものは、princepsの内的能力、即ち都市ローマ支配権と軍事支配権が一体になったものであり、タキトゥスが見た危険とはそれに由来するものであったという事態がある。領域概念としてのempireは、imperium militiaeの行使先及び源泉のprovinciaがimperiumと同視されることに由来する。

 

2の論拠として、ローマの対外支配のイメージは穏やかな恩顧関係に基づく支配として理解されたことがある。属州側での自由概念は、パウロのような初期キリスト教の人間によって唱えられたが、ローマ的なimperiumの行使という自由ではなく、imperiumの下での社会活動の自由として、臣民的な自由概念が出現する。さらに支配が一般性普遍性を備えているものと表象される原因として法学の発展、皇帝が公平な法の制定者としてイメージされるようになる。

 

属州で法制定をなす、公平性を体現する皇帝が、都市においては抑圧者であるという事態があった。

 

DFとは、都市からの統治による地方、属州の腐敗、地方による都市の放棄によるもの、両者の分断によるものと言えるが、古代にそのような考えは存在しなかった。

 

後者の皇帝のイメージは、多神教の指導者としての皇帝の地位、皇帝への崇拝も要求し、キリスト教との不調和も存在したが、コンスタンティヌス以降、その条件は変容する。

 

教会は、人間社会の内側にある、条件づけられた存在でありながら、それを超越すると主張する存在である。その歴史記述は二つの回路を備える。救済の市民的歴史と、創世以来の普遍史がそれ。

後者においては、神意の発現史及び、予型としてのイスラエルの歴史が含まれる。さらに、エジプトやバビロニアも含めた異教徒の歴史をその内側に含み、創世の年代を立証するために比較年代学の手法が発展した。やはりその中ではイスラエルが最重要で、キリストの出現を予言した、教会の前段階の社会として描かれる。叙述にはアナロジー、タイポロジーが多用され、過去の出来事はそのあとの出来事を予兆するものと理解される。同時に、イスラエルが予型である以上は、現在においては否定されるべき存在でもあった。今後救済を担うのは教会だからである。このような視点においては、ローマの崩壊以上にエルサレムの破壊が重要な出来事になる。ただし、教会が異教徒も含めた普遍的な記述、救済を行うようになると、ローマ崩壊も叙述対象になるのだ。その際にも、キリスト教徒の歴史家は、グレコ-ローマン文化の内側の人間であるために、異教徒は、ローマ-ギリシア人とそれ以外の蛮族という下位区分でもって理解される。

 

ローマ的な要素がキリスト教に与えた影響としては、アウグストゥスによる普遍的な平和という神話が、神の国のイメージの具体化に貢献している。そのアウグストゥスの時代から出現したキリスト教徒にとり、皇帝の役割は、救済の担い手に近いものとして、理解されるものだった。

 

ユダヤ教徒がもたらした、キリスト教の叙述の要素の一つに、彼らがcovenantで神と関係しているということに、キリスト教徒自身が違いを際立たせる中で行った、神意の強調がある。それは、複数の文脈を神秘化、合理化する作用を備えていた。この神意の概念も寄与し、ローマ人の拡大が教会領域の拡大を帰結したということから、ローマ人が神から特別な使命を、意図せず与えられたという観念も出てくるのであり、sacred empireという考えも案出される。

 

 

エウセビオスは教会史に、帝国の歴史を半ば並行させた。なぜそうしたのか。先述した、創世以来の歴史と、教会設立よりの二つの歴史の存在がその解答を示唆する。後者は、キリストからの教えの継承を立証する、制度的な教会史の側面と、神意に基づいた、キリスト教徒の苦難と栄光を描く物語の側面を有するのであった。多神教の神々や、異端は悪魔と関係があるものとして理解される。その一方で帝国、皇帝自身は悪魔と関係する重大な迫害者として否定されることはなく、ローマは来るべき神の王国の余型と解された。そうして、コンスタンティヌスの時代に神の勝利が現れると描かれるのであり、それよりキリスト者はローマと共存するようになる。そのことは、教会の歴史記述と帝国の歴史が融合することも意味するのであり、個物に関係付けられた教会史は有限な性質を帯びる。帝国の歴史もキリスト教勝利を表すものと理解されるというのが先の問いへの解答となるだろう。さらに、残存する異端に対し、それとの戦いを行うのは帝国であり、それは教会を彼らから守る役割を担い、皇帝は教会と司教とを統べる存在として理解される。

 

アンブロシウスの例なんかをみてる。(この出来事は妹に対して俺皇帝を拒絶したんだぜすごいだろ!みたいなアンブロさんの書簡に依拠してるらしく、実は皇帝と結託して、彼の悔悛を演出しようとしたんじゃないかという見解もあるらしい。(ジリアン・クラークp .38-40))

 

すでにDFとは元首政とは別のシステム下での問題でないかという見解は見たが、ミラノのように蛮族の手に落ちず、キリスト教的観念と帝国の行政システムが一体として残存した地域もあるのであり、コンスタンティヌスのシステムの崩壊というのも正しい事態の描出ではない。DFはラテン世界の問題であるとも言える。

 

次の章では、BRが勝利したと考えられる西ですら、エウセビオスによる聖なる帝国のイメージが残存し、DFや帝国崩壊の原因を示唆したタキトゥスのnarrativeより1000年前に歴史叙述に大きな寄与をしたことを見ていくよ。

 

立作太郎と有賀長雄 -共鳴と相剋

 

※論文からの引用は現代仮名遣いに修正していることもある。旧字体も新字体に直し、国名の当て字は基本カタカナに直している。

※引用の後の括弧の中の数字はそのセクションで扱っている論文のページ数を示す

※引用でない本文においては、保護する国はそのまま「保護する国」と表現し、保護される国を「保護国」とした。

※黒丸マーク(これのことである→・)以下の文言は筆者のコメントである

※敬称略

 

保護関係とは?

許 淑娟

国家122-3・4「領域権限論再考(2)」

19世紀後半以降、「ヨーロッパによる植民地支配の形態は、法律構成として1. 保護条約による保護領 2. 影響権条約に基づく影響圏 3. コンセッションを受けた植民会社による支配である。」

「ヨーロッパにおける保護関係においては、たしかに被保護国の主権は一定の制限を受けるが、あくまでも保護国と被保護国は別個の存在として認められる。対外関係のすべては保護国によって行われ、被保護国は国際取り決めにおける利益や負担に関わることができないが、その場合にも、保護国は被保護国を代理して行使するのであって、被保護国の存在が否定されるわけではない。(中略)また、内政においてはほぼ完全な行動の自由が保障される」

(394)

だが、1884年より行われたベルリン会議後では

「アフリカやアジア太平洋で行われた「保護関係」は、被保護国への内政への介入の度合いを徐々に強め、最終的には併合に通じる過程の一つの理解されている。」(394,395)

このようは保護の内容は特定されないことが多い。その理由は、「保護国による介入や統制への余地を残すためであった」(395)

 

「主権すべてを委譲する条約の締結は「割譲」に該当するにもかかわらず、これを保護条約として分類するのが十九世紀末から二十世紀初頭の学説の態度」(395)である。

 

 

 

立作太郎(1874~1943)

1897帝大法科大学政治科卒

1904東京帝大法科大学教授、国際公法担当

今野元「東京大学法学部に於ける「国際政治史」の百年」p. 114によれば、

  • 創成期の「外交史講座」を担当
  • 価値論を持ち出した英米主義者美濃部に対し、立は「諸国間に本質的な白黒を付けず、国際権力闘争を当然の現象と見ていた。

 

 

有賀長雄(1860~1921)

1882帝大哲学科卒

1891に枢密院秘書官を兼務しつつ、陸軍大学校への国際法講義実施の以来を受け国際法の研究に当たる、その後日清戦争国際法顧問として従軍

1895ヨーロッパへ留学、翌年帰朝

1898「外交時報」創刊、学習院教授

 

 

 

先行

田中慎一「保護国問題」1976 東京大学社会科研究 p.126~162

 

  • 有賀「保護国論」、立「国家の独立と保護関係」,「保護国の類別論」、有賀「保護国の類別論」、立「保護国に関して有賀博士に答う」の分析、以上の五つの論文の読解については概ね同意する。以上の論文が田中の定義する「論争」の核であることは正しい。すなわち本稿が着目する単なる議論の連関と、論駁的性質を伴う議論の連関に質的な相違は見るべきである。

 

 

  • 保護国という概念を歴史学用語としてどう扱うべきかという論文執筆当時の問題に一定の見通しを与えることに重点がある。有賀と立の「論争」において理論的厳密性という点で立に軍配が上がるとする「立の有賀批判は高い学問的水準にあり、有賀の反論は立の批判に相応しい反批判になりえていない。」(160)

 

・ 立、有賀の学問的、理論的背景、現実との接続という問題は副次的に扱われる

 

  • 「この論争は(中略)筆者が発掘したものであるから、本稿が取り上げる理由をあらかじめ述べておく(中略)(1)(中略)有賀長雄「保護国論」は管見する限り、保護国を体系的に論じた著作として空前絶後のものである。(2)国際法学者間の保護国に関する本格的な論争は後にも先にも、この論争が唯一のものであ(中略)(3)(中略)保護国に関する国際法学的考察を一挙に深化(中略)しえた(4)(中略)理論と現実との緊張関係を保ちつつ自説の正当性を競いあった。(5)(中略)西欧における国際法学が獲得していた保護国に関する初学説に厳密に則ることによって得られるものでなければならないいのは無論のこと、朝鮮保護国化(中略)を国際法学的に把握する点での有効性に裏付けられなければならないと考えられていた。(6)国際法学者の単なる学説上の対立という意味での順学問的性格の論争ではなく、きわめて現実的な政策提言的要素を内包した論争である」(130,131)

 

  • 上に引用した部分の目的、特に保護国という概念の扱いを観察することにおいてこの論文は概ね成功を収めていると言えるが、1906年9月の有賀保護国論刊行から1907年2月の立「保護国論に関して有賀博士に答ふ」の検討に殆ど終始しており、3で挙げるような「深化」を検証するための論争内部を越えでる議論の確認は為されていない。更に、純学問的対立ではなく、政策提言論争であることは勿論だが、本稿が重点を置く、学問観、国際法観との連関への視点は少ない。

 

  • 1905/08外交時報93 p.31~41、の立作太郎 「保護国論」の存在を把握していない(少なくとも言及はない)のは両者の応答関係の理解を多少不正確にしている。「立が有賀の「保護国四種類別説」に対置して提示した「保護国三種類別説」」(148)という記述は、立が有賀の類別説に応答して新しく提示したという意味で解するならば、1905年時点で、それとは異なる表現での「保護国三種類別説」を提示した事実に反する。

 

 

本稿の特性

 

  • 「いかにあったか」ではなく、「いかに語られ考えられたか」に最大の重点を置き、有賀が保護国論を記す以前から論点において共鳴していた両者の議論を確認し、両者の相違点、各々の思考の連続性と変化を探る。微妙な変化の摘出は非常に難しく、また稿を改めて行う必要があるかもしれない

 

  • 現実の問題との連関が存在することは前提とした上で、議論の展開の仕方、行っている思考に着目する。国際法、ひいては学問観と「論争」の対立点が連関することを示したい。ただし、今回西洋の理論との関係という側面が抜け落ちている

 

  • 二人の論文、併せて11本は時系列に配置し(執筆時期を詳細に考察することはしておらず、掲載順である)、コメントを加えていくが、いくつかの疑問については説明を行うが、ただ提示されるだけの疑問も存在する。適宜その前の論文と連関することについては其の都度指摘する

 

  • 先に述べたように、三種類別説を立は二度提示するのだがそのことを論じた先行研究は存在しない。その二回の提示と、両者の相違にも着目する。

 

 

 

外交時報36 1900

有賀「領土保全の名義の下に領土上の利益を獲得する諸法」50~64

「外交史上の一研究」

分割併合の名を用いずにその実を行う方法は6種類あり、その内の5種はロシアが実際に行っているものだといういことも注意すべき(50)

 

1君位合一

ウィーン会議後、アレクサンデル一世が、人種言語風俗を異にする国民同士は併合すべきでなく、各独立しているべきであると述べ、ポーランドを独立国とした後にポーランド王の裏位を兼ねたこと、オランダ国王がベルギー、オーストリア国王がロンバルディアヴェネツィア国王が兼ねたことなど

この方法は永続の見込みなく反乱を招くため、これを近年行う者は少ない(50~52)

 

2住民懐附

1865年クリミヤ戦後のパリ条約でトルコの領土保全が保証され、モルダヴィヤ、ワラキヤはトルコに対し半ば独立をしたが、ロシアがこれを保護することは出来なかった。そこでトルコからの半独立ができなかったブルガリアなどの住民を懐柔し、反抗し半ば独立させて、自らが独立した国を保護するのがそれである。中央アジアのロシアの膨張はすべてこの手法による。(52~55)

 

3約定占領

露土戦争後のベルリン会議に於いて合意されたトルコの領土保全をかいくぐるため、ロシアが発明したのがこれで、トルコの合意によってその国の地方を占領するものである。ボスニア・ヘルツェゴビナも名目上はトルコの領土であり、その人民はトルコの内地でトルコ人として扱われるが、同様の方法で実際はロシアの支配下である。(55~57)

 

  • 支配の定義は示されない。名目、約定が事実と相反することを指摘するが、その支配の事実は、列国間の同意に基づいて認定している。有賀の提示するロシアが事実上支配する権原は「外国の全権之に同意したり」さらには、ロシアのトルコ占領は結局条約の修正で認められていることは記されているため、どういう意味で名目と事実がどう切り離されているのかが明確でない。

 

4附庸国保護権の設定

ベルリン会議後、フランスが表面上チュニスを合併せず、保護権下においた上で、事実上の自領としたのに端を発する手法である。(57~59)

 

5一時占領の無期継続

イギリスがエジプトに対し、永久に行うつもりはないと明言しつつ、一度行った派兵を継続し続けているのがこれである

「(原文強調点)極東に於いて露国の侵略主義に反対すべき地位に立つ英国自身がエジプトにおいて無名の占領を無限に継続しつつあるとは英国に信頼せむとする者の決して忘るべからざる所なり」(59~63)

 

6有期及長期租借

1899年のドイツのコウシュウ湾に端を発し、ロシアが旅順に、英国が威海衛に設定したのは「領土保全の名義の下に一地方を分割するの新法なり」(63)

 

結論

「(以下強調点)以上格段に叙述するところの方法は皆ある一国が他国の領土保全を唱へながら実際に於いて領土上の利益を獲得せむが為に使用するとを得べき所なり。故に若清国現下の紛擾を利用して満州若はその他の地方に対し此の如き方法を用いむとする国あらば日本政府は昨年十月十六日の英独協商第三条()に依り右両国と協商して清国に於ける日本の利益を保護するに勉むべきなり。」(64)

 

  • 分類は特に相互排除するものとして定義されていない。分類法は明示されていないが、たとえば2での具体例も、保護権を用いるという意味では4と共通する。5の事例も住民を煽って駐留を認めさせようとするという手段を介在していると書いてある。すなわち実際の国家関係においてはある国が他国を獲得するに際して、複数の手段を選択することも想定されている

 

  • なにを以て「事実上の支配」とすると考えているのかは明示されない。各項目に共通して見受けられるのは列国の承認という事項である

 

  • これら事例は「領土保全の名義の下に」行われたものなのか、そうでないものと区別する基準は提示されない。条約にそのようなことが明示されていればそうであるという解釈もあり得る。確かに5の事例においては条約にエジプトの領土保全という字句があることが指摘されているが、それ以外の場合おいては本文中明らかではない

 

  • 結論においてはそういった手法と対決する意識を乗せてか「清国に於ける日本の利益」と明示されている。敢えて指摘するまでもなく刊行年との関係でロシアへの意識が大きい

 

・ 保護国とは、併合の一手段であるということは明白に意識されている

 

  • 最初にこの論文が掲載されたのは同年一月朔日東京日日新聞であり、読者たる衆人が実際の国家関係を見て、その名目において領土保全を述べている場合でも自国の領土上の利益獲得が行われていることを理解させることが第一目的で、分類は副次的、便宜的役割を持つに過ぎないとは解しうる。そのような性質の端緒として、6の事例は、新しい出来事で読者も記憶しているだろうから詳述しないと本文に記されている(「然れども其の事新しくして尚ほ読者の記憶するところなればココに詳述するの要なし。」)
  • 「分割併呑の名を避けながら其の実を行はむとして施したる方法」(p50)と、タイトルの、領土保全の名義の下に領土上の利益を獲得する諸法は同義に用いられてよいか

 

 

 

 

 

国際法雑誌2巻5号p.1~7

 

有賀長雄

「国際公法と国際事実」

国際法は主権者の命令としての法とは異なり、自然に生じ至る慣例である。関係する双方に有利なものが確実なものとなっていく。

国際法学者の仕事は国際事実の中で、慣例となりそうなものを挙げて、各国の利益となりそうなものは国際行為の模範として提示し、紛争の原因になりそうなものは退けることにある。そのため、国際法学は事実と離れる事はできないのである。(1,2)

 

国際法学が事実と離れる場合、2つの弊害のどちらかに陥る。

  1. 未だ慣例としての身分を得ていない事実を法として提示するために、理論として興味深くとも外交に益なく、結果として政府にも尊重されないこと。

人物としてはブルンチェリ、ヘフテル、フィオーレなどがその弊に陥っており、事例としては、1874年に国際法協会が平時封鎖を強制手段として禁じる決議をしながら、ギリシア封鎖の事例からその手段を有益と判断し、1887年に前の決議を改めたことがそれである。仮説的理論は有効であるが、拙速すぎると理論の説得力、慣例として定着させる力も損なう。(2)

 

2.世界情勢の変化に対応せず、新しい慣例を慣例として認定しないために、法理論が現在の事実に照合しないこと。

一定の原則を設定した上で理論に適応しない新事実を排除することで適応能力を損なってしまうのが原因である。

事例としては、居留地制度や保護国の制度がそれである。これらは新しい制度で、特別の条約に基づいているものであるから、一般原則など存在しないという人もいる。確かに保護する国とされる国の関係は個別の条約により規律されるのであるが、保護される国と第三国の関係については、一般原則に基づくのであり、この原則の発見は国際法学者の職務である。嘗てある学者がボスニア・ヘルツェゴビナのような「占領及び行政地域」、清における租借地を、新事実として取り入れることなく、主権及び領土の従来の原則で扱うことは、「事実に遅れて進むもの」にほかならない(保護国などに向けた独自の一般原則が必要である)。(2~4)

 

リストは、先に述べた土地を通常の領土獲得として論じているが、条約または約款において、当該地域の所属をトルコや清に保留している事実に反する。トルコや清が当該地域への主権行使を条約に基づき行わないとはいえ、主権が存在しないことと同一視は出来ない。そうでないと当該地域の人間は依然としてトルコや清の国民であること(内地で外国人特権を保持しないこと)を理解できない。(4,5)

 

他にも平時戦時の区分に於いて、従来は平時に「交戦動作」をなすことを禁じていたが、近年戦時に至る前より交戦動作が多いことが示されている。例えば北清事変及びベネズエラ事件がそれである。この場合にも従来の学説でもって一概に不法と論ずることは穏当ではない。(6,7)

 

世界の国際生活はここ数十年国内生活以上の未曾有の速度で発展しており、進出の事実にあたり、新しい理論を形成する必要がある。(7)

 

 

 

 

  • 有賀は後者の弊を「主として論難」(2)しており、新事実の把握及び理論体系の革新を国際法学者に求める事に重点があると言える。それと同時に、その営みの拙速さが陥る問題も指摘したと言えよう。

 

  • 平時戦時の不法の問題は、従来の有賀の理論と連関しているだろう。

 

  • 国際事実を慣例として定着させる利益というのは、国際社会の一般的利益として記述しているが、それをどのように認定するかは論ぜられない。例えば、保護国、租借の慣例として定着したと述べるならば、その事実が一般的利益をもたらすからということになるが、清、トルコにとっても利益があるという事か

 

  • この問いは二つ疑問を内在する。1. 法による一般的利益を享受する主体は何と考えられているか(有賀は「双方の利益」、「国際共同の為に有益」などの語で表現しておりその点明示されない) 2. 国際慣例が成立する事実的因果関係の説明として、一方のみに有利なものであれば廃棄されるであろうし、一般的利益がある制度は承認を得るだろうということは納得がいくが、そこから新しく成立した慣行まで直ちに「列国交際の本旨に協へる」と言えるのか?(事実と規範の峻別が弱いのではないか)もちろん明示はしていないが、このような成立した慣行と利益があるという蓋然的な論証から、一般に新しく成立した慣行が広く利益をもたらすものであるという認識が成立していないか?もちろん、ある新慣行が成立した場合に、その慣行を正しく理論化出来ている場合と、混乱した状況にある場合では、前者の方が国際社会における利益が大きいとは言えそうであるが、強国が弱国を搾取する制度が成立した場合に、それを理論的に正当化することは本当に「双方の利益」なのか?(もちろん学者が理論化しなくともそのような関係は続くと言えるが) 

 

  • 国際法および国際法学のあり方を巡る問いが保護国に関する具体的問題と連関している。そこにおいて、理論に国際社会上の行為主体に影響を与えることが、単に利益の問題ではなく、法が実際に定立するか否かの問題に関わっていることも指摘される。

 

  • 保護国を論ずるということは、新しい慣行をいかに理論化するべきかという理論的問題と連関している。更にそれは、従来の主権、領土概念に変更をもたらすものであった。

 

国際法雑誌2巻3号 1902

立「干渉の定義を論して主権と国際法との関係に及ぶ」

主権の概念の使用は、国内法のみに基本的に限られるべきであるとする蛯川学士の議論に対し、その議論の論拠たる主権の領土外における主権の不存在という推定は、「特別慣例の固定又は特別の条約の規定(例えばボスニー、ヘルツェゴヴィーの永久占領、旅順口膠州湾の永期租借)の存在の立証によりて破られる」

と論ずる。

 

 

1905/08外交時報93 p.65~75

立作太郎 「保護国論」

 

英-エジプト関係につき条約文には保護国の語なく、保護関係を認める規定も記されていない。だが、英国がエジプトのために行う助言なるものは、命令的性質を備えており、その命令的性質を保持するために英兵を駐留させ、更に行政部内に英人を分布させて英国政府の意見を貫徹させる手段としている。「故に(中略)保護関係の実に至りては即ち存せり」(65,66)

 

「事情に適応して事功を挙ぐるを得る英国人の特性」によりエジプト経営は成功したが、保護国の地位を明確に定めなかったことは彼らの事業に多大の困難を加えた。(66)

 

故に英国のエジプトに比せられる韓国の保護国の地位を定める必要がある。明治37年2月の日韓議定書では日本の忠告を容れる韓国の義務、韓国の安寧、領土保全のための土地の軍事利用をする日本の権利を定め、同年八月には韓国政府が外交財務顧問を容れ、外国との条約締結などの対外関係の形成に際し、日本と協議するべきことを定め、郵便通信事業を日本に委託、その制度に関して外国政府と協定する必要ある場合は日本政府と協定すべきとした。これを見るに条約の文言上保護関係の語がなくとも、条約において韓国は保護国たるの地位を認めたるものと言わざるを得ない。(67,68)

 

およそ保護国は其の対外関係上の地位から二分できる

1.保護をなす国家が保護国のあらゆる対外関係について被保護国を代表し保護を為す国家の機関が保護国の対外関係を担うもの

2.保護国は自ら外交権を行使し、保護する国家は単に外交権行使に制約を加えるもの

2は更に、(a)保護条約において保護国の対外関係が保護する国の対外政策に適応させることを約するものと、(b)条約、契約の締結権に制限を加えるものに区分できる。(69)

 

分類の実例として、仏の保護するチュニスは条約から言えば第二種の保護国に属するが、実際はフランスの代表がチュニス外務大臣の職に当たって対外関係を規律しているため事実上においては第一種の保護国に近似している。(69,70)

 

日本と韓国の関係については、部分的に日本が韓国を代表することもあるが、重要な外交案件は基本的に協議を行うことが義務づけられているにすぎず、第二種の保護国と言える。(71)

 

 

第一種に比べて第二種保護国は保護する国にとり、保護国が第三国と結託して対抗するという可能性を残しており、障害が多いと言える。第三種の保護国(このカテゴリーは説明なく突然登場したが、2の(b)、条約、契約の締結権に制限を加えられた保護国を指すと考えられる)で、第三国と条約を結ぶことを禁止されていても、もし保護国が条約を無視して第三国と条約を結んだ場合に、第三国の利益からして、直ちにその条約を破棄することはできず、保護する国の国益から保護国の政策が離れることを抑止できない。(71,72)

 

  • 英国の事例で述べていた不利益がいかなる不利益かがここである程度見えてくる。法的に保護関係を明示せず、事実状態として支配を為すことは、対面上支配ではないと言い得る政治的効用は確かにあるが、その反面、保護国が独立行動をして第三国と結託した場合に、それを保護する国が法的に非難できない。非難すれば却って、保護していないという言明が正しくないことを露呈させる

 

「更に一歩を進めて之を論ずれば第一種の保護制度の実施は実際に於いて保護国治外法権の撤去を主張するために必要なりとす」(73)

 

保護国に於いて第三国の人間が治外法権を保持しているのは保護する国にとり非常な不都合であるが、保護国に進んだ裁判制度を導入するにあたり、保護する国が保護国の対外関係を規律できなければ、森林鉄山などに保護国が勝手に特権を第三国に与えるなど、保護国における一般勢力も安定しないため、第二種の保護制では第三国への信頼を確保することができず、治外法権の撤廃は困難である。第三種の保護国において治外法権が撤廃された事例は存在しない(73)

 

「以上説くところに依り第一種の保護制に非ざれば十分に保護を与える国の目的を達すること困難なること明白なるべしと信ず。」(74)

 

人は韓国を第一種の保護国とすることは日本が為した韓国独立の宣言と抵触すると言っているがこのことについては他言する必要はない

エジプトに関するミルナー卿の言葉で論考を閉める。

 

(報告者訳)

保護関係を明示する宣言ですら、すでに述べた宣言-そのヴェールの下で英国は軍事行動を行ったのだが-と殆ど整合しないのは確かである。しかし人類共通の慣例として、開戦時を控えた国家による明確な宣言が、勝利の時にその国家を厳格に縛ることは殆どないのである。(75)

 

 

・ 立も有賀と同じく、虚実が異なっているという国際関係における事態に注意を向けていた

 

  • ロジックの正確さ、条約として明示する姿勢は、国家の利益という観点からも正当化されている。学問的精密性と実践性を対置するような思考ではないのであり、理論的に洗練されていることは実践性を放棄することを意味しない

 

・ それと連関して、理論的整理と現下の問題の対応ということが結びついていた。

 

  • ただし、チュニスのように条約上は第二種保護国で、事実として第一種という事例について、どちらかと割り切らない態度を示し、「第一種の保護制に近きものなり」と少なからず曖昧さを残す。

 

  • 「保護制」、「保護国」という語を後者はその法的関係、制度を指す語として、後者は保護を被る国自身を指しているとして区別して用いられていると考えられるが、本稿において定義はされていない。

 

 

 

 

 

1906/2外交時報99p.55~62

有賀長雄

保護国の研究」

 

保護関係の流動性を述べ、旧保護国が独立した事例(トランシルヴァニア、アビシニアは名実ともに完全なる独立国だそうだ)も挙げた後、「日本は先ずアジアに日韓両国の間に成立するに至りたる保護関係を精密に分解し、尚又将来に於いて如何なる方向に於いて変化すべく、或いは変化せしむるべきものなるかを推究するの要なしと謂うべからず。」(55)

 

「韓国にして果たして自ら振て文明の業に勉め、遂に善く日本の保護に依らずして其の列国に対する責任を完ふするに至るの望あるものとせば、日本も列国と共に治外法権を維持して姑く韓国の開発を待つべく、若又韓国はとうてい文明列国の間に在りて自立するの能力を得るの見込みなきものとせば、今より外国及び外国人に関する訴訟事件に付いては韓国を以て日本の裁判管轄権内に置き、列国をして治外法権を撤せしむるの方針に出でざるべからず」(56)

 

「若保護国の制度にして一義の権宜に属し、強国を以て弱国を征する一種の方便に外ならずとするとき、保護関係は保護者たる国の意思以外に標準とすべきもの無く、従って学術的に研究する余地を存せざるや明らかなり」(56,57)

 

自然界の事象は一定の法則に従い、同一の原因から生じるものは同一の結果をもたらすとする。保護国も同じなので、事実的原因で区分すべきである。そのため、行うべきは実際の保護国を列挙して同一の原因から生じた保護国に存在する同一の性質をそのカテゴリーの性質とする(57)

 

 

 

 

・ 保護国に対し静的な制度というよりは変化する動的なものとして説明をしている

 

 

  • 有賀が保護関係を、遅れた国が先進国の仲間入りを助ける制度と認識しようとしていることを示していないだろうか。確かにその認識が正しいなら保護関係という慣行にも「双方の益」なるものの存在は示される。→名と実が混乱していないか?名目である保護国の利益というものが存在すると「仮定して」理論を構成するという立場に接近しているように映る。成立した慣行が促進する「双方の益」を享受する主体が列国に限られると想定すれば、列国同士の利益のための制度として想定して理論化できたのではないか。

 

  • 事実的原因と事物の性質が連関するというテーゼと、「国際公法と国際事実」で述べられた慣例自生説及びそれが双方の利益にかなっているというロジックは、有賀が述べ続ける事実に重点を置くことの実例として興味深いが、やはり慣行が成立する過程で「双方の益」にかなうものに変容していくという仮説と、慣行は双方の益に(その双方に含まれるのは誰かという問いを立てない)なるという理想論が多少混同されている。

 

  • 「若保護国の制度にして一義の権宜に属し、強国を以て弱国を征する一種の方便に外ならずとするとき、保護関係は保護者たる国の意志外に標準とすべきもの無く」→第三国との関係の問題はどうか、むしろ外の列国の意志との調整の問題が生ずるはずではないのか。

 

 

 

1906/9 早稲田大学出版局

有賀長雄

保護国論」

 

「保護関係を生じたる多くの事実を湊合して其の起因となりたる事由に(中略)四種ありと推定し、同一の事由の下に生じたる幾多の保護国を比較し、其の間にふつうに存在する事実を帰納し、此を以って斯の種に属する保護国の本然の性質と為し、以て将来同一の事由の下に保護関係を設定する標準と為」(4~5)す方法をとる

 

 

 

保護国の四種

(1~4,175から)

第一種

成立原因 強国の間に存在する弱国があり、これを一国が獲得すると勢力均衡が乱れるおそれがあるので一国が独立を護衛する(原因と動機、保護を受ける過程が区別されずに叙述されている)ため成立

具体例 モナコやアフガン、モンテネグロ

特徴 主権を完全に享有し、自ら行使する。保護する国が保護国に対し動乱の際に兵力をもって保護することを約する

 

第二種

成立原因 世界交通の要路にある国が、列国と文明が異なる故に国土の解放を拒んだ際、この国に利害関係の多い国がその国を世界列国の伴侶に入らしめる為に主権の一部を行うことで成立

具体例 タヒチ、安南、チュニスマダガスカル

 

特徴 「主権を完全に具有するも自ら之を行使する能力欠乏する国」、「主権の一部を行使せんことを約束する」、必ず条約やそれに類似する形式をとる

 

第三種

成立原因 文明の程度が低い一国を強国が併合しようとするも、併呑すると他国の反感を招くので、主権を全く強国が保持しつつ弱国の君主を維持して行政を行い、保護国の名称を与え成立

 

具体例 インド

 

特徴 国際法上の国家ではないが事実上国家として統合している。存立は保護する国に依存している。国際法上属国とされるものと同一である

 

第四種

成立原因 海外の領土を得ようとする列国が、その地域を開発するコストが大きいと考えるとき、当地の蛮族を懐柔して保護地として列国の承認を得て生じる

 

具体例 アフリカの内地

 

特徴 国家の外形が無く、蛮族が群生している。無主の地域に向かって設定する関係

 

 

「韓国は第二種の保護国たること多言を要さずして明瞭なり」(200)

「日韓協約により日本の第二種保護国と為りたる韓国は世界列国の間に立ちて独立国たるの資格を有するや否」(216)

「もっとも緊要なるは日本の第二種保護国たる韓国を独立国として見るべきか、将又属国として見るべきかの間に在り」(220)

 

日韓議定書による朝鮮独立の保証と保護関係との間を「如何に調和すべきか」(216~218)

 

(韓国のような被保護国は)「不完全なる独立国たること争い難し。然れども其の不完全なるが故に能保護国の主権を以て之を補成し、被保護国の単独行使する能はざるところの権利を能保護国の管理指導の下に於て行使せしむる者なれば、斯く補成したる上にて第三国より之を見るときは被保護国も亦完全なる独立国とさらに異なる点あることなし」(221~222)

 

  • そもそも保護国に成る国ははじめから完全な主権をもっておらず、保護する国によって初めて主権が完全になるので、独立国と実質は同じであるという議論(元から持っていた主権は完全に保持しているということか)であるが、主権の単一性という原理を崩して議論を構成している。

 

 

 

 

立 1906/10 外交時報107

「有賀博士の保護国論」

 

「被保護国が能保護国に対しては独立ならざるも第三国に対しては独立なりとする見解の如き博士の独特の説にあらざるはなし此(中略)の説必ずしもカシなきの言うを得ざる」(95)

 

 

 

1906/10国際法雑誌5巻2号 p.1~5

有賀長雄

保護国論を著したる理由」

 

「日本が列国に対しても朝鮮国ソノモノに対しても韓国の独立及び領土保全を担保すと誓うているのは虚言であるか、国は虚言を吐いても良いものであろうか、ただし韓国は独立国であるとしても尋常の独立国でないことはいわずして知れておる」(2)

 

「名分は独立国でありなから実際の関係は違っている処をなんと説明したら善かろか、ソコが即ち保護国の法理関係を研究することの必要な所以である。政治家は難しい問題に出くわすと有邪無邪の際に誤魔化してしまう、彼らは研究のひまがない、材料も持たぬ、ソコデ学者が道理をつけてやる必要がある、而も其の道理は正々堂々世界に公平して憚からないものでなければならぬ。既に韓国の地位に付法理を確定し足る上は、すべてこの事が此の法理に一致していかねばならぬ、法理は決して空理でない、此れを誤ると実際の上に非常の衝突が起こって来る」(2)

 

 

・ 韓国の治外法権、立と同様の論点を扱う

 

「韓国に於ける各国の治外法権はドウなるのであろう」その撤廃法は2つ、1. フランスが自国の裁判所構成を保護国に及ぼして(自国の管轄権下に置いたということか?)文明国の裁判を行った。2. イギリスが保護国の裁判制度を改良して文明裁判を行わせる主義をとっている。日本もドチラカに方針を決めなければいけない。(3)

 

「フランスの主義に倣うにしても韓国より殊更委任を受ける手続きさえすれば其の独立の名分を妨げない」(3,4)

 

「(内政への干渉は)条約によりてすることであるから韓国の独立国たる名分を害しない」(4)

 

 

 

  • 自国の韓国保護国化を正当化、理論化する必要という動因があると同時に、「法理」に従うことの重要性を説く

 

  • 立と異なり、mutatis mutandis、事情変更の法理的なロジックで過去の言明が破棄させるという主張をしない。「国家が嘘を吐いていいものだろうか」という主張は法によって行動を制約するロジックというよりは、倫理的潔癖性、公正さというものを押し出した議論ではないだろうか

 

  • 名と実の区別に悩む有賀は、それをなんと説明するかと論ずるが、有賀「領土保全の名義の下に領土上の利益を獲得する諸法」のように、名目と実が異なっていると端的に指摘するだけという思考も有賀は行っている。この点に不整合を見いだすならば実践的意図がそこに介在していると言えるが同時に、「国際公法と国際事実」で述べたように新しい慣行を取り入れて論ずる必要があるということも述べているため留保は必要である。ただし、立のように保護国は独立を得ていないという定義をした上で過去の宣言を変更、破棄することで自国を正当化する議論は可能なのである。ではなぜそういう議論を行うのかというのは次の項目と連関していないだろうか

 

  • そこから更に疑うのは、有賀が行う、法尊重の必要の主張は、端的に法に従うべきという議論でなく、それにより利益があるという功利的性質に加え、そうすることが公正であるというような倫理的色彩を帯びてきていないか。 「正々堂々」、「公平」というような倫理的領域の語の使用はほかの論文でもしばしば登場する。端的に破棄することを認める法の論理と、嘘を吐いていいのかというレベル道徳論が同一平面で扱われていないだろうか。口述する立「保護国の類別論」28において、「保護関係は宜しく被保護国の利益を目的として設定すべしとの論は人道条理の上よりして傾聴すべきも」その論を採用しない立は、その点の区分は明確である

 

  • 名分上独立とはどういう意味か。名分のみの独立で十分なのか

 

 

 

 

立1906/11

国家学会雑誌21巻11号p.35~43

「国家の独立と保護関係」

 

国家の独立とは「一国が国際法上の行為能力殊に外交権に対し他国より法規上の制限を受くることなき消極的の状態」で、「独立に完全不完全の程度を認むる能はず一国は独立国成るか然らざれば不独立国なるなり」(35)

 

・ 「不完全な独立国」のような概念を認めない

 

有賀の言葉に呼応して、民法に於いて無能力者が、その能力を補充する後見人に対してのみ成らず、一般人に対して無能力者であると同様に、保護国も一般の国家に対して無能力者である(35~36)

 

 

有賀の独立国の認定の仕方は「独立の意義を定めずして直ちに被保護国は独立国なりや否やを決せんとせるを以て思想の混雑を免れざりしか如し」

 

有賀の方法は「「無能力者は完全なる能力者と同様なる権利能力を有するを以て能力者なり」と謂うが如き」(38)

 

国家であれば完全なる権利能力を有することは当然で、それは独立の必要条件であって十分条件ではなく、国際法上の行為能力、特に外交権を完全に有しているか否かが問題である

 

「国家の独立なる述語は博士の如く関係的の意義に解すべからず」(39)

 

 

・ 制限行為能力者のたとえは、有賀にも存在している。「之を民法の保佐後見の関係に喩えて言うときは準禁治産者及び未成年者は権利行使の能力に欠くる所あるも、保佐任後見人の能力を以て之を補成し、以てその戸主たる権利を行使するときは民法上第三者に対するいっさいの関係に於て能力完全の戸主と何等相違する所なきが如し」

 

「日韓議定書第三条は之の現在の保護関係と調和するを求むるの必要なきなり」(40)

韓国の外交権に制約を加えた第二次日韓協約「に至り前に日韓の間に訳せる独立の保証に関する条項は(独立の語が国際法の述語の意義に用いられるとせば註二)其効力を失えるものと看なし得べきなり」「(註二)いわゆる独立の語が外交上に於いて国際法上の意義に異なれる意義に於いて用いられるるの疑あり日韓議定書の独立の語につきても疑いを生ずべし事、後文に詳かなり」(40,41)

 

  • ここで、韓国の独立国とみなさずとも、前議定書の失効、ないしは条約文の解釈によって整合可能であることが示される。国際法の言語に一定の要件を課しているこの箇所の更なる理解のためには立の国際法への視点を見る必要がある

 

「外交上の実際の俗用語として」、条約や宣言に用いられている語が国際法の用語と異なっていることを理解できるので有賀の研究は「研究の題目を」与えるだろう(42)

 

 

  • 有賀保護国論は韓国を「事実上之を完全なる独立国と云うとを得ざるのみ」「結果においては独立国と敢て異なるとなし」(223)と述べて、どのような意味で独立でなく、どのような意味で独立であるのかを曖昧にしているが、その議論を行っている箇所は「保護国法理編」に含まれており、法的議論を目論だことは否定できない。以前の名と実という対抗と比べ、「事実上」と「(日本が主権を補ったという)結果において」というのはどのような対比を意図しているのか。

 

 

 

 

立1906/12 国際法雑誌5巻4号 P.22~32

保護国の類別論」

 

近年の理論の傾向として、国際法上の行為能力の制限を加える場合のみを保護関係(Protectrate)の名で規律し、その制限のない場合は単純な保護(Simple Protection)と称されている。日本語の保護国の定義をいかに定めるかは問題であるが、「要は保護国の定義を明確に定むべきのみ」ということだ(22,23)

 

有賀の研究の問題はそこで、彼の第三種第四種保護国という概念は、国家としての資格を備えていない地域を保護国としているが、「二者共に国際法上の保護国の一種にあらざるや言を須たず」

更に、有賀が行う原因による区別という手法は「政治学的の類別」であり、その区別を法理上の性質の区分と一致させることは「在来の国際法学的の類別に純粋なる政治学的類別の臭味を附加せんとするものなり」(25,26)

 

 

  • 立が指摘することは、「国際公法と国際事実」の分析で指摘した、事実的因果関係と規範的性質が区別されていないという問題(無自覚なフィクションの使用)と通底している

 

確かに有賀の分類した四つの類別それ自体に法理上の区別があることは否定しないが、それとその起因を繋げることは正しくない。「第二種保護国の許多の場合に於て博士が却て第三種保護国に擬する所の「土人の反抗を恐れ又は第三国の争議を恐れて併合の意志をあきらめ(トウ)て止むを得ず国際法上の国家として存続せしむること」を以て真正の原因と為せるを見るべきなり」

 

日本の韓国への保護関係も起因は、「被保護国の利益を目的」としているのではない。「特殊の利害を有する我国が時刻の利益防衛の為め」に行っていることであるのであり、韓国を列国の仲間入りさせるためなどという目的はなく、日本の利害によって韓国の対外関係を、列国から距離を置かせることもかのうなのである。「此の如き政策上の方針に関して現在の保護関係の法理は牽束を加ふるの力なきなり」(28)

 

  • 政治学的手法を法理論に加えた有賀の議論は、単に理論的問題点があるのみならず、実践的役割まで欠くのではないかと立は指摘する。両者の対立を単に法理論の学理的純粋性を主張する側と、実践性を重視する側として理解することは出来ない。

 

「要するに保護関係の起因と言うの如き政治的事実は多くの場合に於ては単に条約又は其の他の公文書の字句のみによりては知るを得ざる複雑なる事実なるを以て保護国の法理的類別の基礎とするに適せざる」(29)

 

そして、立は自らの「保護国論」で提示した保護国三分類論を再び展開していくが、その具体的様相には変化があるのだ。分類の仕方としては、大きく二つに分けて、其の後一方をまた区分して、三つの類別を提示するやり方であり、1905年の議論と共通するが、その内実が異なっている。

大きな区分は、1. 単純な庇護の下にある国と 2. 狭義の保護関係の下にある真正保護国 の間になされる。

これは、有賀の類別における第一種、第二種を含むようにした上で、国際法上の行為能力に着目してなされるものである。(29,30)

 

 

  • 1905年時点では、1.保護をなす国家が保護国のあらゆる対外関係について被保護国を代表し保護を為す国家の機関が保護国の対外関係を担うもの、2.保護国は自ら外交権を行使し、保護する国家は単に外交権行使に制約を加えるもの、という区分であったのであり、大きな変更を被っている。立にとり厳密な意味での保護国以外も対象とする有賀の類別論と対抗する必要上視野が拡大し、保護国とそうでないものの区別を理論化するに至ったのではないか

 

そして1は正確な意味で保護国に区分されないとした上で2は、「国際法上の行為能力につきて能保護国より制限を受くるも被保護国か直接に対外関係を維持し被保護国の外交機関が直接に第三国の外交機関と交渉するを得るもの」である甲種真正保護国、「能保護国が対外関係につき被保護国の外交機関が直接に第三国の外交機関と交渉することなきもの」である乙種真正保護国に区分される。

 

甲種は安南(1874~84)、トランスヴァール、乙種は韓国、マダガスカル(1885~96)、安南(1884~)が含まれる。チュニスは条約では甲種だが、事実上は乙種に近似する(30)

 

  • この論文でなされる二回目の区分が、1905年の一回目の区分と見事に重なっている。具体的な該当国の扱い方もチュニスに見られるように類似している

 

 

 

有賀長雄 外交時報110号 1907/01

保護国の類別論」

 

立が保護国の定義を研究することの必要性を指摘したが「国際法上の問題を論究するに当り(中略)定義より入りて談論に達せんとせらるることは一の弱点」で、研究が完成した時に定義は得られるのであり、研究の冒頭で定義を立てることは倒錯している。なのでまずは多くの事実を収集して帰納する必要がある。「立氏の論法に於ては先づ保護国の定義を立て、此の定義に合いたる事実は之を保護国に関する事実として収集し、此の定義に合わざる事実は之を保護国の事実に非ずとして排除せざるを得」ず、有賀の立場で予め事実を捨象せず、政府や学者が認めた様々な事例を一旦取り入れる事が出来る。(51~53)

 

  • 有賀は立の手法では先に設定した定義で事実を切り捨ててしまうと述べているが、有賀の「保護国論」において明示している、韓国の保護国としての立場を整合づけようとする目的の設定はそのような作用を持たないと言えるのか。更に、有賀の研究において、雑多な保護国の用例は「一旦」事実に入れられたのみならず、最終的にいくつかの類型は保護国に該当しないとして捨象されることもなく、そのまま全て保護国として受け入れられているのである。

 

立が有賀の第一種、第三種、第四種保護国を真正の保護国でないとすることにつき論ずる。立が第一種保護国を「プロテクトラー」に含めない傾向ありと述べているのは「断じて事実に非ざるを明言せざるを得ず」、第一種保護国として提示した諸事例が、「プロテクトラー」に分類されていることはエンゲルハルト、デバニエが認めるところであり、「此の一事を以てするも一種保護国の事実を度外視するの不可なるや明らかなり。」第三種、第四種保護国として掲げた所持例が「プロテクトラー」に含まれることはカルドの見解により明らかである

「顕著にして有力なる事実あるに係わらず、其の会々(たまたま)空に心中に画きたる保護国の定義に合はざるの故を以て之を研究の度外に措くは果して学理に忠誠ならんとする者の為すべきとなるか」(53~55)

 

  • 有賀は自分を事実に依拠する側に置き、立は理論を「空(うつろ)に心中に画きたる」ものとして議論を行っている。ただしここでいう「事実」は、先行学者の指摘の存在のことであり、実例としてあがっているチュニスマダガスカルが実際にどうであるというレベルでの事実ではない。更に言えば、この箇所で否定しようとしたことは傾向の存在が「事実」でないと言うことだが、議論の途中で軸がずれていないだろうか、傾向の有無が事実であるか否かという問題に正しく応答できていない

 

 

有賀の提示する保護国の類別は「立氏の所謂真正保護関係と著しく差異するものありと雖、各国政府が之を保護国(プロテクトラー)と称し、専門の学者の亦之を保護国(プロテクトラー)中に包含せしめたるは其の間に連関するところあり、国家生活の発達上此らの相異なる事実の下だすに同一の名称を以てするの必要あるに固るものなれば、其の必要の存する所を分析し、主権の関係を基礎とする正確なる文字を以て之を定説するは学者の義務なり」(56)

 

  • 有賀も立同様、その内実がどうであれ国際法学の言語を使用する必要を理解していることは看取される。ただ、単に既に学者や政府が呼称しているという事実を無批判に接続する姿勢は既存の法の言語からこれを純化しようとする立とは相違するだろう。少なくとも、立はそのような呼称の中で、既存の国家や独立に関する定義でもって其の幾つかを保護国でないものとして類別しており、先に有賀の主権や独立の扱い方で見られたように、既存の理論を多少曲げてまで、保護国の呼称を得ているものを均並に保護国として法的に理論化しようとしていることは対照的である。これをあえて一般的に言えば、すでに存在する言説、理論の優先関係をどう配列するかの問題になろう。立は、既に存在する法学の核心たる主権、独立、国家というような理論を優先したのに対し、有賀は政府の宣言、学者が呼称しているという事実を優先した。後者は法システムの言語における優先規則と対立するように思う。更に言えば立の応答にあるように、学者が呼称した事実というものは逆の理論の存在も提示できる以上一義的な事実ではない

 

 

 

国際法に於ては各国政府が国際生活の必要上より実行したる所の政策を以て事実とし其の各国国民の生活発達に有益なるものを取て合法と為し、之に有害なるものを目して違法と為す次第なれば、国際法上の事実は元と皆政治上より出る」ため、保護国においても「其の政策の異なるに因り之が結果たる保護の異なるは自然の順序」であり、「国際法に於て法律論と政治論を全く別視すべきものと為すは誤なり」(56~58)

 

 

・ ここで有賀が国際法で認定すべき「事実」が定義された。各国政府の政策がそれである

 

  • この論法だと、仮に有賀のように「長期間維持されている政策、慣行は双方の益となるものである」という正しくないロジックを保持していなければ、国際法学は、「事実」である各国政策を逐一国際社会、ないしは「双方」の利益になるのか検討しなければならないことになるのではないだろうか、逆に有賀ロジックで複雑性の縮減が達成されているうちは、現状追認に堕するものではないか

 

  • カントがTheorie und Praxisのクリスティアン・ガルヴェの通俗的道徳論批判に際して述べたように、利益計算は複雑性が異常に高い上に最大の利益、皆の利益なるものの定義は確定不可能なのであるから、必然性の領域としての法、道徳の議論は利益と切り離すべきであり、立が「保護国の類別論」で述べた起因の複雑性の指摘も同旨ではなかったか。「要するに保護関係の起因と言うの如き政治的事実は多くの場合に於ては単に条約又は其の他の公文書の字句のみによりては知るを得ざる複雑なる事実なるを以て保護国の法理的類別の基礎とするに適せざる」(29)

 

 

 

立作太郎

 

保護国論に関して有賀博士に答ふ」

国際法雑誌5巻6号 1907/02 p.18~38

 

定義先行の問題につき、事実の渉猟の重要性は言うまでもないが、「学者が已に研究に於いて必ずしも研究の際に於ける順序を其のまま再現するを求む留の必要なしと信ず」故に、研究著作では冒頭に研究の目的物及びその範囲を明確にしておくべきである。有賀が自然の順序を強調することは結構だが、その研究において保護国の定義をしなければ出来ないはずの類別を定義に先んじて論じているのは矛盾ではないか(18~20)

 

保護国の定義の必要は学問の体裁問題としてだけでなく、それを欠くことによって保護国の観念自体が明瞭さを欠くことになったために述べているのである。(20)

 

現在保護国に関して狭義広義の両定義が存在するのは確かだが、最近の傾向は明らかに狭義の側にある。更に、保護国の語を広義に取る場合誤解を避けるためには「一一広義の保護国なることを説明するの必要あるべく研学上煩累多きを以て寧ろ保護国の語を狭義に用ひ」る必要がある。(20,21)

 

・ 学問上の対話の便宜の為にも、混同を招かない狭義を用いるべきである

 

傾向の有無につき「博士が単にエンゲルハルト及デバニエの上げたる事例のみに依りて最近の学説の傾向を判断せんとするは穏当を缺けるには非ずや」

その後、保護国の類別論で行った議論を、ガイラル、ウェストレーク、デバニエ、オッペンハイム、ピックの議論を援用しつつ再掲した上で、「保護国の語を狭義に用い第二種のみを含む意義に之を用いんとする学説の傾向は二の事由に本づくが如し」1. 最近の国際慣例上有賀の言う第一種保護国に関して保護国、保護関係の語が公に用いられる実例殆どないため 2. 国際法上の行為能力の制限を受けているかの基準を用いず単なる庇護を受ける国も保護国と称すると現在の慣用とも相違するに至るため (23,24)

 

  • 有賀の尊重する慣例、慣習の面でも、第一種保護国は用いられなくなっていると、相手の議論の立て方にあわせた議論の展開を行う。ここで傾向が実際どちらにあったのか検討して立の議論を精密に批判することは今後の課題となる

 

 

有賀の第三種、第四種保護国につき、「プロテクトラー」なる語の使用から直ちに保護国として認定するのは正しくなく、その語の意味から考えなければならない。「プロテクトラー」こそが、国際法上の保護「関係」を示す語であるが、それは形容詞抜きで単に「プロテクトラー」と呼ばれている時に限る。有賀が指摘した「プロテクトラー」は、植民的保護地(Protectorat colonial),行政的保護地(Protectorat administratit)と形容詞が付されており、直ちにそれを形容詞抜きの保護関係である「プロテクトラー」と同一視するのは正しくない。さらに真正の保護関係ならば其の関係の目的たる保護国(Etat Protege)の語が用いられていなければならないが、それこそが真正の意味での保護国であり、日本にとり韓国は保護国(Etat Protege)に相当することは疑いを容れない(25~29)

 

  • ここで立は慣行、国家実行への着目という有賀との同一平面に立ったうえで自らの分析の正当性を提示している。それに対し有賀の応答が、自らの指摘した起因による分類の問題点に応えておらず、正確でないと指摘する。「博士教訓の労を惜しまれざるに批評の此要点に対しては却て一言することなくして顧て他を謂うは何ぞや」(33)

 

  • 穏当なる判断への尊重は有賀が以前の論文で既に示していることで、これが立によるハイコンテクストな皮肉である可能性もある

 

 

国際法に於て法律論と政治論とを全く別視すべき者と為すは誤なり」との有賀の議論について、「一の政治上の事実が国際法上の事実たるを得ずと為す如き概括論を為せしことは決して之なき所にして余と雖も国際関係に於て一の政治的事実が国際法上の事実と為り得べきことを認めざることなし」(33)

 

国際法の合法不法と国民生活へ有益有害の区別を接近させることにつき、「果して然らば国際法に於ては法律論は実質に於て全然政治論となり唯合法不法等の語を用ふるを以て政治論に異なるあるのみ然れども此の如き国際法の見解は全然誤謬なることを断言せざるを得ず」(35)

 

 

  • 有賀の議論を政治論と法律論を同一にしてしまうものとする指摘は正当だが、実は有賀の「保護国の類別論」で提示された議論だけでは直ちにそうはならず、有賀が行う事実的原因と規範的性質の混同、慣行は双方の利益になるという即断があって初めて成立する。(どちらでも同じことだと言い得る程度の微妙な相違ではあるが)

 

「国際各法規は国際団体に普及せる国際慣例(慣習法)又は団体内の諸国間の一般的条約(成分法)に本きて其存在を証明すべきものにして決して各国国民の生活発達に有益なるや否やの政治学上の問題の答案に依り其存在と否とを決すべきものにあらざるなり」(35)

 

  • ここで国際団体という、国際法のアクターを制限する装置が出現している(例えばウェストレークやロリマーの20世紀後半での理論では、そのメンバーは文明国に限られていた)、法源を制約する視点が提示される。

 

 

今後の課題

 

  • 有賀の変容は?彼の直接的な応答はその後存在しないが、理論に変化は見られるか
  • 立の国際法の理解をさらに深める必要がある
  • 自国の政治行動を不法と断ずることは実際に可能であったか?

Tom Hillenbrand "Drohenland"(2015) Kiepenheuer&Witsch,  赤坂桃子訳 河出書房新社(2016)

 

 

 

 「客観的に存在する知の素材が途方もない広がりを見せているために、あたかも密閉された容器のように中身のわからないまま流通するいろいろな表現を使うようになり、使わざるをえなくなった(1)」

 この文章は引用から始まる。

 そもそも引用とは何のためにあるのか?それだけなら自分で考えつく(かもしれない)数文字の詞を、わざわざ本棚をまさぐって探してくるだけの価値がある営みだろうか。

例えばここでジンメルを引っ張りだしてきた理由について考えてみよう。ネーム・ヴァリューというのも一つの答えであることは否定しない。

 だがもう少しだけ付加するならば、ジンメルという男がきちんとした脳髄を携えた男であり、「貨幣の哲学」という著作において、きちんとした事実の整理、適切な推論がなされているという思考過程への信頼があることは(常にそう意識しているかは別にせよ)間違いない。そしてそれは自身が実際にテクストを読みその主張への仮定を呑み込んでいたり、彼の社会学者に親しんでいる場合もあれば、噂やら他からの引用を介して判断していることもあるだろう。

 つまるところ、引用という営みは単にその言葉を提示するだけでなく、それが背後に思考や認識、経験の過程を含んでいると考えられるために行われると言えよう。ここで行われているのは、複数の意味、思考過程、信頼性を、(引用句と出典という)一つの記号に圧縮する営み、あえて言うならばフィクションの作用に他ならない(2)。以上の記述を意識しつつ、本作をまずはフィクションという論点から眺めることとしたい。

パーセント、確率、あるいは統計

 本作には確率(die Wahrscheinlichkeit)、パーセント(Prozent)が多々浮上する。確率がまず第一にある事象の起こりやすさということを意味することには異論がないだろう。だが、ここまで読んだことで察しがつくように、既に存在する統計データと当該事象の性質確定を経て、ある対象のある状態への移行可能性を導出する手続きというものが確率というものには伏在していなければ(少なくともそうだと信じられなければ)ならない。そうでなければただの数字とパーセントを述べただけでしかない。つまり、確率は推論の結果であると同時に、推論自体を内側に含んでいるという説明が可能である。

 ではなぜ僕らは確率を用いるのか。ここでは端的に社会生活が思考の高速化と決定を要求していることに依ると理解しておく。だからこそ、出来るだけ短い文字数、小さな情報量で多用な事象を判断できるようにしなければならない。ダニエル・ベルの言「われわれはますます少しだけを、ますます多く知る(3)」はそういう意味で理解できる。これは本当に素晴らしいことだ。単にコンピュータの発展それ自体だけでなく、この思考経済上の技術により、投票行動、犯罪傾向、天気、株価の上下なんて世界に重要なものを数分で暗記できてしまうのである。

 だが、この圧縮技術には弱点もある。何せ全てを数字とパーセントに押し込んでしまうので、さまざまな区別を捨象してしまうのだ。別に降水確率の90パーセントと彼が怒りっぽい人間である確率90パーセントで同じ表現が用いられていることに目くじらをたてたい訳ではない。だが、その確率やパーセントという表現技法が全てを同じ形式で表すことで逆に思考上の損失を招いていることは疑いない。記号は思考経済を節約させる作用があるはずなのに、全てを同じように扱ったら誤りを招くとんでもない悪貨を含んでいることになるのである。

 本文でのフィクションの扱われ方を見てみよう。p.24では確率と記録されたデータから見た比率が同様にパーセントを用いて表現される(4)。ここでは実際に起きた割合を数えた事で出た過去を対象とした数値と、どの程度起こるだろうかという未来を対象にした数値は同様の表現手段で表されている。冒頭のみを対象に絞っても、ある状況においてプロの狙撃種が背中の上を狙う確率(p.28)、コンピュータの分析による被害者の発言とある党の綱領との一致、新憲法へ同意する確率(p.34)議会の全議員の新憲法の賛否アンケートの結果(p.101)というように様々な性質を持つ事実を同じパーセントの表現手法で表している。そして、それらの記号は基本的に確固たる事実として登場人物により利用され、導出過程を遡るような事はなされないのである。

 逆に、確率が推論過程の結果であることを忘却して、確率という記号に自動的に従っているのではないかという遣り取りが本書にはある。p.101-102で、主人公がコンピュータのテリーに新憲法賛成派がなぜ増えたのか問うた際、テリーは過去のデータから大きな要因とされる三つの事例を確率抜きで呈示する(5)。今回もそうなのかという主人公の驚きに対し、テリーはあくまで一般的傾向を述べただけだと応答をする。この言語的交流においては一般的傾向と各事例の個性は意識的に区別されるのであるが、本文の他の箇所で提示される確率も、ある条件付けをしてその場合での一般的傾向から導出されたものであることは疑いないと思われるが、それらは当該事例でも十分に有効性を持つ情報として取り扱われるのである。圧縮した記号それ自体の神秘化を本文から読み取ることは出来ないだろうか。

 固定的な記号の神秘化がなぜ起こるのかは、無秩序への恐れからである(6)。物語では過去に、確率に基づいて、犯罪を犯す可能性の高い人間を予め抹消する作戦が取られたことが明らかにされる。だが、無秩序への恐れは政治的アナーキーに対してのみではなく、不可予測性というカオスに対しても向けられる。p.390において黒幕と判明した主人公の上司が、なぜ憲法反対派ではなく、賛成する確率が50パーセント程度の議員達を殺していったかという主人公の疑問に、はっきりと反対とわかっている敵は怖くない。予測できないことこそが抹消されなければならないと述べたことはそれを表している(7)。マルコフ変調のような確実性からの乱れは彼らを不安にさせるらしい。だからこその神秘化である。不可予測性の存在を識り、それへの恐れを表明する彼らは、決して確率それ自身がフィクションであること、ある前提に立った推論に支えられた、他の結果でもあり得る儚い存在であることは考慮しないのである。もちろん確率それ自体が内在する不確実性を部分的に排除する方向も存在していて、先に述べた犯罪可能性の高い人間を排除する計画は、確率はある個体それ自体の振る舞い自体を完全に予測するわけではないということを、予め全て抹消することでその事実から目を背けるモーメントと見ることも可能だろう。

 

 だが、不確実性を排除することは人間にとり自然なことなのだろうか。過去をチェックするために、現実の世界のデータで構成された仮想現実に飛ぶミラーリング(Spiegelungsaversion)を実行した主人公は、本物っぽすぎる(zu echt)ということ故に違和感を感じる。現実に忠実であることがかえって本物っぽくない(zu unecht)というのである。これは後で判明するミラーリングの世界に偽造が行われていたことの伏線とも読めるが、余りに整理されていること、秩序化の過剰への拒絶反応と解することも出来ないだろうか。

 

信頼と権威

 教会法学においては、「権威の確定」という問題が、引用に値するテクスト、論拠の確定、およびテクスト、論拠相互の優劣の確定という形で取り沙汰された。何かを決めるためには情報は必要だが、それらが矛盾対立していないことを事例見つけるのは富者が天国にいくより難しいかもしれない。どこかで必ず僕らは、大事なのは情報が何を喋るかではなく、どの情報を採用すればよいか、どれがノイズであるかを選別しなければならない。キリスト教という信仰それ自体に関して、究極的には予言者を名乗る男の言葉を信じるのかという権威の問題に回収されることを指摘したのはホッブズであったが(9)、正しい知識が何かという問題と社会の存立基盤の問題は切断できない。

 

 先に述べたように物語中の社会は数字、確率、パーセントというメディアの権威性(10)を基盤として備えることでコミュニケーションを可能にしている。ミラーリングも同様に、仮想空間への信頼が犯罪捜査を成り立たせていたことからしても、社会のコミュニケーションを成立させるメディアの性質を持っていると言えるだろう。

 次は信頼、権威がある程度破壊された状態を本文から見てみよう。

 

 物語の後半、ミラーリングの改竄や、状況証拠の捏造で犯罪を作り上げるという現状の社会システムの利用がされていることを知った主人公は疑う。それは物語の最後まで継続していると言え、原著の最後から六行目のaber sicher ist das keineswegs.という言葉に顕著に現れている。

 

そのような時期に彼は、統計的予測では不可能であろう、コインという象徴から事件の真相を直感的に察知し(p.331)、陰謀をある程度乗り切ることになるのであるが、そのような既存の媒体への懐疑と自由な思考は、不都合も伴っている。

 

 誇大妄想と指摘される程の、普通ならありそうにない可能性として排除されるものまで心配することは(p.292)、今までのメディアの仕組みにより排除されていた可能性に真相があったという反省を経たという意味では肯定的な側面もあるが、思考経済上は非常なるロスである。完全な思考の自立もまた完全な確定性と同じく、人間にふさわしいあり方ではないのだ。主人公だって即興で行動するのは大嫌い(p.385)だし、編集も解説もない生の情報は解釈に手間を要する(p.311)のである。

 

 

 実際、どの服装にするかなどという問題なんかは機会に任せてしまって構わない。(p.47)のであり、統計処理をコンピュータに委ねてそれを判断材料にする営み自体も放棄することは出来ないだろう。問題はいかにそれが確固たる事実などではないフィクションであることを忘却しないかということなのである。先に述べた予め犯罪者予備群を抹消する作戦は、マタイ書13章に述べられた毒麦の例えに準えられており、予め毒の入った麦を抜き取っておいてしまえ。そうすれば安全であるという思考の元で作戦を貫徹した。だが、人間はどれが毒麦でそうでないかを完全に識別することなど出来ないのだ。更に言えば一度刈り取れば後はもう安心ということもまたあり得ない。この比喩をむしろ何かを何かに置き換える人間の営みそのものに適用したい。置き換えが完全ではあり得ないこと。さらには置き換える前が何であったかしばしば忘却をしてしまうことを意識して、ふと刈り取る前に手を止めなければならない。そうでないと何を失ってしまったのか分からなくなるし、刈り取ったあとの残りが全て口に入れても大丈夫なんてこともあり得ないのだ。完璧な思考は出来ない、だが、思考も決断も避けることは出来ない。そのような状況下で、ヴォルテールカンディードの言うとおり、僕らは日々自分の庭を耕さないといけないのだ。それは時に用いる道具を再検討することでもある。

 

 

(1)Simmel, philosophie des Geldes, p.505. 

(2) ここでのフィクションにつき、木庭顕, "余白に"p. 368 於, 来栖三郎『法とフィクション』、に従い、「AをBのごとくに考える」、更に区分して「本当はAであるものをBの如く考える」と「AをBで置き換える」営みのことと定義する。勿論今述べた引用の作用は後者である。

(3)Bell, The Coming of Post-Industrial Society, p. 468

 (4)原著p. 28 "《Aber die Wahrscheinlichkeit liegt laut Terry bei allen unter 25 Prozent, denn in 91 Prozent aller verzeichneten Fa.lle waren Pazzi und Heuberger allein essen》"

 (5)原著p.107"《rasche Vera.nderungen im Abstimmungsverhalten von Politikern in der Regel auf einen der drei genannten Faktoren zru.ckzufu.ren sind》"

(6) プラトンが指摘したような数学、数字のイデア的な性質(ないしはイデア的だと思わせる性質)も関わるかもしれないがここでは論じない。序数,基数のような数字それ自体の区別などに関しては、ダンツィク, 『数は科学の言葉』参照

 (7)原著p.414"《Diese Leute waren unbekannte Variablen, sie waren ein Risko.Deshalb mussten wir sie aus der Gleichung entfernen.》"

(8) くじが5割で当たると分かったとして、今引いたそれがあたりかはずれかは確言できないことを想起せよ

(9)ホッブズの聖書解釈と信仰の由来に関する議論につき福岡安都子『国家・教会・自由』, p. 206-235彼が初めて以上の認識を示したのではなくアウグスティヌスもなぜ、さまざま宗教がある中でキリスト教を選び、そのキリスト教の教えを保持するという宗派もさまざまある中でカトリック教会に帰依するのかという問いにおいて権威の問題として論じている

(10) ここでは、その根拠を問うことを停止させる作用として権威を理解する

 

 

 

 

Blackwell “Companion to Locke”(2015) Introduction by Matthew Stuart 抄訳

はい。というわけで比較的新しい概説書(?)のintroの一部を訳してみました。

 

作品全体の簡単な紹介になっております。

 

前書き
1
著述家としてのジョン・ロックの経歴はあまりに偉大であるため、彼の過ごした豊富で、変転に富んだ人生については等閑視されている。彼の政治理論と認識論へなした貢献の大きさは彼の学識の多様さを覆ってしまいうるのだ。彼の経歴は学者としてのものに端を発するが、そのうちの多くをAnthony Ashley Cooper(シャフツベリ伯)に仕える形で過ごした。彼はロックと出会った当時は大蔵大臣の地位にあり、後に大法官となった人物である。この人的交流はロックに政治的に上位の階層の人間と接触する機会を与え、更に経済、新大陸の政策形成に関与することにもなった。チャールズ二世と弟ジェームズに対して企てられたライハウス陰謀事件の余波も収まらぬ時節、ロックもまた危機に晒され、時には偽りの名を用いつつ、国を去り5年半を追放の憂き目にあうこととなったのである。ロックは物理学者であり、化学を学ぶことにおいても熱心であったし、植物の標本集めも行っていた。形而上学者そして神学者の顔も有しており、文官にして経済理論家でもあった。彼はボイルとニュートンの友人であり、王立ソサエティの一員で、広い範囲の気象記録の保持者でもあった。彼は子どもの最上の教育法を理論化し、パウロの書簡への長大な注釈を記した。そして図書の索引の作製法を開発し、それは100年以上利用されることとなった。

2
本書においては主に哲学へのロックの貢献を扱うのであるが、哲学とは広い意味で解される。本書の目的は詳細かつ広範に記述することであり、ロックの哲学で学者の注目を集める主題をほとんど包括している。その主題とは、知識の経験主義的理論、第一性質と第二性質の区別、個人の同一性の議論であり、更に自然権の理論、社会契約の理解、宗教的寛容論も含まれる。だが、本書はそれだけでなく、ロックの全作品の中で比較的見過ごされてきた部分も含んでいる。Stillingfleetとの往復書簡である”人間知性論草稿”や、”キリスト教の合理性について”などがそれである。それに加え、ロックがその中で自身の哲学理論を発展させ、その影響を及ぼした知的文脈にも注意を払っている。そのため、ロックとスコラ学、デカルトとの関連についての章や、英国経験論、自由主義の伝統、新大陸に与えた影響についての章が割かれている。

3
以下に記される章は本書のために記されたものである。各著者は最も学識があり、注目に値する近年ロック研究に従事したものたちである。その中には2,3の新世代を担う最も有望な若手ロック研究者も含まれている。ロック研究は現在50年はそうでなかったと言えるほど栄えていると言えるだろう。各章は読者に各領域の現在の研究状況を知らせるための試みである。その多くは現在の研究状況を踏み出そうとする熱意を有している。その結果、一般の読者そして専門の哲学研究者両者に取り実際に有用なものとなっただろう。ぜひカバーされている分野を概観して欲しい。


Life and Background
1
ロックは劇的な時代を生きた。英国の内戦の時代に成人を迎え、クライストチャーチの学生時代に王政復古に遭遇した。そして1688年のオランダの英国への侵入を、彼の追放からの復帰をもたらすものとして祝ったのであった。この驚くべき変動は単に政治的な出来事だけでない。それは、1665年のロンドンのペスト大流行であり、その次の年のロンドン大火である。ロックはその二つの出来事を安全なオックスフォードで伝聞したのではあるが。そして17世紀の下半期における化学的知識の飛躍的増大という現象もあった。微積分の発明、科学的調査の重要な装置である顕微鏡、空気ポンプの改良、ニュートンの”プリンキピア”の発行などがそれである。これらの出来事がロックが生き、そこに対して大いに貢献した知的世界を形成している。
2
第1章では、Mark Goldieが時代の中でのロックの歩んだ過程をたどっている。彼はロックの相対的に目立たない初期に、彼がウェストミンスターとオックスフォードで受けた教育について伝える。彼はロックがクライストチャーチで要求された聖職の保持という要件に乗り気ではなく、その免除を受けたことを教えてくれる。ロックは、1667年よりシャフツベリの家に仕え、彼の主人のプロジェクトに関わっていくことになる。そして、自身の仕事にも着手し始め、後に”人間知性論”や“統治二論”に結実する草稿を書くことになる。1683年にシャフツベリが亡くなり、その年よりオランダを放浪しながらの亡命が始まる。知性論も統治論も、1689年の英国への復帰まで出版されることはなかったのである。すぐにさらなる刊行物が続くのであるが、Goldieはそれらがロックにもたらした賞賛および批評についての解説を行っている。彼は更にロックの最晩年において、友人のカドワースの実家であるオーツにおける隠居で、いかに名声と悪名という圧力から自由であったかを記している。
3
ロックの人生における主要な出来事を描くことに関して、Goldieはロックの政治権力の本性と範囲の理論化に息を吹き込んだと言える政治的なコンテクストを忘れることはしていない。もちろん自然科学との関わり、スコラ学への敵意とデカルトへの負債も描かれている。しかし、それらの主題はさらなる探求を要求されるものであり、それは次の四つの章で行われるのである。

4
2章においては、Jacqueline Roseがロックの政治理論家としての展開をもたらすいくつかのコンテクストを描いている。Roseは多様な要因に注意を向けさせようとしているが、おそらくその中で最も明白なのは。チャールズ二世の専制的な統治であろう。宗教的分裂による緊張が当時存在しており、不和は一方の側の分派的な不安定性と、片方のカトリック的不安定性によって加熱していた。チャールズ二世がシャフツベリと彼の協力者によるカトリックであるヨーク公の王位継承からの排除を妨害し、彼らの行動を処罰した1679,1681/82年の危機は、ロックに”統治二論”を描くように促した。この作品は将来現れるであろう統治、そして当時のカトリック的で恣意的な統治に対抗した著作であった。しかし、Roseはこの著作は以前の内戦の激動の記憶に脅かされていたことも指摘している。ロックの主要な標的は専制君主制という誤謬であったのだが、解説によれば、彼は議会派の内戦における過激さにも用心深くなっており、議会もまた専制的たりうることに気づいていた。その他検討されるのは、政治的党派性の増大、印刷された言葉が席巻する公共空間の成長といった事態である。ロックの寛容論を扱うにあたっては、筆者はロックがオランダで経験した宗教的共存の現実と、宗教的少数者を保護していたナントの勅令ルイ16世が破棄したことによる、大量のプロテスタント難民の流入についてロックが知っていたことを指摘している。

5
ロックの政治理論の多くをもたらした原動力を理解するために、英国の社会的、政治的発展を検討する必要があることと同様、ロックの『人間知性論』における主要な関心を示すためには、彼の自然科学、自然哲学への貢献を理解する必要がある。ロックの友人であるJames Tyrrellは、道徳と宗教の基礎づけに関する議論がロックをして認識論に向かわせたのだと語るが、ロックのその刊行物においては出だしから既に、自然界に関する知識を拡大するという広大な企画に接続することを意図していることが示されている。「読者への書簡」においては、ロックは自身の役割を”an Under-Labourer”、ボイルやニュートンのような”Master-Builders”の仕事が、言語の誤用に伴う混乱によって害されているわけではないことを示すためにその基礎を明確にする人間として表現している。彼は第三書において、様々な言語の誤用といかにしてそれらを避けるかについてほのめかしている。しかし、第三書以外においても、ロックの自然哲学への関与を明らかなのである。知性論の主要な問題提起の多く-いかにして知識は経験によって生ずるのか、いかにして事物は種類に分類されるのか、物体の諸特徴とは単純であるのか、そして、物体に関する論証的科学の可能になる条件とは何であるか。-は、彼の物理学、化学や植物学、医学への考察、関与、研究によって生じてきたものなのである。

6
ロックが一人前の自然哲学者と呼べないとしても、彼はディレッタント以上の人間ではあった。彼は医学や化学に関する強い興味を1650年代以降より持っており、その十年間の終わり頃までに、それらの分野に関する膨大な量の読書とメモを残していた。次の十年の初めには、彼はボイルとの交友を持ち、医学と化学に関する講義に参加していた。そして、彼の読書は自然哲学にまで及び、デカルトの物理学、光学、天文学に関する著作も含まれていた。1660年代の中頃には、ロックはDavid Thomasとともに、化学実験室を立ち上げ、ロンドンの有力な物理学者であり、彼に医学の実技を導入し、彼の医学理論に関する知見を与えた人物であるThomas Sydenhamと交友を持ち、1675年には、ロックは医学の学士資格を授与されることになった。シャフツベリ伯との旅や交流により、その興味は妨げられることもあったが、彼の医学そして自然哲学への関心は一生続いた。そうであるから、オランダでの放浪において、医学者とともに結腸について議論したり、ボイルやニュートンの著作に関する書評をBibliothe`que universelle に寄稿する彼の姿が見られるのである。1690年代において、ボイルの著作権執行者になった際には、ボイルの論文から数百ページの化学に関するノート写本の製作をさせている。

7
第3章では、、Peter Ansteyが、ロックの科学に関する哲学における緊張を描きつつ、彼の自然哲学への貢献を確認している。第一の緊張は科学の方法論における対立する観点についてである。一方において観察できない因果関係についての推測による仮説を許容する観点がありつつ、もう一方においてはネオ・ベーコン的なアプローチ、先のような推測的仮説を退け、その代わりに自然史の集積という営みを奨励する視点である。Ansteyは、ロックが、自然史の方法論にコミットしつつも、そのコミットが彼のcorpuscularianism(ニュートンの光粒子説)への信奉によってしばしば不安定になっていることを示している。もう一つの緊張は、自然哲学は観察に基づくべきというロックの考えと、論証的知識としての科学的知というアリストテレス的な理想への憧れの間に横たわるものである。ロック自身の観点からすれば、物体に関する論証的科学は不可能であるはずである。しかしAnsteyは、微小な粒子の観測が可能になるならば、そのような論証的科学へ向けた進歩も可能であることをロックは認めているのだと提唱している。そして、Ansteyは初期ロックの方法論的見解と
、その後のロックによるニュートンのプリンキピアという業績の受容に対立を見て取るのである。知性論やその他の著作において、ロックは確かに原理や命題の体系を打ち立てるという事業に関して否定的な言辞を行っているのだが、ニュートンがその事業をなんとか成し遂げていると述べることはできたのであろう。Ansteyによれば、ロックの科学の方法論に関する視点は彼の人生の終盤まで変化し続けたということができるようだ。

8
ロックの知性論は意欲的で、広範な哲学的著作であり、科学の哲学に関する論文にとどまらないものである。その著作は、同時代の科学のみならず、著者と近い時代の哲学的著作に影響を受け、それらへの応答を含んだ著作と言える。ロック自身の背景にある哲学は、スコラ学とデカルトによるものが大半を占めている。彼のスコラ学との関係は第4章のAshworthの論考の主題であり、デカルトとの関係は第5章のDowningの論考が扱っている。

9
いきなり知性論を手に取った読者は、ロックのスコラ学及びデカルトとの関係は敵対的なものだろうと考えることになるだろう。彼の両者への言及は常に批判的であり、嘲笑的な色を含んでいるときもあるほどだ。AshworthとDowningの論考は、ロックがどれほど的確に、もしくは的を外して先駆者たちの視点を理解したのか、そしてどれほど徹底して、もしくは不完全にそれらを退けたかについて繊細な像を提供してくれる。それらの結論は、デカルトへのコミットはスコラ学よりも大きいということは確かに出来るにせよ、非常に入り組んでいる。Ashworthによれば、このことは、ロックのスコラ学との接触がアクィナス、スコトゥス、オッカムといった人物の著作によってもたらされたものではなく、確かに有力ではあるが、それほど重要ではない人物の著作を知ることで行われたことが一つの原因であるとされる。物体の本性についての主題においては、ロックは確かにスコラ学に同意を示しているのだが、Ashworthは、ロックとスコラ学の議論の類似性は表面的だとされる。スコラ学の影響が確認されるのはロックの形而上学ではなく、論理学や言語哲学においてなのである。

10
ロックの理念に関する理解や、直感的、論証的知識の描写の中にデカルト主義の影響を見てとることは確かに可能であるが、彼はデカルトの基本命題を拒絶しているのである。デカルトが延長を物体の本質だと述べ、世界の本質を充満の原理(ラブジョイが述べてるやつですかねん)に見てとるのに対し、ロックは物体と延長を同一視する議論に対抗しており、さらには真空の可能性を認める議論を行っている。デカルトが思考を精神の本質とするのに対し、ロックはデカルト主義者の結論であるところの思考が常に行われているという命題に挑戦している。デカルトはロックにとっては生得説批判と懐疑主義に関する記述におけるターゲットの一人なのであった。

11
ロックはデカルトの哲学を評価しているわけではないのであるが、Downingの議論が正しいのであれば、彼はこのフランスの哲学者を詳細に読み込むほどの注目はしているようなのである。彼女はロックがデカルト省察及び哲学原理の主要な節に対して応答しているだけでなく、デカルトによるガッサンディへの返答や書簡におけるそれら命題の込み入った擁護に対しても応答しているのである。このことがは、ロックがスコラ学を既に活力を失った伝統とみなしているのに対し、デカルト哲学を判断に入れるに値するだけのものとみなしていたことを提起するのであり、実際にそうしていたのである。彼が人間知性論の最も古いヴァージョンに手をつけ始めた時、デカルト主義の認識論及び形而上学に対抗するという目的は存在していなかったのだが、その意欲は間もなく彼のうちに生じたのであった。

Government Ethics, and Society

1
ロックの統治二論は知性論と同年に世に出ており、その著作は大きな影響を及ぼすことになった。知性論が伝統的な知識の源泉に関する議論に対して、近代における代替の説明を提供したように、統治二論は政治的権威の源泉についての近代の代替理論を提供したのである。二つの著作はともに長い形成期を経て、世に問われており、統治二論-その主要なメッセージとは、王の権威はアダムに由来する神聖な恩寵によるのではなく、統治される人間の同意に基づくということである-はもともと、将来起こるであろうチャールズ二世に対する反抗への正当化として書き始められたのであったが、その後、1688年の名誉革命の事後的正当化として作り直されて読者に提供された。しかし、知性論がロックの認識論と形而上学に関する初めての著作であったのに対し、統治二論は、彼の政治的著作の最初のものではなかったのである。1660年に彼は、出版はしなかったのであるが”Two Tract on Government”および『自然法論』、『寛容について』を書いているのである。その他の短い未刊行の政治に関する著作、擲り書きといったものは1670年より作られている。ロックの政治思想を学ぶ者は、いかにしてこれらすべての著作に整合性を見出すのか、そして、どのようにして彼の様々な問題に関する視点が発展していったかという問題に直面することになるのである。

2
ロックの「自然法」-それは、人間がいかに振る舞うべきかに関する最も普遍的な原理である-についての視点にはある問題が関わってくる。彼の自然法論は、プーフェンドルフ、グロティウス、フッカー、そしてスアレツにまでさかのぼる自然法論の伝統に立脚しているように見えるかもしれない。ロックは自然法を神のその被造物に対する所有権に基づいて生ずる究極的規範として把握しているように思われるのであるが、それに反し、統治二論は、個人の自身を所有するという事実に基礎付けられている自然権という図像を提供するように思われる。問題は、後者の著作においても「全能で無限の叡智を備えた創造者の作品」であるすべての人間を拘束する自然法について語られており、議論が混乱していることにある。

3
S. Adam Seagraveが19章で説明している通り、解説者の中にはロックの統治二論の目的は自然権を自然法の枠内で基礎づけることにあると議論しているものも存在し、ロックは自然法と独立の自然権を定立しようとしたという議論をするものもいるのである。一つの魅力的な提案はこうである。ロックに取り神の人間に対する所有権が実際の所有権であるのに対し、私たちの自身に対する権利は制限された用益権、領主が借地人に与える権利であるとみなすことである。Seagraveはしかし、この議論を不十分だとみなしており、異なる考えを論じている。彼はロックの知性論における動物としての人間(ロックが”man”と呼ぶもの)と個人や自我の区別に着目している。Seagraveによれば、前者は神の作品であり、所有物である。しかし、人間が自身の活動、そして自身のPropertyの獲得を通じて個人へと成長するのだとされる。神の私たちへの所有権が私たちのものに勝る理由は、私たちの自身に対する所有権が神の許可に依存しているからではなく、神の創造的な活動が私たちの活動より偉大であるからだとされる。それが私たちの活動より偉大であるのは、私たちが存在する事物に働きかけるのに対し、彼はex nihilo、無から創造する営為を行っているからである。

4
ロックの説明においては、神の私たちに対する権威及び私たちの自身に対する権威は私たちがpropertyであるという事実に由来するとされる。このことは所有権の認識をロックの政治哲学の核心とみなすことにつながる。そのため、彼が最初の所有がいかにして出現したか、そしていかにして所有が貨幣及び政治共同体の設立をもたらしたのかを説明する必要を彼が感じていたとしても不思議ではない。20章においてRichard Boydが詳しく語っている通り、ロックは私的所有権は人間が自然の恵みを収集し、土地を区切って囲い込み、自然の事物を書こうするようになったと同時に出現したと述べている。神は始め、世界を共有物として与えたのであるが、誰かがその自然の状態からものを取り除き、彼の労働と混ぜ合わせた時、その者はその事物を得るのだとされる。しかし、ロックは同時に、個人がそのような手法で正当に所有できる量への制限を述べている。使用可能な分量を超えた事、及び獲得した者を放置した時、物の獲得は自然法違反だとされる。

5
明らかにロックの所有論において問題だと思われることは、いかにして神が集合物として与えた事物を私的獲得することを正当化するのかということである。各人が自身の労働を自身の所有物を得るため用いて良いとする人間の暗黙の同意によっての正当化を想像することはできるが、ロックはそのような手法はとらない。Boydが言うには、ロックの提供する正当化は、-個人の自己保存の権利に基礎付けられたものである-まず共有とされているものからどれだけを合法的に獲得できるかを控えめに制約することから始まる。新しいものを作りだすための労働力の使用は、他人には労働力によって作り出されるまでは存在していなかった者に対する権原の主張はできないため、正統な私的所有の範囲を拡大するのである。そして、私的所有権の完全な展開は、貨幣制度の発明とともに初めて可能になるのである。ロックは貨幣経済の物々交換経済に対する有利な点を認識していた。そしてここにおいて、彼は大いなる不平等をもたらすことになる制度を正当化するために暗黙の同意の概念に頼っている。(この概念の導入の問題に関しては27章で扱われる)

6
ロックは政治社会を、私的所有権が創設されたのちに現れるものとして描いている。Boydが提唱するように、おそらく彼は、政府を貨幣経済とともに出現する不平等による社会的不安への対応として出現するものとして考えているのであろう。ロックによれば、政府が出現する際は、本源的に自由な、自然状態にある人々の間の社会契約として生ずるのである。このことを歴史に基づく推論として示そうとすることもロックの記述には見られるが、21章のJohn Simmonsの記述は、これらの歴史に基づくかのような主張は、ロックの主目的ではないのだと注意を促している。Simmonsによれば、ロックの主要な関心ごとである自然状態とは、現在においてさえ存在しているということができるような、私たちがそこから生み出されるような領域なのである。それは相関的な状態-未だ暗黙にも、明示的にも他の人間とともに社会に入ることを同意していないとみなされる状態のことを指すである。人は他者とは自然の状態でありながら、特定の人間との間のみの関係において市民社会に参入することができるとされるのである。

7
ロックの政治哲学における主要な主張は、他人との政治的な状態に入ることの自由な同意を行うまでは、政治的権威に正当に服しているとは言えないということである。ロックはさらに、自然法は、個人が同意によって失うことのできる自由の範囲や、政治権力の外皮を保持している者の大権に制約を加えることを述べている。Simmonsはロックが政治状態に同意することに三つの段階を設けていたことを示そうとする。政治社会への加入→特定の統治形態への同意→特定の個人への政治権力の信託という段階である。この簡潔な図式を複雑にさせるのは、二つ以上の段階が同時も行われるためである。その上、同意が明示的でなく、暗黙であることもその複雑さに拍車をかけるのだ。ロックがそのような暗黙の同意は何を必要とするのかについて何を考えていたのか、彼は暗黙の同意が個人に政治社会の完全なメンバーソップを与えると考えていたのかは難しい問題である。

8
ロックが興味を持った政治社会の問題は、人民の宗教への遵守を確保するために、政府が正当に行為できる範囲に関わるものである。22章においてAlex Tucknessはロックの宗教的寛容に関する最も強固な議論は、人間の可謬性、普遍的原理の適用に関するロックの視点と密接に連関していると論じている。Tucknesは、このことが今までの学会において、1689年の寛容書簡に注意を払い過ぎていたために見落とされていたと主張している。寛容書簡は、人は強制して何かを信じさせることはできず、真の信仰のみが永遠の生を保証するものであるため、人々を真の宗教に導くために権力を行使するのは見当違いであるということを第一に主張している。オックスフォードの牧師であるJonas Proastは、すぐにこの著作に応答をし、強制力は確かに直接的に信仰を与えることはできないが、適切な強制力の使用は間接的ながらそれを達成することができると主張した。彼が言うには、強制力の行使は人間を導いて、「強制されなかったならば、考えることがなかったであろう、彼らを納得させるに足る適切な推論と議論を検討させる」ことになるのである。

9
Proastの応答は、ロックの死まで続いた彼との書簡のやり取りを開始させることになる。ロックの側の手紙は数百ページにも及んでいる。そしてそこでは、Tucknessが伝えるところによれば、彼は強制により人々を真の宗教にミビチクことの不可能性というテーゼを脇に置いて議論を行っている。その代わりに、ロックは人間の可謬性と、道徳的原理は適用において普遍的でなければならないという要求を強調するようになっている。この軸の思考は彼の初期の著作、死後まで刊行されなかった『寛容に関する論考』においても現れているものである。後半の著作では、ロックはその議論を明快にしている。自然法は神により制定され、神は人間の可謬性が「真の宗教を促進せよ」というような指示では失敗してしまうことを予想できているため、自然法はそのような規定を含んでいないというのだ。ロックの後の書簡において、「各教会は自身にとっては正統なものとしてある」というような議論は、「真の信仰は強制されえない」という議論よりも優越性が与えられているのである。彼の時代において、この議論は強力な宗教的寛容の擁護を果たしたのである。

10
政治学、認識論そして宗教論において、ロックは各人が自己決定し、自身の道を探すことに責任を持つことを強調している。いかにして人々にこれらの行為を準備させるかは、彼にとり重大な問題であった。23章でRuth W. GrantとBenjamin R. Hertzbergは、ロックがこの問題に関する議論を展開した二つの著作を検討している。1つ目は『教育に関するいくつかの考察』(Some Thoughts Concerning Education)である。それは、1693年に刊行されたが、それは1684年よりの私的な応答を通して練り上げられたものである。もう一つは、『理解の指導について』(Of the Conduct of the Understanding)である。こちらは元々、人間知性論の4版に章として書き足される予定のものであったが、死後に別の著作として刊行されたものである。前者において、ロックはいかにして子どもが、賢明で祐徳な成年、「欲求を理性に従わせる」人間になれるかの指示を提供している。後者では、自身の理解力を向上、拡大させたい大人に対するアドバイスが行われている。

11
多くの点において、ロックの教育に関する視点は、顕著に近代的なものとして注意をひく。彼は身体刑の日常的な使用と、奴隷的な規律に対して反対した。彼は、家での教育、独立した学習そして生涯学習に好意的であった。彼は、教育は気性と各人の才能にに適合しているべきだと主張した。私たちはこれらの発想が近代的なものとみなすことは、 ロックの教育哲学が広範な受容をされ、継続的な影響を保っていることの証左と思えるかもしれない。しかし、GrantとHertzbergは、彼の教育理論もやはり、難点なしにはすまなかったことを示している。例えば、ロックのプログラムの目標は、正当とされるものに対する挑戦を行い得る独立した思考する人間を育成することであったが、彼は両親と講師が褒賞と非難を子供の人格形成のために用い、子供が尊重を大いに求めることを利用することを提案している。権威からの承認に方向付けられた教育が、既存のものを破壊するだけの人間を育成し得るかどうかは、正当に疑問に付されるべき点であろう。GrantとHertzbergはここにおいて矛盾というよりは緊張を見出している。そして彼らが言うには、これはロックに限る問題ではなく、伝統的、権威的ではない自由主義的な教育に関心がある人間が直面する問題であることを示している。

 

 

 

 

Joachim Ehlers”Otto Von Freising -Ein Intellektueller im Mittelalter-” 抄訳 すこし

 

出だし

 

Prolog 人と時代
嫉妬心で心がいっぱいになるような(Konkurrenzneid zerfressenen)中期中世の貴族社会にあって、司教オットー・フォン・フライシングは、決してそのような問題に遭遇しなかった。他の人が嫉妬をこめて仰ぎ見るものは、彼が血統ですでに大いに恵まれている事であった。彼は皇帝ハインリヒ四世の孫、そしてハインリヒ五世の甥、コンラート三世の異母兄弟であり、フリードリヒ・バルバロッサの叔父であり、バイエルンのzweiter Herzögeと、パッサウの司教を兄弟に、ベーメンの公爵とビザンツ皇帝マヌエル一世の姪を義兄弟にもっていた。彼は帝国教会の高い地位を与えられたが、彼はそれに対して最終的には失敗するのだが、抵抗したのであった。

彼は現代しばしば誤解されている自身の著作”Die geschichte der zwei Staaten”(二国論)と”Die Taten Kaiser Friedrichs”(フリードリヒ大王の事跡)を後世に残した。前者は歴史神学的に確定された普遍的年代記で1、悲観的傾向を伴っているとされている。後者は将来への希望を伴うバルバロッサ賛美で、時代の変わり目を切り出して描いていると誤解されている。著者(オットー)が両著作の構想の間にある矛盾を保存していたことはそのままにしておかねばならない(と言われてきた)。しかし、彼は偉大なる史料編纂者であっただけでなく、出来事の意味を飽く事無く追い求め記した、歴史哲学者でもあったのである(と言われている)。テクストの精確で厳密な読解は確かに、そういった話が誤りである事を示している(zeigen daß von beidem keine Rede sein kann ちょっと自身がありません)。オットーは歴史の意味を探すことなどしなかった。そうではなく、彼は代わりに長い人間学的根拠(anthropologische Begründungen)を有していた。彼の友人の求めに応じて仕事を行った時に、事物に関する経験的でここへの明確な知識がそれを示している。彼はGeschichteを書いたのではなく歴史的素材を(2格を対格の意味でとりました)、哲学的理論の例示のために用いたのである。私たちは各所で、皇帝フリードリヒの事跡に関する作品は、作家による歴史的偏向などではなく、確実な死を目の前にして地上の唯一愛好したものである、フライシングの教会への哀惜が増したのだが、彼にはそこへ復帰するだけの権力が無かったため、皇帝の好意を仰ぐ必要が生じたことによるのだということを確認する事になるだろう。

 

Frederick Beiser”The German Historicist Tradition” intro おわり

内容に同意するとは言っていない

括弧内は補足です。

 

Oxford university press Frederick Beiser”The German Historicist Tradition”(2015)(ハードカバーは2011)

 


GHT 1-6
歴史主義の危機?
1921年、エルンスト・トレルチは、”歴史主義の危機”と題した衆目を引く論文をDeutsche Rundschauに寄稿した。歴史主義が危機にあるという考え、つまり、それが自壊に向かっているという考えはよく伝播するものであった。トレルチの論文が現れて後、歴史主義の危機はこの手の話題における決まり文句となっていった。あたかもそれは異論の余地のないことであるかのように、歴史主義は何故か破綻してしまい、二十世紀の最初の数十年のうちに消失してしまったのだ。残った問題は、この不思議な出来事を説明する事だけであるかのように思われた。

 

 

しかし、歴史主義の危機という出来事の存在は疑問に付されなければならない。1920年以降、ドイツの学問界において歴史主義は強い影響力を保持し得なくなっていたのは確かだが、歴史主義の伝統のうちに悲劇的な欠陥を持っていた。といったような危機によって衰退が引き起こされたのかを疑う事には理由がある。もしそれが危機によるものならば、それは歴史主義に内在的な問題によるというよりも、批判者によって生み出された問題に関係しているだろう。トレルチは歴史主義における危機を主に、自身の保守的な宗教観を脅かした事に見出していた。歴史主義の危機について云々することは自身の精神的危機を論敵に内包せしめる修辞的な手法なのであった。危機が実際に存在していた事への疑いは、歴史主義の危機に関する多くの理論を見ることで更に大きくなる。歴史主義にはそれへの反対と同じくらい多くの危機がある事が明らかになっている。簡略な二次文献への調査だけで、少なくとも、5つの異なった歴史主義の危機の説明のヴァージョンが見られるのだ。

 

 

1 トレルチの説明によれば、歴史主義の危機はその人間の価値へのアプローチに対する相対主義的な含意にある。もし価値が特定の社会的歴史的コンテクストの産物であり、それらのコンテクストが固有の共約不可能なものであるならば、普遍的絶対的な価値は存在しない事になる。歴史主義は相対主義であるが故に、生の無意味さの感覚であるところのニヒリズムを導くというのである。

2 別の説明によれば(シュネーデルバハを参照しています)、歴史主義の危機はニーチェの『反時代的考察』の第二部”生に対する歴史の利益と不利益について”における、歴史主義の背景にある価値と文化への攻撃に端を発するという。歴史主義へのニーチェの非難の本質は、それが内包する歴史学への関心が、存在に関する現実の問題からの逃避であるということにある。他人がなした事に関する、過去について得る全ての知識は、現在どう生きるべきかを教えてはくれないと彼は言う。ニーチェの作品は、当初あまり影響を与えなかったが、後に影響力を誇り、戦後世代に大きな負荷を与えた。

3 また別の説明では(Jaeger Rusen)、歴史主義の危機は、自然科学に基づき歴史学の概念を押し進めたカール・ランプレヒトの、『ドイツ史』が刊行された1890年より始まるとされる。ランプレヒトは歴史学は、自然科学同様に因果法則を決定するべきであると信じていた人物であった。ランプレヒトは自身の方法論を擁護する為に、ランケ史学の伝統の下にあるヴィルヘルム時代の最も評価されていた歴史家であるマイネッケらに論争を挑んだ。そして、ランプレヒトとベローの論争である。所謂Lamprechtstreitに帰結する事になった。一節では、この論争によって歴史主義者達は自身の方法論への信頼を失ったとされる。

4 もう一つの説明においては、歴史主義の危機は歴史の意味、構造や進歩に対して信頼をモテなくなった事に起因するとされる。この崩壊は、何百万もの若者を無為な死に追いやった第一次世界大戦の余波の一部だとされるのだ。大戦以前、歴史主義者は歴史の進展に対して強い信頼を置いていた。先頭に立つ歴史家、ドロイゼン、トレルチやマイネッケ等は自由派の国家主義者であり、中央集権国家ドイツの価値を信じており、それは歴史を指導し大いなる自由、平等、幸福へと導くものだとされた。しかし、ドイツにおける実際の戦争の遂行によってその信頼は大きく損なわれる事になった。ドイツは、国民を更なる自由と幸福に導く事無く、全ての世代を破滅の淵に追いやったのである。

5 最後に挙げる説明によれば(イッガースを参照してます)、歴史主義の危機はその内的な矛盾や、非一貫性に起因するとされている。その客観的知識への理想と歴史による強い条件づけ(という理論的前提)との対立である。歴史主義者達の科学や客観性への理想は、歴史家が全ての価値や先入見から自由な中立的な観察者となるかのような、自然科学的な客観的な知識への理想と同義であった。しかし、歴史主義の理論的視座にとってはそのような理想は全くもっておめでたいだけのものであった。その緊張は明確である。もし全ての視座が歴史的文化的条件付けを免れ得ないならば、どうやって歴史家は客観的で不偏不党の記述が出来ると言うのだろうか。


どの説明が正しいと言えるだろうか。全てであるとも言えるし、全て誤りだとも言えるのだ。全て正しいというのは、それらが歴史主義者の伝統における問題を実際に指摘しているからであり、全て誤りであると言うのは、それらのどれもが歴史主義者の伝統の消失を説明出来ていないからである。歴史主義の危機についての全ての説明の背後には、暗黙の前提として歴史主義が悲劇的な欠陥や非一貫性により消失したという観念があるのだ。しかし、私たちが見てきたように、この欠陥や非一貫性についての一致は得られていないのである。更には、そのような一致があったとして、歴史主義がそれにより消失したとは言えないのである。いつからある知的な潮流が、単なる理論的困難のみの指摘によって消失が説明できる事になったのだろうか。

 

もっと単純な歴史主義の衰退の説明が可能であるからこう述べているのである。ここで私たちは歴史主義の背後にあった目標を思い出してみよう。それは、歴史に科学としての地位を与える事であった。この目標を達成するために歴史主義者は大いに功を奏してきたのである。少なくとも歴史学は補助学ではない自立した学部を大学において得る事ができ、自然科学同様の名誉のある学問的分野と見做されるようになったのである。疑いを抱くならば、十八世紀中旬よりこの潮流が生じて以来、歴史学が学問の一角として目を見張るほどの地位向上を遂げてきたことに目を向ければ納得するであろう。そのため、歴史主義が消滅した理由は単純なのである。それ自身の目標を達成した為に、歴史主義は存在しなくなったという訳である。ここにおいて、歴史主義は失敗に終わった営為ではなく、大いなる成功を収めたと見られるべきである。その上、歴史主義は今でも大きな影響力を持ち続けており、現在でも消滅したというのは正確ではない。歴史主義は私たち皆の中で生きているのであり(←)、こういってよければ、マイネッケの言うところの革命の後継者として、私たちは皆歴史主義者と言えるのである。

F.Beiser “German Historicist Tradition” Introduction : The Concept and Context of Historicism つづき

Graftonの"What was History" 面白かったです。

この著作とは方面が違いますが多少重なる議論もありました。

 

それでは始めます

注釈はぼくのオリジナルなのであてになりません

 

4 歴史学的知識という問題

4-1

啓蒙との一定の断絶以外にも、歴史主義が知的革命であるとされる理由は存在しているのだ。それは、歴史の科学としての資格を、古代にまで遡る知のパラダイムを排することにより、正当化する試みのことである。そのパラダイムアリストテレスの『分析論 後書』における、科学は、論証可能な知識から成り、その論証は必然的な前提による推論によって行われるというものである。アリストテレスによれば、ある命題の審議は三段論法により検証可能である。そして、その場合のすべての前提は、普遍的、必然的に正しいものである、すなわち、真偽は、全ての事例に措いて真であるかそうでないかに分けられる。このような、数学的原理に依拠した科学の理想は、歴史学には適用困難であった。そのような意味での厳格な基準によれば、歴史学は科学ではないとされる。歴史の主要な対象は、普遍に対立する意味での、特殊であり、あれこれの人や出来事という論理的では他でもありえたものであって、アリストテレスの要求する意味での普遍性と必然性に欠けていた。アリストテレスはこのように結論を導きだし、このような理由で、歴史学を、知の形態として詩学よりも下位に置いた。歴史家は、ある人がある時代に措いて、何をなしたかを伝えるのみであるが、詩人は、ある性質の人間が同様の状況に措いてどのように行動するのか、といういくらか普遍性を備えたものを伝えるという意味で。

 

4-2

この歴史学に対する汚名は、初期近代に至るまで維持されてきた。スコラ学への反動の存在にも関わらず、アリストテレスの科学に関する理念は17,18世紀の偉大な人物において生きながらえている。例えば、デカルトホッブズライプニッツそしてヴォルフはアリストテレスの検証可能な知識としての科学としての科学のモデルを支持していた。彼らは、証明可能な命題、それらの全てが定義から、もしくは自明の前提から導出されるような命題の体系から、科学は構成されると主張した。ある命題が、科学としての身分を得る為には、普遍的かつ必然的な妥当性が要請され、歴史学の命題を含んだ経験的命題は、そのような意味で、知識としては扱われなかった。以上のような理由により、これらの思想家は正当にも歴史学を科学の領域から排除していたのである。デカルトは、『方法序説』において、最も正確な歴史に措いても知識の基礎たり得ないとの警告を発し、ホッブズは、『物体論』にて、歴史を哲学から排している。「なぜなら、そのような知識は、経験や権威であって、推論ではないからである。」ライプニッツとヴォルフは共に、歴史学は、特殊性と偶発性の領域に属するが故、科学としての地位を得ることは出来ないと明言している。ヴォルフが記すところによれば、一般的な歴史学の知識は、知識における最も低い地位を占めている。なぜなら、それは感覚に依存しており、諸々の出来事の原因に向けられた洞察を我々にもたらさないからである。初期近代の合理主義者達は、そのため、科学と歴史の間に断絶を見出している。歴史家は、プラトンの言うところの洞窟の深みに囚われたままだと言うのである。

 

4-3

重要な点に措いて、18世紀の啓蒙の時代は、歴史的知識を正当化することに関する問題をいっそう深めることになった。啓蒙の第一の価値は、自分で考えると言う意味での知的な自律である。自分で考えるために、私たちは自信の洞察に基づいて、同意を行うようにしなければならず、自身の理性や敬虔により確信できた命題のみを受け入れるのである。私たちは権威に基づいて、信念や信仰から命題を受け入れてはならない。ここにおいて、歴史はまたしてもこれらの基本的要求を満たすのに失敗したようである。自身の理性と敬虔のみで、歴史の命題を検証し得ないのである。歴史は過去を扱うものであり、過去は存在しておらず、各人の経験を超えているという問題であった。自然科学には再現性があるのに対し、歴史の固有の出来事にはそれがないのだ。というのも、歴史は必然的に、検証と、他人の手による資料への信頼と信念に基礎を置くからである。そのため、歴史はその本性上、科学たり得ないのであった。

4-4

その徹底的な変革にも関わらず、カントのコペルニクス的転回は、過去との完全な断絶に至ることは出来なかった。合理主義への鋭い批判をおこなったが、そこに含まれる科学の理念を未だにカントは保持していたのだ。彼の合理主義の理念への傾倒は、科学が自明の原理によって構成される体系から成るとする彼の主張からも読み取ることが出来る。合理主義の伝統における数学的理念への拘りは揺らがなかったのだ。そのような立場は、”自然科学の形而上学的基礎”の前文における、ある原理は、その主題が数学的操作を許容する程度だけ科学的であるとする記述にも現れている。

 

4-5

歴史主義者達はどのようにしてこれらの困難に対峙したのであろうか?カントや啓蒙思想、合理主義に対してどのようにして彼らは歴史学の科学としての地位を立証しようとしたのだろうか?その応答には多くのヴァージョンがあり、それらは全て複雑なあり方をしていたのだが、後述する。ここでは、主要な展開を概観していく。

 

4-6

17世紀の末期に、応答の1ヴァージョンは明確化されていた。新しい合理主義の精神に感化されて、フランス、オランダにおける、多くの初期近代の歴史家達、バイユ、デュボス、Frensnoyらは、歴史自身に高度の明証性を要求するようになった。これらの歴史学的ピロニズムは、Descartesの方法論的懐疑を歴史に持ち込んだ[1]。彼らは伝統的な歴史学の情報源には懐疑的で、十分な明証性が確かめられた時のみそれらを受け入れるようにした[2]。全ての資料は出来る限り、その起源を辿られ、文書館の原典と照らし合わされることで認証されなければならなかった。Descartesが科学的方法の原理を打ち立てたように、歴史学的方法の原理が打ち立てられることになった。利用される資料は、目撃者によるもの、同時代の記述により確証できるもの、他の検証された事実と整合するもの…といったもののみに限られた。歴史家達は、単純で質素な事実こそが、探求の目的であり、出発点ではないことを悟った。この歴史における新しい合理主義者の精神は、18世紀を通じて徐々に成長していき、その世紀の末には特にドイツにおいて、標準と成っていた。例えば、ミュンヘンマンハイムゲッティンゲン大学などでは、出版許可を行う前に、全ての歴史学的著作は徹底した資料の研究に基礎づけられていなければならず、これらの資料は著作に引用されていなければならなかった。18世紀末、19世紀のドイツの歴史主義者は、新しい合理主義的精神のチャンピオンなのであった。19世紀の偉大な範例はランケであり、彼はそれまでの伝統の象徴であり、蓄積に他ならなかった。

 

4-7

もう一つの応答のヴァージョンは、ベーコンに端を発するものだ。彼は、17世紀の初頭に、アリストテレスの伝統とその論証的な知識の枠組みに向けた先鋭な批判を行った。彼は、Novum Organonにおいて、論証を主軸とするパラダイムを非効率的な自然調査の方法として攻撃した。確かに論証という手法は、既に得られた知識の説明や整理に関して有効ではあるが、新しい知識の獲得の手法としては有用ではないと彼は言う。発見をなす為には、私たちは単に自然について推論する以上のことをしなければならず、自然に直接向き合い、疑問に答えるように自然に働きかけなくてはならない、すなわち、実験を行わなくてはならない。自然を分解、統合するだけの力があれば、私たちは自然についての知識を得ることができるのである。故に、自然について知ることは思考に関わる問題ではなく、行動に関わる問題なのである。「人間の知識及び人間の力は一つに結合するのである」懐疑派の、私たちが自然を知る可能性に対する懐疑は、人間が自然に対して力を持ち、自身の命令の通りに帰ることが出来るという事実で反論することが出来るのだ。ベーコンは、古い論証的知識の枠組みを、特に懐疑派に対する弱さと言う点で疑った。その枠組みへの批判としての、懐疑派の知識への攻撃は反論の余地のないものであった、自然は推論や論証のみでは知り得ないということを明確に示していたのだ。

 

4-8

ベーコンは常にこの新しい方法の社会的政治的利点を主張していたが、その方法が主な対象としていたのは自然研究についてであると見做していた。その方法の人間的事象にとっての重要さと適用が見られるのはヴィーコの”Scienza Nuova”においてである。ヴィーコの大きな貢献はベーコンの枠組みが自然的事象以上に人間的事象にとって当てはまることを発見したことである。社会的政治的環境は私たちに取って十分理解可能で無くてはならないとヴィーコは言う。それというのも、それらは私たちが創りあげたものだからだ。自身等が殆ど関与しない自然的事象について人間は殆ど知り得ないが、文化的事象—それらの法、言語、制度そして技芸は人間のなしたものである については多くを知りえるのだ。ヴィーコの作品はドイツで殆ど知られることはなかったが、その背景にあるベーコンの枠組みは、ヴィーコとは別の媒介者により十分に知れ渡っていた。それはカントである。ベーコンの枠組みは、カントの思考の背景にある「思考の新しい手法」と全く同様のものであった。彼の”Kritik der reinen Vernunft”の序文において[3]、カントはアプリオリな知識を全ての知識の枠組みとした。その上で、私たちはアプリオリな対象を自身がそれらを構成する範囲においてのみ知りえると彼は主張したのだ。更に彼によれば、私たち自身の知るという営為は、私たちにとっては明白なことであり、私たちが構成する範囲において、物事を知ることが出来るのだ。カントが自身の研究の方針として、ベーコンの”Instauratio Magna”から引用を行っているのは理由のないことではないのだ。

 

 

4-9

そのため、カントの強力な合理主義や、非歴史的な理性の概念、更には彼が「歴史的思考」を欠いているということにも関わらず、彼の哲学はやはり、新しい人間の科学にとって革命的な重要性を備えているのである。その重要性はベーコン的な知識の枠組みに由来する。カント自身は彼の原理の社会的文化的領野への適用を予見していなかったが、その原理の持つ含意はその語の発展に十分なものなのだった。フンボルト、ランケ、ドロイゼン… は皆、カントの原理を歴史的知識自身に当てはめたのである。カントによる新しい枠組みは、少なくとも原理として、過去と現在の人間世界の全域を理解する鍵を与えるように思われたのだ。彼らの信念によれば、私たちは人間世界を理解可能なのである。そのことは、それらを自分たちが構築しており、何をなしたのであれ、自身の創造したものは自分たちに取っては明白なのである。と言う明快な理由によっていた。同様の手がかりによって、私たちは過去を理解することが出来る。というのも、私たちにはそれを追体験し、以前それをなした昔の人間と同様の創造的行為に参与する能力を備えているからである。

 

4-10

ベーコンの枠組みと同程度に重要なのは、新しく出現していた歴史に関する有力な認識(science)である。それはまだ、歴史の科学としての地位を主張できるほどではなかったのであるが。結局のところ、私たち現在の世代は、過去の全ての出来事を構築することはなく、私たちは累積した遺産—現在、私たちがその中で生きる世界を構築した強力で、明白に異質な力の相続者なのであるというのがそれだ。そうだとしたら、私たちは、自分たちが構築したのではなく、自分たちを構築したものである過去と言うものをどうやって知ることが出来るだろうか。けれどもこの認識が、歴史主義が革命的である要素なのである。歴史主義は過去に対する全く新しい姿勢を含んでいた。それは、過去を何か失われたものとするのではなく、生成する現在の一部であるとみなす。歴史主義者にとって、過去と言うのは単に異質なものではなく、自身に深く根付いたものとされるのだ。それは、失われるものではなく、今-ここに私たちと共にあるのだ。過去が今の私たちを形成する。このような過去の見方の背後には、ヘルダー、メーザー、サヴィニーそしてフンボルトによる、歴史主義的な、新しい全体論的な人間学が存在している。その人間学とは啓蒙主義個人主義、原子論に対抗して生じたものであった。旧来の人間学は、歴史的、社会的地位から自立した人間の固定的本性、同一性というものを仮定していた。文化が変容したり、社会的、歴史的立場が変わったとしても、個人は本質的には同一だと考えられたのだ。過去は個人の内面には根付いてはいない。というのも、歴史は、個人の同一性形成においては役目がないからである。それに対して、新しい歴史主義者の人間学においては、個人の同一性は徳的の文化や、社会的歴史的地位にまさに依存しているとされる。そのため、過去とは私たちの内面に根付いており、現在の私たちを形成している。この新しい人間学は、私たちの自己認識は、自身の過去、起源にさかのぼることで初めて可能になることを含意している。そして、過去を知る為には、自分たちがというものが与えられる過程を遡り、私たちに既に何が与えられているかを開示すればよい。

 

4-11

しかし、懐疑的な人間はこう述べるであろう。この点を正当に受け入れたとしても、歴史に科学の地位は依然として与えられないと。つまり、自分たちが歴史によって形成されるということを受け入れたとしても、私たちは過去がどのようであったかを決定することに対して、依然として望ましい立場に立ったことにはならないのである。何と言っても、私たちは内省のみによって過去を知ることは出来ないのである。私たちは過去を知るに際して、非常な骨折りを避けることが出来ない。それは、いくつかの情報の破片を正当に理解し、記録や遺物から得られる不整合な情報の破片を、再構成することの困難に外ならない。そのうえ、いかなる再構成も科学の水準から求められるものからは隔たっているように思われるのである。だが、繰り返しになるが、このような懐疑に対して歴史主義者は回答を備えているのだ。その回答は、クラデニウスが1750年代に用意したものに端を発する。そして、彼の様々な方面に向けられた一連の推論は、歴史主義の伝統の大要を表している。1751年の”Allgemeine Geschichtswissenschaft”において、彼は歴史的懐疑派(Pyrrhonist)に対し、歴史的知識にはそれ固有の知識の基準を有しており、それは、論証的な知の基準とは独立に考察されるべきだと主張した。確かに歴史的知識はしばしば不確定であるが、それらを論証不可能であるという理由から一纏めにして棄却するのは不合理である。歴史学は数学ではなく、そのような性質を備えることを望むべきではない。アリストテレスが述べたように、私たちはその主題が許容する以上の厳密さを期待することは出来ないのである。勿論、私たちが歴史的命題の多くを疑うことは可能であるが、それは、歴史学における明証性の基準に達してない時のみに有意なのであり、それを幾何学的明証性を得られないことで疑うことは意味をなさない。クラデニウスは細部にまで渡って、歴史家の証拠収集と精査の方式を解説した。これら説明された方式は、基準と厳格さを保障し、それに従うことで、歴史家は、主題に関する十分な精確さを得ることができ、少なくとも確実性を得ることに失敗したこと—これを知ることが出来ることもやはり科学であることの指標である の確信を得ることができた。

 

[1] 木庭 ”ローマのポーコック”(2008) ではDescartesとピロニズムの距離を指摘されていましたね。

[2] 古代学の資料批判とどういう点で異なるのか具体的な説明が欲しいところです。

[3] KrVの序文は結構長いです